ダンスの経験(批評) 
これまで演劇理論研究会のHPに書いたものを、加筆修正してここに載せることにしました(修正途中のものあり)。

2001.8.9〜2002.2.27


黒沢美香《薔薇の人  蝸牛の激情》


大野一雄《花》


室伏鴻(白雉際にて)


ソロ・アンソロジー


手塚夏子


《室伏鴻vs山崎広太》


ニブロール《コーヒー》初演


ルーデンス《Distance》


トップページに戻る
黒沢美香《薔薇の人  蝸牛の激情》
(@テルプシコール、2001.8.9)


五十分程の中編といった今回の作品の最大の見所は間違いなく冒頭にあった。真暗な中、ゆっくりとした動きであらわれたのは、七、八本のイカの足のような緑色した蛍光の帯だった。闇の中にゆらりゆらりと帯が歩いてゆく。しばらくしてそれが皺のある白スカートの膝下につけられていたものと判るのだが、光る帯は、薄闇からかすかに見える頭部の異常に盛り上がった(映画「エイリアン」を思わせる)足下にまで垂れた白髪とともに、奇妙な「非人間的」な身体のイメージを薄闇にさらした。「ここにいるのは人間?」と疑いたくなる恐怖の物体だった。

そして次に黒沢は、舞台の中央にしゃがんだまま執拗に静止し続けた。

無音のまま(仄かに地響きのような振動がする、会場脇を通る電車の音か)、何ら動きらしい動きのない時間の中、ぼくの眼は、そこにいる異物にぐいぐいぐいぐいひきつけられる。しばらくすると、異様なからだが発する「もの」の力それだけではなく、そこに起きている微小な動きもみとめられるようになり、さらに眼がそれに吸い込まれ離れられなくなる。背筋、腕、頭部、暗がりにあらわれるからだの各部が、静止のなかに様々な動きを包蔵しているのが次第に見えてくる。それは豊かな静止の身振りだった。

その後の幾つかのシークェンスは広い意味では「踊り」と言えるものだった。残念ながら、そこには昨年の《薔薇の人−Roll−》などで見たアイロニカルな動作(すかし・ぼけ・ずれを含んだ動き)がほとんど受け取れなかった。美しさを目指しているわけではないとはいえ、隣接する身体各部が(滑らかと言ってよいほど)連続した動作でゆっくりと動いてゆく。その動きの「必然性」は、たしかに、からだの潜在的可能性をおびき寄せるのが上手い、黒沢らしい身体感覚のあらわれとみることもできるだろう。けれどもそんな自分のもつ一面さえ潔くひらりと裏返す身振りもまた彼女の魅力、希有な魅力ではないか。今回、こんな「特殊黒沢的」要素が垣間見えたとするならば、唯一、必然的な動きの繋がりのなか不意に床を「ココン、コン」と叩く、その仕草と響き位だったと言うべきだろう。

続くシークェンスには、アップテンポの曲で踊る場面があり、さらに途中からあらわれたシロクマの縫いぐるみを着て弦楽器を弾く男を背後にし、黒沢が舞台奥の部屋で静かに踊って締められる。最後に再び闇、最初の蛍光の帯がまた奇怪な姿でふわりとユラめいて終わった。

トップに戻る



大野一雄《花》
(@パークタワーホール、2001.10.23)


観客はいったい何を見たのだろう。多くが公演の合間に熱い拍手を送り、涙を流したあれはいったい何だったのだろう。あれはダンスだったのだろうか。それとも大野一雄という歴史的舞踏家の最後の公演を祝うためのイベントというべきか。この公演の質はどのような位置から語られるべきなのだろうか。

観客が四方から取り囲む小さな黒い正四角形の舞台に、静かに車椅子に座ったまま大野一雄は息子大野慶人とともに登場する。曲が流れ出し、さしあたり手と腕だけのダンスが始まる。何度か大野慶人が背中を抱えるようにして立たせようとするが上手くいかない。

手と腕だけのダンスは、基本的に玉のようなものを「つかみ」「放り投げる」動作、放り投げた後にその余韻をあらわしているのか手をひらひらと「振る」動作、これらで構成されている。時折、つかんだ玉のようなものをスーツの胸の辺りに隠したり、逆に隠していたものをゆっくりと取り出したりする動作や、花をもち肩を上げながらはにかむ少女のような動作、また天井へと腕を伸ばす動作などが曲によって特徴的に用いられたりする。これらの動作をもはや寝たきり老人一歩手前の身体が担っていく。それはとぎれとぎれで不十分で未完成だ。墨を切らした筆のように、動きはかすれて、もはや伝えたいことが伝えたいようには描出されていない、という印象を受ける。それは痛々しい。観客が一般に、共通にもっている身体感覚にもはや適っていない。だからそれは美しくない。でもそれだからこそ一層それは神々しいとも言うべき印象を与える余地を開きうるのかもしれない。

観客が今日の大野のダンスをダンスとして見たのだとすれば、そしてそこに何か感動があったとすれば、この老体の悲惨に、運動の美から見放されようとしている不自由な身体の有様に、独特の感興を看取するということであったのではないか。過去の大野のダンスを経験した者であればなおさら、そこまで届かない今の表現に、そこにあるはずの表現を重ねたりしつつ、そのずれから老体のはかなさともでも言うものを感じ取ったのではないか。ひょっとしたらここからダンスにおける老体の問題を考えるヒントが生まれるかも、と思った。だがほんとうにそこまでも今日の舞台が達していたかいささか疑問の残るところではある。

そうはいっても今日の公演は異常な盛り上がりを見せた。冒頭から涙をぬぐう人の姿があらわれ、一時間ほどの公演中ずっと最後までこの涙は途絶えることがなかった。老若男女が涙を流し続けた。このことをどう捉えるべきか。この涙の意味は何か。これはダンスへの感動の、あるいはダンスする(できない)老体の悲惨への涙なのか。それとももはやダンスとして見る云々ではなく、この老人の生きて何かしてくれていることを愛したいとなぜか強く思ってしまった、ということなのか。あるいはもはや彼岸に片足を踏み込んでいる老人への何とも形容のしがたいホスピタリティが喚起された、ということなのか。懇親会で舞台の中央に座る大野に観客が詰め寄り取り囲んで、握手を求め、声をかけるなかで、ある婦人たちはキスを老人に送っていたらしい。そんな心情からも明らかなように今回の大野の舞台は、作品の内実よりも大野への「好き」の気持ちを観客が満足行くまで解放するイベントだったのだ。それは永眠の一歩手前の「最期の午睡」イベントだ。つねにこれが最後と言われ続けた大野の公演のほんとうに最期の夢・まどろみに僕らはつきあった。この「最期の午睡」(これもまた彼の死の一歩手前まで繰り返されるかもしれない)につきあうというイベントだったのだ。それはつまり残念ながらダンスの公演ではなかった。

トップに戻る



室伏鴻
第49回武蔵大学白雉際
《おとの空間−おどる詩・詩うからだ−》
(Allnight Poetryreading Vol. 6@武蔵大学大講堂、2001.11.3)


発せられれば伝わるものとの安易な信頼から舞台におかれる言葉や美しいまた激しい身振りをすれば価値があるとの誤解から生まれた甘えの動きは、競演する言葉や動きに断罪された。長丁場の一見でたらめのようにも思える詩人、ダンサーの競演、共作のそれぞれは、そこに生まれたさまざまな時間と交差し、入り交わり、互いを刺激した。

このような詩との交流の場におかれたとき、室伏の舞台は、明らかに言葉との格闘なのだと強く認識させられた。室伏の舞台は言葉の問題なのだ。

けれども今回強く感じたのは、室伏の呼吸とそれにともなって生まれる呻きの魅力だ(だから前段落で言った「言葉」とはちょっと違うことを書く)。何かが起こるその「起こる」ことを怯え、また待ちわび、耐え、あきらめ、またよろこぶ声。「クアアアアッ」「ウァエッ」「アッ」。奇声は、室伏の身体のなかで何かが起こっていることを伝える「ドキュメント」のような働きをしている。その意味で室伏の声は彼の凶暴な身体からは数ミリだけ離れている。このわずかな距離が舞台をクールにし、また緊張感を生み出す。この身体と声の関係を「劇画的」といったら誤解だろうか。室伏舞台の美意識を傷つけるだろうか。それでも僕には、それは登場人物の具体的な語りを伝える「吹きだし」ではなく、背景のなかにとけ込んでいる「キーン」とか「ズババババ」とかの言葉がもつ絵との関係に似ているように思われて仕方がない。室伏のドラマ性、かっこよさ、しばしば彼に対して人の洩らすエイリアンという言葉の響き、それらはアクション劇画的だ(といったらやはり言い過ぎかなあ)。

そしてこのうめき声は独特のリズムがある。呻き、「ンァア」、そして倒れ込む、「ドン」。壁に頭をぶつけるときの「ゴン」という音は、その一呼吸手前で発せられる奇声「アー」と独特のリズムをつくる。一種、それは能舞台の音楽がもつリズムに似ている。見ている僕はそれをこう受け止めているように思う。呻き、「ンァア」(ここに一瞬の間、緊張が走る、見るものの呼吸が止まる)、そして倒れ込む、「ドン」(ここに沈黙の時間が一瞬の無が生じる)。今回、軽快という意味ではなく時間制作の巧みさ(緊張と興奮を生む)という点で、室伏の舞台はリズミカルだと思った。

トップに戻る



北村明子と白井剛
《レニ・バッソ×珍しいキノコ舞踊団×発条ト ソロ・アンソロジー
(@天王洲スフィアメックス、2001.11.10)


北村明子の作品「dovetail」は演奏家粟津裕介とのコラボレーションという体裁にはなっている。舞台には二つの丸テーブル(青と赤)が平行に置かれていて、テーブルにはさわると音声が出るパッドが三枚張ってある。トークショーを模したナレーションが「自己紹介をお願いします」などと言いながら、その言葉とはあまりかみ合わない、ずれたアクションを、−ただしパッドには「こんにちは」などというようなまったくはずれてもいない言葉が用意されてもいるのだが−起こしていく。

ただこのような作品の外枠などはほとんど問題ではなかった。ただ僕は北村の体の動きにただひたすら魅せられてしまった。「よく動く」「速い」「なめらか」などの形容は、彼女に当てはまりはすれ陳腐で不十分だ。何でただ(特定の物語などあるわけでも、身体の物理的な極限に迫っているわけでもなく)身体が動いているそれだけでスリリングなのだろう。こちらは興奮させられてしまうのだろう。体が動くときには、五体の成り立ちから言って、出した手足は引っ込めなければならず、その限界内にもちろん北村の体もあるのだが、無数の細部が果てしなく動いているのでその限界が無限に分節化されている。見ていて一瞬こっちの体が強力に痙攣してしまった。これは僕にとってほとんどバリの舞踊を見るときにだけ起きる希有な事態だ。バリの舞踊では、身体のあらゆる部分が(両手両足、首、両目、唇、腰、腹、頭の金属の揺れる装飾それぞれに)ばらばらに動き、その統御システムが一個の人間レベルのものとはとても思えない、あたかもコンピューターで自在にプログラミングされているかのような感じを受ける。それはいわばデジタル的でメタリックな感触だ。僕がこれと(与える具体的イメージはまったく異なるが)ほぼ同じことを北村の身体の動きに感じたということだろう。頭でおどる身体をなぞることがもはや不可能なのは当然としても、見ている身体の方もまったくその身体に共鳴しきれずに痙攣を起こしてしまう。NBAの妙技や世界陸上などを見てもこのような感動はあるかもしれない。そこにはつまりダンスとか、芸術とかいう枠を取り外してしまってもまったく問題なく残る、純粋に身体の動きを見る喜びがあったということだろう。


白井剛の踊りを見るのは今回で二回目だ。以前も感じたことだが、白井の柔らかいひらひらと動かす手の動きは、内側の感覚を丁寧に読みとろうとする模索の動きだ。足もそろそろと踏み出される。激しくはない。外へ思いがはき出される(expression)というよりは内に動いているものを確認しているような印象(impression)についてのダンス。メトロノームを調整するときに左胸に手を当てているところを見ると、心臓の鼓動のリズムを確認し、それが体の動きの出発点になっていた。その音(ただこれはあっという間にねじ巻きバネがのびきり止まってしまう)と時計の音とが彼の唯一の随伴者となる。説明づければ、自分の体内時間と世界の時間との静かなコラボレーションと言うことか。迫力に欠け、次々と服を脱いでいくところなどは理解不可能だったが、ダンスの中のこまかな試みは心に残った。

トップに戻る



手塚夏子《偶然の果実42》にて
(@大倉山記念館ホール、2001.12.11)


今日で手塚夏子のダンスを見るのは二回目だ。こう書きつつ彼女のしていることを「ダンス」と呼ぶのにためらいを感じる。今回見たのは「偶然の果実」という即興を機軸とする企画のなかでなのだが、そこに出演した手塚を除く五六人のダンサーの動きはそれぞれ内実は異なりこそすれダンスと呼ぶのに躊躇する必要はない。でも手塚の動きは他の誰とも圧倒的に違っていた。いわゆるダンスとは言いにくい彼女の動きは、しかし充分に興味深く魅力的であって、だからそれをあえてダンスと呼んでみると、ダンスの概念を拡張する視点が開かれてくるような気がしてくる。

前回彼女を見たのは《私的解剖実験地図》(@Design Festa in原宿、2001.11.28)という個人公演だったこともあり、他のダンス(ダンサー)との比較をすることは思いつかなかった。今回彼女の出演した「偶然の果実」は、一人一曲を基本にして次々とダンサーが入れ替わる構成で行われた。その構成だからこそまた際だったとも言えるのだが、手塚は彼女の前後の(またすべての)ダンサーとまったく異なっていた。その違いを一言で言えば、その他のダンサーは基本的にひとつの重心をもった身体をひとつのものとして動くのに対し、手塚の身体はひとつの身体として統合されることがなく、ただ部分が−見ている側からすれば−他の部分との関わりをあまりもたずに勝手に動いているというところだ。基本的に正面を向いたまま動かず、顔はまっすぐ前を向き眼は表情をもたずにただ見開かれ、両腕は観音仏のように緩やかに曲げられ、両足は軽く広げた姿勢を保っている。動きは、ひとつの身体という単位でなされることはなく、もっと細部、腕と言うより手また指、さらに指の関節のなかにあらわれる。驚くのは、足の指もひとつの動きのパートになっており(はいている靴下は五指を包むために分けられた物を用いている)、それぞれの指も個々に自分の動きを主張していることである。腰の辺りに重心を置いたいわゆるダンスによっては、足の指の動きなどほとんど注視されることはないだろう。また大抵のダンサーは靴を履いていて、指の動きを呈示することはない。それは当たり前であって異常なのはもちろん彼女のほうである。けれどもそれは見る者にとって十分に新鮮なアイデアだった。かかとで立った状態によって足の指は自由を得る。その代わりいささか不格好であることを余儀なくされているものの、手塚の身体は、別種の魅力を獲得する。それぞれの部分は解放され、その自由を謳歌するように饒舌に語り出す。 この「身体の語り」はよく言えばポリフォニック(多声的)、悪く言えば混乱、狂乱の体をなす。でもこの狂乱は僕には痛快だ。派手さはない、だが、静かにバラバラになっていく彼女のからだは、ダンスが求めるあるひとつの(ただししばしば忘却されたままの)路の上にしっかり立っているように思われる。蛇状線を描く優美な舞踊が「人間性」の感性的表現としてあったとすれば、手塚の試みにはそれとは別種の可能性、他なるものの表現の媒体として支配されることをやめて、身体それ自体が語り出す可能性がある。

それを例えばベンヤミンがシュルレアリスムに期待した身体の可能性に類比的だとしてみよう。ベンヤミンはシュルレアリストたちの試みのなかに、「自我」などという統一の契機を克服して、「ひとつの行動自体がイメージを自分のなかから現出させ、それ自体イメージであり、イメージを自分のなかに巻き込んで食らうところではどこでも、(中略)イメージの空間が開ける」、そんな革命的な瞬間を見た。身体空間とも言い換えられる「この空間では、政治的唯物論と肉体被造物とが、内面的人間とか魂とか個人とかその他それらに属する、普通なら私たちが非難したくなるものを、弁証法的な公正さに従ってあらゆる部分をばらばらに引き裂いたうえで、共有することになるのである」。非人間的と言うべき強烈な断片(部分)の肯定、手塚の試みに僕が夢想するのは、この革命的な肯定へのかすかな手触りなのだ。

この僕の「私的」夢想が手塚自身の意図(「私的解剖実験」)とぴったり符合しているかどうかは分からない。また符合するとしても取り組むべき課題は多く、いまだその可能性の鳥羽口に立ったばかりだというべきだろう。けれども、数多あるダンスとは恐ろしくかけ離れた異界で踊る彼女の身体に懸ける期待としては、この「人間学的唯物論」(ベンヤミン)は多分全くの見当違いということにはならないだろう。

*手塚夏子評については、JCDNにて掲載されている「解剖のダンス−手塚夏子の作品世界」もご覧下さい。
トップに戻る



《室伏鴻vs山崎広太》
(@DIE PRATZE、2001.12.28/29)


「ダンスがみたい!3」番外編として急遽企画されたこの二人の「20分×3ラウンド即興ダンスバトル!」は、山崎、室伏のそれぞれのソロの後、デュエットへと進んでいった。この二人の戦い、一言で言えば、室伏の方法を独自に解釈した山崎が本家へのずるい反則攻撃によって負けるが勝ちしてしまった と言う感じだった。

室伏の方法(山崎が受け取ったと見られる)とは、ダンス(舞踏)にダンスではないものを呼び込むことだ。ダンスでないものとは例えば、言葉以前の単なる「かすれ声(喉の奥に力を入れると出る「クックッッ」などの)」「奇声(息を吸う時に出るような「キー」などの)」や、またそれ以外の微細な身体の動きのなかの「ダンスの外部」と呼ぶべきものが挙げられる。だがその最も端的な例として先ず挙げるべきは「言葉」だ。

室伏が緊迫した時間を引き裂くようにふと洩らす「言葉」の力を、山崎広太は独自の解釈で模倣してみせた。それはまさにダンスの空間に外部を持ち込むこと、しかもそれがダンスの時間を脱臼させる仕掛けとなることだった。

二度誰もいない舞台にライトが明滅した後、赤い巻きスカートに上半身は裸、額を血のような赤で塗った山崎が登場する。柔らかで速い腕を中心とした動きに魅了される。時々見せる手を強く硬直させた格好やうつろな目は舞踏を想起させた。でもどこか違う。違和感が残る。山崎の動きは舞踏の要素を意識させつつも、より柔軟で優美で見ていて気持ちがよい。ある時室伏のパロディの如き後頭部からの転倒をし、その後赤子のような姿勢をすこしする。これが舞踏としては様になっていない。「立てない体」を動いてみるのだが、その立てない理由がこの体にはない。さて、このまま「舞踏としては不十分な、でもダンス自体としては十分魅力的な20分」ということで終わるのか、と思ったら・・・

照明の様子が多少変わって突然、彼はしゃべり出した。最初の言葉は「音お願いします」のように聞こえた。すると「ノー」「ネッ」「ちがうちがうちがう」などと次々と。どうも音響の人との会話らしい。ダンスの緊張がこの「ちがう」にかき消される。これがホントの失敗なのかコントなのか分からない。でもこの「ちがう」という言葉が山崎の戦略の一部であることは間違いない。こんなすれ違いが何度か繰り返され、またどこに発せられたのか不明な言葉が舞台に置かれていく。でも意図は明らかだ。山崎はダンスのなかにダンスの緊張を解く爆破装置を置いてみようとしているのだ。

このコントのような時間の後も山崎はダンスをした。ただもはやそれは最初のダンスとは意味が異なっていた。もはや何をやっても「Butohのパロディ」としか思えない。山崎はダンスをしつつダンスを放り出してしまう。脱ダンスのダンスとでも言おうか。

次の室伏の舞台はいくつか予想外のところがあった。まず黒いシャツにズボンを穿き肌をほとんど露出していないことだ。シアタートラムなどで見せたあの銀色に光る身体を見る者が期待していたとすれば、その予想を彼は余裕で裏切った(ただし、12月22日に巻上公一等と競演した「クチノハクリスマス」のときにも肌の露出はほとんどなかったが)。また今日の彼はとても静かだった。「凶暴な室伏」「エイリアン室伏」というもはやありふれた先入観も通用しなかった。言うなれば憑依したものがトラではなくネコだったという感じか。いやこういう姑息な直喩は控えるべきだろう。静かな照明も落とした舞台で僕の印象に残っているのは、彼の低い声の響きだ。かすれた「ハー」「ンンンン」という声。それは身体の動きと微妙に絡みつつ(呼吸のなかで出てくるものとしては同調しつつも)、別種の存在のように空間に置かれていった。

ソロの最後、舞台の左前にある柱に、ネコのように頭をなすりつける姿から、ゆっくりとしゃがみ込んだ後、突然すっくと立ち上がる瞬間息をのむような時間が流れた。室伏は観客の意識を集中させる強力な磁場となる力をもっている。このような異常な集中があってこそまた彼に独特な「言葉」の威力も生まれるのだ、と思った。

さて、室伏が舞台に残ったまま山崎が衣装を変え(赤いシャツに黒のストライプの入った赤いトレパン)あらわれると、突然第一声に、「室伏のオヤジよう、銭湯いかない?」。この言葉からはじまる山崎の戦略は一貫していた。それは室伏のダンスの時間の外部に自分がなること、しかも室伏のダンスの時間をそれによって脱臼させてしまうことだ。山崎は「今日の室伏さんノってますねえ」などとぼやいて、室伏の身体が静かに集中していくプロセスを破壊してゆく。何かそれは誰もが気づかなかった室伏の急所を一人責め落としているが如く、次々と決まっていく。それはお笑いの言い方で言えば説明するつっこみだ。室伏は自分の時間を作ることが出来ず、ただちょっかい出してくる山崎に苦笑するばかり。たとえばそれは舞踏の公演に突然小学生の団体が見学にきたみたいだった(「おじちゃんなにやってんのー」とか言って突っついてくるような「ガキ」を連想してほしい)。確かに舞踏というものは冷静に考えれば「なにやってんのー」と突っ込みたくなるようなところがある。ただし踊る者と見る者とが一緒になって舞台に集中するからこそ、そこで踊りまたそれを見る空間も生まれるのだ。山崎がしたことは、その空間の創造に爆弾を仕掛ける「ガキ」の悪巧みだった。

この方法は、芸術史的に位置づけようとすれば、古代ギリシア喜劇の方法、「パラバシス」に起原があるということもできる。ポール・ド・マンが(『美のイデオロギー』のなかで)論じたことで知られるこの概念は、そもそも初期ドイツロマン派のシュレーゲルが掘り起こしたものだ。ド・マンの議論は彼のパラバシス解釈への再評価としてなされたものである。それはシュレーゲルによればパラバシスとは、「[喜劇]作品の途中で合唱隊によって詩人の名で民衆に向かってなされる語りである。実際それは作品の完全な中断、破棄である。そこでは、最大の放恣が支配し、プロセニアムのギリギリの境にまで歩み寄ってきたコロスによって民衆に最大の罵詈雑言が語りかけられた」。作品のなかに作家の顔が現れてしまうこと、しかもその作家が観客に語りかけてしまうこと、それをギリシア人は「パラバシス」と呼んだ。多少の違いはあれ山崎の試みは、このパラバシスの側面をもっていた。つまり彼はいわば今回のバトルで「作品の完全な中断、破棄」をやろうとしたのではないか。

この方法は危険だ。上演している当のものが目の前で破壊されてしまうのだから、見ている者は、それまで参与していた空間を失ってしまう。自分はいったい何を見ていたのかと自問せざるを得なくなる。それは舞台に集中していた自分を突然鏡で見せつけられるようなものだ。そして舞台に立つ者も同様の危機に立つことになる。「場つなぎでも言葉が出てこないな」「どうしていいかわかんなくなっちゃう」(山崎)「ダンスにならないじゃないか」(室伏)のぼやきは、もはや何もなくなった舞台に何を置くことも出来ないことへのあがきのようなものだったのかも知れない。

山崎は室伏の「言葉」の方法をこの「パラバシス」として受け取って本家に投げてみた。でも室伏自身は「言葉」によって舞台空間に外部を持ち込むとしても、作品自体を完全に壊す方向へ向かうわけではない。それはむしろいわば共存の方法ではないか。「言葉」によって身体は空間の唯一の支配者であることをやめさせられるが、その存在が否定されるわけではない。このことは室伏が他の出演者と競演する場合にも言えることだと思う(ex.「クチノハクリスマス」)。それに対して山崎の言葉は室伏の身体を止める暴力だった。それは室伏の生み出す密度の濃い時間を解体してみせるパフォーマンスとなった。室伏の「声」や「身体」は、有機的な連関を失ってただのパーツとなってボロボロ崩れていった。

山崎はさかんに「ちきしょう」「負けました」という言葉を連発した。そんな言葉を舞台にばらまくことで山崎は、場外乱闘に持ち込み「負けるが勝ち」をした。けれどもそれは姑息なガキのたくらみと言うべきだ。室伏を攻めるとしたらこの方法、と思ったのかも知れないが(それには確かに室伏が崩れるという希有な瞬間を目の当たりにさせた功績はあるが)、それによって共存の空間が生み出されることなどなく、あるのはただ何も出来ない二人の男の棒立ちだけということになってしまった。

◇◇◇

トップに戻る

今日(12/29昼の追加公演)は、昨日とはかなり違っていた。山崎の後半の言葉は単純に音響の問題であったらしく、今回はまったく言葉はなく、その分充実した作品となった。内容はほとんど変更がなかったが、腕を中心としてくねくねと滑らかに速い動きは圧巻だった。見ていてまったく飽きなかった。また後半の横の壁に向かうシーンは、ドラムンベース系の音楽にぴたりとはまった軟体動物のようなダンスがすばらしかった。その後のダンスはやはり舞踏のパロディであったのでは。突然正面を向き白目剥きだして笑うところなど、「ブトー面」やってますという感じだったし。そうだとして今回の場合その流れがスムーズで楽しめた。

室伏は僕が今まで見たなかで最もよかった。基本的には昨日と同じく静かな動きが中心なのだけれども、その微弱な動きに今日はどんどん引き込まれてしまう。声があがるとそれに僕の呼吸も吐いたり吸ったり同調してしまう。もはや身体が室伏に占領されてしまったようだ。それは恐ろしくも魅力的な時間だった。今日も最後は柱とのからみだったが、突然「柱が食べたい・・・」と言ったと思ったら本当に柱を噛みだした。噛んでいるキリキリという音まで聞こえる。ひとしきりやると、「ビン・ラディンの味がするぜ、今年は・・・」。この最後の爆笑もよかったが、それまでの緊張した時間が本当に凄かった。

そして最後の競演も今日はかなり昨日と様相が異なっていた。昨日は山崎の「ガキ」のつっこみが結局ダンスする身体を根こそぎ奪ってしまっていた。今日は室伏とすぐに絡もうとはせず「パッと花が咲いて、行き交う人のなかに道のなかにひとつ針があったんだよね・・・」などという独り言とともにくねくねとひとり踊りはじめた。今日も言葉は互いに発するのだが、それが相手の動きを止めることはほとんどなかった(時々苦し紛れに出る山崎の挑発−突然叫んだり、意味のないことを話しかけたり、壁をばんばん叩いたり−は、先生に気にして欲しい小学生のようだったが。この点に関しては、どうも関係が−山崎が室伏を「オヤジ」と呼ぶ仕方にも出ているように−並行的(対等)にならないのが残念だった)。二人のダンス(舞踏)の特徴は対照的だ。山崎が速く滑らかなのに対して、室伏は基本的には遅く静かな微動を中心とする。だからどうしても室伏が集中して静止(微動)しているときには、その周りをうろうろと山崎が絡むということにならざるを得ない。つまりテンポの違いが絡みを難しくしているわけだ。それに対して早速変化を見せたのは室伏だった。フッと割り切って珍しく速い動きで山崎に応えようとする。それに連関して、今日の傑作のひとつは室伏のいわゆる「ダンス」が見られたことだ。腰が柔軟に動いて、つま先で立ってリズムを作る感じが独特で気持ちがよい。室伏が歩み寄れば、山崎も室伏の手を広げ「キー」と叫んで体を硬直させるのを向かい合わせで真似てみせる。そのレゾナンスは本当に面白かった、興奮した。また昨日はただの「室伏のパーツ」と化してその意味を失ってしまった「転倒」も今日はきまっていた。山崎の大声に対して、室伏も手を振り下ろして「ワアアッ」と声を張り上げたが、山崎のが奇声ならば、室伏のは物理的な力をもった暴力となって、瞬間山崎の動きをとめた。それはまるで「気功」のようなサイキックな力を感じた。

山崎がねらっていたのは今日のような空間だったのではないか。山崎が派手に背後の壁に体をゴンゴンぶつけると、室伏も頭を壁に二度ほどぶつけた。そこはベニヤ板なのだが最後にもう一度室伏が固い横の壁に頭をぶつけると鈍い音がして倒れ伏した(実際すごい痛そうだった)。その時山崎が「大丈夫?」と室伏にかけた言葉は今日のひとつの象徴と言えるかも知れない。この言葉は二人が協働して舞台を何でもありの空間にしようとしていることのあらわれのように思われた。

グループでの即興は今年何度か見た。見るたびに難しさばかり印象に残った。一人がきちんと個であることをやめずにしかも他者と関係を生み出していくことは、思うより簡単ではない。「クチノハクリスマス」は、対等な関係が成立していて緊張感のあるバトルになっていたが、共演者は「声」や「笙」だったりして身体の絡みではなかった(それでも巻上公一やローレン・ニュートンの声を出すときの身振りはそれとして面白いところがあり、それから出る波動も室伏を触発するものだったろうが)。二人が仰向けに体を開いた状態で互いの足のひらを合わせているとき、何を二人は感じていたのだろう。きちんと二人の人が「出会う」と言うことはなかなかないのだ。日常生活ではたいてい社会的に決まった型を取りだしてきて何となくその場をやり過ごしているもので、それはおそらく即興的なダンスの場面も同様だろう。山崎が室伏と出会うためにやろうとしたことは、室伏と彼の背景にある舞踏を模倣してみること、そして模倣するなかで彼と出会いつつそのなかに起こる自分のダンスとの偏差を当人にぶつけてみることだったのではないか。それが多少「小学生」的な挑発を含んでいたとしても、また互いのダンスのもつ本質的なズレが出会いを困難にしたとしても、その困難な出会いそのものが舞台にさらされた時の興奮は凄まじいものがあった。こんなに踊れる二人がこんなに四苦八苦して進めようとしている時間に感動した。凄いものを見てしまったという衝撃で僕はしばらく会場を出ても放心していた。

トップに戻る



ニブロール《コーヒー》初演
(@パークタワーホール、2002.2.23/24)


ヒリヒリするような経験だった。新作『コーヒー』には、人と人とがすれ違う、その瞬間への切ない感情が溢れていた。『駐車禁止』はこの接触のフリクションを互いに向けた激しい暴力の光景として描き切ろうとしていた。それと比べると、この作品の登場人物たちは、相手の感情が入り込んでくる隙間を自分のなかにもってしまっている。それは相手への穏やかな感情移入ではない、もっと激しい感情。ただ自分の欲望を他人にぶつけるだけでは済まない何かが登場人物のなかに生まれてしまっているということ。纏まりのつかない、相手と自分のあわいを漂うしかない思い。そうなっただけひとりひとりの孤独感はむしろ増している。「人と人との関係には暴力的なところがある」というそんな生やさしい発見じゃなくて、「関係というものはそもそも暴力でしかない」という事実、このことを知ってしまう悲しみがひとつのポエジーとしてこの舞台全体を貫いていた。

ウェディング衣装のような白い服を着た男女が舞台横から並んで歩いてくる。立ち止り、Vサインで女が「2!」と掲げた後、見つめ合う二人はキスを交わす。けれども二人の唇には女の手が挟まれていて、女はその手についたものを服で必死に拭おうとする。背後のスクリーンには海鳥が飛ぶ。舞台はこんな光景から始まる。その後女は「1!」と人差し指を突きだし、男にいらつき反発し逃げ出し暴れ出す。途中から二人の間に無関係の三人目の男が現れる。お互いの意思はひたすらすれ違いつづける。新婚旅行のトランクを女が男に向かって放り投げると、二人の間をたまたま走り過ぎようとした三人目の男に当たってしまう。女が男に投げつけた感情は理由もなしに三人目の男が抱え込むことになる。

受け取り手を間違えた感情があてもなくさまよう。感情の誤配。そうとでも呼べるような出来事が舞台の至るところで起きてゆく。例えば、別のカップル、結んだ髪を女がほどくと男は「オイ!オイ!結べよ!何やってんだよ、やめろよ!オイ、オイ、早くしろよ!」と女に怒声を浴びせかける。だが怒りの感情は相手の女ではなく、この声の向かう先にたまたま居合わせた男(これもさっきの三人目の男なのだけれど)が被ってしまう。怒声に感応して勝手に怒られたと誤認したこの男は、無視する二人にまとわりついて、「ごめんなさい、ごめんなさい」と何度も謝り土下座を繰り返す。

感情はこうしてもつれ絡まり、行き先を見失ったまま舞台に漂う。伝えるべきところに伝わらない感情、受け取るべきではない人が勝手に引き受けてしまう感情。確かに感情には人称がはっきりしないところがある。誰の感情なのか誰への感情なのかわからなくなるときがある。そんなことを考えるといつも思い出す個人的な記憶がある。小学生の頃、ある日の全校集会、ぎゃあぎゃあと悪ふざけをやめない生徒に級長だった僕は業を煮やして手を出した。叩かれたのは相手なのに叩いた僕の方が「痛い!」と声を漏らして涙を出してしまった。相手の感情をなぜか僕が受け止めてしまったのだ。僕のなかで叩く感情と叩かれる感情はもつれ絡まり合い暴れるのが抑えきれなくて、やるせない気持ちでいっぱいになったのを覚えている。僕の涙を僕は誰にも説明することが出来なかった。その切なさも強烈だった。僕のなかで起きている感情の主体は誰なのか。僕のなかに複数の人間の感情が境界の曖昧なままに入り交じり、涙を流して震えている僕に的はずれの慰め言葉をかける先生の感情も擦れあって、そこにはただ留まるところのない幾つもの感情の幽霊が漂っていた。

僕のこんな経験を重ねてもよいのなら、『コーヒー』には、叩き叩かれる感情のフリクションと、その接触について誰かにうまく語れるような形をもてずにいる悲しみとの両方が、見事に形になって舞台をうごめいていた。

*ニブロール評については、JCDNにて掲載されている「駐車禁止」もご覧下さい。
トップに戻る



ルーデンス《Distance》
(@パークタワーホール、2002.2.27)


僕は今回ルーデンスをはじめてみたのだけれども、基本的にはコンタクトインプロビゼーション(contact improvisation)を舞台化した作品というものだった。僕はこのCIというものをよく知らないのだけれども、今回見て、いろいろと思うことがあった。それを一言で言えば、自由を生む規則は同時に不自由も生んでしまうのでは、という疑問に集約される。

ひとつの規則というかアイデアを決めて、そのなかで、二人なり三人が自由に相手との関係を展開してゆく、そのようなシークェンスの集合が作品を構成する。規則というのは例えば、二人の男女がいて、相手に「見て」といって顔を自分の方に向かせるが同時に自分はそっぽを向く、というものや、バスで隣り合った男女がちょっと相手に自分の体が当たると「すいません」と言うとか、そのようなもの。そんな一定の規則に基づいて、ダンサーは相手への接触を交互にどんどん繰り返してゆく。そこにバリエーションが生まれて、動作はエスカレートしてゆく。それは見ていて確かに面白くはある。「今度はどんな風になっちゃうんだろう」という期待が膨らんでくる。そんな期待は、規則を軸にした自由な空間が舞台に出来ているからこそ生まれるものだろう。

けれどもどこかよそよそしさが残る。その原因はひとつに、規則のなかで自由を許されたダンサーが同時にその規則に対してはとても従順で、よくコントロールされていて、その規則自体を何か別のものに更新しようとする意志はなく、またそんな瞬間も作品のなかに用意されていない、ということにある気がする。ダンサーと規則との遠い距離が、見る側と舞台との距離感に反映されてしまう。まったく無規則な場所で人と人とが出会うのは、とても難しい。互いの言語を解さない者同士が、意志疎通を図ろうとするときなどを想像してみれば分かるだろう。それはそうだ、けれどもただ規則のなかで相手との会話が成立しても、規則がもてあそばれているだけでは、互いが「接触contact」しているということのスリルは少ない。少なくとも見る側のスリルは乏しい。ただパスを繰り返していても、ゴールは奪えない。サッカーに喩えて言うならそういう感じか。こういったところから、自由を与える規則は他方それを逸脱する自由を奪う、という考えが浮かんでくる。

また別のよそよそしさの原因には、ダンサーたちの芝居がかった動作があるように思う。コミカルな身振りとかは、見る側にある種のわかりやすい楽しみを振りまくことにはなるわけだけれど、そうすることで動作のなかに「わざとらしさ」のヴェールが覆い被さってしまう。それによって、それぞれのダンサーが実際に相手と接触しているという現実感やスリルが消えてしまう。CIとその舞台化には互いを相殺してしまうところがあるのでは、ルーデンス作品を見る限り、僕にはそう思えた。

トップに戻る