ペーター・シュタインの『メデイア』

二度見てしまいました。ペーター・シュタイン演出の、例によって(彼にとって)外国人を使った上演を。2005年8月、エピダウロス劇場での上演。但し、シュタインはこの『メデイア』を二年くらい前からあちこちで上演しているようだ。

ペーター・シュタインは、70年代に西ベルリンのシャウビューネに君臨していた演出家で、その『オレステイア』三部作は、ドイツにおけるギリシア悲劇上演の一ページを飾るべき名演として知られているようだ。私自身はそのころの彼のことは全く知らず、シャウビューネを離れてからロシア人を使って上演した『オレステイア』をエジンバラで見たのが彼との出会いだった。シャウビューネ版の『オレステイア』はテレビ放映され、ヴィデオで見たが、見た限りでは「同じ」と言って良い演出だった(研究書を読むと細かい違いはあるようで、ロシア版の方が「祝祭的」だという評価を読んだことがある。

いやぁそれは暗い『オレステイア』で、そのことにまず驚いた。『アガメムノン』は完全に現代劇スタイルで、テクノクラシーの恐怖と重ねられ、『供養する女たち』では男のコロスと女のコロスの対比を創り出してジェンダーの問題にからめ、最後の『慈悲の女神たち』はラストが全くパロディにしか見えない陰惨さ。エリニュエス(ギーガー風)たちは赤い包帯でぐるぐる巻きにされ、椅子に縛り付けられて行動の自由を奪われてしまう。それが革命後(あ、90年のやつだ)のロシアと重ね合わされている。

正直、意図は分かるもののエジンバラのスケートリンクで六時間以上も見続けるのはつらい舞台だった。一緒に見に行った知り合いは、「私にはもっと重要なものがある」と言って『アガメムノン』で抜け出してしまったし。隣で見ていたギリシア人家族も途中で逃げ出してしまった。

この『オレステイア』(ロシア語版)がエピダウロスで上演された、という話を聞いて実は意外に思った。ペーター・シュタインの『オレステイア』はあまりにも閉鎖的で、エピダウロスのオープンスペースには合わないのだもの。

今回、『メデイア』のパンフレットで、『オレステイア』上演がペーター・シュタインの許可なしになされたものであったことを知って驚くと同時に納得した。シュタインは古代劇場が独特の「古典的空間」を持っていると考え、自分の『オレステイア』はそれと一致しないと見なしていた。今回の『メデイア』は「古典的空間」にふさわしい演出を考えたようで、その「古典的空間」とは、「これでもか」と言うほどのスペクタクルが可能な空間であり、それを正当化するためにイタリアのキャストが使われていたとしか思えない。

あばら屋が舞台に置かれ、メデイアの家の貧しさが強調される。冒頭の乳母のいかにも説明的な語り口に驚かされるが、そう、これはコメディア・デラルテにもよく見られる状況説明の台詞なんだ。その間、メデイアは家の中で単に嘆いているだけではなく、手当たり次第にものを壁に投げつけているようで、そのうち篭や鍋、薬をすりつぶす容器が窓から飛び出してくるほどだ。メデイアの嘆きは恐ろしいし、深いが、速い。老人が子供たちを連れて登場し、子供たちは以後ずっと、舞台の後ろで遊んでいる。彼らのたてる声が、たとえばクレオンの変心で大きな役割を果たしている。コロスが登場し、メデイアを呼び出す。メデイアは最初の台詞で、コロスを自分の味方にしてしまう。コロスはメデイアに魅入られたかのようだ。メデイアの台詞は、常に肉体に支えられた説得力を持っている。そしてそれは完全にイタリア的な雄弁ですべてを語り尽くしてやろうとする肉体であり、語り口だ。クレオンと対話しながら、メデイアは地面から何かを拾い、先ほど窓から投げ捨てた篭に集めている。クレオンが一日の猶予を与える直前に、子供たちの笑い声が聞こえクレオンの変心を促す。メデイアはクレオンが立ち去ると躍り上がって喜ぶが、すぐに、拾い集めた材料をすりつぶし始める。そしてここでわれわれはようやく、メデイアが作っているのが後にグラウケとクレオンを滅ぼすことになる毒薬なのだと気づく。イアソンとの最初の対話は薬をすりつぶしながらなされる。それから彼女はアイゲウスと対話しながらそれを煮詰めて毒薬を作り出し、イアソンとの第二の対話では彼の目の前で冠と着物に振りかけて行くのである。毒薬つくりは日常的な行為として全く自然になされ、(テキストは原作通りなので当然だが)舞台上の誰一人、彼女が何をしているのかと問うことも、不審な様子を示すこともない。ここで既にメデイアの魔力が働いているかのようだ。

このメデイアはすごい。まずコロスを味方にし、状況に応じて最も適切な言葉を選びながら対話相手を思い通りに動かし、敵地のただ中で自分の意志を貫き通す女だ。相手を滅ぼす毒薬を相手の目の前で作ることが出来るしたたかさが前面に出てくる。それでもわれわれが彼女に共感してしまうのは、強いられた圧倒的に不利な状況をものともせぬ姿があるからだ。彼女は、どの場面においても、常に後のことを考え、必死で生き抜こうとする。

この上演では、祖父である太陽神ヘリオスから贈られた翼ある蛇の車は、太陽そのものの写しとして描かれ、メデイアはそれに乗って本当に高くへと飛び去ってしまう。大きなクレーンの仕掛けは最初から結末を予期させるが、それにもかかわらず、このラストのスペクタクルは私たちを魅了しきってしまう。彼女のもつ大きな力が、この苦しみを経て初めて開放されたことが伝わり、われわれを畏怖の念で満たす。こうして、この上演においては、メデイアの倫理的破綻は、彼女の神格化によって解決される。最後になって初めてマイクを使って語りかける彼女の姿は人間のものではない。

『メデイア』はデウス・エクス・マーキナが用いられた確認できる最初の悲劇である。メデイアが最後に神になるという解釈は、エウリピデスの矛盾したテキストを何とか整合的に解釈しようとする試みの中で生まれたのだと思う。メデイアは最後に自分の子供の祭祀に関わる予言を行い、イアソンの死に様も予示するからだ。まあ、これは観客サービスみたいな台詞で、他方、舞台上の誰一人としてマーキナにのったメデイアを神とは認識しておらず、特にイアソンがそうなので、神格化しないほうが悲劇としては面白いと思うのだが、しかし、このスペクタクルは、神格化解釈をそれなりに説得的にし、感動的にしている。