劇団四季『アンチゴーヌ』

1944年に作られたアヌイの『アンチゴーヌ』、日本ではてっきり四季が初演したと思っていたら、1954年の四季の第二回公演で取り上げられる前に、劇団方舟が諏訪正訳・演出、林光音楽ですでに上演していたとパンフレットにあった。日下武史はこのときにコロスを演じ、1954年の四季の公演ではクレオンを演じていたという。今回も同じ役である。

この作品の中心に置かれるのは捕らえられたアンチゴーヌとクレオンとの長い対話だ。クレオンは何とか事件を闇に葬り、アンチゴーヌを救おうとする。部屋に戻って忘れてしまい、幸せな人生を掴め、というクレオンの説得をアンチゴーヌは受け入れない。そこでは「はいという人」と「いいえと言う人」が対比され、重要な局面で、「はい」と言ってはならないことが強調される。このあたりがいかにも第二次大戦下の芝居だ。権力を争って相打ちに死んだ二人の兄弟、エテオクルとポリニスの両方ともろくでなしで、父親オイディプスの暗殺を何度も企んでいたこと、相打ちになった二人の上をアルゴス軍の戦車が踏みにじり、両者の遺体はどちらがどちらとも見分けがつかなかったことを知らされたアンチゴーヌの決意は一旦は鈍り、クレオンの説得が成功したかに見えるその瞬間、アンチゴーヌは自分の行為の真の意味を認識し、「ずっと遠くから」クレオンとその処世を見通すことが出来るようになる。彼女にとってクレオンの言葉はもはや料理番の言葉と同じだ。彼女は再び決意を固め、自らを処刑するようにクレオンに命令する。

ここがクライマックスなのだが、アンチゴーヌの二度目の変心の理由がいまいち分からない。翻訳はここで非常に曖昧になっているように聞こえる。あるいはアヌイのテキスト自体、あえて難解にしようとしているのかも知れない。これは詩的な芝居で、比喩やイメージに満ち溢れている。簡単なことを語るのにも、登場人物は様々な迂回表現を用いる。日本語では、イメージそのものは伝わるが、言葉の響きはややくどく、単調だ。

響きの単調さは、特にタイトルロールの語りに著しい。冒頭の場面、乳母とアンチゴーヌの対話で、乳母に対する彼女の「婆や」という呼びかけは、常に「や」が五度上がる音程まで同じだ。役者がアンチゴーヌという役柄を呑みこんでいないことはどの場面にも感じられた。

さて、この冒頭の場面、寝室におらず、表に出ていたアンチゴーヌを乳母は心配し、男のところに逢い引きに行ったのではないかと問いつめるのだが、状況に比して乳母の語り口は暢気すぎる。クレオンはアンチゴーヌの兄ポリニスの埋葬を禁じ、彼の腐臭は宮殿まで達するほどだ。アンチゴーヌはすでにイスメーヌにポリニスの埋葬を持ちかけている。彼女の言葉は見るからに何かを思い詰めた人間のものだ。しかしここで乳母の台詞は、そんな出来事が全く存在せず、浮かれる若い娘に説教する日常世界の台詞だ。果たして乳母は本当にそれに無頓着なのか、それとも無頓着なふりをしているだけなのか。アンチゴーヌのアイロニカルなダブルミーニングの応答に対し、乳母は、疑念を抱きつつも、「あたかも」そんなことは存在せず、我々は日常生活を営むことが可能なのだと思いこもうとしている人間として問いただしているのではないのだろうか。ポリニスの腐臭は常に舞台上に漂っていなければならない。

クレオンやコロスについては、これが四季流の演技なんだろうなぁという印象。「いかにも新劇」風の抑揚を気にしないならば見事なんだろうと思う。「新劇」もここでは一つの様式だ。ただ、日下はこの役にはもう年をとりすぎではないか。もたつくところが時々あり、気になる。

四季を観るのは二度目か三度目で、前回は多分20年以上前の『コーラス・ライン』だったと思うので、新鮮なことが多かった。一番驚いたのは、一階席が15列、二階席も10列に満たないほどの小さな劇場のストレートプレイなのにマイクを使っていることだ。ささやき声も実際にささやいた声をマイクで増幅している。マイクは二階席の前に置かれ、かなり高性能なシステムのようで違和感はさほど感じないが、サ行などの鋭い音がきつすぎる。特に何度も呼びかけられる「アンチゴーヌ」の「チ」の厳しい音は耳障りだ。イメージが結構詩的なので違和感はさらに強い。より柔らかく、原音に近い「ティ」にすればよいのに。

翻訳に関して。台詞は多分50年前と同じ翻訳なのだろうが、もう少し語尾をすっきりさせた方が良いのと、これは古い翻訳劇はおしなべてそうなのだが、女の話し方に違和感がある。しかし、ジロドウの『エレクトル』ほど訳が分からないことはない。王妃のことを「女王」って呼ぶのはどうかな、と思っていたら、広辞苑にも大辞林にも「女王」の語義に「王の妃」ってのがあってびっくり。僕の語感がおかしかったのか。

イスメーヌがアンチゴーヌの「姉」になっているのはアヌイの重要な設定なのだけれど、イスメーヌの台詞には、アンチゴーヌがイスメーヌを「木の幹に縛り付けたりした」ってなっていて、それって妹が姉にすることなのだろうか?よく分からない。妹にしたことで、アンチゴーヌの意志の強さは少女の頑なさに近づいた。また、姉イスメーヌは、最後に生を選ばず、翌日妹と同じことをすると宣言して、アンチゴーヌの後を追って退場する。このことの意味も曖昧になる。イスメーヌは本当にそうするのだろうか。そうだとするとアンチゴーヌを罰するクレオンの行為は殆ど意味を失うだろう。

また、コロスを個人的で超越的な観察者かつ語り手にしたことも、ある時代のコロス理解を反映しているようだ。物語世界と物語外世界を媒介する小説の全知の語り手にちょうど対応する存在である。他方、テバイの民衆は間接的に表現され、クレオンの意図通りに動くようだ。これも時代の反映なのだろうか。