Shizuoka春の芸術祭 (ギリシア悲劇特集)

5月7日

(1) SPAC『幽霊』楕円堂

キャッチコピー「ノルウェーの劇作家イプセンの代表作「人形の家」と「幽霊」を縦横に織りこみ構成した『幽霊』」

演出:鈴木忠志

出演:SPAC イプセン研究家:奥野晃士、 その妻・劇作家:中村幸子、アルヴィング夫人:久保庭尚子、その息子・オスワルト:武石守正、牧師・マンデルス:蔦森皓祐 女中・レジーネ:中村幸子

(2) SPAC『病院長屋の日本人たち』BOXシアター

キャッチコピー「患者たちが次々と登場しては身体と言葉の戯れを奇想天外に展開する『病院長屋の日本人たち』」

演出:鈴木忠志

出演:SPAC 医者(清玄):竹森陽一、アケミ(桜姫):斉藤有紀子、六号室の男(残月):三島景太、その愛人(長浦):久保庭尚子、子分1:藤原栄作、子分2:山本剛和、子分3:西森久晃、看護婦:斉藤真紀 中村幸子 高橋綾 矢部久美子 患者の男1:武石守正、2:高橋等、3蔦森皓祐

(3)SPAC『アンティゴネー』 野外劇場「有度」

野外劇場「有度」

演出:中島諒人

出演:SPAC クレオン:新堀清純、アンティゴネー:舘野百代、テイレシアス:加藤雅治、ハイモン:吉見亮、イスメネ:大崎美穂、コロス:貴島豪、植田大介、仲谷智邦、テロリスト:長谷川直美、海雲真由美、津田直子、キャサリン・ドイル

キャッチコピー「テーバイの王クレオンと少女アンティゴネーの対立を「ナショナリズム」と「テロリズム」という図式に置き換え、国家の政治劇として描く。」

舞台にはワンルームのアパートの図面が縮尺無しで描かれ、その部屋の中には細長い机が置かれている。空間として部屋を意識させることは全くない。イスメネとアンティゴネは机の下に潜り込んだまま話を始める。各人物はそれぞれ象徴的な身振りや道具を持つ。眉を剃ったアンティゴネは常にマシュマロをほおばり、口に詰め込みながら語る。クレオンはしょっちゅう歯を磨き、白いジャケットにはビニールの覆いがかかっている。テイレシアスは青い地にノイズのような白い模様が映し出されるテレビを抱きかかえたまま、ずっと部屋の片隅に座っている。コロスはクレオンに命令口調で語り、クレオンはあたかもコロスに操られているかのようだ(無理矢理『アンティゴネー』を演じさせられている囚人という舞台設定。コロスは看守なのだろう)。物語はかなりのカットを挟みながら、だいたいはオリジナル通りに進む。所々原作にない引用をクレオンが語るが、それはまるでマキャベリからとった言葉のようだ。さて、「ナショナリズム」と「テロリズム」の図式に置き換えるという演出家の意図は明確に示されている。あるいは個人原理と集団原理と言って良いかもしれない。ただし、この「個」とは、周りを気にせずにマシュマロを食べ続けることで表現されるような「個」である。いわば抑制なき欲望だ。伝統的な、正義と正義の対立としての『アンティゴネ』は、ここでは、不快なもの二つの衝突として描かれている。だから、様式的でありながら、この舞台から徹底的に排除されているのは動きの美しさのもたらす共感だ。クレオンのすべてのせりふ、すべての動きが、ここでは唾棄するものとして描かれる。それは良いのだけれど、問題は、アンティゴネに関しても全く同様だということだ。われわれは誰にも入れ込むことがない。もちろん、われわれはナショナリズムにもテロリズムにも現在共感することはないだろうから(おれはナショナリズムが好きだとか、おれはテロリストだとか考えている人たちは、この舞台からは排除されている)、この姿勢は当然とも言える。でもそれはずいぶん『アンティゴネ』をつまらなくする。

したがって、クレオンは息子が死のうと、妻が自殺しようと、ほとんど打撃を受けない。いくつかあるラストシーンの最初で、コロスは行進しながらナチス式敬礼を行い、クレオンは白いジャケットを脱ぐと黒っぽいスーツが現れなんとなくヒトラーをイメージさせる。破滅しないクレオンはアヌイ版の引用だろうが、クレオンの妻の役割をこの演出家が全く評価していないことが分かる。

第二のラストシーンでは、クレオンとアンティゴネの対話が式服を着た男のコロスと、ぼろとフードという、なにか松本大洋あたりの劇画で見たような女のコロス(テロリスト)の対話として反復される。ただしこの女のコロスは、アンティゴネのせりふのうち「ない」という言葉を強調する、否定としての女性原理。でも、アンティゴネの有名な台詞が「あなたは憎しみに生き、私は正義に生きる」ってなっていたが、これって原文では「愛」ではなかったかしら。まあ、テロリストに愛を説かせるのは面倒だしね。

第三のラストシーン、俳優は衣装を交換し、別の人間が今度はクレオンになり、アンティゴネになって冒頭の場面をスティルで反復し、暗転。

どれも言いたいことは分かるけれど、三つ並べるのはどーなのよ。

と、ここまで書いてから、演出ノートを読み、かなりorz。

中島は次のように言う。

「アンティゴネー」は集団内部の論理と外部の論理のズレを扱っている。(中略)われわれをしばしば悩ませるこの集団に関する問題を、解決のないままにともかくも俎上に乗せたのがこの戯曲『アンティゴネー』であり、だからこそこのテクストは時を超えて人の興味を引きつけるのだと思う

しかし、この戯曲を現代に照らして読んだとき、私は2つの違和感をおぼえた。

1 クレオンは国家という集団を、アンティゴネーはその外部をそれぞれ重んじる。が、現代の世界に国家というシステムから離れた外部などあるのだろうか。あるのは、同心円状に無限に膨張する内部だけではないか。

2 “無法者”と闘うクレオンにとって、妻子を失うことは、政治家としてはむしろ自己の権力を強める最高のきっかけとなるのではないか。(略)

この違和感は言うまでもなく。アメリカを中心としたグローバリゼーションあるいは<帝国>と呼びうる現状に基づいている。反国法を唱えるアンティゴネーの動きは現代におけるテロリズムであり、それは国家の存在を揺るがすどころか、むしろその力を強化する方向に作用する。(略)

私は、「アンティゴネー」上演を通じて、現代におけるこの物語の成立不可能性をしめし(以下略)

こうしたヘーゲル風読解のポスコロ的拡張は悲劇のテキストを皮相化することにならざるを得ない。「テロリストは反国家を標榜する」「アンティゴネーは反国家を標榜する」「故にアンティゴネーはテロリストだ」という誤謬論理を取り上げても良いが、それらはすべておく。僕たちは過去の経験では計り知れない場所におり、そこから過去のテクストを裁断することが出来る。そう考えるとき、悲劇なんてもはやクズでしかない。でも、そこにあるのは、彼によってクズになったテクストなんだよ。村上春樹の初期の小説にすでに、「ギリシア悲劇など及びもつかない悲劇が世界を支配している」とアジる活動家が出てくる。