ヴォイツェック補足 (実直版)

随分前のことなのだが、最近教えていただいたので...

『商品劇場』の大岡淳さんという人が、私の『ヴォイツェック』の感想文について次のようにおっしゃっています。(http://www02.so-net.ne.jp/~sfujita/yanoz/bbskybs.cgi のBBSの六月二日の投稿。)

> この北野という先生の名ははじめて見ました。
> 実直な人だと思いますが、あまり批評家としてのセンスはないですねー。
> 黒テント『ヴォイツェック』に対する妙な「深読み」を読んで、そう思いました。
> 私なら「これ別にビュヒナーである必然性ないじゃん」でおしまいです。
> 日本のアカデミシャンで演劇批評やる人って、みんな滅茶苦茶評価が甘いん
> ですよね。特に金のかかったスペクタクルを見せるとイチコロっていう。

私が実直であること、大岡さんの目から見て批評家としてのセンスがないことには特に異論はないのですが、演劇学とか美学とかやっている人間と、演劇の実践家との間で、演劇の見かたが随分違うということは、以前から観察していたことです。ぼくは、それは別に構わない、というか望ましいことだと思いますが、その違いには面白い問題があるとも思っています。

これはあるいはぼくだけの話かも知れませんが、研究者は結局歴史的パースペクティヴから離れられないので、上演を、作品の属していた過去とわれわれの現在との対話という観点だけから見てしまう傾向があるようです。「歴史意識」とか「地平の融合」ってやつです。(研究者によっては「われわれの現在」の方を殆ど気にしない人もいます。ギリシア劇の研究者は多くそちらの側で、現代上演は殆ど見ないようです。)これは「原テキスト」への過度のこだわりという研究者固有の態度とも関わるのでしょう。このこだわりは実は奇妙です。演劇は多層的な諸記号の複合によって意味作用を行っているのですから、そこで言語記号だけを特権化する必要はない、という話も成り立つわけです。ま、研究に際しては、上演研究を含めて、言語に特権を与えざるをえないわけで、心理的にはこのこだわりは理解できなくもありません。

他方で、テキストはそういう鬱陶しい理屈とは無関係に「適用」可能であり、観客だって、『紅天女』を見る場合はともかく、オリジナルのテキストが上演においてどのように改変されているのかなどという「文献学的」テーマにはあまり興味がないでしょう。「今、目の前にあるものとしてどのように面白かったのか」が主たる評価基準になるのは当然です。「批評家のセンス」っていうのはおそらくそれを的確に指摘する能力なのでしょう。大岡さんはその能力に秀でた方だと思います。但し、「これ別にビュヒナーである必然性ないじゃん」はイミフメですが...

アカデミシャンの上演への評価が「甘い」ってとこは、私の実感とは正反対です。.....おそらく彼の言う「アカデミシャン」とぼくの知っている研究者は外延が違うのでしょう。美学系の人間と文学系の人間の違いかなあ。