エウメニデス(シアターΧ)

アイスキュロスの『エウメニデス(慈みの女神たち)』は単体で上演するのはとても難しい芝居のように思われる。早稲田の、「現代演劇上演データベース」を見ても、96年にUniversity Witz(詳細未知)の上演が記録されているだけだ。ただし、鈴木の「悲劇〜アトレウス家の崩壊」にはエウメニデスからかなりの部分を取っており、その復讐女神たちの大きな乳房を強調した恐ろしい扮装と激しい言葉遣いはとても印象的だった。2005年の静岡春の芸術祭でのMs. No. Timeによる『慈みの女神たち』が鈴木の『悲劇』の構成を随分取り入れている点はすでにここで述べた。バートン版の『グリークス』は、三部作から『アガメムノン』と『コエフォロイ』の一部を取りあげるが、『エウメニデス』は無視している。、

海外では、最近『オレステイア』三部作の上演が結構流行っていて、ちょっと古めのところでは、カルロス・クーン、ペーター・シュタイン、ピーター・ホール、ケイト・ミッチェル、アリアーヌ・ムヌーシュキンが取りあげ、最近では、数年前にギリシア国立劇場が、今年はシャウシュピールフランクフルト(カリン・ノイホイザー演出)が、エピダウロスで『オレステイア』を上演している。

私が生で見たことがあるのはこの中で鈴木版、Ms. No Time、ペーター・シュタインのロシア版の三つだが、ヴィデオでは、ペーター・シュタインの旧版、カルロス・クーン、ピーター・ホールを見ている。ムヌーシュキンは『アガメムノン』しか観ることが出来なかった。

さて、ギリシア悲劇の研究者が上演に積極的に関わっているピーター・ホールとムヌーシュキンのものは別として、それ以外の上演は、エウメニデスという作品に苦労していた。特に最後の和解の場面が皮肉になったり(シュタイン、Ms. No Time)、逆転したり(鈴木版ではオレステスはクリュタイムネストラの亡霊に殺される)、また全体に大幅なカットでまるで後日談のようにすませたり(クーン。シュタインも短かった)。

エウメニデスという作品の機能自体、流血の連鎖に何らかの形で決着をつけること、オレステスの行為を五世紀のギリシア人の観点から捉え直すことが問題になっており、どちらも現代的にはどうでも良いようなテーマだ。

よく知られているようにホメロスではオレステスの行為はあっぱれな誉れとして言及されており、そこに復讐の女神が介入してくるためには、人間の行為がより内面化してゆくプロセスがなければならない。エウリピデスでは総じてオレステスは悪党であり、母殺しが不正であることはオレステス自身にとっても疑いがないものだとされる。それは神が人に押しつけた悪なのだと。

数十年しか違わないアイスキュロスの時代の人々にとってはどうだったのだろうか。

市民の投票が終わり、開票が始まる前にアテナは次のように言っている。

最後の判決は妾(わらわ)の務めである。妾(わらわ)はこの票をオレステスのために投ずる。妾(わらわ)を産んだ母はないのだから。妾(わらわ)はすべて、婚姻に関するほかは、衷心より男子を重んじ、一切父に左袒(さたん)する。されば、家の主人(あるじ)たる夫を殺した女子の死をば重視せぬ。もし票が同数ならば、オレステスの勝ちであるぞ。」(内山敬三郎訳 以下も)

アテナは最後に投票し、それを入れて投票は同数になった。同じようなことがむかーしうちの大学の学長選挙でもあった。まだ、文学部だけの単科大学だったとき、学長の決定権が教授会にあって、複数候補がでた。第一回投票でどちらも過半数にたらず、第二回投票で、慣例に反して旧学長が投票権を行使し、新学長が決まったことがある。

おぉ、エウメニデスみたい、と思ったのだった。

さて、うちの選挙と違って、アイスキュロスの場合には、アテナの票を加えた結果賛否同数だったのでオレステスの勝利になっている(この点を否定する議論がギリシャ研究者の間でもかつては優勢だったが、彼ら自身の家父長的偏見をアイスキュロスに投影していたり、あるいはアイスキュロスを勝手にセクシストに仕立て上げたりしているだけで、話にならない。)。つまり、市民たちだけの判断だと一票差でオレステスは有罪であり、アテナはその判断を一人でひっくり返したのだ。その理由も、「自分が」母を持たないため、男子の味方をするというものだ。「人間」の基準ではまともではない理由によってオレステスは放免されたことになる。

ここに、納得のいかない神話とのアイスキュロス的な付き合い方があるように思える。人間としては、自分の理性的な判断は犠牲にして、神のこの判断に従わざるを得ないのだ。アテナがちゃんとした理屈を作っていないところがむしろミソなのである。この場合のちゃんとした理屈とは、アポロンがオレステスを弁護して言うような「子供の母といわれている者は、生みの親ではない。新たに宿った胎児の乳母に過ぎぬ。男親こそ親で、母と子は互いに他人で、女親はただ、神の害(そこ)ないたまわぬ限りの若芽を保護するだけのものだ。」という家父長制ばりばりの主張で、これを人間の陪審員は認めないのである。理屈ではなく無茶を言う神の権威を認めることで、神話と折り合いをつけたのだ。

しかしそれでは納得しないのがコロスだ。復讐の女神たちよりなるコロスは神であって、この決定は自分たちの存在意義に関わる。血縁は愛し合うべきだという太古からある法は、すべての人為的な法よりも強く、それらすべての根拠になるべきものだ。それをゆるがせにするなら法そのものが打ち壊れてしまうだろう。神は神には手を出せないが、それを受け入れた市民は人であり、神の怒りの対象になる。怒り狂ったエリニュエスは市民に呪いを吐きかけ、この国を滅ぼそうと脅す。市民たちの投票ではオレステスが有罪だったにもかかわらず、だ。

それに対して、アテナは彼女たちの説得を試みる。

アテナとコロスのやり取りは四度に及ぶ。

一度目は彼女たちの住まい、つまり神殿をつくることで彼女たちを慰撫しようとする。「汝らこの国に対して怒ることなかれ。その激怒を止めよ。神々の毒液、人類の子種子(こだね)を害する瘴癘(しょうれい)の気を発して、この国をして不毛ならしめるな。妾(わらわ)は汝らに厳正に約束する。汝ら、輝かしき神爐(しんろ)の傍らに正義の隠棲の座を得て、この市民らの尊信を受くるならんことを。」これにはエリニュエスは納得しない「腹中より毒血を、/応報の毒血を、/国土を不毛ならしむる毒液を、浴(あび)せ、/これによりて、葉を枯らし、子種を害する悪疫は――/おお、よき見せしめぞ――地を覆いて、/人類滅亡の汚穢(けがれ)をこの地に投ぜん。

二度目は新しい祭祀と奉献の約束だ。「妾(わらわ)と並び坐して尊信を受くる者となつて、闇の荒波の激しき勢いを鎮めよ。この広大なる地の初穂を、子種と婚姻の儀式とのための貢(みつ)ぎを、爾今、末長く受くるに及んで、汝、わが言をうべなうにいたるであろう。」自分たちが侮辱され軽んじられたことへのエリニュエスの怒りはおさまらない。「我をなみして、神々の/あらがい難き術策は、/古き誉れを我より奪いぬ。

三度目は、約束としては新しいことが付け加わっているわけではないが、アテナによるエリニュエスへの尊敬が公言されている。「汝 の憤りは無理ならず、妾(わらわ)より年長けし汝なれば。また、そのことよりして、思慮においても、汝は妾(わらわ)より大いに優るならん。しかしなが ら、ゼウスは妾(わらわ)にもしかるべき智恵を授けられた。汝、他種族の国に立ち去るならば、この国を慕い求むるであろうぞ。」具体的な見返りのない言葉だけの尊敬には当然彼女たちは納得しない。二度目とまったく同じ文句が繰り返される。

二度繰り返される呪いから、エリニュエスの怒りが、自分たちの地位が軽んじられたことによると見抜いたアテナは、四度目になって、エリニュエスたちに新しい役割を約束し、その役割によって市民の尊敬を受ける新しい神になることを提案する。「汝はこの国土を別(わ)け持ち、すべてにおいて正当なる尊信を受くる者となるべきであるゆえ。」只ひたすら人間に恐れられ嫌悪される狂気の神だった彼女たちにとって、これは新しい申し出であり、これがエリニュエスを動かす。「【コロス】アテナ殿、わしがどんなところに棲むことになるとおっしゃる?/【アテナ】一切の苦しみ悩みのなきところ。汝、応諾せよ。/【コロス】で、承知したら、わしにどんな栄誉がある?/【アテナ】  汝なくしては、いかなる家も繁栄せずという――/【コロス】わしに、そんな力があるようにしてくださるか?/【アテナ】帰依する者には、幸福を授くる。

ここにあるのは、力を前にしたタフな交渉だ。勿論、アテナの側も無力なわけではなく、エリニュエスと同等以上の力を持ってはいるのだが、しかしそれは人間である市民を守るに充分なほどの力ではない。自分の愛する人間とその国を守るために、アテナは「説得(ペイトー)」に頼る必要があるのだ。

エリニュエスは結局その役割を受け入れ、こうして、「慈みの女神(エウメニデス)」という新しい名前と役割を持つ神、アテナイの守護神の一人になる。

この作品は、オレステイアの結末としてではなく、単品の作品として見たときにどのような上演の意味があるのだろうか。

おそらく、幾つかの伝統的な文化が共存している社会では、古い文化を何らかの形で新しい社会に尊重しつつ受け入れねばならないというメッセージとして意味を持つだろう。たとえ彼らが、その社会の主流の人間にとっておぞましく見えたとしてもそれを抑圧してはならないのだと。

たとえば演出家の祖国イスラエルのように。

でも、古い価値の正義の方を信じるならば、あるいはそうした衝突と融和の可能性がそれほど切実でない社会では、この作品の上演意義そのものが疑われることになるだろう。

例えば日本のシアターΧの人たちのように。

今回の上演は、谷川渥の新しい翻訳を用い、イスラエルの演出家と日本人スタッフの二年半にも及ぶほとんどけんか腰の議論を経て実現したものだそうだ。イスラエルの演出家の視点からすれば、パレスティナ人と重ね合わされるエリニュエスをそれほど見端恐ろしいものにしたくないのは良く分かる。

他方、日本人スタッフの目には、そういう重ね合わせそのものがイスラエル人の傲慢を示しているように見えるだろう。そのあたりの対立がパンフレットの対談に良く現れていたように思う。

今回の上演は、そうした緊張を含んだものであり、演出家と演技者の作品に対するスタンスのズレも効果的に働いていたと思う。とても面白く観ることが出来た。しかし、原作の意味をもう少し深く考えるために、アイスキュロスの研究者も参加できればよかったのに、と思う。彼らは結構、ギャラなしでやってくれるような気がする。

但し、上に述べた作品の根幹に関わる点で翻訳は原作から離れていた。アテナは市民たちと同様には投票しないし、自分で変な理屈を述べることもない。アテナが無罪に入れる理由は分からないままだ。市民たちは観客から選ばれるので苦しまない。それならば最後のエリニュエス→エウメニデスの変身を、もっと皮肉たっぷりに、アイスキュロスに対するアンチテーゼとして(言いくるめられたエリニュエスを赤い布で椅子にぐるぐる巻きにして縛り付けてしまうペーター・シュタイン版みたいに)やったらいいと思うのだが、イスラエルの演出家の意図とはそれははずれてしまう。

出演者ではアテナが見事。演技がどうのこうのよりも、人間離れした美しさを良く表していた。エリニュエスが怖くないのは演出家の意図通りとしても、少なくともオレステス(と投票するアテナイ市民)にとっては恐ろしい存在だと観客に納得させて欲しい。アポロンは普通。私の趣味からすれば真面目すぎる。