SHIZUOKA春の芸術祭2005  ギリシア悲劇特集 2

ユーリ・リュビーモフYury Lyubimov演出、タガンカ劇場 『メデイア』

キャスト: メデイア:リュボーフィ・セリューチナLyubov Setyutina、イアソン:アレクサンドル・トロフィーモフAlexandr Trofimov、クレオン:ワレーリー・ゾロトゥーヒンValery Zolotukhin、アイゲウス:フェリクス・アンティーポフ Feliks Antipov 乳母: ポリーナ・ネチタイロPolina Nechitaylo、守役:アレクセイ・グラッベ Alexey Grabbe、使いの者:ユーリ・スミルノフ Yury Smirnov
翻訳:インノケンティ・アンネンスキー Innokenti Annensky

リュビーモフとタガンカ劇場の上演を初めて見た。舞台には土嚢が積まれ中央だけ開いている。その奥の壁には土嚢が高く積み上げられている。舞台はうす暗く、時に雷雨が音で示される。ここは平時の王国と言うよりもむしろ駐屯地であり、登場人物たちは民兵を思わせる現代の衣装を身につける。ただし、コロスは染めていない簡単な服をまとう女たちで、民衆でもある。とすれば、難民キャンプのイメージなのかもしれない。ク・ナウカの『メデイア』と同じく、劇中劇構成なのだろう。『サラエヴォのメデイア』か?『メデイア』は、ある意味で、不条理に直面した寄る辺なき難民の物語であり、それを「難民たち」が演じるのか。直ちに、あるいはたった一日で住んでいる場所を立ち去らねばならないという、メデイアが冒頭で直面する危機は、世界の多くの人間が直面している危機でもあることを改めて視覚的に突きつけられる。

その舞台の中央で、メデイアの子供たちが石でクルミを割り、食べている音が響く中、タガンカの『メデイア』は始まる。コロスがメデイアの境遇を語っていると、天井から黒いコートが落ちてくる。肩章の付いたメデイアのコートで、メデイアとイアソンの船旅を象徴するかのようだ。コロスのリーダーがそのコートをつけ、メデイアになりきって語るが、舞台奥から登場したメデイアにコートを奪い返される。メデイアは再び舞台奥に退き、奥から響く彼女の呪いはとても恐ろしい。

前半では、メデイアの怒りがストレートに響く。彼女は黒いドレスに先ほどの黒いコートをつけ、ここでは人間として卑劣な男と戦う女である。コロスは舞台左手の土嚢の前、基本的には祈りを思わせるレシタティーヴォだが音は徐々に高くなりやや不協和な合唱に変わる。とても悲痛な響き。微妙なズレを常にはらんだ静かな歌声と、語りとの自由な融合がある。演技はやや身振りが強いが、鋭く速い。メデイアの叫び、その怒りの表現には効果音がつけられ、魔女としてのメデイアの要素も示される。魔女としてのメデイアはアイゲイウスとの出会いにはっきり示され、彼女はまなざしでアイゲイウスを意のままにする。この場面をのぞき、登場人物たちは絶対に眼を合わせない。彼女たちは常に前を向いて、観客に向かって語りかける。エウリピデスの悲劇のレトリカルな側面がよく表現されているだけでなく、彼らの言葉が決して交わらないことが示されている。

メデイアが絶品。前半では怒りが、後半では悲痛さがよく伝わる。最終的に怒りが勝利し、子殺しを決断するとき、彼女はすがるコロスを振り払いコートを脱ぎ捨てる。この瞬間から、彼女はもはや人間としての感情を振り捨てるのである。イアソンは初老のくたびれた男であり、言葉には疲れがにじむ。アイゲイウスはマッチョな筋肉バカで、コミック・リリーフになっている。

最後、メデイアをとらえ、子供たちを護りにイアソンが登場するとき、イアソンは中央に積み上げた土嚢の上部から、それを突き破って顔を出す。それに対して、メデイアは粗末なトロッコに子供の死体を乗せて、舞台中央に静かに進んでくる。静と動の対比はそれだけで迫力がある。

安田雅弘演出、山の手事情社、『オイディプス王』

キャスト: オイディプス: 、 クレオン: 、テイレシアス: 、 イオカステ: 、 コリントスからの使者: 、 伝令: 、 召使い:

この上演も私は三度目で、前回に比べさらに切れが良くなった。役名で、それまで「東京の人」とされていたのがすべて「Nipponの人」に変わり、@Tokyoの題名が落ちたのは、静岡という上演の場を意識しているのか、それとも海外に持ってゆくのが目的なのだろうか。「悪夢」の歌のコミックリリーフも健在。

3度目になって上演はオイディプスの物語を感動的に示すことに成功した。説教くさい「女たちよ、オイディプスたちよ」に始まる最後の語り(ミュラー風のテキスト、ミュラーなのかもしれない)も今回は悲痛な響きを得ていた。

ただ一つ気になるのは、これは実は以前から嫌だったのだが、男たち(「運命」)の少女たちへの暴力が、クールでかっこいい動きで表現されていることだ。意図は分からなくもないが、感性的にぞわっとするところがある。

倉迫康史演出、Ort-d,d、『エレクトラ』

キャスト:エレクトラ: 、 アイギストス/オレステス: 、 クリュタイムネストラ:

座敷牢のエレクトラ。座敷牢の床は赤く、エレクトラの衣装も真っ赤なドレスだ。全体を通して、カラフルでキッチュな赤が強烈に焼き付く。テキスト自体はエウリピデスの『エレクトラ』から多くをとっているようだが、これは劇的行動としての『エレクトラ』を描こうとしているわけではない。この劇団の上演は、むしろ、「タブーとなった」娘、「記憶の底に閉じこめられた」娘としてのエレクトラを描くことを眼目としている。だから、エレクトラの座敷牢にやってくる男はオレステスかアイギストスかも分からない。彼はエレクトラをレイプしようとし、頭を踏みつけられる。上演は、物語の全体を辿るのではなく、三つの場面、オレステスとエレクトラの出会い、アイギストスの死体への呪い(ただしこの鈍いが語られるのはことをなした「後」ではなく、語る相手は生きているオレステス/アイギストスだ)、エレクトラとクリュタイムネストラの対話を取り上げて目の前に見せてくれる。その中では、クリュタイムネストラとの対話がクールで面白い。二人は格子を隔てて向き合わず、エレクトラはまるで化粧をしているかのような仕草で語る。登場人物たちは全員が軽薄だがエネルギッシュで、スピードがある。

ただ、クリュタイムネストラが新しく身ごもっているという設定にしている点はエウリピデスから離れる。エウリピデスでは、625行でアイギストスがニンフへの生け贄を捧げに牧草地にやってきていることが語られ、オレステスに、「新しい子供のためか」と問わせているが、この問いは最後まで肯定されない。アイギストスの祈りは「私とテュンダレオスの娘」の繁栄なのである。演出家の誤解だろうが、この設定はこの演出にとって非常に重要なようで、倉迫はエレクトラに二度、「私は私の母の子を殺した。」と言わせ、「私の父は私の姉を殺した」と続けさせる。ここには、エレクトラを無垢なるものの殺害者としてアトレウスの一族に連ならせる意図があるからだ。そして、エレクトラに共感してきたわれわれも又、この世界において無実ではなく、無垢なものの殺害者なのだ、とでも言わせたいかのようである。

ハイナー・ミュラーの『ハムレット・マシーン』には次の言葉がある。

こちらはエレクトラ。暗闇の中心。
拷問の太陽の下
世界のすべての首都に向けて
犠牲者たちの名において、伝えます。
わたしは、私が受け入れてきた
すべての精液を吐き出します。
すべての乳房の乳を死に至る毒に変えます。
私の産んだ世界を回収します。
私の産んだこの世界を、
股の間で窒息させます

倉迫は「ミュラーへの返歌となるような作品を作りたいと思った」と語る。それは記憶を持たない、したがって表層を超えて反省することのない「エレクトラ」だった。すべてをパスティーシュに変形する表層だけの現代日本の文化では、ミュラーへの返歌がこの路線になるとしたら、それはそれで畏怖すべき状況ではある。