ルームルーデンス『エレクトラ』

ホフマンスタール脚本
エレクトラ 北村美紀・笠松環・杉村誠子・品田恭子(四人一役)
クリソテミス 木下祐子
クリテムネストラ 千賀ゆう子
オレスト 平島聡
オレストの爺や 大根田真人
演出 田辺久弥
2003年 5月2〜6日、麻布 die Pratzeにて
枠構造。オレステス役の演じるサラリーマンの平凡な一日が繰り返されるうちに変調し、彼が倒れるとエレクトラの舞台が始まる。舞台が終わると、彼は再び立ち上がるが、その手は赤く染まっている。夢のなかでの親殺し。無意識の敵意は、その持ち主を滅ぼしかねないが、それを自覚し、象徴的親殺しを体験することで、患者は救われる(の?)。
別に演劇上演にとってオリジナリティが最高の価値だとは思わない。それどころか、演劇の本質が「まね」にあることをくだくだと言うまでもない。ク・ナウカだって鈴木だって太陽劇団だって能や文楽を「まね」、そこから興味深い世界を引きずり出す。
でもその世界はそれぞれ彼ら流に「興味深い」のであり、我々観客は確かにそこでアイスキュロスやホフマンスタールと、彼らを通じて対話している。そのとき「まね」の趣向が輝き出す。
確かに能や文楽といったジャンルは共有材だが、「まね」かどうかが問題にならないのはそこに理由があるわけでもない。エウリピデスは『エレクトラ』でソフォクレスやアイスキュロスを「まね」ているし、ホフマンスタールのこの芝居だってソフォクレスの「まね」として成立している。コラージュやサンプリングを否定して芸術は語れない。
だから、この上演で鈴木や宮城が「まね」られていること自体をあげつらうつもりはない。どこかで見たような動きや衣装、小道具(面・包帯)の使い方、音楽、喋らないエレクトラという趣向、そうしたパスティーシュや引用がオリジナルをひねり、別の現実をさらけ出す、それができていればいい。『エレクトラ』は田辺のエレクトラになるだろう。
問題は、それが出来ていなかったことにある。いくつか例をとる。結末でチャイコフスキーの『1812年』を流すのはク・ナウカの趣向だ。ク・ナウカではそこで音楽をロシア国歌の箇所まで使っていた。その音楽は冒頭の極右shock Jock(のようなもの)と対比をなし、ソ連崩壊の1990年という時代の刻印を持っていた。オレステスの帰還と母殺しは、ソ連崩壊と新しい権力に露骨に重ね合わされる。それがここでは単なる祝祭性に変質する。それもそれまでの音楽とは全く異質な... 確かにエレクトラの役を四人に割り振り、そのうちの三人に語らせるならば、エレクトラに独特の強さと呪術性が生まれる。しかし第一に、語りによって生まれるその強さに対抗するだけのものが語らぬエレクトラになければならない。小道具になったおもちゃの爆撃機では連想から生まれる畏怖よりも滑稽が先に立つ。また第二に、これではクリュソテミスとクリテムネストラは彼女に対抗できない。オレステスを待たずとも、クリテムネストラは彼女の言葉だけで滅びそうだ。クリュソテミスが姉の命令を拒みえたのは舞台では全く信憑性がない。千賀ゆう子のクリテムネストラはかなり力強かったし、クリュソテミスも水準を超えていたのにエレクトラが強すぎて輝かない。
音楽も良くない。イギー・ポップが全編使われているが、感情が高ぶるところでパンクって安易。で、次の台詞はどうするの、と思っていたら音楽のボリュームを落として役者がしゃべり出す、ってもう少し考えてよ。
で、面白くなかったのか?というとそういうわけではない。ネタもとはどれも優れた上演だし、ちぐはぐさは目立つが面白かった。そのちぐはぐさは、MAC使いがWindowsを使うときに感じる違和感を思い起こさせる(その逆ではない)。よくまねてるし、部分的にはより優れたところもあるのだが、部分と全体の調和がとれていないため、全体としては落ち着かない、という感じ。
ありがたいことに、PCの世界と違い、演劇が体験である限りWINがMACを駆逐することはないのである。