Sizuoka春の芸術祭(5)

アイスキュロス『慈みの女神たち』 Ms. NO TONE

演出:平松れい子
出演 オレステス:辰巳蒼生、アポロン:岸建太朗、アテナ:熊谷知彦 復讐の女神:長谷川紀子、クリュタイムネストラ・復讐の女神:白井さち子、テュンダレオス・復讐の女神:進藤則夫

楕円堂の舞台の上には高さ一メートル、幅五メートルほどの銀色の演台。アテナはその後ろに立ち、コロスたちとオレステスはその脇に立って、演題に手をかけ弁明を行う。アポロンは演題の斜め後ろで、オレステスたちよりはやや高い場所に立つ。

この芝居だけでは観客の興味を維持できる筈もなく、当然、そこには『アガメムノン』で夫殺しの後のクリュタイムネストラの登場場面と、エウリピデスの『オレステス』でテュンダレオスがオレステスを非難する場面が挿入されることになる。それで随分わかりやすくなった…あれ、この構成はなんか記憶がある、って昔懐かし鈴木の『王妃クリュタイメストラ』ではないか。いや、もちろん鈴木の場合にはカッサンドラのシーンもあり、オレステスの母殺しもあり、アイギストスの陵辱や母殺しの後の後悔(エウリピデス)もあり、何より最後には判決が下されるのではなくオレステスはクリュタイムネストラの亡霊に殺されてしまうんだから、随分違っているんだけれど、枠芝居として『エウメニデス』を持ってきてそのあいだにこの二つの場面を挟み入れるという構成はおそらく鈴木にヒントを得たのだろう。クリュタイムネストラが勝ち誇る場面はギリシア悲劇の台詞の中でももっともスリリングなものの一つだし、「あの娘は殺されてしかるべきではあったが、おまえによって殺されるべきではなかった」というテュンダレオスの台詞はアイスキュロスでは提示されていない第三の選択肢を示し、それはわれわれの選択肢でもあるのだ。しかしこの台詞は、一方で、当事者でない人間の無責任な台詞にもなりうるものでもあり、その二重性が面白い。

演技は等身大の熱演で、クリュタイムネストラは小娘にしか見えないしテュンダレオスはやや真面目すぎるのだが、台詞のおもしろさは伝わっていたと思う。まあ、クリュタイムネストラのこの台詞に「心が踊る」ようにわくわくするのは白石加代子のヴァージョンを思い出して脳内で補完しているからかもしれない。翻訳も同じだったし。特に演出が優れていたと思うのはコロスの処理で、その台詞のずらし方にスタイルと美がある。

女性演出家が男性優位主義を前面に出したこの芝居とどう向き合うのかに関心があった(チラシにもその旨が書かれている)が、彼女が希求している「別のあり方」はなかなか見えてこない。途中、二度、クリュタイムネストラとオレステスが舞台奥で無言で食事をする場面があって、最初はクリュタイムネストラが、二度目はオレステスがその場に倒れる。あり得た親子関係とその崩壊を描いているのだろうが、男女関係一般にも適用出来そうだ。最初の場面はクリュタイムネストラの語りにつながるが、とすれば第二の場面は母殺しにつなげるべきだろう。時間の問題もあるだろうが、劇中劇から母殺しを省くべきではなかった。アテナを中性的な男が演じたり、復讐女神がエウメニデスに変わる最後の場面の処理がアンビヴァレントだったりするところは面白い。アテナの解決案は現代の人間にはごまかしにしか見えないし、ペーター・シュタインのロシア語版ではそこは真っ赤な布で全身をぐるぐる巻きにされた女神たちが身動きがとれなくなる、という姿でその欺瞞を表していた。

さて、男が種で女は畑にすぎない、というアポロンの言葉をまともに信じている男は実はいないのだと思う。それは抑圧のための一つの装置にすぎない。その根底には、「女は子供が自分のものだと知っているが男は信じるだけだ(この例文はギリシア語のテキストにあったが、もとは誰なのだろう)」という不安がのぞいている。その手の言葉とつきあわなければならない女たちには冗談ごとではすまなかったのかもしれないけれど。

アイスキュロス『縛られたプロメーテウス』 Power Doll Engine

演出:億土点
出演: プロメーテウス:古澤裕介、オーケアノス:滝田高之、イーオー:安田理英、ヘルメス:鍋島裕之、コロス(緑):松本萌、コロス(桃):島田桃依、コロス(橙):メイフィ、コロス(青):鈴木裕美、クラトス:畦地亮佑、ビアー:宮崎隆一

今回の若い人たちのギリシア悲劇の中ではもっとも面白かった(四日までの分で)。ぱらつき始めた雨が奇跡的におさまった状況の中、入場が案内されると、すでにプロメテウスは舞台中央に縛り付けられている。樽を重ねた簡単なセットが岩山に見立てられ、両腕は舞台脇からのびる長い金属の鎖に結ばれ、磔像のように脇にのばされている。樽からは滝のように水が役者に絶え間なく降り注いでいる。舞台上には岩と見まごう黒い物体がうごめいており、頭を出すとオケアノスの娘たちだと分かる。オケアノスはよぼよぼという設定。イオは白い大きな角をつけた白くて長い牛の獅子舞(いや、変な言い方なのは分かってますよ)で、数人掛かりで操作する。時々、その頭から半裸の女が飛び出してくるが、すぐに獅子舞の中に戻る。

演出家が自分たちの役者のことを「無口」と呼び、もっとも台詞が少ないからこの作品を選んだと書いているのを読んで、不思議に思ったのだが、なるほど、このプロメテウスがしゃべり出すとすべてが明らかになる。役者たちはだれも、恐ろしく語りが素人っぽい。ヘルメスに至ってはどもってすらいる。唯一台詞としてまともにリズムを持っていたのはイオだが、それはそれだけがマイクで裏手で読みに専念していたか、あるいは事前収録だったからだ。

でも、それがこの上演では全くマイナスになっていない。というか、『縛られたプロメテウス』は、少なくとも現代の日本人にとっては、テキストをまともに演じることにもっとも意味がないギリシア悲劇なのだ。人間を救ったプロメテウスの物語であれ、イオに対する託宣であれ、長々と語られて面白いことなど何もないのである。この芝居で強調すべきは、最高権力者であるゼウスによって不当な迫害を受け苦しむ神のグロテスクな情景だけなのである。だから演出は、最初から物語をまともに聞かせる、語らせることなどみじんも考えない。退屈な物語は、滑稽さとグロテスクを兼ね備えるイメージで常に覆われる。オケアノスの娘たちは恐れまどうとき、ひっくり返ってパンツを見せてじたばたする(コロスの一覧の色はそのパンツの色だ)。プロメテウスにいろいろと問いただすコロスの口調は、女子高の演劇部のようだ。イオへの長い予言の間、牛の化け物と化したイオを苦しめるアブは、殺虫剤の宣伝のように巨大なアブの人形をクラトスかビアーを演じていた男が持って、イオにまとわりつく。爆笑が絶えないが、どれもグロテスクを秘めた笑いだ。グロテスクな笑いの中でも最高だったのがプロメテウスその人で、きわめて情けない声と口調をで立派な託宣を行い、英雄的に苦しみに耐える神なのである。身体もひ弱そうに見える。やや甲高い彼の声には観客は笑わずにいられないが、それでも、その姿はむごたらしくもある。

しかし、芝居のおもしろさは俳優の演技力に依らない面があるのだなぁ。感心した。この演出で唯一残念だったのは、実は天気で、雨は奇跡的に観劇の間はあがっていた(土曜日)が、ある程度雨が降っていた方がこの演出だと面白いだろう(土砂降りは嫌だけれど)。