YokastaS
La Mama Experimental Thetre Club

作 Saviana Stanescu, Richard Schechner
演出 Richard Schecner

キャスト
Yokasta: Tracey Huffman
Yoko/ Medea: Suzi Takahashi
Yoyo/Phaedra: Kilbane Porter
Yono: Rachel Bowditch
Laius/ Oedipus/ Medea: Christopher Logan Healy
Singer/ (Musical Director): Meg Leary

新劇が上演したギリシア悲劇がなぜつまらないか、それは古代を近代人の心理に中途半端にひきつけて合理化しようといるからだ。ギリシア悲劇の登場人物たちは、自分をおそるべき行為に駆り立てた心理を我々が納得できるほど説明してくれるわけではない。行動はむしろより一般的な原理で正当化されている。ここで問われるのは心理であるよりもむしろ、人間のあり方そのものであり、心理主義的方法は古代ギリシアの真理を矮小化するように感じられるのである。だから行動や人物に力を与える何らかの様式化を、ギリシア劇の上演は常に必要としている。

でも様式志向の上演には、様式そのものを独自の美学として押しつける危険が常につきまとう。こちらのほうは、メデイアやオイディプスの個別の状況を古代や未開社会、儀式性についての一般的な観念の表現に置き換えることになるだろう。様式的な上演によって我々は確かに何かを体験する。しかし何かを「理解」しているのだろうか。今度は古代の異質性だけが際だつことになる。

La Mama E. T. C.のYokastasは二つの主張を持っていたようだ。第一は脇役でしかなかったオイディプスのイオカステを「主体」としてとりあげようというフェミニズム的な試み。考えてみればイオカステ(Yokasta)もとても興味深い女性だ。自分の子供を夫に殺され(たと思っている)、その夫が死んですぐ次の夫を迎え(それもとても若い)、それが死んだはずの自分の息子だと分かる。彼女のドラマはオイディプスのドラマに劣らない。彼女を表現するためにこの戯曲では四人のYokastaを登場させる。元気印少女(Tomboy)Yoyoは自分をむしろスペースオペラの不死身のヨカスタと同一視している。成熟したYokoは人生を楽しみたい。妊婦のYonoは母としての落ち着きを示す。この三人を背景にYokastaのドラマが展開する。彼女は自分の子供を殺したライオスとの結婚よりも、むしろ若く、前向きなオイディプスとの結婚の方を肯定している。四人の子供は幸せの象徴でもある。オイディプスが彼女の息子だったとしてもその幸せは変わらない。夫が別人になるわけではない。この芝居は二部に分かれ、どちらもインタビューから始まるが、そこで「君に二つのニュースがある。良いのと悪いのだ。悪い方は君が自分の子供と結婚してセックスするってことだ。そしてそれは14年間、つまり5130日続くだろう。Z」というゼウスからの手紙を読み上げた彼女は訊かれる。「で、良い方は何なんだい。」「え、今言ったこと、14年も続くってことに決まってるでしょう。」だからこのイオカステは自殺しないし、オイディプスが目をつぶしたことも(芝居の冒頭のこの会話では)否定している。「でもオイディプス君は自分で目を見えなくしたんでしょ。」「たしかに。人前に出るときにはサングラスをかけてたわ。」

第二は彼女を徹底的に現代の我々に引きつけて理解しようとする反様式主義的な主張である。「悲劇の受容」コンファレンスにやってきたシェクナーは自分たちの試みがadaptationではないと主張する。ギリシアがどうのこうのってのは関係ないんだって。だからここにはコロスも、韻文も仮面も登場せず、登場人物たちが歌うのは『ウェスト・サイド・ストーリー』の I Feel Pretty (歌詞のMariaはYokastaに変えている)などのミュージカルナンバーだったりする。登場人物たちも徹底して現代的だ。

でもこの「現代」はフロイトではない。大体フロイトではイオカステは男の性的「対象」でしかない。むしろフェミ以後の現代であり、文化的にはアメリカだ(作者の一人はルーマニア系。彼女がフェミを、シェクナーがアメリカを担当してるのかな 実際はもっと大勢のワークショップの中から出てきた構成とのこと。)。深さを嫌う現代アメリカがどこまでギリシア神話とつきあえるのか。第二部の冒頭では妊娠八ヶ月のYonoが赤ん坊のAntigoneを抱きかかえてテレビでインタビューに応じるが、そこでは神話の不合理も嘲笑の対象になる。前王が死んですぐに再婚ってどんな気持ち? 二三日しか経ってなかったんでしょう? 大体オイディプスって名前は変じゃない。「膨れ足」ってニックネームなら分かるけどさ。生まれたときに膨れてたの? じゃないとしたらその前の彼の名前は何だったの?

この芝居の第一部はライオスとイオカステの不幸な結婚生活を、第二部はオイディプスとイオカステの出会いと幸せな結婚を描く。だから問題になるのは『オイディプス王』のラストだ。この結末は正しいのか。自分の運命を呪うオイディプスの台詞、コロスの退場歌の最後「人の幸福と不幸は死ぬまで分からない。だからその人が墓場に行くまで、彼を幸せと呼ぶな」は、引用符付きで(Quote~Unquoteという台詞が入る)演じられ、この結末について、あるいはあるべき正しい結末について観客と一緒に議論がなされ、二時間の舞台は終わる(ただし客の議論は私の回ではひどかった。「母は特別だもんな」「そういやマドンナも母親だったよな」「どっちのマドンナもな」って落としてどうする。おまえも客だろってのは無しね、外国語だし...)

シェクナーがDionysus 69以降ギリシア劇とどうつきあってきたのかは知らないし、35年前と同じ趣向をするはずもないが、現代に可能なギリシア理解を探求するという姿勢は同じなのだろう。69年にはそれがヒッピー(花子)文化だったし、2003年には都会的スノブ+フェミだ。ちなみに、自殺しないイオカステや、自分で目をつぶさないオイディプスはLa Mamaの独創ではない。ク・ナウカのオイディプスでも母は子を連れて旅立つ(この意味合いはかなり違うが)...などと知ったかを言わなくてもすでにエウリピデスの『フェニキアの女たち』がそうだ。ソフォクレスの『オイディプス王』はオイディプス物語の確かに一つのヴァージョンでしかない。そして問題はこのヴァージョンが圧倒的で抑圧的な力を持ち続けていることにある。それはソフォクレスの頃からそうで、彼の『コロノスのオイディプス』はしばしば『アンティゴネ』とともに「テーバイ三部作」と呼ばれるほど彼の『オイディプス王』と整合的だ。

現代は、『オイディプス王』にソフォクレスとは違った結末を与えることが出来るのか、自分に責任のないことで破滅することを正当化しない解があるのか、この上演が提示するのはそういう問題なのだろう。

追記:シェクナーは92年にPrometheus Projectってのをやった。そのときは『縛られたプロメテウス』と地球環境問題を絡めたそうな。