Shizuoka春の芸術祭−ギリシア悲劇 (7)

うずめ劇場『アンティゴネー』

演出:ペーター・ゲスナー

冒頭のアンティゴネとイスメネの対話が面白い。台詞は分断され、ためらいがちな間を入れることで相手との共通認識が確認される。それはある種の若い人たちの対話の間そのものでもある。もちろん、最後には両者は決裂するのだが、演出は決裂の瞬間を出来るだけ遅らせようとする。台詞の翻訳の丁寧な調子をそのまま変えていないのでかなり無理があるし、フラストレーションのたまる場面になるが、それが演出の意図の一つなのだろう。クレオンとハイモンの対話でのハイモンの台詞もまた同様に演出される。「ココリコ」の田中君のようなおどおどとしたハイモンは、観客にとってなじみのある性格造形だ。

さて、コロスはイスメネが演歌の替え歌で演じる。結構面白い。この人は喜劇役者としてかなり有能だと思う。ただ、人間の恐ろしさを歌う場面にしても、エロス賛歌にしても、観客はだれも歌詞など聴いちゃいない。鈴木の昔のギリシア悲劇のパロディ+レスペクトなんだと思うが、安易だ。

ネクタイと同じ生地で包まれた長いペニスをズボンから突き出している男優たちは、この劇の男たち(特にクレオン)の男根性を象徴し、それは当然そうなるのだろう。でも、それを強調するなら、アンティゴネはそれを解体する女性原理の側につかせるべきだ。確かに、頑なさという点でアンティゴネとクレオンは共通性を持ち、おどおどとしたハイモンとイスメネは共通性を持つのだろうが、この演出のようにメタシアトリカルな形で(後述)クレオンとアンティゴネの共通性を出すのは無理がある。この上演ではすべての登場人物が男根的であり、そうでないように見えるのも程度の問題にすぎない。だから最後は反乱で終わる。

さて、上演に先立って、舞台奥の小さなスクリーンに、「上演中、携帯電話を使用しないことはお控え下さい」「写真等を撮らないことはお控え下さい」などのテロップが流れていたが、脳内で勝手に肯定に変換していたのでまったく気づかなかった。と、演出家がインスタントカメラを配り始める、で、ようやく写真を撮れといわれているんだと気づく。写真を撮れと言う以上公開されることも想定の範囲内だと思うので、現像がすんだら何枚か公開しよう。上演中は、後ろのスクリーンには、客席の何人かの人物たち、ゲスナー、鈴木など関係者の顔が時々映し出され、ゲスナーが映ると俳優たちは演技を中断してスクリーンを見つめる。男根的抑圧は演出家と俳優の間に成立していることが示され、テイレシアス役としてゲスナーが舞台に登場した途端このメタシアターがアンティゴネの芝居に置き換わり、最後は俳優たちによる演出家への反乱である。彼らはゲスナーを袋だたきにし、舞台中央に吊して墨汁と鳥の羽根で覆う。グロテスクで美しい場面が残されて芝居は終わる。演劇空間へのその外の現実の乱入は、ク・ナウカの『メデイア』でも結末として用いられていたが、ク・ナウカがそれを枠芝居の劇中劇への乱入と見なし、また、独自の魔術的空間の導入として示していたのに対し、ここではそれは随分あからさまな、劇団内部の支配・被支配の関係の逆転として示される。それを提示するのが演出家だ、というのがひねりになっているのだが。

終演後、吊されたままのゲスナーの写真を多くの客が撮り始める。舞台空間に一歩上がって写真を撮った途端会場の係の人から制止された。なるほど、境界はここにあるのね(謎)。

ク・ナウカ+旅行者 『トロイアの女』

演出:宮城聡(ク・ナウカ)+ヤン・ジョンウン(旅行者)
出演: ポセイドン:大内米治、阿部一徳 、アテナ:吉植荘一郎、ヘカベ:鈴木陽代、タルテュビオス:吉植荘一郎、カサンドラ:チェ・クッヒ、アンドロマケ:布施安寿香、メネラオス:阿部一徳、ヘレネ:杉山夏美、ポリュクセネ:山本智美、コロス:パク・ミヒュン、萩原ほたか、赤松直美、池田真紀子

パロドスから第二スタシモン(アンドロマケ)までをヤン・ジョンウンが、プロロゴスと第三スタシモン以降を宮城が演出した。宮城の部分のうち、プロロゴスとヘレネの場面はコミカルに演出する。プロロゴスの神々はアメリカ人であり、それも、ポパイやカウボーイといった、アメリカのアニメの世界のマッチョな住人たちだ。ギリシア軍への懲罰が語られた後、第一スタシモンに先立って、ポリュクセネの陵辱と殺害が挿入され、そしてヘカベの場面が始まる。ヘカベは非常に長い裾を持つ白い衣装を地面に広げその真ん中に座っている。その姿はまるで地面から生えているかのようだ。

今回は前半が特にすばらしい。韓国勢はキャストではコロスに一人入る他はカサンドラだけなのだが、ヘカベ・コロス・カサンドラが日韓両言語を自在に織り交ぜて嘆きを紡いでゆく。「グッ」と呼ばれる韓国の巫女祭礼を全面的に取り入れた演出で、こうした嘆きの歌の伝統がある文化によって初めて『トロイアの女』のこれらの場面は生きるのだ。エウリピデスのこの芝居では嘆きの祭式が演劇になろうとする瞬間が回顧されているのである。ヤン・ジョンウンは第一スタシモンを解寃グッ、第二スタシモンを鎮魂グッを用いて演出し、韓国の伝統儀式をわれわれに提示する。ギリシア悲劇に自国の伝統的なトレーノス(嘆きの歌)を取り入れた上演として非常に有名になったのがギリシアのラリッサ劇団の『エレクトラ』(ヨーロッパツアーを行い、そちらでも人気を博した)が、同じアジアのトレーノスの方が日本人の心には染み渡る。そう言えば太陽劇団の『アガメムノン』のカッサンドラは日本の巫女風だったが、われわれにはもはやこうした嘆きの祭礼は身近には存在せず、そのことが日本人の『トロイアの女』の難しさにつながるのだと思う。

しかしそれが活きるのは、鈴木の強いヘカベがあってのことだ。彼女は韓国語が堪能なわけではなく、したがって韓国人に彼女のヘカベがどれほどの力を持って響いていたのかは分からないが、しかし私には、冒頭のトレーノスにおける彼女の感情表現の広がりは驚嘆すべきものに聞こえた。また、鈴をならしつつ「巫女」として登場する「旅行者」のチェ・クッヒの演じるカサンドラも見事で、彼女の台詞のさまざまなニュアンスの違いが演じ分けられていた。

少なくとも身近なものとしてはこうしたトレーノスの伝統を持たない日本の演出家にとって、コロスの処理は、独自の様式を洗練させることによるしかない。それは、伝統的なグッを利用できた前半部分に対して宮城演出の後半部分はこの点ではどうしても弱くなる。しかしここでは、前半部分での弱点であった対話部分がより輝いている。ヘレネの杉山に、ゼンマイの人形のような所作と台詞回しを与えることで、ヘレネとヘカベの対決シーンは独特のグロテスクな滑稽味を帯びる。トロイアに行ったヘレネは本物ではなく雲で出来た人形だった、というステシコロス以来の伝承を背景にしているのだろうが、グロテスクな笑いによって、ヘレネが普通の人間を超えていることが視覚的に明らかにされる。ヘレネのこういう解決法もあるのね。この対決でのヘカベの議論はほとんど省略され、メネラオスへの忠告だけが残されているが、ソフィスティックな屁理屈と深い嘆きの共存という『トロイアの女』上演の難しさはやはり乗りこえられていない。勿論、ソフィスティックな屁理屈の方を今回の上演のようにヘレネの方に押しつけてしまうのは一つの「手」だと思うが、原作ではしかしヘカベはアステュアナクスの埋葬でも力強さを見せた。ここでは彼女は韓国語を交えず、日本語で通すが、その嘆きは、時に、かつての(鈴木版『トロイアの女』での)白石加代子を思わせる力を持つ。

一つの戯曲の前半部分と後半部分を別の演出家が演出するスタイルの共同演出は、ク・ナウカでは『うちはそば屋じゃない』に続き二度目だと思う。彼らは、作品全体の完成よりも、むしろ異質性を際だたせたポリフォニーを重視し、その意味で「バフチン的」と言って良い効果が生まれる。その試みは「うちそば」よりはずっと成功していた。