Sizuoka春の芸術祭(6)

SPAC: イワーノフとラネーフスカヤ

演出:鈴木忠志

すばらしかった。特に篭男たちの動き。最近見た鈴木演出の中で一番感動した。とだけ書いておいて仮置き。


楽園王 『メデイア』

演出:長堀博士、出演: メデイア:塩山真知子、コロス:大畑麻衣子、杉村誠子、小田さやか、 クレオン:松の秀明、イアソン:三品洋二郎、アイゲウス:田中新一、使いの者:嶋守勇人、子供:吉田郷子、子供・現代の子供:門間まどか

いらんことを書いたせいで雨の中での上演。簡易レインコートと膝掛けをもらう。雨は上演前半でほぼ止んだ。劇団「楽園王」は1991年に長堀が立ち上げた劇団で、息の長い活動を続けている。長堀は1966年生まれだから、もう四十前で、今回の上演グループの中では年長組に入るだろう。

年が気になったのは、使われているイメージに何となく古めかしさを感じてしまったからだ。それはアイゲウスの「あーりませんか」というギャグの繰り返しだったり、頭の上に載せた船の模型だったり、巫女の衣装を前後ろに着るコロスの狐のお面だったり、魔女としてのメデイアが超能力(としか思えん)で相手を操るときの電子効果音だったりする。いろんなところで、ネタが親父っぽい。

さて、この舞台の衣装はメデイアが最後に着物の下のドレス(下着かも)をあらわにする場面をのぞいて和で統一。子供たちの衣装は古代日本風。メデイアの着物は、緑に花模様が何となく遠目には鱗のようにも見え、襟ぐりも蛇っぽい。衣装の色彩感覚にはキッチュなおもしろさがある。演出は、文末で切らず次の文の最初の単語一つか二つまで読んで息継ぎをするデクラメーションが最大の特徴だ。これは鈴木以降いろんな劇団が取り入れていわば、一つの類型になっているがここまで、徹底してそのスタイルを貫くのは初めて見たけれど随分、退屈だ。最初から台詞のリズムが読めてしまうしそれが、気になって仕方がない後半に、なってようやくこちらが慣れてきてあまり気に、ならなくなったが単調で、あることには変わりがない。イアソンがハンサムで常にメデイアをたてたしゃべり方をするのはなかなか面白い。

冒頭に、二人の子供が殺される場面の叫び声が置かれ、その二人の子供たちが登場するが、一方は現代日本の児童虐待の犠牲者で、もう一方がメデイアに殺される子供たちの内の弟のほうだ。かれらは親の狂気から逃げだしたところだ。殺される子供の視点から『メデイア』を見ようとする意識が鮮明に現れる。この子供たちのシーンが所々挿入されるのを除けば、芝居は適度に省略を交えながらだいたい物語の通りの順序で進む。重要な省略はメデイアの苦悶とコロス。確かに、殺される子供の視点からはメデイアの苦悶はあまり意味がない。しかしそれで私はこの芝居を見る重心を失ってしまった。

メデイアの物語はそんなにも現代の児童虐待の物語と共通するのだろうか。この物語は、「今日というこの一日」は特殊な一日、それによってそれまで幸せだと思われていた人があっけなく滅びる非日常の一日の物語であって、児童虐待は日常の物語ではないだろうか。相手にとってだけでなく、自分にとっても「その一部」としか思えないほどの大切なものを破壊するからすごみが出るのではないか?ク・ナウカのヴァージョンだと、「殺してしまっても、坊やがおまえの大事な坊やであることに変わりはない」って台詞があったように思う。これはエウリピデスにあったんだっけ?それによって自分の一部も死ぬと感じることが出来るほどの一体化が女の側にある(とわれわれに思わせる)からこそ、復讐としての子殺しが演劇として成立するのだろう。その「死ぬ」部分を「人間性」と呼んだ途端、メデイアが最後に神になるというトンデモ解釈(Knoxなど)が生まれることにもなるが。

もちろん、殺される子供たちにとってそれが何だというのだ、ということは可能だ。しかし、『メデイア』の物語が子供たちの、ではなく母親の理解にあるとすれば、児童虐待の物語との結合は物語を弱めることにしかならない。メリナ・メルクーリが主演した映画、「女の叫び」では、現代の子殺しの女囚(エレン・バーンスティン)との交流を通じてメデイアをなんとか理解しようとする女優が描かれていた。その結果は非常に静かなメデイアだったが、最後の夫との対話がこれほど緊張感を持つ『メデイア』の上演は生では見たことがない。他方、今回の上演での子供たちの視点の導入は、メデイアの物語を異化し、カリカチュア化するのに役立っている。だから、メデイアの煩悶を描く台詞はほとんどすべてカットされ、最後の龍車の場面もカットされる。その代わりに挿入されるのが、現代の児童虐待の子供とメデイアの子供がともに船に乗る場面で、子供たちは実は死んでしまっているようだ。この場面も、申し訳ないが児童虐待と名付けられた子供の方が自分の体験を語る場面も、事柄としては悲惨きわまりないのに、テキストにおいては救いがたく陳腐だ。こちらの物語に関しても演出家がうわべをなぞっているだけに見える。

『日曜はだめよ』で、メリナ・メルクーリが扮する娼婦は、最後にイアソンが反省し、メデイアの元に戻り、子供たちと仲良く一緒に暮らす『メデイア』を夢想している。いわば、「政治的に正しい」メデイアだ。そして今回の上演も、これは子供の側からの、「政治的に正しい」メデイアだ。視点を変えれば、メデイアたちの葛藤を身勝手な大人の自己満足と考えることは全く正当だからである。でも、それはこの芝居を面白くすることにはつながらなかった。