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ダンス美学研究(西洋編)
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宇野邦一『アルトー 思考と身体』(白水社、1997年)について
宇野は、本書「第一部 思考不可能をめぐる詩学」を書きはじめる際まず、アルトーが陥った「思考と身体の麻痺や石化の状態」にまなざしを固定する。この「硬直」した身体には、「さまざまな力がひしめいている。むしろひしめく力の衝突が、表出の機会を見出せないで、このような硬直を作り出しているのではないか」(22頁)。ならば、「精神と肉体の結び目をほどき、もう一度結び直さなければならない。硬直し、麻痺し、崩壊した思考は、繰り返し、石として打たれ砕かれ、そのとき同時に思考の変形が、あくことなく探られ、試みられる」(22頁)。これがアルトーの身体論であり、宇野のアルトー論である。 アルトーが遭遇したこの「硬直」の危機は、優美な動きをあらわす身体が精神ともつ関係と対照的な関係にある。アルトーの身体はあらかじめ、思考と身体とが調和している優美な動きに阻害された状態にある、と言えるからだ。このようなアルトーの「硬直」した身体は、宇野によれば、力と力がひしめきあいながら表出されることなく留まっている状態として、優美な身体とは別種の可能性をもつ。それはまず、「止まってしまった自動人形」のようなアルトーの身体のもつ批判的機能、「調和のとれた有機的結合」が「いわば贋の自動性」であったことを暴き立てる機能として示される。 「思考する自動人形にせよ、思考不能に陥った自動人形にせよ、アルトーは思考の場で自動人形を繰り返し発見しながら、いわば贋の自発性を暴き出そうとする。アルトーが発見し、記述する彼自身の肉体にほかならない自動人形は、身体、意識、精神を定義する様々な境界や輪郭を貫通するようにして立っている。身体と精神との、調和のとれた有機的結合は、空虚や石化の状態のなかで停止している。自動人形は、あらゆる自動性を規定している区分や結合や並行のシステムを停止させる。「観念は、単なる物体の組み合わせにすぎない」とアルトーは書く。身体も精神も、ばらばらな部品の集積のようにみつめられる。身体と精神という分割そのものが、自動性を停止し、贋の自動性として現れる。」(31頁) 「硬直」した身体の可能性、「思考不能に陥った自動人形」の可能性はこのように、「贋の自動性」を批判する身体の可能性である。この批判性を宇野の別の言葉で整理すれば次のようになる。「彼は肉体の生に忠実な「明晰さ」を、理性的権力の明晰さに対抗する明晰さとして提示する。アルトーはどんな危機的状態にあっても、この明晰さだけは決して失わないだろう。肉体を肯定し、ほとんど唯一の根拠とみなすことは、同時に肉体を排除し、制限し、監視しつつ構成するさまざまな力関係に対抗することである」(76頁)。 「硬直」する身体に気づくことは、「肉体の生に忠実な「明晰さ」」を必要とする。それは「理性的権力の明晰さ」に対する対抗としてあらわれる、こう宇野は整理した。このような思考の展開、理性から理性に対抗する「知」への展開は、シラーが身体と意志の間に調和的関係みとめ、それを「美しい魂」という言葉で定義し、この魂の表現として優美な動きを考察した後で、クライストがそのような優美の自動性を自己意識によって打ち砕く人間の運命を悟るに至った、近代ドイツ美学の思考変遷を想起させる。 ただし、クライストが意識の問題にとどまり精神の袋小路に入り込んでしまうのに対し、アルトーは身体の出来事から一歩も離れず、身体の危機をむしろある肯定的契機の準備段階と考える。この点は決定的に異なる。 興味深いのは、単に自動性を否定して硬直に向かうべし、とアルトーが主張しているわけではない、と宇野が度々注意を与える点だ。身体は「あれかこれか」の安直な二者択一が可能な場ではなく、むしろ二つが絶えずせめぎ合っている場なのだ。例えば宇野はこう述べている。 「マリオネットは、贋の、有機的な、調和的な、限定された自動性と、苦痛にみちたプロセスを通じて知られる鉱物的、無機的な、過剰な要素にみちた自発性との、ちょうど間にあって蝶番の役割を果たすのである。」(32頁) 宇野はさらに、「蝶番」の役をなすこのアルトー的身体を説明するのに、次のような「死」にまつわるアルトーの言葉を取り上げる。 「あらかじめの自殺、死の方へではなく、存在の別の側にむけて道を後戻りせる自殺について、あなたはどう考えるだろう」(「シュールレアリスト・テクスト集」1 20-21) 宇野はこの引用の後、さらにつづける。 「このような死は、存在を空にしてはみたし、さまざまな出来事の交点で、どんな境界もうけつけない空虚として繰り返し潮のように寄せてくる。この死は、組織された生の限界で生体を繰り返し襲い、器官の集合として組織された身体と、その組織と不可分な思考の制限を脅かすだろう。アルトーの身体は、自動人形として、ミイラとして、冷え冷えとした金属のような触感をもつ空虚として、このような死を生の中心に導くのである。生と死のあいだの敷居は、そのつど微細に、少しずつ移動する。死は徐々に生存の裏側にむけて、精神と身体を穿ってくのである。」(34頁) 「一見、表象やイマージュや形式や、身体を正常に働かせる有機的組織が、回復すべき「健康」として願望されているかのようにみえる。アルトーは、自分の病を透視し、何が故障し、異常に陥っているか、ときには医師のようにみつめようとしている。けれども思考と身体を制限し調整している秩序の方が、ほんとうは病の根源なのだ、という立場が、いつでもその底には潜んでいる。」(39頁) アルトーは、「病」を「透視」することで、本来病であるものは通常健康と呼ばれているものの方なのだ、と健康/病の常識を反転させる。この発想はニーチェを思い起こさせるところがある。「思考と身体を制限し調整している秩序」こそが、「贋の自動性」を活動させている原因であり、「真の自由」を阻害するものだ。健康な身体はこの秩序に従っており、その限りで「真の自由」が疎外された状態なのだ。アルトーはこう主張する。 この主張は単なる不健康のすすめなどでは決してないだろう。病の優位を説くことより、アルトーにとって重要なのは、「身体」という場で起こっている、諸力のぶつかりあうありようが「再発見」されることなのである。それは、理性的権力がコントロールするのとは異なる別種の力の組織化、別種の生の「再発見」を意味する。 「確かに麻痺したものは単に爆発し、炎をあげて崩壊するのではなく、より強靱で繊細な力の組織を作り上げようとしている。決してアルトーは、心身の麻痺という具体的な凝固の状態から、爆発や破壊や崩壊の方にむかうのではなく、さまざまな質と度合いをもつ力の交点で、生を再発見しようとする。」(62頁) 「こうしてアルトーは、明瞭な点として限定され、局在する思考を徹底的に拒み、線になり、細かい枝や根となり、どこまでも網をひろげていく運動そのものを詩的言語によって実現するのである。そしてこのプロセスはいつも言語それ自体をこのような神経に似た組織にすることと同時に進行する。このプロセスはさらに身体から思考に、思考から身体にたえず敷居を越え、敷居自体を移動させ、分岐させ、あるいは消滅させるような運動そのものなのである。」(63頁) そこで宇野=アルトーが身体を考察するモデルにするのは「膜」や「渦巻き」である。それらは、外と内とを貫流する力の場としての身体を説明するよき比喩であるからだ。「膜」「渦巻き」としての身体の内で、あらゆるものは量に還元され、力、強度に還元される。他方質による分割は退けられる。なぜならこの分割こそが「思考の贋の自動性や自発性」の根拠だからである。そして量として、力、強度として、あらゆるものは連続し連関し出会うことになるのだ。 「膜や渦巻きのような形態を通じて、アルトーは彼の動かしがたい生の知覚にふさわしい空間と身体を構築しようとしている。渦巻きは(螺旋)は、決して閉じることなく、内にもどってはまた外に出ていく運動の反復を示している。」(66頁) 「世界はこのとき、めくるめくカオスや混乱として現れるが、アルトーは世界を質として分割するのではなく、何とか連続した量として計ろうとする。そして単に測定するのではなく、測定しながら、そのカオスにより忠実な思考を作り上げようとする。それによって、より微細で現実的な質的分割も作り上げることができるかもしれないのだ。」(69頁) 「アルトーにおける心身の麻痺は、思考と身体の間に仕組まれた巧妙な分割そのものにかかわっている。思考の贋の自動性や自発性は、この分割によって成立している。心身の分割と二元性によって、人間のなかの力や強度は決定的に下降し、思考も言語もあるいは欲望や感情さえもこの下降によって決定される。アルトーは繰り返し奇妙な麻痺や空虚や無力感に襲われながら、「身体の崇拝」を明らかにしていく。」(74頁) 「凍結」と「解凍」 さて、次の二つの引用は、「凍結」と「解凍」の問題圏にあるものとして、ともに注目すべき思考を展開している箇所である(*1)。引用箇所は、『ヘリオガバルス』論の一部である。そこで宇野は、アルトーの物語(小説『ヘリオガバルス』)がすでに書かれたものの書き直しによって生まれたものであると説明し、その意味を問う。 「自分で物語を作りだすよりも、つねに自分の声によって、すでに書かれた物語を書き改めることをアルトーが選んだのは、力をめぐる出来事は、すでに起きており、これから起きるのではなく、むしろ再発見することだけが問題だったからだ。そして物語を書き改めるとき、物語に焦点を見出すのではなく、物語を生みだした力の出来事に焦点を見出すからだ。物語によって、彼は世界の新しい表象を作りだそうとするのではなく、書かれた物語の与える表象を越えて、力の表出としての事件と、そこに記された力の配置を再発見しようとするのだ。」(164頁) 「力をめぐる出来事」として物語を「再発見」すること、アルトーの小説において核になるのは唯一この点である。アルトーにとって重要なのは、物語そのものではなく、それが生まれるまでの力の出来事が問題なのであって、物語を力の場に置き直し物語を「再発見」することだからだ。 すなわちこれまで何度か出てきた「再発見」とは、一端物語の表層を凍結させ、そこから物語をあらたに諸力のせめぎ合う場として「解凍」する過程のことだと言えるのではないだろうか。(この「凍結」と「解凍」という表現は、あくまでも私が宇野のアルトー論を解釈するのに用いているのにすぎず、どこまで整合的かはさらに考察する必要があるだろう。)宇野=アルトーはそれを「石化のプロセス」と呼び、次のように表現している。 「非生命が生命よりも大きい動力や活力をもっていると感じられるような次元があるのだ。アルトーの中の生命力は、ほんとうに生き生きするためには、どうしても非有機的な、非生命のプロセスを経なければならない。彼の石へのオブセッションは二つの側面をもっている。(1)まず、因襲的限定的調和の中にある有機性を凍結すること。身体は硬直し、何かよそよそしいものになり、石化する。有機的な生は停止し、絶望におちいる。これは苦悩にみちた否定的プロセスで、アルトーの初期の作品と書簡に繰り返し記述されている状態である。(2)しかし、この石化のプロセスは、同時に因襲的限定的な調和の外に生命を開く。非有機性に侵され、停止した生は、有機的な生を越えた強度を帯びる。もちろんこれは危険にみちた困難なプロセスでもある。石のような身体は、世代や制度によって限定された身体の組成や分節や機能を受けつけない潜在的な力の零度を示す。」(171頁) ◇◇◇ 以下の引用について、今後コメントを付ける予定である。 「身体を獲得するには言語を破壊しなければならない。しかし言語を破壊することは、身体に到達するための手がかりを失ってしまうことである。身体は、決して自明のものとしてじかに知覚しうるものではない。アルトーはそのような自明な身体の存在を決して信じはしない。彼にとってそのような身体は、すでに何らかの対象となり、何らかの他者に侵され、置き換えられた贋の身体である。だから言語によって、このような侵入や置換をたえず監視し回避しなくてはならない。言語を破壊しながらも言語を保持し、身体にかぎりなく接近しながらも身体をたえず斥けることがアルトーの手記のかわらない立場なのである。」(292-293頁) 「心身にわたる分裂とその危機のさまざまな場面をくぐりぬけてきたアルトーは、非身体としての言語に、あたうかぎり身体を侵入させ、非言語としての身体には、ほとんど大気や流体に似た運動や振動を注ぎいれようとした。そんなふうにして、身体と言語の境界がほとんど取り払われるような地点にアルトーはやってくる。あたかも身体と言語の見えない結び目を発見したかのように。人がしばしば言語そのものととりちがえる意味や形態や規則やイメージから言語を切断し、人がしばしば身体そのものととりちがえる器官やリビドーやエロスから身体を切り離す。そこには決して実現されることがなく顕在化されることのない強力な空虚が開けるだけで、それを私たちはもう身体と呼ぶべきか言語と呼ぶべきか知らない。そこには何もないが、アルトーにとってはそこにこそすべてがある。」(300頁) 「芸術は、優美な調和や、そのまま権威的な装置になりかねない力や均衡の表象、要するに「傑作」によって、「器官なき身体」と呼ばれる何かを、たとえその恩恵をこうむり、それにうながされているにせよ、いとも簡単に裏切ってしまう。そしてもう一つの危険は、異様な加速な爆発によって、もうどんな微笑も逡巡も策略も許さない、閉塞した無への軌道を描いてしまう危険である。」(333頁) 「人間に器官なき身体を作ってやるなら、人間をそのあらゆる自動性から解放してその真の自由にもどしてやることになるだろう。」(XIII,104、338頁) 「二十世紀の思想家たちによって、無意識と呼ばれ、あるいはエロティスム、非知、他者、外部そして存在などという言葉にこめられた、意識からも理性的な主体からも逸脱する次元を、アルトーは「身体」として、他の誰ともちがった形で問いを提出した。その身体を「器官なき身体」と呼ぶことで彼はもう一度問いを反転させ、拡大し、身体をめぐるさまざまな次元にその問いをむけた。この<反転>は、ただ問いを背理として宙づりにするために要求されるのではない。逆に決して問いを停止させずに持続し、その持続の中に身体をおく実践を示しているのだ。「私の内部の夜の身体を拡張すること」(dilater le corps de ma nuit interne)。」(338頁) *1 「凍結」と「解凍」とは、私が土方巽の舞踏論を考察する際にキーワードにしようと考えている概念である。この概念の意味については、今後別稿にて明らかにしたい。 |