鈴木忠志とSPACによるギリシア劇。

以下の記述について、次の間違いのご指摘を舞台芸術財団演劇人会議よりいただいたので訂正します。もうアップロードしてかなり経つ文章でもあり、すでに公開し続けた責任もあり、変換ミス以外は、本文を修正したり削除するのではなく、ご指摘をいただいた旨を記して恥をさらしておくことにしますこれら、ご指摘のあった点についての本文中の記述は間違いです。申し訳ございません。また、ご指摘に感謝します。

(1) 白石加代子の変換ミス(これは本文も修正しました)
(2) 『ディオニュソス』について

ご指摘は以上以下の本文は2001年10月のもの(2010年7月27日追記)

白石加代子がSCOTを離れてから、鈴木がギリシア悲劇上演を再び行ったのは、宮城聡との共同演出により、美加理をタイトルロールにした『エレクトラ』が最初だったと思う。その後、SPACとともに、『オイディプス王』など、シアター・オリンピック絡みでギリシア悲劇上演を行っているように思うが、今回は海外遠征を前にした三つまとめての上演である。私はSPACによるギリシア劇を見るのは初めてだ。

『ディオニュソス』

もう30年も前になるだろう。エウリピデスの『バッコスの信女たち』を早稲田小劇場で『ディオニュソス』として上演したのが、鈴木のギリシア劇の原点だったのではないか。
悲しくなってしまったのは、ペンテウスのリズムが最初悪く、フレーズのあいだの「間」が単に無意味な空白になっていたからでも、六人のディオニュソス僧の動きに「素」が見えたからでも、能と狂言のスタイルの利用が非常にお手軽なジャポニズムだったからでも、女たちの衣装の趣味が(日本人にとっては)悪すぎたからでもない。
悲しくなってしまったのは、途中でスピーカーで流される、かつての『ディオニュソス』からの白石加代子のテープの声が、我々を引き込む圧倒的な力を持って迫ってきたからだ。その抑揚、息づかい、強弱のすべてによって、鈴木のギリシア悲劇とは白石のギリシア悲劇でもあったことを思い知らされる場面を目にしたからだ。そこで響いたかつての音楽の荒々しい未完成も、おそらく海外に向けて作られた今回の上演の鈍い邦楽との鋭い対照によって我々を引きつける。雅楽といい声明といいあまりに安易じゃないか?
安易と言えば、六人ディオニュソス僧がペンテウスを日本刀で斬り殺すのも安易だ。神に抗う人間の狂気が、狂信者によるリンチになっている。ペンテウスの最期はこの芝居の最大の聞かせどころであり、グロテスクリアリズムのイメージそのものだ。あんな時代劇の殺陣のような動きでごまかさないでほしかった。
ディオニュソスによって狂わされたペンテウスは漸く生彩を見せるが、エウリピデスのグロテスクな滑稽を伝えるほどには狂言風が上手くない。アガウェを演じたエレン・ローレンはアメリカの地方公共劇団を中心に活動する女優で、鈴木スタイルと英語の衝突が見られて、そこは面白いのだが、表現に精度がない。
終了後、鈴木が登場し、海外公演の話を始める。この日の公演が観客にかつてのような驚きと共感をもって受容されていないことが分かっているかのようだ。

『オイディプス王』

同工異曲だが、こちらの方は舞台は歌舞伎風で、音楽はもっぱら琵琶。武士に見立てた登場人物たちにとっては、能の世界より「平家物語」の世界の方が相応しいのだろうか。
『ディオニュソス』が、ほぼ何もない空間に椅子を六つ置いただけの構成だったのに対し、『オイディプス王』は、一面格子戸の壁にそって行灯が置かれ、壁の中央にマジックミラーの扉がある。扉の前と壁の横の通路は畳敷きで、オイディプスは扉から、テイレシアスや使者などは通路から出入りする。
最初と最後が大きくカットされ、ライオス殺害犯の探索の開始で始まり、オイディプスによる真相の発見で終わっている。最期の破滅の場面、そこでオイディプスはもっとも高貴な存在に変容するのだが、それによるカタルシスは描かれていない。
『ディオニュソス』よりはずっと優れた舞台だと思う。オイディプスが徐々に真相に迫ってゆく場面は迫真的。最初部下だったコロスが途中で女たちに変わるのも、必要な視点の変換だと言って良い。
ただ、ここでも人物同士の対話は殆ど成立していない。すべての言葉は、それが表面上は相互に話されている場合でも、観客への直接の語りかけになっている。想起としての演劇。そのなかで、真相を知ったイオカステの変化は秀逸。
納得しがたいテキストの変更は三カ所あった。これらはオイディプス』理解にとって本質的だと思われる。
(1) テイレシアスはオイディプスの出生に関する説明をしない。
(2) ライオス殺しを目撃した羊飼いがオイディプスを取り上げた羊飼いと同じだという説明は、コロスによってではなく、オイディプス自身によってなされる。
(3) オイディプスが羊飼いを問いつめる中で、最後に、真相を知るのは俺にとってもおそろしい、だが知らねばならない、という台詞がカットされている。
これらのカットは劇的な期待や緊張を弱める結果をもたらすが、それが今回の鈴木ギリシア劇の特色の一つになっている。静的なものとしての演劇の希求なのかも知れない。

『エレクトラ』

ようやくすっきりした鈴木ギリシア悲劇にであうことが出来た。ただし、宮城聡(ク・ナウカ)の大きな影響のもとにだけれども。
舞台上にクロスする横断歩道の模様、赤い線。中央やや右脇に一群の打楽器。
打楽器に合わせて車いすの男たちが歩き、舞い、『エレクトラ』が始まる。男たちはエレクトラの台詞を彼女に代わって語るが、エレクトラ自身が語る部分も多い。
俳優を語り手と演じ手に分け、演じ手の方は文楽の人形のように一言も語らせないという独自のスタイルを持った宮城とク・ナウカの『エレクトラ』は、鈴木に大きな感銘を与え、数年前、鈴木・宮城協働演出の形で、両方のメンバーを使った『エレクトラ』上演がなされている。今回の上演は、それに基づき、ただし「共同演出」の名前は外し、より鈴木色を強めたものになっている。具体的には、エレクトラ自身による語りを増やし、オレステスの死を告げるクリュソテミスの語りの後のオレステスとエレクトラの認知場面をカットし、舞台の中央奥にオレステスを置いて、その後の復讐をすべて弟の死を受けいれられないエレクトラの妄想として処理している。
これらはいずれも大きな成功を収めている。語らないエレクトラはク・ナウカの方法と美加理のキャラクターがあって初めて説得力を持つ。今回のエレクトラ役は何もしていない静止による表現がそれほど巧みではなく、むしろうなったり、叫んだり、語ったりする時のほうが面白い。エレクトラの悲劇は、復讐が成就せずに狂ってしまうことによって救いのなさを際だたせる。
台詞回しはかなりの部分まで、ク・ナウカの語り口調そのままだ。それが、鈴木的な動き、車いすの効果的な利用と調和しない響きをたて、その不協和が心地よい。