東京演劇アンサンブルの『アンティゴネ』

で、ブレヒトの『アンティゴネ』は何でないのか?

それは少なくとも、国家の「法」に対立する人間の「尊厳」を守る物語ではない。抽象的な意味での国家と個人はここでは問題ではない。だからこそブレヒトは防衛戦争を侵略戦争に置き換え、国家の正義の問題を戯曲から取り除いたし、埋葬も「神の正義」というレベルから人間の正義のレベルに引き下ろされている。

これはむしろ、独裁者の無法に個人がいかに反逆しなければならないのかの物語だ。個人レベルでの反逆は殆ど常に失敗に終わるだろう。しかしそれしか手段がないときに、人はどう振る舞うべきなのか?

アンティゴネは、舞台上で許された唯一の方法、つまりコロスに向けて語りかける。コロスに自らに加わるように呼びかけるのである。もちろん、それは失敗する(そのことはアンティゴネだって分かっている)。しかし彼女の言葉はコロスにある影響を与えるだろう。

コロスはこの芝居では両義的だ。あるときは超越的な(歴史的に決着のついた)視点から語り、あるときはテバイの元老として語る。しかしそれは殆どの場合ポリフォニックな響きをたてることはない。ほとんど全ての箇所で、コロスの言葉が現代的視点なのか、同時代の視点なのかははっきりしている。だからその演じ分けが必要だと思う。

さて、東京演劇アンサンブルのブレヒトは何度か見たけれど、その度にもやもやが晴れない。ある種KAZEと似た演技スタイルで、日本のブレヒト受容の典型だし、それはある時期のベルリナーアンサンブルの模倣でもあるのだろう。感情をほとんど表現せず、妙に冷めた「異化」した演技。

でも、この手の手法はすぐに使い果たされてしまい、その途端に当初は確かに存在していた効果が失われるのではないか?

この作品を生で観るのは多分二度目だ。最初に観たストローブ・ユイレほど退屈ではなかったが、やっぱりお説教劇に見えてしまう。そしてそのお説教内容は、実際にそうした場に突き出されたときに彼女のように振る舞えるかどうかは「別として」、「分かりきったこと」に見えてしまう。悪いことに、それができないことまで、「分かって」しまうのだ。思考停止という事態は「同化」の演劇とそれほど変わらない。

演出家ではないので解決策が出るわけではないが、普通に観客がアンティゴネに感情移入するようにやるというのが一つの方法としてあるだろう。彼らが使った1951年版の序に従うなら、アンティゴネをショル兄妹たちのように、あるいは戦争中のドイツのコミュニストたちのように、そこに美しいだけでなく後に花咲く死を見いだすのはブレヒトの意図でもあったと思うのだが。あるいは逆にコロスに感情移入するように上演しても良いかも知れない。結末に至って観客は自分がどこで間違っていたのかを考えねばならなくなるだろう。(リヴィング・シアターのように、観客がアルゴスに感情移入するように演じるのは優れた解決だと思う。コロスを含め、テバイの男はすべて観客の「敵」なのである。)