ビュヒナー『ヴォイツェック』

1998年9〜10月黒テント公演 世田谷・シアタートラム

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1996年版に続いて黒テントのヴォイツェックを見るのは二度目になる。今回は、三人のマリーを廃止し、前回よりもヴォイツェックの内面に焦点を当てた演出になっていた。

1821年、ドイツ、ライプチヒの貧しい無職の四十男ヴォイツェックは幼なじみの愛人を殺す。裁判でヴォイツェックは、愛人を失ったと感じたとき、「刺し殺せ」という声が聞こえたと述べる。精神鑑定に当たった医師はその主張を認めず、ヴォイツェックは死刑を執行される。

ビュヒナーの戯曲『ヴォイツェック』はこの裁判にインスピレートされたものだ。この芝居では、三十過ぎの傭兵ヴォイツェックは、医師の実験材料にされ、毎日エンドウ豆しか食べさせてもらえず、徐々に精神の安定を失ってゆく。その安定は、ともに子供をもうけた愛人マリーが同じ駐屯所の「鼓手長」と浮気しているのが分かったときに決定的に崩れる。日曜の市で鼓手長と踊るマリーの「もっとやって」という声は、ヴォイツェックの中に広がってゆき、「もっとやれ、刺し殺せ」という命令になる。マリーを殺したヴォイツェックはナイフを始末するために沼の中に入り、おぼれ死ぬ。

舞台上、真ん中に正方形の演技空間が設定され(但し正方形の舞台は斜めに置かれている)背景には壁とドア。芝居が始まると羽の生えた天使がピアノを弾き始め、それに合わせて道化が踊る。

芝居は、かなりのテキストの変更を伴いながら淡々とすすんでゆく。大きな特徴はいくつかある。

1.原作では、マリーの浮気は上官(大尉)のほのめかしによって発覚するのだが、このヴァージョンではそのほのめかしはない。マリーの浮気は、アンドレアスがヴォイツェックに告げるが、その時彼はすでに浮気に気づいている。

2ベージュの上着と黒スカートのコロスの利用。コロスは、酒場の人々や、祭の見物にもなるが、また、ヴォイツェックにしか聞こえない声、ヴォイツェックの夢の登場人物にもなる。

3ヴォイツェックは溺れ死なず、友人アンドレアスを殺して立ち去る。

この変更をたどると、演出意図はある程度見えてくる。第一は、ヴォイツェックを取りまく人々からの悪意の排除である。エンドウ豆と精神異常の関係、小便を我慢させることと精神異常の関係はそれほど強調されていない。確かに、医者はヴォイツェックがおかしくなってゆく状況を観察し、現代の精神分析の用語を用いて記述するが、意図的に陥れているとは見えない。彼らは、ヴォイツェックの状況を理解できない人間、むしろこっけいな道化役の雰囲気が強い。96年版で、最後に二人の遺体を解剖する医師の描写はかなり残酷なものを感じたが、今回は彼らの残酷は常に滑稽でくるまれている。

コロスの利用によって、テキスト上はヴォイツェックと外界との接触であった部分の多くがヴォイツェックの内面世界として描かれることになる。象徴からリアリズムへ。

我々は精神の均衡を失いつつある人間をどこまで理解できるのだろうか。アンドレアスの態度は、好意的な友人としては望みうる最高のもの。にもかかわらずヴォイツェックは許すことが出来なかった。ここには問いがある。この、最後に唐突に挿入されるアンドレアス殺しは、あるいはヴォイツェックの内面世界なのかも知れない。もう戻れないところまで来た人間の世界。好意的でありながら、決して自分のことを分かってくれなかった人間に対する復讐の欲望だけが提示されているのかも知れない。

演技に関しては、黒テントの人々は堅実。斉藤晴彦は達者だがさすがに三十歳には見えない。鼓手長役の張春祥は中国人の元京劇俳優。バイリンガルな演劇の可能性もある程度開拓している。マリーの西山水木は平板。悩む場面のわざとらしさは白けさせる。ヴォイツェックがマリーを殺害する場面で、その直前まで幸せそうな表情だったのが救いに見えた。コロスは沖縄民謡から社交ダンス風のダンス、ポリリズムの現代音楽まで多彩にこなす(ただしどれも、そんなに難しいというものではない)。

道化カルル(竹屋啓子)のゆっくりした身振り(ダンス)は独特の魅力があった。