テアトル・ド・コンプリシテ 『ストリート・オブ・クロコダイル』

98/10/14 世田谷 パブリックシアター

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この演目の標題が取られた作品『ストリート・オブ・クロコダイル』はポーランドのユダヤ人作家・画家ブルーノ・シュルツの処女短編集『肉桂色の店』の一作品だ。

ブルーノ・シュルツは1892年、ポーランドのドブロヴィッチに生まれる。一家はそこで布地商を営んでいた。父親は後に発狂するが、そこに至る過程でさまざまな「数々の奇行を演ずる。熱帯産の鳥類の卵を取り寄せ、それらを孵すことに熱中したり、物質と形態との関係に異常な関心を抱」く。ブルーノ自身は、工作の教師として働くが、独ソ戦によるドイツ侵攻を受け、ドイツ軍が没収したさまざまな書籍の整理を命じられる。そうした日々の中、1942年11月19日、ゲシュタポの兵士に射殺される。小説家としては二つの短編集、『肉桂色の店』と『砂時計サナトリウム』と一つの長編『春』を生涯に残した。いずれも自伝的要素の強い、しかしシュールレアリスティックな作品群である。

この舞台は、シュルツの人生を踏まえ、彼のさまざまな作品からのエピソードをちりばめることで出来上がっている。冒頭、我々が耳にするのは滴り落ちる水の音。薄暗い図書室にはいくつかの本棚。床にも少しだけ本が散乱している。はしご。バケツ。倒れたイス。古ぼけた照明は交差しつつ本棚をぼんやり照らしている。主人公ヨセフは本を整理している。捨ててしまっても構わない本と、保存しておくべき本と。一冊の本には羽毛が挟まっており、その本を手に取るうち、回想が彼を捉える。

回想の人物たちは天上から壁を歩き下り、あるいはバケツから、あるいは水場からはい出してくる。それはヨセフをさまざまな過去の出来事に連れ戻すが、出来事は微妙に歪み、グロテスクになってゆく。その思い出は例えば春の少女との出会いであり、工作の教師としての授業風景であり、鳥の糞によって台無しになる昼食会であり、夏の日のヴァカンスである。記憶の中で、父親は「生命の不滅、物質の変わりやすさ」について何度も語り、その言葉に従って本や人が鳥に変化する。彼自身の固定観念としての脚へのフェティシズム、better halfたる割れた皿の片割れを求める娘との満たされない恋、女中マデラへの欲望も描かれる。記憶の中で場面は納得ゆくまで反復され誇張され、オリジナルの形をとどめない。グロテスクなさまざまな場面は、闊達な身体的演技の中で、ある種の崇高を生み出す。最後に、父親をサナトリウムに見舞う場面と、納得できない父親の死が描かれた後、回想は絶ち切られ、ヨセフは射殺される(但しこれとてリアルには描写されない)。

全体を流れるムードは懐かしさと悔恨の交じり合ったものであり、後半『魔王』が何度も朗唱されると、死のイメージが全面を覆う。

コンプリシテの上演の特徴の一つは闊達な体技、さらにブリコラージュである。天板が開く学校机は、食卓にもなり、楽器にもなる。さまざまな小道具はいろんな意味を持つ記号になる。第二の特徴は多言語性だ。英語を中心言語としながらも、ドイツ語、イタリア語、ポーランド語、フランス語、日本語がちりばめられる。ほとんどの場合、人物や状況設定によって使用言語が変わるのではない。登場人物たちはいずれもポーランドの田舎に住む主人公の家族であり、近隣の人々なのだ。それがさまざまな言語を操る。それだけではない。彼らの英語はとても訛りがある。RSCなどの、「美しい英語」による演技のまさに対極に彼らの言葉は位置しているのだ。外国訛りの英語を新しい芸術言語として確立しようとする試みもここにはある。

演劇の中に多言語性がいかに入り込めるのか、バフチンが否定した可能性は今世紀の終わりに至り、さまざまな戯曲(例えば「彼女が踊ったとき」)や上演(ペーター・シュタインによるロシア語での『オレステイア』)の大きなテーマになりつつあるが、この点でも、もともとイタリア・イギリス・フランスという三カ国にまたがる人々の作り上げたこのグループは最先端にいる。

この劇団は『ストリート』の後、『ルシール・キャブロルの三つの人生』、『家から一人の男が歩きだしてきた』(ナショナル・シアターとの共作)を生み出している。いずれも同じ、追憶がテーマの作品であり、上演の特徴も変わらない。今、追憶が演劇のテーマになるのはなぜなのだろうか。