春琴(コンプリシテ+世田谷パブリックシアター)

共産党の新聞「赤旗」への劇評はこちら。テアトル・ド・コンプリシテを初めて見たのは1994年のYoung Vicで、『クロコダイル通り』がTime Outの演劇欄で「必見」になっていたからだった。連れ合いと劇場に行くとリターン・チケットを待つ人の列に並ばされ、ちょうど私たちのところまでリターン・チケットがあったような記憶がある。ほぼ最前列に近い席で、その意味でもラッキーだった。演劇をみて文句なしにショックを受けたのは久しぶりのことで、それ以来、ロンドンに行く度に、彼らが何かやっていないかチェックするようになった。それでも、見ることが出来たのは、National Theatreと共同制作の Out of a house walked a man、ルシー・キャブロルの三つの人生、尺には尺をの三つだけだった。The Elephant Vanishesを見過ごしてしまったのはとても残念。

『クロコダイル通り』も『ルシー・キャブロル』『Out of a house...』はすべていわば記憶の演劇で、出来事は過去のこととして想起される。それは忘れてはならない大切な過去で、その記憶の枠組みの中で出来事は自在に変形し、異様な姿をとるようになる。それを支えているのが俳優たちの自在な動きだ。テキストのイメージは基本的には身体によって表現されて行く。そこでは学校の小机は一瞬のうちに楽器に変わり、人々は森の木々に、そしてルシーが摘む木イチゴに変わる。

テキストのイメージを俳優の身体が表現して行くという手法は、Living Theatreの『アンティゴネ』上演でもとても印象的だった。しかし、コンプリシテの方が、新しいだけあって自在さが増している。

一昨年見た『尺には尺を』は、私には久しぶりのコンプリシテだったが、それ以前に見た三作品と全く異なり、とてもスピーディで現代的な(同時代の衣裳の)シェイクスピアで、これもとても刺激的だった。舞台にはテレビスクリーンが置かれ、常にテレビで監視された映像が映し出されている…これは今映画化されているところなので、映画を見てから感想を書こう。コンプリシテには特に決まった「方法」はないと彼らは言うが、なるほどと思った。

さて、『春琴』も、想起の演劇、記憶の演劇だ。冒頭、ヨシ笈田が現在時点から『春琴抄』が書かれた時代を振り返り、春琴の墓に詣る語り手の姿が描かれる。谷崎の小説自体が、(谷崎の)現在から過去の出来事を「鵙屋春琴伝」という架空の小冊子を元に再現するという形で、過去と現在を結びつけているが、この上演では、NHKのラジオドラマとして『春琴抄』を読むという設定を加え、全体がナレーションに即して展開される。まあ、『春琴抄』は語り手の推測や想像が多分に混じった構成になっているし、随所に年老いた佐助の回想が挟まれるので、その多様性を活かすにはナレーション形式になるのはほぼ必然だろうけれど、その分、「リーディングに解説的な演技を付け加えました」にならないための様々な工夫も必要だ。

二つの工夫が印象的だった。第一は、春琴をほとんど人形で描いたこと。深津絵里は、春琴の人形を操りながら、彼女を演じる。これはとても難しいのだろうが、その難しさを感じさせない。大阪ネイティブの私にとっては、もう少し大阪弁にニュアンスがあってもよいかな、とは思うのだけれど、これはネイティブでない人には分からない程度のものだ。人形は子供の春琴を、そして大人になってからの春琴を表し、後には女優の人形振りまで登場する。けれど春琴の声は一つだ。この工夫によって、少女の頃の春琴と佐助の出会いから、彼女たちの仲の深まりを再現できた。最後ようやく、りんたろうとのトラブルの段になって、はじめて深津が春琴そのものになる。

もう一つは、舞台上に常に年老いた佐助の幸せそうな様子を置いたことだ。佐助の視線の効果については赤旗劇評のほうに書いたので繰り返さない。

小説に固有のナラティブ(物語り)の屈折した視線、自在な話法の処理は演劇には常に再現困難で、だから小説の演劇化って面白かった記憶がほとんどない(ほとんど観てすらいないので、先入見が強いのかも知れない。ひどかった例としては「エレンディラ」)のだけれど、こうした工夫をしてくれる場合は、舞台で見る意義は大きいと思う。