山の手事情社 トロイアの女

2003.06.01 シアタートラム(三軒茶屋)

前回の『オイディプス@Tokyo』と異なり、今回はエウリピデスのテキストにほぼ忠実に(一部サルトルも使い)『トロイアの女』を舞台化した上演だ。動きは例によっての山の手事情社で、きびきびとした速い運動とマニエリズム的(荒木飛呂彦的?)造形との組み合わせ。彼らがルバムと呼ぶ短いダンス的シークエンスも勿論登場する。今回も登場人物たちは運命によって舞台の中に強制的に「置かれ」、登場人物になる。オイディプスの場合と違い、今回は衣装をつけられることによって、その役を引き受けるのであるが。

さて、衣装やヘアスタイル、造形や運動の趣味についてキッチュだと言ってもそれは僕の主観的感想に過ぎないと言われればそれまで。アテナとポセイドンは子供向けSFの悪の首領みたいで笑っちゃいそうになったけれどこういうのが好きな人はいるだろうな、ってのは分かるのでそれはそれで良いことにしよう。

「山の手」は台詞が下手、ですましても良いような内容だったが、もう少し詳しく感想を書く。

この芝居は、相互に関連はあるものの直線的に進んでいくわけではない一連の嘆きによって構成されている。そこには劇的な進行も、劇的な葛藤もほとんど存在しない。すべての場面は同じ一つの状況の不条理を際だたせている。主人公のトロイア王妃ヘカベは、カッサンドラの不幸、ポリュクセネの死、アンドロマケの絶望、孫アステュアナクスの処刑という不幸を次々と経験する。フィナーレはアステュアナクスを悼む葬送の嘆きだ。ここでは彼女には主体としての行動はない。娘たちが不幸を嘆く間、彼女はそれを受け止めて、自らの絶望のうちに積み重ねて行くのである。個人はそこでほとんどな彼女に行動が与えられるのは、その不幸の源としてのヘレネを巡る争いにおいてだが、それに(全く不条理に、つまり理屈においては彼女が完全に勝利しているにもかかわらず)敗れる。

それでも、各場面の焦点になる女たちはそれぞれの主張と訴えを持ち、それらを伝える台詞はソフィスト的な理屈で溢れている。自らの死を予感するカッサンドラは、国を守るために戦って死んだものの幸福と侵略戦争で死んだものの不幸を対比し、アンドロマケは婦女の徳のむなしさを論じ、ヘレネはパリスとの出奔がアフロディテという神の強制である以上自分に責任はないと論じる。これらの議論の背後には五世紀における論理や弁論の発展があり、ペルシア戦争の葬送演説や、ゴルギアスの『ヘレネ讃』が直接に響いている。

問題は、一貫した筋の統一を持たないという意味ではギリシア悲劇のなかでも構成的にアルカイックで、かつ肝腎なときにソフィスト流の議論が展開されるという意味ではモダンなこの作品をどうやって一つの演劇として提示するか、ということだ。「様式化」という便利な言葉で表されるような表現スタイルによってギリシア劇の異質さを際だたせる、というやり方はこの芝居に関してはうまくいかない。『トロイアの女』はそうしないと我々が同化してしまえるような「演劇」になっていないからである。どう演じようと違和感ありまくりなのだ。そして嘆きと理屈の奇妙な共存は、エウリピデスにとって、アテナイによるメロス島民の虐殺という、同時代のきわめてショッキングな事件にたいする告発の手段であった。で、誰がどうやるにせよ、この作品は、良かれ悪しかれ、同時代の同じような出来事を参照させるものになる筈、なのだが... 昔話、ある劇団で誰かが『トロイアの女』を演出したというだけで、保守ばりばりの劇作家から(Fのつく人)「アカ」呼ばわりされたとか。

構成と内容のこの矛盾をどう活かすかが上演の大きな問題になる。詠嘆調で通すとソフィスティックな部分に違和感があり、新劇は感情同化に(例によって)失敗する。現代風(昔エピダウロスで見た北ギリシア国立劇場)では、各場面は生きてくるが、全体を統一するヘカベの絶望の深まりはなかなか表現できない。ヘレネとの場面を除き、ヘカベは一貫して受動的である。しかし彼女はその絶望の深まりによって、劇全体にトーンを与えているのだ。

今回の上演は、運命が人物を舞台に置く、とか、タルテュルビオスに著しい異化の演技は、それ自体としてはさほど効果的ではなかった、と思う。しかしヘカベを除く登場人物たちにはまだ独自の主張なり色調が見いだされた。弱く卑しいいメネラオスの描写は表面的だが分かりやすいし、ヘレネはそれなりに魅力的。カッサンドラの演説もまあ聴かせる。アンドロマケの子別れは、子供を布きれで表していたためもあってあっさりとしすぎだが、それも我慢しよう。最悪はヘカベで、最初から最後まで同じ調子。「いわゆる」様式的演技。台詞と動きを外から造形しているのだろうか。「こう動いてこういう風に喋って...」その点ではやり方としては伝統芸能と同じなのだろうが、型の種類が限られているようで、「絶望からより深い絶望へ」が表現できていない。かといって、ヘカベの「様式」に現代に訴えるものがあるわけでもない。ルバム、音楽、ヴィデオなどの表層の現代性(おっされ〜)が作品の現代性と結びついていないのである。