ポリフォニー演劇の可能性 (新転位21 『黙る女』)

私は現代日本の小劇場演劇のよい観客ではない。「いつも見る」と決めているのは、ク・ナウカや黒テントなどほとんど特定の劇団だけだ。山崎哲と「新転位21」の活動については、山崎の雑誌などでの発言から、「犯罪」を主たるテーマにした作品を作る人だ、という程度の認識しか持っていなかった。今回、この上演に行ったのも、その日芝居を見たいと思い、見ることが出来る作品のリストのなかで、たとえば鈴木と対談していた山崎の記憶がよみがえってきたからにすぎない。

なので、下調べをほとんどせずに中野光座へ向かった。当日券なので随分入場が待たされたが、結構良い席(w)に座ることが出来た。始まってこれが「お受験殺人」とかいわれた音羽の幼稚園児殺人事件を扱った芝居だと分かった。ドン引き、というか不安で一杯になる。この事件では、被害者の母親と加害者の感情のもつれが大々的に喧伝されていたし、芝居にすることが被害者の家族への二次加害を犯すことになるのでは?と思われたからだ。

重要な出来事だけを借りて、後はすべてフィクションにする、という形をとることも出来るだろう。その場合、すべての人名も変更することで、作品は事件にinspireされたフィクションになり、作品の人物像を実在の人物と重ね合わすことを予防できるだろう。だが、この上演では、実際に起きた事件の姿を演劇が再現することを目指しているのだろう、加害者の名前も実名を用いている。これは描かれた内容が一定の事実性を持つ、というメッセージとして機能する。しかし、実際の事件についての解明を目指しつつ、被害者への二次加害の主体にならずにおく、というのがどうやって可能なのか?

この問題の解決のために山崎が行った手法は、私の言葉で解釈するならば、「ポリフォニー演劇」である。

冒頭で、主人公である加害者は自分の子供たちとの別れを行う。これから姑が子供たちを実家に連れて行き、彼女は夫とともに自首するつもりなのである。ところが、団地の脇に置かれた自転車を見た彼女は、突然被害者の母親を恐怖と憎しみのまなざしで見ていた状態に戻され、正常な現実判断能力を失い、もう殺してしまった被害者が生きているかのような叫びを上げて舞台からかけさる。

ここで舞台は彼女の犯行直後直後の時点に戻る。保護者たちによる捜索の試み、被害者の親の悲痛な思い、警察の捜査など、さまざまな出来事が描かれて行くが、それらはすべて、ここでは彼女の視点から、つまり彼女が理解し感じた意味と力を持って演じられるのである。ほぼすべての登場人物が、彼女に語りかけるときには怒鳴りつけ、威嚇的な仕草で行動を強制し、プライバシーを根掘り葉掘りえぐり出そうとする。実際の言葉としてはあり得ない言葉や語調、彼女が見ていない場所での同じ登場人物たちの台詞との性格のギャップの激しさ、いくつかの反復手法から、これらの言葉が彼女の心の中に写しだされ、屈折、増幅、歪曲を経た言葉、ときには彼女の心理による捏造さえも含んだ言葉であること、バフチンの言い方を借りれば、「アクセントを移し替えた言葉」であることがわかる。このため、われわれはここで描かれている登場人物たちの言葉が、現実の彼女たちの言葉ではないことを常に意識するのである。われわれは登場人物たちの背後に現実の人々を見ることはない。加害者の意識にとっての現実の人々を見るだけなのである。勿論、見られたイメージの正しさの問題は、どちらの場合にあっても、芸術的にしか解決できないものであるのだけれども。

バフチンは、ドストエフスキー論において、ドストエフスキーの小説がそれ以前のすべての小説とは全く異なったポリフォニー小説になり得た一つの条件として、それ以前の小説では客観的に描写されていた登場人物の性格や特徴の多くが、登場人物の意識のフィルターを通じて描かれるようになったことを挙げている。それは、地の文を通じて行われる作者の声(イデオロギー的な力を持つものとしての言葉をバフチンは「声」と呼ぶ)を、登場人物の意識のフィルターによって「アクセントを移し替え」、いわばそこに二重の声を響かせることを可能にするからである。

これが戯曲では極めて難しい。戯曲において実際に存在するのが対話であることは、戯曲がバフチン的な意味で「対話的≒ポリフォニー的」であることを意味しない。戯曲において対話(登場人物の言葉)は、多くの場合、登場人物の性格や知性を表現するための手段であり、作者はそれらを用いて、自らの声を、圧倒的な力を持つプロットの声と、ジャンルそのものの潜在的な声として響かせるからである(バフチンがアリストテレス的な詩学を前提にしていることに注意)。但し、メタ演劇に、たとえば『マラー・サド』のように、極めてポリフォニー的な響きを持つものが存在することは留保しておかねばならない。

戯曲のレベルではなく、上演のレベルにおいては、演劇はある程度ポリフォニー的であり得る。上演の声と戯曲の声は必ずしも一致しないからである。しかし、上演の声と作者の声が(否定するのではなく)と内在的な深い対話を行っている演劇に出会うことがほとんどないことも確かだ。様式的な演技(鈴木メソッドとかク・ナウカとか)の場合、上演の(この場合は演出家の)声によって戯曲の声は支配される傾向にあるだろう。勿論、鈴木の『イワーノフ』やク・ナウカの『トロイアの女』の場合のように、両者の内的な対話がなされているように思われる場面もあるのだが。

ポリフォニー的演劇にどのような意味があるのかについての議論はまだ詳しく展開することは出来ない。とりあえず、その主たる価値は、ポスト異化演劇にあると言うことができるだろう。異化演劇の限界は全能の作者の限界である。ポリフォニー的な芸術作品の特徴は、「作者の意図」についての議論を喚起しつつその答えは示さない、という点にある以上、この上演で山崎が「言いたかったこと」に入り込むのは止めておこう。戯曲そのものにポリフォニー性を与えるための一つの実験的な手法として、山崎の試みは興味深かった。