劇団民藝公演 アーサー・ミラー 『大司教の天井』

99年6月 新宿・紀伊国屋ホール

演出 米倉斉加年

出演
エイドリアン 里居正美
マーヤ 水原英子
マルカス 米倉斉加年
イリーナ 斉藤彩子
ジーグムント 新田昌玄

舞台は東欧のある国の首都、もと大司教の住まいだったという十六世紀の建物の居間。天井には天使の彫像が舞っている。アメリカの作家エイドリアンがこの国を舞台にした小説に行き詰まり、ここに暮らす友人マーヤを訪問した。

前日訪問した反体制派の作家ジーグムントが新作を暖炉の後ろに隠しているとエイドリアンがふと漏らしたことからマーヤはあわて出す。この司教館の天井には隠しマイクが仕掛けられていて、政府によって会話が盗聴されているとマーヤは告げる。

司教館は二人の友達の作家マルカスの住居だった。マーヤがエイドリアンを追い出そうとしたところにマルカスがデンマーク人の人妻イリーナとジーグムントを引き連れて帰ってくる。ジーグムントの小説は政府によって押収され(ただしエイドリアンの責任ではなかった)、ジーグムントはマルカスの助力を求めにやってきたところ、帰宅途中のマルカスと出会ったのである。

ジーグムントの最近の反体制的言動が問題になり、政府は彼の起訴を計画しており、作品の押収はその前段階であることをマルカスは告げる。彼はおそらく、ジーグムントの亡命と引き換えに原稿を取り戻すことが出来るだろう。そのために、内務長官の娘の詩人アレクサンドラと連絡を取ったところだと言う。

マルカスはジーグムントに出国を強く勧め、その点はエイドリアンもまたマーヤも同じだ。ジーグムント一人が出国をなかなか納得しないが、起訴が迫っているとのマルカスの情報に一旦は出国を決断する。

そこへアレクサンドラからの電話。政府はジーグムントに原稿を返し、アレクサンドラ自身が原稿を持って来るという。意外な結末に喜ぶ一同だが、ジーグムントは結局出国しないことを決意する。

チラシに「ディスカッション・ドラマ」とあるように、ここでは作家と自由、自由を求めるための戦術の問題が五人の登場人物のうちイリーナを除く四人によって縦横に議論される。

しかし、議論にひねりを加えているいくつかの要素がある。

第一は、天井に仕掛けられているという盗聴器の存在。彼らの会話は、常に盗聴器を意識していると言うわけではなく、率直に聞こえる時もあるが、盗聴者に直接向けられた言葉も多く、また、対話相手と盗聴者の両方に向けられたDoublespeak的場面もある。

第二に、対話がおもな登場人物にとっては外国語である英語でなされており(もちろん舞台では「日本語」でなされている)、英語の能力が登場人物によって違いがあることだ。主人公のエイドリアンはアメリカの作家という設定上自然な語り口だが、他の登場人物ではマーヤがかなり流ちょうに語り、マルカスもあまり不自由ではない。ジーグムントは劇中「六歳児の英語」と自嘲するように、語彙がそれほど多くなく、しゃべり方も不自然である。ここに、片言しか言葉を解さなデンマーク人イリーナが加わることによって言語能力の違いはさらに際だつことになる。この点は全員が日本語を母語とする俳優であるにも拘わらず、非常に微妙な点まで表現されていたようだ。とりあえず演出に拍手。

この二つの設定によって、芝居はメタシアター的側面を持つ。彼らはいわば「俳優」なのである。彼らが常に「俳優」であらねばならないという事態が、彼らの状況の不条理な絶望を示している。アーサー・ミラー自身がその一人であった「良心的なアメリカの作家」が舞台の上では盗聴器と同じ役割を果たしている。興味深いのは彼らがいくつかの重要な瞬間に、エイドリアンの現前を強いるということである。アメリカ人は「自由な傍観者」ではいられない。

第三は、マルカスが果たしてジーグムントの側なのかどうか、誰にも判断が付いていないことである。エイドリアンはマルカスが自分のことをあまり喋らず、自由に外国旅行ができることに疑念を持っている。ジーグムントはマルカスがスパイだとは考えていないが、入獄している間に時代遅れになり、「書けない作家」になってしまったことによって自分に嫉妬していると考えている。最悪、彼はジーグムントを出国させたい政府と利害が一致しているかも知れない。マーヤは、盗聴器が存在していること、それはマルカスの黙認のもとで取り付けられたことを殆ど確信している。マルカス自身は、ジーグムントと自分の政府に対する態度の違いを「戦術的相違」として説明する。

アレクサンドラが原稿を持ってやってくることが分かった後、ジーグムントは全員の善意に対する深い疑念に襲われる。最初からマルカスが、彼を陥れるために仕組んだのではないか、この茶番自体が、ジーグムントに亡命という手段で出国させるための陰謀ではないかという疑念である。マルカスはジーグムントが誇大妄想だと難じ、マーヤはジーグムントが敵なしでは偉大な作家でいられないのだと指摘する。この疑念自体全体主義のわなと言うべきだが、深い疑念は彼がより高次の判断から亡命を拒否するためのプロセスになる。ジーグムントはみずからの民族を離れては作家として生きることが出来ないのだ。ただし、この新しい次元の認識が必ずしも十分な重みをもって描かれてはいないところに、おそらく、作品の弱点があるのだろう。

アレクサンドラが訪ねてくるドアのベルが鳴らされて幕。

力作だし、上演も、エイドリアンの言葉がややもたつく以外はあまり欠点が見られない好演。


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