黒テント 『ぴらんでっろ』

演劇が世界を映す鏡ならば、演劇は世界に似ていなければならない。だがむしろ、世界が演劇に似ているのではないか。例えば過去。記憶の前で、我々は演劇の観客であり続けるしかない。記憶は我々が望むようには変化せず、同じような物語を繰返す。人生にメナンドロスを見るのは、人生が思い通りにならないからだが、そのとき人生は喜劇として回想されている。世界を映す鏡としての演劇は、演劇を映す鏡でもある。

だからこそ、演劇は演劇を描くことに熱中する。『作者を探す六人の登場人物』の普遍性は、家族小説にではなく、六人の登場人物がまさに登場人物として登場することにある。この芝居は演劇そのものの日常への侵入であり日常に対する反乱なのだ。最初は登場人物を自称するおかしな連中だと考え、その「物語」を利用しようと思っていた日常世界の人物たちが(彼らもまた登場人物であるとか、そのあたりのポストモダン的な話は今は置いておく)、登場人物の罠にはまっていたことがはっきりするのは女郎屋の女将が現われるときだ。彼らは演劇人であるため、この罠を振りきってそこから逃れることは出来ない。どうあがこうと、最後には登場人物たちの言いなりになるだろう。同じ議論を行ない同じ内容を反復する登場人物たち(この反復そのものも彼らが登場人物である証拠だ)の言葉は、戯言でありながら徐々に日常世界の人間を侵してゆく。

と、「作者を探す六人の登場人物」はそんな芝居だと思っていた。今回の上演を見るまでは。この黒テントの上演では、まるで、登場人物を名乗る六人の人間の本当のドラマはどうだったのか、それを演出家がどのようにパッケージにしようとし、事実を重んじる六人たちはどのようにそれと抗うのか、そんな問題を扱った芝居のように見えた。一種のサイコミステリーだ。それって随分つまらない。

おまけに、この上演には何か「演出」というものが感じられない。斉藤は斉藤を演じ、荻野は荻野を演じているように見える。荻野の演じる娘は若い頃の栗原小巻を威勢よくしたような声の感じでそこに好感はもてるが、一本調子なので長時間みているのはつらい。斉藤のあの口調も、反復がいつまでも反復に過ぎないので飽きてくる。個々の役者は、母親をやった畑山はうちの大学の出身者だし嫌いじゃないのだが、やっぱり演出が感じられない。

ひょっとして、黒テントの賞味期限はそろそろ過ぎてしまったのかしら?