Shizuoka春の芸術祭 2005 (3) 5月21日

鳴海康平演出 第七劇場  『トロイアの女』

ヘカベ:寺尾恵仁、メネラオス・コロス:佐直由佳子、カサンドラ・コロス:木母千尋、アンドロマケ・コロス:山田裕子、タルテュビオス・コロス:井手豊

舞台芸術公園内にある「楕円堂」での上演。

第七劇場はブレヒトやベケットの『幸せな日々』、ハムレットなどの上演を行ってきたそうだ。

舞台中央に背の低い食卓。坊主狩りの男がサングラスをかけるとヘカベになる。登場人物はヘカベ、カッサンドラ、アンドロマケ、タルテュビオス、メネラオスの五人で、ヘレネは出てこない。コロスは各俳優が兼務し、五人の役者で『トロイアの女』を描こうとしている。ヘレネのいない『トロイアの女』は以前にも見たことがあり、それ自体はよく分かる。男のすべての理性的判断を吹き飛ばす美の化身など、実際の女優の身体で表現できる筈がない。ギリシア劇の仮面は、神であれ絶世の美女であれいったん記号化することによって表現を可能にしているのである。それでも、五人でこの芝居を上演することにはたしかに無理があるのだが、まあ、百人そこそこしか入らない「楕円堂」での上演にそれほどの豪華なキャストを求めてもせんのないことだ。

冒頭のヘカベのせりふは異化効果をともなうスタイルを持ったもの。それはこの作品ではほとんど避けがたい選択で、好感を持つ。しかしそれもカッサンドラが登場するまでのことだ。なんだこのカッサンドラは。どのせりふも同じ格好をつけたしゃべり方で、狂乱のかけらもない。狂乱のなかで口にされる真実と、トロイア戦争から彼女が引き出した正気の教訓の口調に全く変化がない。どちらのせりふももったいぶって押しつけられるだけだ。

コロスの語りも同じで、スタイルを持った棒読み。だから、アンドロマケの子別れのあと、コロスの慰めの言葉が急に嘲笑に変化するとき、われわれはそこに何のショックも受けない。それ以前からずっと、ヘカベをのぞくすべての登場人物の口調にあざけりがあるからだ。

この芝居は難しいというのは何度か書いたが、深い絶望とあり得ないような屁理屈の並列を、全面的に共感できないまでも少なくともある説得力を持って提示するには、絶望のさまざまなニュアンスを演技によって提示し分ける必要があるだろう。

絶望の様々なニュアンスをそれがある程度提示出来ていたのはヘカベだけだった。しかしその彼にしても、アステュアナクスの埋葬の場面では退屈になっていた。

この芝居の二つの見せ場は、アンドロマケの子別れとヘカベとヘレネのアゴーンであり、どちらの場合も、受動的なトロイアの女にある活動のきっかけが与えられ、それがより深い絶望をもたらす。アンドロマケは生きているよりも死んだ方が幸せだと語り、その直後、自分の子供が殺されることを告げられる。タルテュビオスが空しい抵抗を止めるように語りかけ、抗うと子供の埋葬もかなわないと脅して彼女から子供を取り上げるのだが、この舞台のように彼女がほとんど抵抗を示さないのならば、タルテュビオスはなぜそんなことを語るのだ?ここでアンドロマケは受動的であってはならない。

そして最後に、カサンドラが再度登場して、木馬に破滅を見る予言の言葉が繰り返されるが、カサンドラのこの予言はあまりこの悲劇とは関係はないのではないか。トロイアの女たちの悲劇は、判断の間違いによってもたらされたものには思われないのだが。

三条会 関 美能留演出  『メデイア』

メデイア・クレオン・コロス・伝令・子供たち:榊原毅、メデイア:舟川晶子、大川潤子、立崎 真紀子、コロスの長・コロス・アイゲウス・子供たち:橋口久男、イアソン:中村岳人

「三条会」は千葉市の劇団で、これまでは主として三島由起夫、武田泰淳、安部公房など近代日本戯曲や文学を上演してきたそうだ。この劇団が2004年に上演した『女の平和』を私は見ることが出来なかったが、ギリシア劇とはそれ以来のおつきあいなのだろうか。

舞台上には左前、中央、右後ろと三人の女が、派手な衣装で、手に包丁を持って立っている。右手から、全裸の男たちが三人、メデイアの最初のせりふを語りながら登場し、それぞれの女たちの前に来ると刺されて倒れる。刺された男たちはすぐに立ち上がり、何もなかったかのようにせりふを続けながら左手に入る。ついで左手から、下着を着けた男たちが次のせりふを語りながら登場し、先ほどのプロセスが反復される。男たちのせりふはBGMとして流されているグローブや、森川千里、ピンクレディの歌詞と重なりもする。前半、男たちは徐々に服を身につけ、刺され続けながらもしぶとく立ち上がり、袖に消えては服を身につけ、最後にはスーツ姿になる。彼らはもう刺されない。男の制度性、その恥知らずとしぶとさは、言葉にすると軽薄だが、軽薄に身体化されることで力を持つ。

度肝を抜く秀逸なアイデアにまず笑いと拍手。しかしこのままでは退屈になるなぁと思っていたら、演出は動きにヴァリエーションを加え、女のメデイアも語りはじめ、三人それぞれに性格の違いも見受けられる。ギリシア悲劇でタイトル・ロールを複数出したのでは、ルームルーデンスの『エレクトラ』を覚えているが、そこではタイトルロールに力を与えるための複数エレクトラだったのだが、こちらではその複雑さを示すことにある程度成功している。その点ではシェクナーのJocastasに近いが、三人のメデイアの個性は、シェクナーのイオカステたちほど類型化されておらず、それぞれの女優の持つ個性に即しているように感じた。

後半冒頭では山口百恵のコンサート(引退コンサートか)での彼女の語りが流れ、語りに続く歌にあわせて俳優たちが踊りながらイアソンとメデイアの第二の対話を語る。言葉と動きのこの分離はワークショップ風で、ややひねりが足りないが十分に面白い。こうすることで、観客はメデイアのプロットをいわば「物語」として「聞く」体勢をとることになり、それがグロテスクで滑稽すら帯びた王女とクレオンの最後の物語にとって効果的だ。

前半の最後で服を身につけた男優たちは今度は登場するたびに服を減らして行き、最後イアソンは舞台上で裸になり、彼の最後のせりふを語る。滑稽と痛切とが入り交じった場面だが、惜しむらくは後半省略が目立ちすぎる。もう10分、上演時間を延ばして、特に伝令の報告と最後のイアソンとメデイアの対決は全部描いて欲しかった。