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0928(Sat)

昨日は曽我部さんの話のついでに気志団のことにも触れましたが、
今日、NDTUを見た帰りに渋谷でついつい『クイック・ジャパン』の気志団特集の号(44号)
買ってしまいました。

ぼくも房総出身で同年代(多分)、インタヴューで出てくるワードがあまりにぼくの記憶の襞を
刺激してくる(キャプテン・レコーズとか、シークレット・ゴールド・フィッシュとか、
『DOLL』とか、非常階段とか、GIGとか、ヒムロックとか)。

まあそれはそれ。ともかく、
あまりにぼくの思いを代弁してくれている次の言葉、
ちょっと読んでみて欲しいのです。

「いまのバンド見てると『ブルーハーツが恥ずかしくない時代になったんだなあ』
っていう。僕が中学生の頃は「ヒロトがやるのはOKだけど他のヤツらが同じこ
と唄ったらそれは違うだろ」みたいな共通理解があったじゃないですか。でも、
今、意外とそういうのがOKってことになったんだなっていう。みんな、いろいろ考
える前に最初に「あなたが」って言葉が出てくるんだなと。僕、言えないんです
よね。実際問題歌詞には使ってないし」


80年代ってイロニーの時代というか、一回ひねるってことが当たり前ってな
時代だったと思うんですよねえ。まあみんな「スキゾ」だった時代?!
ところが、ひねっているところの部分が読み込めない「共通理解」なき世代は、
ブルーハーツをストレートに鵜呑みにしちゃって、当たり前のように「あなたが」と唄っちゃう。
ブルーハーツの「あなたが」には、パンクの暴力性に
ちょっと違和感のある語彙をぶつけるっていう「すかし」があった(ように覚えているんですが)。
「暴力」に「優しさ」を掛け合わせるスリルというか。
屈折、くったくがないブルーハーツは気持ち悪いなあ、ってぼくも最近思っていたところ。
でも、"モンパチ"って200万枚だか売れているんですよね!僕の塾でも知らない高校生いないって感じ、実際。

ぼくにとってやっぱりヒロトは「ダンス」だったなあ。あれのないブルーハーツのコピーはつまらないし、
やろうと思っても、あの痙攣ダンスはそうマネできない。
でも、ヒロトのパフォーマンスの方をマネするバンドが出てきたらちょっと
みてみたいですけどねえ(今の流れからすると「あり得ない」でしょう)。


今日は上記の通り、NDTUを見ました。
できれば、近いうち感想を(また伊藤キムのも)書きたいと思います。読んでください。

0927(Fri)

メチャ忙しいはずなのに気持ちが「凪ぎ」の状態の今日。
多分、昨日『曽我部恵一』を買い、朝からずっとリピート状態だからかも知れない。
すべて素晴らしいのだけれど、「夏」という曲はとくに
何か神々しささえ感じてしまう。

オザケンの「天使達のシーン」とかがもっているような、不思議な幸福感。

決してヒットチャートをにぎやかすことはないけれど、確実な仕事をしている人がいる。
昨日HMVで他に古内東子の新譜を視聴したけど、これまたスゴイ。
AORを自分のユートピアと据えて、片時も目を逸らさず人生をそこに集中させている気迫、
なんかそんな「すごみ」を感じる。
良質のポップスを探求するって、必ずしもヒットに結びつかないものだし、
そうかと言って知的な人びとに色々解釈されるなんてこともそうない。
(CKBとか気志団みたいにね)

それでも自分にとっての「ポップ」を信じて、一歩一歩山道を登るように作品を作る人
にぼくは崇高ささえ感じてしまう。
キリンジもぼくにはそういう人たち。

こういう音楽が好きな人はまたキャアキャア騒いだりせずに、じっくりじっと自分の「ポップ」を楽しんでいる。
何度かキリンジのコンサートに行ったことがあるんだけれど、
全員で手拍子みたいな前時代的なことみんなしなくて、軽く腕組みし
ながら、でも結構楽しそうに肩や脚でリズムを取って聞いてたりしてる。

そんなお客の「音楽」を楽しんでいるという様子に、コンサートとは別に感動してしまう。
(そういえば、今度の冬のキリンジのチケットはアイドル並みに五分で売り切れたそう)

曽我部さんの話に戻ると、
曲は勿論のこと、ジャケットも大層いい。夕方の海を背にただTシャツにGパンの曽我部さんが立っている。
タイトルも名前もない。裏ジャケには奥さんと赤ちゃんと思しき二人がやはり夕焼けの海辺に佇んでいる。
曲と同様、別に取り立てて何もない日々の移ろいをきちんと感じながら生きていたい、そんな気持ちが伝わる。
また歌詞カードがすべて手書きなのが素晴らしい。
ワープロ文字がどこにもない。CDの品番までも手書き。
なんか子供の頃自分で作った曲を友達にあげたときのようなそんな気持ちが蘇るのか、ジーンとしてしまう。
どうしたらこんなことが出来るのだろう、ぼくが生きようとしているフィールドで。
なんでダンスの世界にこういうジャンルがないんだろう。珍しいキノコ舞踊団には近いものを感じるが、
だとしたら「もっとがんばれ!」と言いたくなる。

これから伊藤キムの《ふたりだけ》を見に行く。

0926(Thu)

横尾忠則の日記は、ときに作品を生む苦悶のドキュメントとなる。

例えば、1985年1月11日。
「連日憂鬱である。自信喪失である。自分自身の表現ができないからである。
自分が見出せないからである。何をしたいのかが分からないからである。こういう
経験は20代の時とよく似ている。この憂鬱さはいったい、いつまで続くのだろう。
絵をはじめて四年になるが、一向に問題解決しない。これはいったい何なのだ。
運命なのか?としかいいようがない。」


産みの苦しみは横尾とて同じなのだ、とちょっと安心。気持ちが軽くなる。

例えば、1985年1月7日。
「マチスの『画家のノート』を読む。啓示は思わぬところからやってきた。ワラを
もつかむ気持ちから開いたマチスの本が救いの神になるとは……。「自分に率直
になること」。この言葉が突破口を拓いてくれた。率直になってみれば、冒険心と
探求心を忘れていることに気づく。作品はみるみる発展していく。やっと地獄から
の脱出ができた。少しは気分がいい。」


こんな啓示がぼくにも来たらいいなあ、と思うがこの四日後にはまた「自信喪失」しているのだから……。
そしてこの後、彼の日記には不眠と悪夢を見る話が多発する。

今度、東京都現代美術館に「森羅万象」を見に行く時には、当時の作品を見ながら
さまざまな日記のエピソードが思い出されるのだろう。楽しみだな。


昨日ちょっと吉本ばななの「日記」という話をしましたが、
読んでみますか。ここにあります。

そいで、今日はたまたま名前が思い浮かんで検索したら、藤原新也の「日記」も見つけてしまった。
それはここです。
こう読んでみると、作家の日記と作家の作品とには文体にかなりの相違があることがわかる、面白い。
より肉体的というか生理的なものが伝わってくる。
藤原さんのいらいらした言葉使いには、何かぼくと共通のものを感じる。
この人の強さというより、弱さに共鳴するのだ。
千葉の田舎の高校生に憤ってしまうところとか。
人に感情的になってしまうのは、この人の感情移入が過剰だからなのだ、きっと。


−−−


次回の研究会では土方巽の「間腐れ」という概念を検討しますが、
そのために、比較事項として日本舞踊を中心とした日本の「間」の概念をすこし
調べたので、もしお時間があれば間(ま)についての資料と考察をご覧下さい。
考察といいつつ、実際はまだ何も書いていないのですが。


0925(Wed)

昨日はアベ"M"アリアを見る前に上智大学にいたのだが、
時間もあるし普段運動不足なので、
そこ(四谷)からてくてくと新宿まで歩くことにする。
新宿二丁目辺りにある古本屋が改装の為に50%引きで売っている。
ほとんど「残り物」で、その多くが80年代のバブルな感じのする本だった。
記憶が埃を被ってこっちを向いている。

横尾忠則『いわゆる画家宣言』『365日の自画像』を買う。
二冊で横尾の'80〜'86までの日記が読めてしまう。
面白いのは夢日記も一緒に記されているところで、
普通の日記の前に太字で書かれている。
こうすると、夢の時間と現実の時間が等価のように思われてくる。
でも夢は現実と違って自分ではどうすることも出来ない。
あそこに行きたいと思えば、すぐに行くことが(少なくとも可能性としては)可能なのが現実。
夢は、なかなかそういう風にいかない。見たい夢があってもそう見られるものではない。
現実を反映した夢ばかり見て、妻のシュールな夢に嫉妬する横尾が可笑しい。

それにしても、当時の横尾はほんとにスゴイ活動をしている。
いま読んでいるのは1984年の日記なんだけれど、
リサ・ライオンと長電話したり、ベジャールのイタリア公演の美術を担当したり、
夜になると糸井重里が遊びに来たり、桃井かおりを使った映像を撮ったり。

いまだったら、
電話でシンディー・シャーマンの愚痴を聞いた後、ブッパタールへ飛んでピナ・バウシュの舞台美術に
修正を加え、公演が終わって家に帰るとリップスライムが遊びに来ていて、
明日は柴崎コウを使ってビデオ作品を作る、と言ったところか。

そんなドラマティックな日々は、いまをときめく村上隆にも不可能だろう。
奈良はドメスティックにはそんな状況に浸れるかもしれないが。

このころの方が遙かに国際的だったのだ。少なくとも横尾という人物を通して見るならば。
横尾の日記を盗み見て(どうしてもそういう覗き見感覚があるんですよねえ)時代の移ろいをちょっと感じた。


『海辺のカフカ』もう少しで読了。
ただ下巻に来て、読む方のテンションが少し落ち気味。
たまたま吉本ばななの日記(公式HP)を読んだら「いい小説だ」というようなことを言っていた。
そうかなあ、どうなんでしょう。
ファンタジーにファンタジーが重なり、どんどん私的言語になってゆく。
そうなると、分かる人には分かるし分からない人はそれで結構、ということになってしまう。
佐伯さんとナカタさんの対話のところが特に、これで良いのかと思う。
あと、数十頁残っているので、まだ結論めいたことは何も言いたくないのだが。


0924(Tue)

Abe "M" ARIA'S 「Abe "M"LIVE」 cut up the dance
を見に行ってきた。場所は中野、ウエストエンドスタジオ。

会場と同時に開演、階段を降りて打ちっぱなしのコンクリートの空間が舞台+客席
なのだが、客席の横に組み上げられた音響の脇で、すでにアベ"M"マリアは絶叫し痙攣をはじめていた。
音響セットに近づき、机を「ドン!」と叩くと、一瞬CDが音飛びして、音が止む。
階段状の客席を降りて舞台で一層激しくからだをブン回す。
速くて、激しすぎて、最初の内はとくに、からだが残像現象で手ぶれ写真のように曖昧に目に映る。

デタラメに速く動かそうとしてもきっとからだは小さい動きにしかならない。
アベの動きが鮮烈な激しさの瞬間をもつとすれば、きっとそこにある種の型があるからではないか。
例えば、左腕を真っ直ぐ延ばして、いわばそれを振り子というか軸にする、そうして出来た痙攣の運動が瞬間ピークに達すると
右腕が素早く、ある種の美しさも帯びて「グルン」と回転する。

こう見ると速くてバラバラにも見える動きに、ある種の秩序というか、さもなければ癖のようなものが見えてきたのだ。
それをぼくは消極的にではなく、アベ"M"アリアという生物の「個体」に与えられた「習性」と積極的に受け取る。
世俗の「人間的」関係から自由になって、この個体のもつ神経の働き、物理的な物としての音が伝わってくる。
(ところで、音響で面白かったのは、「ドン!」と机が叩かれてピタッと止まる音が、音響機械の物理的性格をあらわし、
音響もまた「物」であることを示した瞬間だった)

子供の頃パンクのライブに行くと、酸欠状態になりながら、単なる物になって砕け散ったり飛び上がろうとからだは狂い続けた。
パンクはぼくにとって意味ではなくからだの問題だった(その頃そういうことを分かって聞いてた訳じゃないんだけど)。

こういう意味で
アベのダンスは、パンクの初期衝動が非常に純粋な形で、しかもダンス的な錬成を経て醸成されたもの、なんてぼくは考える。

物になって暴れ続けるからだ。今回の見所は、客席でバンと開脚で着地した後、ヌルヌルーとジェル状になって(なったかのように)、
客席の階段を舞台の床へと下っていったところか。粒状化したからだが川のように流れた瞬間。


−−−


告知です。来週の火曜日(10/1)、演劇理論研究会で土方巽についての研究発表をすることになりました。
先月のJADE2002企画「舞踏セミナー/サミット」に刺激を受けて、調べだしたら
色々なことがイモヅル式に出てきて、いつの間にかある程度のかたちが見えてきました。
中間発表の段階で恐縮ですが、みなさんの意見をお聞かせ願えれば、と思っております。
参加制限など特にありませんので、興味のある方、是非本郷の方にお越し下さいませ。
詳しい発表内容については、演劇理論研究会HP第二十二回のお知らせをご覧下さい。


0921(Sat)

昨日、ハンス・ベルメールの著書『イマージュの解剖学』が岡山大学から届いて、
それを取りに大学へ行く。
人形作家として知られるベルメールが、比較的しっかりした文章を残していることは
ほとんど知られていないだろう。
でも、挿絵の数々が、あきらかに公衆の面前で開いて見ていてはいけない
ものばかりなので閲覧室を出て、久しぶりに大学にある雑誌を覗いてから帰ることにする。

そこで目に付いたのが、『小説トリッパー』最新号での竹田青嗣と東浩紀の対談。
詳しくは、別の日に書きたいと思うのだけれど、ちょっとだけ。

東はいま「セキュリティー」の概念を問題にしていて、
それはあらゆるものに記名性を求める流れに対して、
匿名性の確保を主張するものだと、すっごく簡略化していえばそういうこと。
現代、匿名性のなかにこそ自由はあり、自由な空間が可能になる。

このことで、カントの公民性のことを思い出した。
カントは『啓蒙とは何か』のなかで、我々は世界市民の立場から話しているのだ
というスタンスをとる限り、発言の自由、思考の自由は許されなければならない、と言う。
それは自律した人間であると自称する者の自由であり、他律的な人間の私的な発言の
放縦を許すものではない。

カントはこう言うが、多分、東のスタンスはこのような自律した人間が危ういいま、
それでもなお自由な空間はどこにあり、どのように許されるものかというところにあるのだろう。
でも、東の匿名性の発言を読みながら、ぼくの頭にずっと「2ちゃん」がちらついていた。
それについてさらにどう思っているのか、
今度また書きます。


0920(Fri)

このHP、表紙が見えにくいという意見がある。
ディスプレイの相違など、動作条件が違えばそれに応じた
いろいろな問題がまたあるのだと思います。
そのような不備は前向きに善処しますと宣言した上で、
あの写真のことをちょっと。

上半身裸で立つ数人の男達、
そのなかの一人がたいまつを手に、それをこちらに向けニヤリと微笑んでいる。

これはぼくが三年ほど前、バリ島に行ったときに撮影したもの。
ウブドという芸術村が小さな島の中心部(山間部)にあって、
そこからマイクロバスで三十分ほど乗ったところにある、小さな村の公演での一光景。

ウブド周辺では、毎夕どこかで公演が行われている。ほとんどは観光客向けなのだが、
特別有名で優秀なグループ(プリアタンのティルタサリ、グヌンサリあるいはヤマサリなど)以外は、
村の人たちが総出で楽器を奏でダンスを踊り、幾つかの演目をこなしてゆく。

この夜も名もない村の寺院で、お父さんや娘、じいさんやばあさん総出演で、
「チャロナランダンス」という悪魔の劇が繰り広げられた。
写真の全体に赤い闇の色には、その悪魔的な時間があらわれている
(なんて言うと心霊写真みたいですけど)。

若い女達は、普段はきちんと清潔な感じに結ってある長い髪をこのときばかりは振り乱し、
魔女に乗り移られたときのダンスを、境内の前の広場で踊る。

一種のトランス(憑依)のダンスなのだが、
ホントにトランスしているのかどうか、それは定かではない。
真偽はともかく、バリの人びとにとってそれが一種の浄化作用の働きをなしていることは確かだろう。
彼らは、定期的にある日のある晩、悪に乗り移られ(たという建前で)、自分の中の悪を存分に表現した後、
次の日からすっきりした気分で、またのんびりとした日々を再開する。
それは人としてなんとも健全な生き方なのじゃないか、とぼくは強く思ったりする。

大体バリダンスの公演は、バロンという善なる神とランダという悪なる神の戦いで締めくくられる。
善なる神は、獅子(獣)で、戦いの前に猿にからかわれたりして、さんざん人の笑い者になる。
次に、ランダが二本足で登場し(つまりより人間に近い姿で)、長く垂れた幾本もの乳房を振り回しながら
しばらく踊った後、決着の付かない戦いの末にバロンとともに舞台から消える。

そんな、簡単に勧善懲悪で問題を片づけない
ヒンドゥー教的二元論は、人間を全肯定してくれているという気がするのだ。

しばらくは表紙にこの写真を置いておこうと思う。
同じ写真は一種の魔よけのつもりで、バリで知り合った友達が餞別でくれた小さなバロン
の仮面と一緒に、ぼくの東京の部屋の玄関にも置かれている。


0919(Thu)

村上春樹『海辺のカフカ』を読み始めている。
まだ上巻の292頁。
結構読んでいる人が多くて、いろんなところでこの話になる。
でも大抵ぼくの方が進みが遅いので、「あっ、それ以上はしゃべらないで!」と
会話を止めてしまうことになる。速く読み終えて話しに加わりたいです。

まだ、全体の1/3も読んでいないのだけれど、読んだ最初の辺りから
これは『アンダーグラウンド』以後の村上を、現時点で総括するようなモノなのかな
と感じている。
簡単に言えば「暴力」を主題にしていると言うこと。
また、現代のリアリティを問い返そうとする意志をもって、
サカキバラ事件などのいまどきの事件と、それに関わった人びとや
そのニュースを見る人びとの感性
を問題にしていると言うこと。
(こういう面から「村上はジャーナリスティック」だなんて批判が起きるのかも知れない。
でもそんな言い方がされるとすれば、ちょっと短絡的だ。
別に村上派を自称する者ではないけど、
すくなくとも単なる話題性で取りあげているのではなく、村上はそれを「考察」している。それに
そもそも、1995年以後ぼくたちの経験した感覚を文学者達はきちんと扱ってきたのだろうか、
なんて言ってみたくなる。)

こんな主題、問題に対して、「想像力」と「責任」というキーワードが提出されている。
アイヒマンには想像力が欠如していた。故に責任の感覚が欠如した。
言い換えれば、想像力は、唯一責任の感覚が発生する条件である。
ここらへんが(全体の1/3しか読んでないぼくなりに)この本のひとつのテーゼなのかな、と思う。
この想像力の問題は、性の問題と連関し、性は身体の問題と連関する。
さて、これ以上は更に読み進まないと何とも言えない。

ところでこの本の紙、薄くありません?環境問題を配慮して?それともコスト削減?
なんて思ってたんだけれど、この本薄いわりに400頁弱もあるんですよね。
こんなに軽くて薄くて1600円で400頁、という一種のサービスなんだなと納得した。


0918(Wed)

これまでホントに少数の人にしか教えていなかったこのHP。
朝、演劇理論研究会の掲示板で紹介し、いろいろな知人、友人に紹介メールを送る。
地味なコンテンツですが、ながーい目で見てくださいね。よろしく!

この日記ではダンスなどの公演評も書きますが、きっと多くは
その日ぼくが見たり聞いたりしたモノ・ゴトを、いわば脳の襞を転写するようにして
書いてゆく、そんなものになるでしょう。

朝このように紹介文をどんどん送った後で、
「久しぶりにカント論文に取り組むか!」と思い立って
準備体操のつもりで自宅の周りをしばらく散歩する。
(何かを書くという行為には、このような一見無駄だと思われるような
ことが必要なのだ。迂回して迂回してようやく机に向かう、儀式のようなものが)

近所は閑静な住宅街、とぼとぼと歩く。
建築中の家の周りではせわしなく建材を運び込んでいたりする。
そんな所をふらふらと通りすぎる。
細い裏道にはいると、「しーんしーんしーん」と虫の声がする。
空き地に背の高い草が鬱そうと茂って、東京の真ん中に
「ミニ野生」がうまれていて、そこから聞こえてくる。
「しーんしーんしーん」という音の脇をゆっくり通りすぎる。
何かスペイシーな、エコー感のある音に、身体が共鳴する。
この音、耳の内側で鳴っている音に似ているな、と思った。
微弱だがぼくの耳はいつも耳鳴りがしている。
この内側のぼくの音と外側の虫の音が共鳴して、
何かほっとするような感覚を生んでいるような気がした。
内側と外側で「しーんしーんしーん」がこだまする。
なんてこと、ぶつぶつ考えながら「準備体操」する。

夕方、
友達に教えられて、アップリンクでやっている「NDTの記録」を見てきた。
これ結局、シアターテレヴィジョンでやったインタヴューだった。
確か去年公演見た時にも感じたことなんだけれど、
NDTを見ているとなぜか「普遍的な理性」という言葉が浮かんでくる。
描き出された線は、知性の輪郭を多少はみ出しながらも、決して超脱することがない。
ダンスは「カリグラフィー」(書道)だとか、「庭」だと、キリアンは言う。
庭のアイデアは武満徹に示唆を受けたという。
強いモノと弱いモノは庭の中で反転することがある。
太い木の下に細い草が生えている、
風に木は倒されるかも知れないが、草はむしり取られないかも知れない。
そういう通念の反転する場がダンスなのだ、と言いたいらしい。
西洋的理性が、「日本的な感性」に触れて、また自己へ回帰する。
そんな運動としてキリアンはダンスを捉えている、なんて思った。どうだろ。

タワレコでSketch Showを買おうか迷ってやめて、アップリンクの坂をのぼっていたら、
向こうから細野晴臣が美しい女性とこっちに歩いてきた。

「客観的偶然」。



0917(Tue)

現実と空想、身体とイメージ、自分と異物を合体させ、
その接合部分のむずむずする感覚を「ダンス」する、それがボクデス。

とりあえずこんな定義をしてみるとして、
今回の、初の単独公演《ムニャムニャ君 ver.0》はタイトルが想像させるように、
夢のなかでいろんなありえない「肉体の拡張」が次々起こる。
プログラム(INDEX)によれば、作品は全18のシーンに分かれていて、
ワン・アイデアを(退屈になる寸前で)どんどん重ねていく。そんな趣向。

ぼくはこれまで、「Shortcake」など、ひとつひとつの小さな作品を
単体で見ることはあったが、それに比べて
今回のように続けざまに色々な作品が続いて出てくると
説得力が増し、ボクデス・ワールドを十分体感できた、という満足感があった。
(ただし問題点もないわけではない。
映像と動きがずれていたり、「Shortcake」などの映像が、
上の部分はスクリーンの段差ができてしまっていたり、
脇に観客の影が出てしまったりと、技術上の不備が
たくさんあったには、あった。ちなみに、第一回目公演の右側の影はぼくのだった!
何かじゃまだなあと思って、不意に体を動かしたら「おれじゃんかさあ」、ってごめんなさい。)

例えば、
「パンツ」を、立った状態からズボンを脱がずに裾から出して脱ぐ。
「マネキンの足」を、舞台背後の白い衝立から二本逆さに突き出して、おどらせる。
「バナナ」を食べて皮を床に落とす、ふたたびあらかじめバナナのついた靴であらわれ、
一歩出す毎に転んでしまう。

あるいは、
「魚の映像」に下半身が喰われると、魚から四本の足がにょきっとでてくる、とか
逆に「スペイシーな空間を駆ける羊」の映像に上半身が吸い込まれ、
下半身だけ外に出ている、とか。

ボクデスの面白いのは、
身体の生理を意識させるところだろう。
若いサラリーマン風「ダメ」っぽい風貌で、
ボクデス(「ムニャムニャ君」)は、外からの異物にどんどんどんどん
巻き込まれてゆく。
その「巻かれる」感じ、翻弄されている感じが、「アッ、アッ」という焦っているような
戸惑っているような声に混ざって、見ているこっちの身体をはらはらさせる。

両手、両腕、背中に付けた時計を見る仕草がダンスになる、とか。
吊り皮をもって電車に乗っている男が、「もよお」してからだをくねくねさせる、とか。
身体と異物(「もよお」だったら「突発事」とでも言おうか)との接触の「間」に
転がっている動きを拾ってダンスにする。

映像との絡みでも、
映像が身体を拡張しその拡張した「身体=映像」が
ぐんぐん延びていったり、魚にのまれたりする時の、「ムズムズ」するような感覚、
それが他の誰も与えることのできない唯一無二の体験になっている。

ある設定をした時(ある異物と出会わせた時)、身体はどんな動きをするのか、
それについて丁寧に身体に問いながら生まれるダンス、
ということで言えば、ある指令を起点にして身体がどんな自由な暴走を始めるのかを
ダンスにしてみせる手塚夏子の試みとどこか繋がるところがある。

でも、ビデオ映像などかなり作り込んだ「演出」を施すボクデスの場合、
身体は、しばしばコントの一部として演出のパーツにとどまっている。
「とどまっている」というと突き抜けなければならないように思われるかも知れないが、
このスタンスがボクデスならば、ひたすら「アイデア」を転がして、
イメージと身体の奇妙な出合いのシーンをどんどん展開していって欲しいデス。



0914(Sat)

ボクデス《ボクデスpresentsムニャムニャ君 ver.0》を見てきた。
(ラボセレクション アワード単独公演@STスポット、17:30)
これについては、火曜日に書くつもり。

その前に、上智に行って、がさごそ漁ってたら、いい論文に出会った。
鈴木雅雄「アンチ=ナルシスの鏡」
(『モダニズムの越境V 表象からの越境』所収)

この人、『文化解体の想像力』という秀逸なアンソロジーの編者として
知られている(知ってる?)。

この本、シュルレアリスムが非ヨーロッパ世界との
出合いによってどれほど触発されたのか、というところに焦点を絞り、
過去の遺産として片づけようとする流れに抗して、
シュルレアリスムを、見事に現代の潮流に接続させている。

そんな鈴木さんは、ぼくにとってもっとも「キレる」人の一人なのだが、
「うわ、おもしろい」と思ったらやっぱり鈴木さんの論文だった。

鏡は、ブルトンにとってナルシスの装置ではなく、むしろ
「別の顔の中に常に自らを失う「アンチ=ナルシス」」とみなさなければならない。
鏡は同一性ではなく、変形に寄与する。
もちろんここでの鏡は系として「イマージュ」あるいは「幻想」へと連鎖する。
そんな鏡は現実の自己との、一種の非対称の対称を構成する。
鏡は、現実と幻想とのあまりにも密着した出会いを体現する。

おもしろい。

ところで、ブルトンは、『魔術的芸術』とか読むとわかるように、さまざまな画像に
刺激され、その偶然の出合いを時に「客観的」と驚く。
ぼくの住まいの一階は公文式の塾なのだが、朝ゴミを出しに行くと、
子供の落書きらしい紙切れが落ちていた。
こういうものに一々反応してしまうところに、
最近「ブルトン濃度」が高まっていると感じる。
(ほんとうにぼくのなかでカントはどこへ行ったのだ!)









0913(Fri)

天野由起子《蝶調のマツリ》Vol.1を見に行ってきた。
(ラボセレクション アワード単独公演@STスポット)

約一時間のステージ、強いテンションは最後まで落ちることはなかった。
黄色い地で赤いチェックのはいった半袖の服に黒い艶のあるスカート、黒い靴。
着替えるとか、パーカッショニストが主になる時間とか、そんなちょっとした
ギミックが一切ない、出ずっぱり踊りっぱなしの一時間。
そんな状況を設定してそれに耐えてみせようとする若手は他に見あたらないだろう。
志の高いマジメな人なのだ、とつくづく感心する。

でも、
悲しいくらい見ていてのれなかった。
今作は、これまでのように積み木を一個ずつ丁寧に組み上げてゆくような
作りではなく、即興的な余白を残した振り付けになっていた。
それは多分、パーカッショニストと絡む余地を考えてということもあったろうし、
「三つ子の音楽」のパートのように、動きが音を出そうとする、その余地のため
ということもあったろう。
そう、今回天野が相手に選んだのは、「音」だった。
でも、残念ながらあえて残した余白に「音」と接触する強烈なスパークは
光らなかった。

例えば、《花は火の玉》では、天野の踊りは、セーターや百合の花と
奇妙な、狂気を孕んだ「出合い」をみせた。
そこでは、天野のユーモラスな想像力が舞台を満たしていた。
花に向かって戦いを挑むように斜めに突進する振りには、
わけ分からない反面、妙な説得力があった。

そんな天野の魅力的な面が今回希薄だったのは、
彼女の持ち前の想像力が、「音」を奇妙な、ありえない存在に「喩える」まで
まだ熟し切っていなかったからだろうか。
「人形」とか「邪悪な少女」というイメージも、今回、別の何かへとメタモルフォーゼすることなく、
単なる手癖、自己反復に留まってしまっていた。全体が「ぼーわー」と曖昧だった。

ところで、
「マツリ」という言葉は気になるなあ。パンフにはこうある。

この作品は、
「マツリはどこに棲んでいるのか?」そして
「マツリはいまどこに必要なのか?どこに行こうとしているのか?」
を、あらためて自分の身体に問う実験です。


「メタルドール」のパートで見せた
バリダンス(?)と天野的な断続的に時間を繰るダンスとの融合が、
端的な「マツリ」への接触点だったのだろうか。例えば。
(もちろん、「蝶調の舞い」パート最後の太鼓との絡みもそう言えるだろう)
ぼくの思うバリダンスの魅力は見事にそぎ落とされていたが、
「マツリ」の観念をもっと砂遊びのように無邪気に想像力のおもちゃにしたら、
天野さんのこと、
きっと面白い踊りにいつか発展してみせてくれるに違いない。
タイトルに"Vol.1"とあるのは、熟し切らなかった「スゴイ思いつき」を、
今後どんどん展開させていきたいという意思表示なのだろう、
そうだ、きっと(そうだそうだ)。



0912(Thu)

「ラボ」という存在自体を云々言う気はまったくない。
けど、失望をためるとダンスを劇場に見に行く勇気を殺がれそうな
気持ちになるので、今日はボイコット。
(でもクロスレヴューのム籐評を見る限り、
今日のはそんなに悪くなかったみたいだなあ)

その代わり今日は上智の図書館に行き、夕方自由が丘で散歩した。

図書館では、
藤田博史『人間という症候』(青土社)などを借りる。
この人、鈴木晶のHP(Sho's Bar)の日記に名前が何度か出てきて、
興味を持っていたのだった。

ところで、この日記非常に面白い。
ちょっとしたエッセイを読むような楽しさがある
(決して内容に深みがあるとか、そういうことではないんだけど)。

そこで鈴木曰く、 「彼の著著は全部読んだが、はっきりいってよくわからない。難しい。
でも、いわゆるラカン派の人の書いたもので、「これは重要だ」と直観
させられたのは藤田さんの本だけである。」

鈴木さん、分からないけど重要だということは分かる、ってどういうこと?
つっこみを入れたくなるが、
自由が丘へ向かう電車の中で立ち読みした数十頁で判断する限り、
たしかにこれ、難しいけど重要な本だ。

ぼくはフロイトだのラカンだのは趣味で読むくらいで、
細かいロジックについていけないと言うか、あまりよく分からないでいた。
その理由はひとつに、これまでぼくが読んだ本の、
想像界の扱い方にあったのかもしれない。
藤田氏の本を読むとそんな気がしてくる。

この本は(第一章を読んだだけだけどね)、
想像界という不可知であるはずの領域には、あらかじめ可知的な象徴界の論理が
上塗りされている、だから精神分析の問題は、想像界での症候を解くことよりも、
想像界を可知的なものにしているこの上塗りを正確に把握すること
である、と主張する。

例えば、
「厳密にいえば「はしゃいだり打ちひしがれているように見える」子を
「はしゃいでいる、打ちひしがれている」と認定するのは、すでに言葉
と意味に掬われてしまった分析家の越権である。観察や想像はす
でに分析ではなく、このような意味賦与はそのまま解釈へとすり替え
られてしまう。これこそ、わたしたちがもっとも注意しなければならない
「想像界への足の踏み外し」にほかならない。」


カント的に言えば超越論的な視点を感じさせる、至言である。
ぼくの読書量が少ないからかも知れないけど、こういう視点、
精神分析学系の本の中で出会ったことなかったなあ。収穫。


さて、自由が丘では「唐口屋」で石焼きビビンバを食す。
どこよりもここのビビンバはおいしい!
ここの売りは、ただで食べ放題のキムチ。壺でドーンとテーブルに置いてある。
コレがまた喩えようのない程、おいしい。
でも、このキムチサービスは終了予定らしい。
「社会的状況の変化」を鑑みて、のことだという。
たしかに、無料サービスなんて大盤振る舞いできる時代じゃないのだろう。
こころなしか以前に比べて混んでいない気もするし。

そういえば、自由が丘はこぢんまりとした個人経営の店が多いが、
半年前には在ったそんな店が、いくつも閉店ないし違う店になっていた。
ビデオレンタル店、洋服屋、喫茶店、、、
顔の見える個性的な店がどんどん姿を消してゆく時代。悲しいね。



0911(Wed)

昨日の「ラボ」には、それぞれが自分の身体観を
ダンスという形に仕上げて呈示しようとする、そんな誠実さがあった。

それに引き替え今日の「ラボ」は、、、
ふたりの山田以外には、残念ながらぼくは積極的に語る言葉をもてない。

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1.山田せつこ『オドル10minutes』
指を蟹の脚のようにわさわさと動かしたりする、
そんな動きが一種の記号のようにあって、
あいまいな模索しているような動作のなかに
アクセントを加えている。

それはアウトプットのようでインプットでもあるような気もする。
何かを受信しようと試みているような、
どうしてか、「待つ」という言葉が浮かんできた


2.山田うん《山田うんダンス 7月7日の9月11日版》
ユーモラスなのは顔つきではなくて、「間」だろう。
山田のダンスを見ていて、「ぷっ」とふいてしまうのは、
山田の間の妙にこっちの体が正気を奪われるからだろう。

そのもって行かれる感じが、楽しいのだが、
その一方で、一体いつまで彼女はこの抑制的な
フォーマットのなかで踊るつもりなのだろう、と考えてしまう。
もっと広い海で、大きな冒険を企ててもいいのじゃないか、な。


3〜7.
総括的に言えば、まず、
自分の身体のTPOを考えるべきだろう。また、

もう少し(いやおおいに)身体について丁寧に考えるべきだろう。

少なくとも、これがお金を取ってやっている公演なのだ、という自覚を持つべきだろう。

多くの出演者の一人だからと言って、その瞬間は一人で表現しているのだから、
客に対する責任は果たして欲しい
(いくら何でも、「目をつぶれ」はないだろう。ぼくの席の隣の女の子は、
真に受けて目をつぶってて、その間二回くらい目を開けただけだという、が、
ぼくはそんな従順な愚者を育てた日本社会を真から憎む)。



0910(Tue)

「めくるめくほどはぐれている」

例えばこれ、土方巽の言葉。
八月のJADE2002の企画、舞踏セミナー(andサミット)に刺激されて、
最近、土方巽についてもくもくと調べたりしてしまっている。
(土方アーカイブ様にも足を運んだりまでして!)

頭の中に土方巽の言葉が充満していて、
思考が過度に鋭敏に「身体コンシャス」になっている。
ぼくの元々の専門はカント美学の筈なのだが、、、
シラーのダンス論からずれ始めた研究活動、
とうとう土方舞踏論まで手をつけようとしている。

最近のぼくはまさにはぐれっぱなし、である。

さて、久しぶりにダンスの公演を見に行ってきた。
ラボセレクション(ラボ20集大成フェスティバル@STスポットin横浜)。
「ラボ」に関わったダンサー(振付家)を一週間でコンプリート出来るって感じ。
最初の三日間は「A.ソロ18番」、10分七本勝負。
今日は七人のダンサーのソロを見た。簡単に感想をメモしておく。

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1.丹野賢一「020-FRILL」
生でみるのは初めて。最初壁に背中を付けて立った状態で
首が「くる、く、くる」と何度か廻るところが印象に残っている。
一回目と二回目、三回目の動きが、反復の中に微妙なズレをもっていて、
観念的なイメージに収斂しそうな外見とは異なり、
動きをみせる人なのだ、と思う。
ただし、動きだけれど身体コンシャスじゃない。
後半の四つんばいの片腕が抜けてばたっと倒れるところは、
倒れた後の縮んだ腕に予定調和を感じてしまった。
その腕は、倒れることを知っていたんだろう?(秋田なまりで言ってます)というか。
イメージによせる身体は、暴走を巧みに抑制している。


2.細見玲子「SKIN」
ちらちら「意味」が見えるのだけれど、しかし決してそれに身体が
縛られようとしているわけではない、だから悪くない、と言っておきたい。
ジャンプの時の腕の振りとか、作品に何の貢献もしない、
嫌な部分もあるにはあるのだけれど。

いかんせん、首と背中が硬い。
それが動きの振り幅を小さくしており、身体が動くことの妙を阻んでいる。


3.伊藤郁女「Redundant」
身体の動きはすこぶる魅力的だ。
細いからだに柔らかい動きでありながら、野蛮さを感じる。
ただ、瞬間瞬間の快楽は高度だけれど、
それが作品へと収斂することがない。


4.ナガッチョ「意味の意味」
肉の詰まった重い体をみた。


5.金子真由美「背向」
しゃべりながら荒くなる呼吸の響きは、
もう若いとは言い難い、少し丸いからだがもっている音。
良品ではないが、嘘はついていない小品。


6.手塚夏子「私的解剖実験-3」
何をやっても当たってしまう、そんな時期なのだろう。
今年、ホントにぐんぐん成長した人だ。
今回の「実験」は本人いわく、「実験」を「振り付け」にしてみた。
顎をあげるとのど仏がぎごぎこ動いてぞわっとするところとか、
弛緩して意味不明の微笑をしているところとか、
反対に猛烈に怒っているような強張った顔をするところとか、
「振り付け」として自分の中で距離を置いたことでか、てらいなくそれらをやると
客も素直に「笑い」を向ける。

だけど、
ここには「実験」のスリルはない。
「振り付け」として、手塚が「手塚」を模倣したところで、
つまり、もう「この手塚」を反復する必要はない、というところで、
さて、失敗を怖れない次なる「実験」を楽しみにしたい。


7.杏奈「untitled」
あまりコメントすることはない。



0909(Mon)

日曜日にはほぼかならず東金に帰る。
自宅で塾まがいのことをしているからだ。

「自宅で塾」というのは、元自分の部屋に机と椅子を並べて
ホワイトボートを壁に吊った、そんな塾ということ。

子供というのは、一瞬ものすごい輝きを放つことがあって、
ほっとくとシュルレアリスムの作品か?というような
ドキッとするようなことを勝手に始めたりする。

いまは中一の男の子二人は、去年の夏休み、
単語の書かれたカードを並べて文章を作るゲームをやらせると、
「My」「boy」「is」「house」なんて文をつくってきゃっきゃきゃっきゃ興奮して騒いでた。
「boy」と「house」の「is」の上での出合いじゃん!なんて、
ロートレアモンに引っかけて、笑いながらもぼくの方はドキドキしてみているんだけれど、

彼らはぼくの思いなどかまうことなく勝手に、想像力の火花を散らして無邪気に遊んでいた。

でもそんな爆発も、もう中学生になった彼らから見つけることは出来ない。
彼らの想像力こそが一瞬の火花だったのかな、なんて思ってしまう。

ぼくにとって「塾」は「十代」を観察する機会になっている。



0908(Sun)

おとといから雨のよく降る日々が続いている。
夏の終わりを告げているようだ。

暑くて汗が体から溢れ出して止まらない、なんて時には
「助けてくれー死んじゃう」って暑さを呪っていたけれど、
いざ涼しくなってしまうと、なぜか切なく寂しく「暑い暑い」といっていたのが恋しく思えてくる。

こういうことを話すと多くの人が「そうだ」と同意してくれる。人間の生物学的な習性
なのだろうか。

夏に祭りが多いのは、「暑さ」を利用してのことに違いなかろう。
「熱狂」というが、この「熱」を外(太陽)から借りてきて盛り上がるのが夏。
折口信夫によると、長野県などの雪国で冬に祭りをするのは、
一晩中お湯を立ててその周りで踊り、熱を発することで、
「ここにオラたちは生きているぞー、忘れんなよー」と
神に告げ、見捨てられないためだという。

今年の正月に天竜川流域の冬祭りを見に行ってきたけれど、
ほんとにこんなところに人が生きているのか?という僻地(奥地)で、
ほっとくと人の生命なんて見過ごされてしまいそうになる感じが、確かにあった。
(ところで、人は何であえてそんな奥地に住んだりするんでしょうね、なにせ
コンビニはもちろんのこと、「お店」の類が一時間歩いても一切見あたらないのだ)

そう考えれば、
夏は「暑い」ことですでにお祭りなのだ。きっと。


でも、雨もいいものだ。
秋に雨が降って、夏には聴かなかったCDの出番が再びやってくる。
最近のお気に入りは、
Lisa Ekdahlの"When Did You Leave Heaven"(CDタイトル)。
ジャズ・ボーカルのジャンルに入るのだろう、子供っぽいかわいい声の人。
それでいてバックのトリオはしっとりとしている。
ピナ・バウシュの《炎のマズルカ》で使われていて、その頃気に入って買ったのだ。



0907(Sat)

昨日はざんざん振りの雨の中、庭園美術館(目黒)にソニア・ドローネを見に行った。

彼女はトリスタン・ツァラなどとコラボしていた、二十世紀の現代美術界
(アメリカではなくフランス中心の、要するにダダ、シュルレアリスムの運動)
と広く深く関わり続けてきた女流画家。ロシア出身(ウクライナ)と言うこともあってなのか、
なんとディアギレフとも交流しており、バレエ・リュスの舞台装飾などをしていたという
(彼の創刊した雑誌『芸術世界』が展示されていたのには驚いた!)。

彼女の作風は、円を半分にカットして、それをずらして、時にS字曲線を描いたりするデザイン。
それが優れた色彩感覚とともに構成されている。
「コンポジション」が美術界の主流だった時代の立て役者、といったところか。

コンポジション(構成)って、「空間」ってことでしょ、と一見思うけど、
どうもそうじゃないんだな(少なくとも彼女の場合には)。

絵画は空間芸術だけれど、空間を目で追うには時間が必要なのだ。
絵画は静止(凍結)しているが、絵画経験はそれを運動へと解凍させる。
ドローネの作品には、そんなことを強く感じさせるところがある。

特に、半円やS字曲線を目で追ってゆくのはまさしく時間の快楽。
しかも、あっちの青とこっちの青とが対照をなし、
こっちの緑とあっちの緑が反応し合っているなんてのを、ゆっくりとなぞっているときなど、
見ているぼくはまちがいなく「時間」(あるいは「リズム」)を楽しんでいるのだ。

とかなんとかいいながらも、
しばしばタイトルに「対照的contraste」と同じくらい使われる「同時的simultane」
の語は、シュルレアリスムの「デぺイズマン」や「客観的偶然性」
を想起させるところがあって、空間性(空間的並存性)にも興味が湧いたりした、のだった。

「シベリア横断鉄道とフランスの少女ジュアンヌ」という、詩人サンドラールとのコラボ作品が
たいそう素晴らしかった。
折り畳まれた詩集は、広げると縦に2メートルにもなり
(細長いそれには右に詩が左に絵が描かれている)、
流れの緩やかな河を下ってゆくような気分で
色彩と曲線のリズムを存分に味わえるのだった。

でも、家に帰ってガックリ。
せっかく買った図録では、この作品のスケール感がまったく考慮されていないのだ。
やっぱ、生で見るべきなんだよね、美術も。



0906(Fri)

今日からひっそりと、こっそりと日記を書いていきます。

月曜日、久しぶりに釣りをした。実家の東金から海に向かって30分ほど行った池。
昼の二時頃、暑くて汗ぽたぽた垂らしながら、小さいワームを流してた。
岸辺では、真っ赤なザリガニがわさわさと大量に寄り集まっている。
それ見て軽く「ぞぞー」としたところで、フト横を見るとハンドバック大の
毛皮みたいな物が浮かんでいる。
なんだろうとよく見ると、ネコのような犬のような
野ネズミのような、、、さらによく見るとおなか(?)のあたりから泡のようなものが
「しゅわしゅわしゅわ」と溢れている。
うわあと鳥肌が立ち一層「ぞぞー」。
「自然」ってよく見ると怖い。

そんで、「ぞぞー」としながらでも一匹釣れた、ちびのバス。
でもそいつの腹が「ぼてっ」と膨らんでいて、「おお、おまえなに喰ったんだ」って
考えてまた「ぞぞー」。

自然を前にしたら、細部を見てはいけません。ピント外していないと、
生と死のリングが猛スピードで回転しているのに眩暈がしてしまいます。

CKBの新CDを聴きながら、夕方の房総をドライブして帰った。イイネ。