終着駅 アメリカ

フォルクスビューネ・アム・ローザルクセンブルク・プラッツ 公演
原作:テネシー・ウィリアムズ (『欲望という名の電車』)
脚色・演出:フランク・カストルフ
キャスト: ステラ/カトリン・アンゲラー、スタンリー/ヘンリー・ヒュープヘン、ブランチ/シルビア・リーガー、ミッチ/ベルンハルト・シュッツ、ユーニス/ブリジット・タブリエ、スティーブ/ファビアン・ヒンリックス

フォルクスビューネ・アム・ローザルクセンブルク・プラッツ(ローザルクセンブルグ広場の民衆劇場)は、東ベルリンの三大劇場の一つで、92年以降、フランク・カストルフが芸術監督を務める。今回は、「日本におけるドイツ年」の催しの一つとして、彼らが2000年に上演した「終着駅アメリカ」をオリジナルのキャストで上演した。

テネシー・ウィリアムズの『欲望という名の電車』はドイツでは、『終着駅 憧れ Lastplatz Sehnsucht』と訳されている。今回、この作品が『終着駅アメリカ』という題になったのは、ラストのストーリーの変更(ステラの死産)のせいでもあるとポストパフォーマンストークで、Dramaturgのヘーデマンが語っていた。この上演は、1940年代の原作を大きく変更し、時代をロシア崩壊後の現代に置いている。舞台は右側にキッチン左側にベッドのワンルーム。キッチンには安物の対面式テーブルが据え付けられている。左側奥にバスルームがあり、バスルームの様子は内部に置かれたヴィデオカメラを通じて舞台上のテレビに映し出されている。

ポストパフォーマンストークで、ヘーデマンは何度も、原作が浅薄で表面的だと語っていた。確かに、現在になっては、同性愛が原因で自殺する夫や、セックス中毒の未亡人がレイプされて精神病院に入れられるといった話は、それ自体説得力を持たないし、「何をやってるのかなぁ」という印象が強く、いらいらさせる。見るのに気が重い芝居である。

それをこの舞台では、いわゆるリアリズム的演出には目もくれず、ダンス・ソング・ロックを混ぜこむことで、毒が強いが楽しい舞台を作り上げていた。男女三人ずつ、六人の俳優たちは舞台上をはね回り、様々な声を響かせる。ミッチの「ママ」はヒッチコックの『サイコ』のママと重なるが、ただしパロディとしてだ。登場人物たちの状況に最も相応しい声や動きが、彼らの心理とは無関係に、舞台上に提示される。だからここで示される「深さ」は心理のそれではない。ヘーデマンが「表面的」と言ったのは特にスタンリーの人物造型のことみたいだが、もともとポーランド人移民という以外の背景を与えられておらず、彼らへの先入見をそのまま人物造型に取り入れている原作に対して、スタンリーを元「連帯」闘士という設定にして、かれをかなり複雑な人物にしていることには好感が持てる。また、原作の一番嫌な箇所、ブランチの過去をスタンリーがステラに暴く場面は、特に異化効果が強く、読み取ることが出来ないほど速く転換する電飾の説明をステラに猛スピードで読み上げさせる。ブランチとミッチが別れるのかどうかも明らかではないし、最後はブランチの時代がかった台詞ではなく、死産したステラとブランチが二人で同じ台詞を語るように変えられる。

この舞台のテーマは「資本主義と抑鬱depression」だそうで、舞台は特にドイツでも、特にニューオーリンズでもなく、世界中どこでも構わない。アメリカ的資本主義は世界を覆っているのであり、世界はもはやアメリカ化した部分と、まだアメリカ化していない部分に分かれるだけである。アメリカが世界の終着駅なのだ。元東ドイツの劇団にとって、世界のアメリカ化は、一方で自由と繁栄の希望であり、他方で成功しなかったもの、一般の人々の抑鬱という二重の価値を持っている。それは全面的な悪ではない。ただし、それは常にヴィデオが用意されているような世界である。ヴィデオはここでは盗聴や盗み見の装置ではなく、人間がそれを前提として生きる道具なのだ。常にバスルームの様子を映し出すヴィデオは、ステラが産気づくとステラをアップで撮り、ブランチに告白を迫るときにはブランチをアップにする。このヴィデオがとても効果的に「資本主義」を表していた。