女の子たちはオイディプスの悪夢を見るか
―山の手事情社の「オイディプス@Tokyo」―

いや、リドリー・スコットのファンだから、似たような題のページが近所にあっても気にしないことにして、で、これにフロイトは「んだ」と答えたんだけれど、そりゃどう考えても変だわ、って「エレクトラ・コンプレクス」ってのを作った弟子がいた。そういえばク・ナウカの『エレクトラ』には、クリュタイムネストラがエレクトラに「この子ったらいつまでもエレクトラ・コンプレクスから抜けない」と言う台詞があって、かなり受けた。しかし、最近では、ソフォクレスの『オイディプス王』自体、オイディプス・コンプレクスとは無関係って考える人のほうが多いだろう。

確かに、オイディプスにオイディプス・コンプレクスは潜在意識としてもないだろう。でも、フロイトのオイディプスとソフォクレスのオイディプスは確かに男の暴力性、ロゴファロなんたらを共有しているのであって、山の手はそこに焦点を合わせることで両者を繋ぐことができ、「女の子の悪夢としての」オイディプスを描きうると思ったのかなあ、この上演を見たときの第一印象は、「やっぱ女の子にオイディプスは無理なんじゃないの」だったんだが、その「無理」を狙った上演だとしたら意味合いはずいぶん変わってくる。

全体は三つの部分に分かれる。女の子たちの東京の部分、ここでは同居している女の子たちの日常生活が前後の脈絡なしに切り取られている。劇団員の即興から生まれた寸劇もそこに含まれる。飯の食い方といい、性的隠喩といいここは結構下品だ。第二は彼女たちの見る「夢」の場面、これはソフォクレスのオイディプスが、福田訳かなあ、きわめてクールな訳で進んでゆく。山形訳も良かったがこれもなかなか…。第三は女の子たちを悪夢へと引きずり込む男たちの暴力の場面。かなり悪意が前面に出ているようだ。

オイディプスの話はほとんど強ばった一本調子で演じられ、女の子が考える硬直した男のあり方がそこに現れているのかもしれないが、ぼくには演技が硬直しているようにしか見えなかった。もう少し「女」でやれないのかなあ。でも、この強ばりがあるからこそ、すべてを知って破滅した後、しかもなお知ろうとすること、知ることが彼の全存在に関わっていることを明らかにする、『オイディプス王』の最も重要な台詞、「オイディプス」という名前にもかかわる、「だが私は知っている(カイトイ・オイダ)」で始まる台詞が、強ばりを取り去った、彼女自身の「女」の語り口で語られるとき、その対比は場面の悲痛さを増す。ここは感動的だった。

また、伝令の場面の能天気なテレビレポーター風も実はギリシア悲劇のひとつの側面を図式的だが良く伝えている。ある研究者によるとこの伝令の場面にギリシア悲劇の起源と本質が凝縮している。それはもともと見世物小屋の奇術、からくりを本質としており、観客は死んだ神の姿をトリックによって覗き見るのだ。その口上が、悲劇が発達してからも「伝令の報告」の形で残っているのだとすれば、観客はその場面をわくわくしながら固唾を飲んで待ち受けていたので、伝令は観客の期待を煽らねばならない。

全体として、「面白かったか」と聞かれると面白くはなかった。オイディプスの場面は長すぎるし、生真面目で単調に過ぎる。しかし対比の趣向、女の悪夢としてのオイディプスという発想は、私の読み込みすぎかもしれないけれどかなり良いし、何度か上演を重ね、角が取れるならとても面白いものになると思う。まだ趣向が生で見えちゃって、それが見ていてつらかった。

2004年ヴァージョンを見ての追加。

基本的には上のヴァージョンと同じ印象を持ったが、ずっと面白くなっていた。その一つの理由は、ルバムも、現代東京の場面も整理され短くなったため、オイディプス物語の枠組みとしてすっきりしたこと。第二には、女の子たちの「オイディプス王」が力を持ってきたことである。「角が取れて」きたと思う。

ただ、最後に置かれた男の説教はつまらない。こんなメッセージを聞かなくてすむように演劇があるのではないか。