ベルリン シャウビューネ 『火の顔』

マリウス・フォン・マイエンブルク作
トーマス・オスターマイアー演出
出演: 父親:ヴォルフ・アニオル、母親:グンディ・エラート、オルガ(姉):ユディト・エンゲル、クルト(弟):ロベルト・バイアー、パウル:マルク・ヴァシュケ

「『火の顔』(1997年発表)は、豊かな家庭に育った姉弟を描いている。反抗期を迎えた弟が、姉との近親相姦的な愛を拠り所に社会から孤立し、両親を殺害して自分も自殺する深刻な話だ。オスターマイアー演出のシャウビューネの舞台では横長の平面が使われており、それが三つの空間に分けられ、リビング、姉弟の寝室、バスルーム両親の寝室といった場面をその三つの空間に臨機応変に配置する空間処理を特徴としている。両親に反抗する姉弟の心が、一直線に殺人にいたってしまう危うさが戯曲のテーマである。」(新野守広『演劇都市ベルリン』(2005), 222ページ)

マイエンブルクの『火の顔』は、引きこもりの男の子の犯罪という、日本でも身近な出来事を取り上げる。彼は放火を繰り返し、両親にそれが知られると両親をハンマーで殴り殺す。ドイツらしく、主人公のクルトは火だの熱だのを世界の原理にするカルト本に影響を受けている(新野によるとネオナチの影響らしい)が、これをインターネットの掲示板に置き換えれば、ねらー(某巨大掲示板の常連のこと)のヒッキー(そこでの引きこもりに対する愛?称)による犯罪だ。そういう子たちが拠り所にするのが、特別な努力なしで(民族性によって、あるいは特殊な思想によって)自分を特権化することができる極右ナショナリズムになるのも普遍的だろう。国籍は生まれつき備わっているし、主流マスコミが伝えない真理を自分が手中にしているという意識は同じ国民の中で自分を差別化することに役立つ。勿論、時代によってそれは極右だったり極左だったりするだろうが、それらに少年が惹かれてゆくプロセスは同じだ。

彼らが、たとえば火薬の使い方を夢中になって調べるという心理もまた一般的だ。実際に何らかの組織のメンバーになるとそれなりの武器の扱いを教わるのだろうが、ヒッキーの少年たちに可能なのはネットや本で日常の材料からそれほど努力せずに作ることの出来る武器であり、火炎瓶や火薬を詰め込んだ自家製爆弾だ(つい最近日本でも自家製爆弾を教室で破裂させた高校生がいた)。

今回の演劇は、だから素材としては三面記事的で、主人公の描写もそれに応じてバナールで、想像力の中では「ありふれた」行為を実際にしてしまう「闇」の中の失敗したジャンプを描き出しているとは言えない。そしてこの芝居では、他のすべての要因を無視してもっぱら家庭にその原因を求めているようだ。舞台は斜めに傾いており、家庭という場の不安定さを表している。思春期の男の子にとって非常に重要な学校という集団も(それとも最初からこの子は引きこもりなのか?)、ネットを含めた社会的環境も描かれず、姉との近親相姦(姉が仕掛ける)とその姉の裏切りだけが原因として推察されるだけだ。

今回の上演では、そんな豊かな家庭には見えなかった。むしろ最低限の家具が備え付けられた団地の風情。何度も団地の写真がスライドで映される(但し、テキストには地下室や庭が出てきている)。姉弟は部屋を共有しているようだし、「バスルーム」はただの洗面台で母親はその水道で自分の体を洗ったりする。「母親はリベラルな教育を勘違いし、息子の前で平気で裸を見せるデリカシーのなさだ」と新野本にはあるが、団地(並の広さ)で四人暮らしならば当たり前じゃないのか?親子関係も、子供がかなり激しい自傷(自分の顔を焼く)というサインを出している時点で(田舎の叔母じゃなく)カウンセリングか心療内科に連れて行け、とは思うが、この年代の親子関係ってこんなもんじゃないの(注)?確かに、夫婦仲は冷えていて、父親は俗物で母親は単に理解のある親を演じているだけかもしれないが、両親の接し方が彼をおかしくしたとは思えない。その結果、主人公の暴走を推し進める要素として焦点が当たるのは姉だけである。

ところがこの姉がよく分からない。姉は、弟同様「大人になること」に非常な嫌悪感を抱き、弟との近親相関関係を恋人に知られ変態呼ばわりされたのちに弟と二人ヒッキー状態に入るが、まずこの心理が分からない。少なくとも引きこもりになるような傾向は姉のそれまでの描写には全く窺われないし、二人引きこもりはかなり無理がある。この戯曲の「引きこもり」は、引きこもってじっと動かず一点を見つめているイメージだが、それってどうよ。また、姉は弟の傾向を助長し、自分も放火や両親の殺害に加わる(唆しているようにも見える)が、最後にはすべての犯罪を弟のせいにして被害者面をする。この芝居で一番ショッキングな場面だ。ああも簡単に作り話ができることの伏線はそれまでなかった。弟を孤独にさせたいためだけの御都合主義的なテキストに見える。姉弟による親殺しという『エレクトラ』を思わせるテーマなのに、話に神話的なふくらみが出てこないのも残念。

こうした犯罪には、社会、家庭、先天的要因の三つの原因があると思うが、ここで家庭だけが原因としてあげられているのはいかにもフロイト的だ。日本だと「学校」が原因として挙げられるのは「榊原事件」以来の習わしだが、どちらにしても複雑な事象を単純化して済ましてしまうことに変わりはない(アメリカだと先天性、とかDNA欠損が挙げられることになるだろう)。

シャウビューネは二本見たが、いずれもあまり感心しなかった。フォルクスビューネのカストルフはさすが、と思ったが、今回は、演出やテキストに関しては日本の優れた作家や演出家の方がましではないかと思う。ただ、演技は別で、特に姉弟役の二人は熱演。五年前と同じキャストなので、弟の方はきついところもあるが、顔を焼くまでは思春期の少年に見えた。


注)実は姉弟の年齢がよく分からなかった。第一幕では弟は精通が始まったばかりのようで、まだ女性の「生理」のことも知らない。姉も小学生がされるような性教育を母親に聞かされる。途中で彼女は初体験を迎えるが、両親も是認しているようで、そう考えるとこの姉は日本の高校生くらいのイメージなのかなぁ。弟は学校を退学になるが、日本だと義務教育は退学にならないので、退学云々って話を聞くとこちらのイメージとしてはこれも高校生だ。それって第一幕といまいち合わないのではないだろうか。ドイツだと違うのかなぁ。とりあえず、最後の方では弟は15歳位か。で、姉はもう少し上。姉が最初から最後まで同じ服装なので、数年がかりの話にはとても見えない。