Shizuoka春の芸術祭(4)

エレクトラ

仲田恭子演出 空間アート協会ひかりメンバー 5月29日 17:00 (於楕円堂)

キャスト: エレクトラ: クリュタイムネストラ: オレステス:

キャッチコピー「父を殺した母への激しい憎悪と、ただ一条の希望である弟への想いにとり憑かれたエレクトラ。個人と社会が織り成す繊細さと「犯罪」の大胆さを同時に孕む世界。戯曲から本質を抽出し、現代的な鋭い感覚を丹念に積み重ねることで狂気の世界を組み立てていく女性演出家がギリシア悲劇に初挑戦。」

こちらの方は本当にきまじめなエウリピデス版の『エレクトラ』だ。どんなにきまじめかって言うと、犯罪とそうでないものの線引きとしてギリシア悲劇をとらえ、それを「白か黒か」で記号化すると、舞台上には大きなオセロ板が登場し、白と黒の円板が置かれる。木製の木馬も真ん中で白黒に塗り分けられ、真っ白なドレスのエレクトラ(色気のないパンツまで白い)は、母殺しを後悔した後、黒いドレスに着替えて登場する。ご丁寧なことには、わざわざ「上演前にお読みください」と注意書きのされたパンフレットに、舞台の始まる状況まで述べられている。

さて、舞台の始まる状況は、エレクトラたちがアイギストスを殺してその死骸を室内に隠し、母クリュタイムネストラが彼女の住むみすぼらしい小屋にやってくるのを待っているところである。彼らは家を清めて、母親の到着を待ちつつ、いま行ったばかりのアイギストス殺しを思い起こしている。オレステスは二人の男優が演じ、エレクトラは女優が演じているが、回想という設定のおかげで役柄を自由に交替させることができる。この演出家も、女優の台詞の表現力をあまり信じていないのかもしれない。ほとんどの台詞は、二人オレステスに割り振られている。二人オレステスは、エレクトラの台詞を語るときには裏声に近くなるので、ジェンダーの攪乱はそれほど意識されない。ただし、クリュタイムネストラはひげを生やした男優が男の声で演じる。この男優は、語り口に嫌悪感を出すことに成功していて、クリュタイムネストラにはぴったりだ。特にエウリピデスの『エレクトラ』では、エレクトラはアイギストスの死体陵辱の場面で、アイギストスに向かって、クリュタイムネストラを家の主人としているのは男として恥だと語っているのだから、男優を使う意図も明らかだ。

帰り道で、演出家のお知り合いだという人に声をかけられて、「どうですか」と聞かれた。誰かに感想を聞きたかったようだ。真面目に作品に取り組んでいて良かったですよ、と答えたが、物語を知らない人にはやはり難しかったようだ。「難しい」と何度かおっしゃっていた。他方、物語を知っている人にとっては、かなりわかりやすく、なにか躓くところがないのが物足りなくもあった。

オイディプス王

鈴木忠志演出 SPAC 5月29日 14:00 (静岡芸術劇場)

キャスト: オイディプス:ゲッツ・アルグス 、イオカステ: 久保庭尚子、クレオン: 新堀清純、テイレシアス: 蔦森皓祐、コリントスの使者: 高橋等、 羊飼い:加藤雅治

キャッチコピー「2002 年にドイツのデュッセルドルフ、ギリシアのエピダウロスの一万人収容の古代劇場で上演された鈴木忠志による新演出の舞台。オイディプス王役をドイツ人俳優ゲッツ・アルグスが演じる。「狂気に迫る苦悩のメロディー」と絶賛され、圧倒的なエネルギーに満ちた演技は、運命に翻弄される権力者の無力さと孤独を際立たせる。」

エピダウロスでは賛否がはっきり分かれ、拍手とともにブーイングも響いた鈴木の『オイディプス』。しかしそれは、必ずしも鈴木の演出のためではなく、照明の関係で開演が一時間も遅れたという不運や、何よりもドイツ語による上演という事情による。あのオイディプスは、人物の動きがほとんどなく、言語が非常に重要になってくるので、エピダウロスのような「字幕」を持たない環境ではつらい。今回は、タイトル・ロール以外の役柄はSPACの面々が演じ、字幕もリュビーモフの『メデイア』ほど腹立たしくはなく、かなりよい環境の元で観ることが出来た。

テキストは基本的には数年前にSPACの上演でなされた『オイディプス』とあまり変わらない。ホフマンスタール台本に基づくもののようだ。芝居は真相の発見で終わる。中央に円形の空間が置かれ、オイディプスはその中で、車椅子に乗ったまま動く。コロスは省略、その代わりに女たちの演じるモイラ(運命)が、鋭い手の動きで、人々の運命を操る。オイディプス以外の登場人物たちはほとんど動かず、対話は静かなモノローグの交替だ。自分の出番が終わっても退場はせずその場でしゃがみ動かなくなるだけである。この不動性がエピダウロスで受けなかった最大の理由だろう。ギリシア人の観客にとっても、動きがなくドイツ語だけで演じられる芝居は耐え難いのである。今どの場面なのかすら定かではないのだから。2001年の上演について、「静的なものとしての演劇の追求」と書いたが、それは今回の上演では確かに成功していた。そして、その成功のかなりの部分がアルグスのオイディプスの演技にある。苦悩そのもののようなオイディプスだが、一瞬たりとも緊張が揺らぐことがないのである。

トロイアの女

横山仁一 演出 東京オレンジ  5月28日19:30  (於野外劇場「有度」)

キャスト: ヘカベ: 、カッサンドラ: 、アンドロマケ: 、ヘレネ: 、タルテュビオス: 、 メネラオス:

キャッチコピー「トロイア戦争の首都陥落直後の情景から人の世の悲惨さを描ききる『トロイアの女』。俳優の身体衝動の連続から物語を紡ぎだし、現代感覚を映し出す舞台を展開してきた劇団「東京オレンジ」が、ギリシア悲劇という強固なテクストとポップに大胆に向き合い、野外劇場に登場する。」

諸君、 君たちはギリシア悲劇が好きか…ってもういいか。

舞台上には「ドリトル先生」が大きな熊のぬいぐるみとともに登場。彼はピースボートの主宰者で、1945年から長い時間をかけて2001年の9月11日にニューヨークに上陸しようとしている。ボートの参加者たちは、他方で、『トロイアの女』のオーディションに参加してもいる。カッサンドラ役に応募するのは、渋谷でナンパも繰り返す猿使いの青年。最愛の猿が射殺されると彼は特攻へと志願する(違ったかもしれない)。アンドロマケは、恋人が急にいなくなった気の弱い青年で、押し入れに閉じこもっている。恋人はイラクに行ったのかもしれない。「人が死ぬなんて、テレビの中だけのことだと思っていた」。ゲイ口調のドリトル先生はヘカベでもある。ヘレネの口癖は、「世界は私を中心に回っている」だ。

ギリシア悲劇はどれくらい難解なんだろう? みずからの死を、ギリシアに対する報復として受け入れるカッサンドラ。貞淑に夫に仕え、主婦の鑑と讃えられながらもそれらすべてが価値を失い、結局は自分の人生の価値を問い直さざるを得ないアンドロマケ。自分より強いものの言うなりになっただけで、全然責任なんかないと言いつのるヘレネ。栄光の絶頂から、どこの誰でもない一人の女になるという現実になじめないヘカベ。これらの登場人物の特徴的な台詞を抜き出し、現在の日本人に理解できる状況に置き換えるなら、特攻だったり、恋人が急にイラクに行って消えてしまった男の子だったり、ジコチュー娘だったりするのだろう。911やイラク戦争を意匠として配しておけば、何となくギリシア悲劇との接点が見いだせる。もちろん、物語はギャグによって分割され、ほとんど原形をとどめず、一貫した物語を構築できないほどに解体される。進行する物語よりも、テーマを共有する断片の交錯によって芝居を進めてゆくのはエウリピデスの『トロイアの女』の特徴でもある。東京オレンジが若い観客にとって魅力的な劇団であることはよく分かったし、「ギリシア悲劇」というテーマを突きつけられたときのこれが彼らの解だとしたらそれはそれで興味深く見ることができた。