ユイレ+ストローブの『アンティゴネ』

監督:Daniele Huillet, Jean-Marie Straub, アンティゴネ: Astrid Ofner, イスメネ:Ursula Ofner, クレオン: Werner Rehm, ハイモン:Stephan Wolf-Schoenburg, テイレシアス:Albert Hetterle

ブレヒト版のヘルダーリン版のソフォクレスの『アンティゴネ』を、「アンナ・マグダレーナ・バッハの日記」で知られるフランスの夫妻ペア監督、ダニエル・ユイレとジャン・マリー・ストローブが上演し、映画化したものだ。アンティゴネとイスメネを演じているのは名前からすると実際の姉妹なのだろう。

ブレヒト版の『アンティゴネ』は、昔一度だけイタリア、シチリアのセジェスタの古代劇場遺跡で見たことがある。ドイツのグループということ以外何の予備知識もなしに見たんだけれど、これのつまんなかったことって群を抜いていた。まあ、その原因の一部はドイツ語上演だったことにあるんだろうけれど、一応はアンティゴネの話だから、ある程度話は分かってはいた。

もっと大きな原因は、ブレヒト的にギリシア悲劇をやるってのは「こういうこと」という先入観から予測される上演スタイルを一歩も離れずに上演されたことにあるんだと思う。

最初にコロスが登場する。コロスは、ギリシア悲劇ではある程度観客の代表で、ブレヒトだからさ、観客の観点から登場人物に対する批判的見解を代弁しなければならない。そうすると、コロスはオルケストラで、観客の視点に立って、つまり観客に尻を向けて、すべての台詞を語らねばならない。

次に、ブレヒトといえば何と言っても「叙事演劇」でしょ、つまり演技様式も「劇的な演技」とは対比的に、観客に語り聞かせるものでなければならない。これはギリシア悲劇に内在していた契機でもある。すると、俳優たちもあまり動いてはならず、というか私の見た上演では脇から登場し、立ち位置で止まってあとは微動だにせず、自分の台詞を分かりやすく、つまり明晰な発音で、ただし観客を巻き込むほどの熱意はなく朗読することになる。俳優たちも別に客席を見るわけでもなければ語りかける相手を見るわけでもない。立ち位置も二カ所か三カ所で、クレオンはスケーネーとオルケストラの境界の真ん中あたり、アンティゴネは右手のエイソドスのあたり。テイレシアスは確か左手から現れたような。で、ある種の幾何学的均整を保ちながらわらわらとテキストを読み上げる、いや忍耐の限界を試されたような観劇体験だった。動きのなさでは鈴木の『オイディプス』と双璧だが、スタイルの快楽がないだけこちらの方が耐え難い。でも昼間に古代劇場遺跡でギリシア劇を見るのは後にも先にもこれが唯一の経験だった。

と、嫌な経験を思い出しつつ、映画が始まったのだが、最初にセジェスタと言うロゴが出てきて「あれ?」と思った。映画が始まるとすぐに思い出した。これは私が見た舞台そのものの映画化だ。

より正確には、私が見たのは映画を撮るための舞台だったということだ。舞台を見たときに、人物が動かないにも程がある、と思ったのだが、映画用の上演だったと思えば納得できる。道理で無料公演だったわけだ。ただし、私たちが見た上演それ自体にはカメラは入っていなかったし、映画にも観客は映っていないので、リハーサルか、あるいは映画のついでに観光局と提携した上演かどちらかなのだろう。上演の主催はトラーパニの観光局。映画ではカメラの切り替えがあるから、舞台ほど単調ではない。アップがあるだけ、アンティゴネーの苦悩は舞台よりは伝わってくるし、コロスも後ろ姿ではなく前から撮られる(時々はオルケストラの地面の絵とコロスの台詞が重ねられる)し、また、上演では無造作なのが気になった人物の出入りも映画では画面に入ってこないので、ブレヒト版アンティゴネーとしてはそれほど悪い出来ではないのかもしれない。しかしカメラの移動やズームは殆ど(全く、かもしれない)ないので、やはり映画としては耐え難いほど単調だった。固定カメラ特有の緊張感もないのは、「叙事的」な演技のせいだろう。どうやらこの動きと緊張感の欠如がユイレ・ストローブのスタイルらしい。

最大の問題は、これは映画としては、舞台上演の記録であるような幻想に依存しており自立したものとなっておらず、舞台上演も映画に撮られることを意識していて(コロスの立ち位置)、それとして自立したものになっていないという点だ。

それでも、太陽が照りつける昼間の古代劇場の雰囲気が伝わってくるところに、この映画の価値があるか。観客がいない劇場の静寂の中、古代風の衣装をつけた登場人物たちは、まるでアンティゴネーたちの亡霊のようで、ある種メタシアター的な様子を醸し出していた。