日記バリのことダンスの経験ダンスの思考/哲学と美学/BBSAbout/Link/Top
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(200305)

01 三島のナルシズム/02 珍しいキノコ舞踊団/03 木の花會(花柳寿南海)/04 『動物化する世界の中で』/05 『厚木I.C.』/08 『マトリックス』・「パンク」・カリプソ/09 girls don't cry・けばけば/13 二冊の本/14 研究会という生き方/16 大倉摩矢子『微熱な日々』・チェン・カイコー『北京ヴァイオリン』/17 『ションベン・ライダー』/20 黒田育世《アウラ》/23 最近のinput/25 中目黒/27 ほうほう堂・岡田智代・山賀ざくろ/29 伊藤郁女/30 五反田団『家が遠い』
 *ダンスは
赤字


0530(Fri)


五反田団《家が遠い》を見た(@駒場、アゴラ劇場)。

登場人物は中学生4人、高校生1人。中学生は男の子たちで、高校生はその中の1人の姉さん。
放課後ビルの間の隠れ家のような路地、ゴミが散らかり、その端っこにたむろする中学生。
ひたすらくだらない会話が続く。くだらないのは「中学生」というものそのものの宿命かも知れず、世間知らずで知識が曖昧、エロとバンドにしか興味がなく、それでいて柔らかい自我の皮をどうにかやぶられんとする自己保身の振る舞いに努める。そんな「中学生」をトレースする脚本が本当に素晴らしい。「静かな演劇」が方法論だとすれば、このようなディテールをトレースすることでのみえられる空間を、つぶさに観察する快楽を与える点が、方法の目指すところだと言えるだろう。こうして観客は水槽の中の中学生を観察する。
でもそれだけだったら、平田系の方法の反復、方法の更新にすぎないが、この劇をとてつもなく問題含みにしているのは、「トミー」の存在だろう。中学生の1人、高校生の弟のトミーは、実は張りぼて(註)。舞台のはじめから無造作に舞台の壁に立てかけられていた。死体の如き無言の存在。とはいえ凄いのは、この張りぼては、あるべき「トミー」の代理=表象ではなく、張りぼて自身がトミーだということ。だからトミーは属性として無言で時に怖いほど暴れる。トミーはときどきこう(張りぼてに)なってしまうらしい。お姉さんはそんなトミーのためにアルバイトを遅刻してまでトミーの前にいるし、他の中学生たちがそこにいるのも(はっきりと言葉にはしないが)、トミーがこんな状態にあるからなのだろう。もちろん「暴れる」というのは、他の中学生が自分でトミーの手をとって自分の頭を叩かせたり、抱きかかえて倒れるとあたかもトミーの自発的な振る舞いのようにしてばたばたしているだけ(何度か起こるこのバトルは堪らなくおかしい)。これ、「トミーが暴れている」という表現なのか、「トミーに叩かれるという自作自演をする中学生」を表現しているのか判然とせず、曖昧に漂う。少なくともこうは言えるだろう。イジメられっこのトミーは、実は無言の張りぼての存在であることで、他者の欲望の表現媒体にさせられるのだ。スピヴァクならば「サバルタン」と呼ぶだろう存在として、「トミー」は他なる主体の主体化の媒体、それ自体は語らない「ネイティヴ・インフォーマント」の位置にある(トミーは親にも虐げられていて、彼は卒業をしたら就職しなければならない。そんな事実も「最下層(階級外)の人間=サバルタン」というイメージを増進させる)。でも大事なのは、この無言の彼トミーを中心にこの世界が転がっているということだ。彼ら登場人物たちは蹴っ飛ばしたり蹴っ飛ばされたり(自作自演)しながら、決してトミーから離れることができない。その一方で、向かい側のビルの屋上では、いまにも自殺せんとしている中年男がうろうろしている。彼らが邪魔で飛び降りられないらしい。彼らの退屈なおしゃべりはそれをやめて立ち去ると1人の男の死が成就されてしまうと言う、クリティカルな位置に置かれている。彼らはこのくだらない時間をやめることができない。《家が遠い》わけである。

註 でもパンフを見ると、トミーはフリーの「山田」がやっていることになっている。山田は次回作にも出演し「人として扱ってくれる劇団からのオファーおまちしています。好きな劇団 ノダマップ等」とある???

パフォーマング・アーツ・マガジン『Bacchus』(バッカス、創刊準備号)にて、扇田昭彦が前作「ながく吐息」を批評していた。他にも昨日お知り合いになった人からこの劇団の名前が出たこともあり、注目されているのは、遅ればせながら実感したが、実際ホントにこれは注目株、次回の《逃げろおんなの人》は要チェック、要注目です(ご本人たちは観客が少ないことをいたく気にしているようだけれども、今日は普通にほぼ満席だった、大丈夫)。

五反田団のホームページ


劇場に向かう前、渋谷で雑誌を漁る。雑誌『relax』の特別編集、「NEW WAVES」にはやられた。ホンマタカシが波を撮った写真が延々と続く、それだけ。素晴らしい。ユリイカのJポップ特集。もはや「Jポップ」というくくりもきつくなってきたが(それはいいとして)、批評的だったのは、近田春夫といとうせいこうの対談くらいだろう。カルスタ系の批評はコテサキな感じがして受けつけない。



0529(Thu)


《フル単独プログラム》にて伊藤郁女(『The place to eat』)を見た。
さまざまなことどもが不格好な釣り合いの中にあって、ぼくは悲しいことに一ミリも共有するものをもてなかった。こういう日は悲しくやるせなく、「アート」とか「コンテンポラリー」などの言葉を深く恨んだりしてみる。こういう言葉の中で何となく成立しているかに見える動き、でもそれはほとんど何ものでもない。

ところでSTに行く楽しみの一つに、相鉄線入り口付近にある立ち食いソバ屋、「鈴一」に寄るということがある。狭い店にひしめき合う客。お椀を手に立って、ひたすらそばをすする、ともかくうまい。STまでの道のりで脳がうまさを反芻している。これがあれば何があってもSTに行ける!



0527(Tue)


《ラボセレクション ハーフ単独プログラム》にて公演三本見てきた。

ほうほう堂「北北東の芳香」
チェルフィッチュの岡田利規とのコラボレーションは、あえて簡略化して言えば、山田うんと足立智美のような関係性を漂わせていた。抑制の利いた方法主義。彼女たちの知り合い(そしてぼくの知り合い)の一人が、彼女たちに「今日はコンテンポラリーダンスやってたねえ」とこぼしていたように、それまでの彼女たちにはあったであろう無邪気さというか「優柔(?)」さが、ある種の型に押し込められていた(実はぼくは今回初めて彼女たちを見るので「以前との比較」なんてことができないのが苦しい)ということらしい。この型が素材としてかわいい彼女たちを拘束する。拘束されることが悪いとは思わないが、今回それがいい方向にむかったと言えるかはすこぶる疑問だ。延々と続く二人のレゾナンスは、振りの魅力を倍加させると言うよりは、どうしようもなくこなさなければならない「手順」のようにさえも映る。さらにそこに起こそうとしているに違いないズレも不十分だ。最後の方で、二人がそれぞれ異なる動きをし始めてから、ようやく舞台が生き生きとしてきた。踊りのかわいさ(いや分からないのは、踊りがかわいいと言うべきか、あるいはかわいい二人が踊っていると言うべきか、かわいい二人がかわいい踊りを踊っていると言うべきか判然としないこと)に奔放さが加味されてきた。なぜそれをやらん!Super Deluxでの珍しいキノコ舞踊団公演以来、「かわいい」ダンスについてはいろいろ考えているのだが、今回のほうほう堂ではどうなのだろうか(もちろん「かわいい」に照準があるわけではありません、と言われればそれまでなのだけれど)。そんなにアート(そしてそこには大抵「男性」がちらつく)である必要があるんですかねえ、要するに。

岡田智代『PARADE』
ぼくはカタログ(?)の口上などたいてい読まずに見るのだけれど、たまたま読んだ岡田の文に期待が高まる。
「横浜育ちである。/子供の頃、開港記念日に行われるパレードが大好きだった。/ブラスバンド、/大量の花で飾られた大型車、/サンバの集団、/手を振るミスヨコハマetc./妙に印象に残っているのは、演目と演目の間、出演者が何もしないでただ歩いている光景である。/曖昧な笑顔を浮かべ、沿道の見物客を見物しながら進んでいく。/時折、隣の人と話したり、手を振ってくれたりもする。/パレードを観ている私/…を見ているパレード/…その私を見ているパレード/…不思議な、落ち着かない感じ。/確かに私はこっち側なのに、/いつの間にか起点がどこなのかボヤケていく危うさ、/落ち着かなさ。/でもかなり好きだったりする。今でも。(…)」
要するにこの人は、風景を観察することのできる人だ、この人にとって大事なのはある感情ではなくある光景なのだ、そのことにかなり親近感が湧く。
最初から最後まで基本的にはひたすら歩く、一人パレード。最初はサンバの音楽に合わせてただ歩く、でもどこかさりげなくリズミカル、すまし顔でも腰がのっている。その後がよかった。「ミスヨコハマ」に扮したものか定かではないが、歩きながらこちらに向けて微笑する、こういう微笑こういう光景。確かにパレードのもつ切ない気持ち、見ていながら入り込もうともしていてでもまた疎外されてもいるような、なんとも切ない感情がこみ上がってくる。次のパレードを待つまでの路上待機のだるいような時間が活写される。そこにある無意は、ていねいに写すことができればとても豊かなものなのだ。この無意の時間に酔う。客観と主観のダイナミックな往還が起きていて(情景描写でありながら、そこに徹底することで消すことのできない主観性がむしろがこぼれ出てくるような、絵画で言えば印象派?)、小さなシンプルな演目なのに何か深い核心をつかんだ強さがある。

山賀ざくろ『エレガンス』
山賀のダンスは、「歌もの」というイメージがある。今回も原田慎二、奥田民生、大滝詠一などの「セツナー」い歌が繋がっていく。音楽がよすぎて音楽聞いてしまう。いやでもダンスはもはや「山賀印」で、はじけたいんだけれど、どうしてもはじけきる勇気がない、そんな心情伝わる激しく揺れるダンス。行方知れずの射精ないしは永遠の半勃起、という言葉が浮かぶ。これは「下品!」ではない。身体がどうしてもかかわってくるダンスというジャンルの、隠蔽しがちな可能性をまっとうに吐き出していることの証なのだ。



0526(Mon)


田舎に帰ると美容室に行く。
長年の付き合いの兄さんとは、さりげないけれどやや哲学的な、哲学的ではあるが単に抽象的ではない、美容師なりの生活実践に根ざした面白い話をよくする。この前の話は、「宮大工はある意味で楽だ」と彼が言ったところから始まった。つまり、宮大工のように一つの職人芸(匠の技?)をきわめてそれでもって家をつくることは、評価の定まった行いであり、その意味では、すでにやるべきことはあらかじめ決定済みである。これに対して、流行の中で生きなければならない者は(たとえば美容師)、常に時代のニーズに耳を貸しながらしかしどこかで「自分のスタイル」も維持していかなければならない。技を極めて何十年なんてエラソーな大工さんよりも、時代にすり寄りながらも決して溺れてはならない美容師の方がホントは偉い!のではないか。
むー。なるほど。
そうだよね、例えばさあ、流行の波に乗れた、つまり成功したスタイルだって耐用年限があって、以前の自分を裏切るか、さもなければ次の成功をあきらめるか、いずれどちらかを選ばなければならない。それって大変だよなー、と思って聞いているうちに、今度はファッションの話に。
面白かったのは、最近の「重ね着」の流行は、ブランドの意味を失わせているのでは、というこの兄さんの意見。たしかにそうだ、かつての「モード」系な人々のいかにもな「ブランド」の身振りは、重ねちゃうと意味がなくなってくる。いやむしろこの意味から自由になろうと、人々は重ね着をしているのではという気にさえなる。要するに、ファッションもいまやリミックスの時代なのですね。一枚のTシャツはあくまでも「素材」でしかない、いまどきの音楽がどこか自ら「素材」であることを積極的に認めようとしているのに似て。「素材」のむちゃくちゃなリミックス、そう考えると、いまどきの不恰好とも思える重ね着ファッションの流行もオッケーな気持ちになってくる。



0525(Sun)


午後『D.I.』を見に行く。
その後は最近お気に入りの代官山・中目黒コース、沖縄料理締め。

行くと必ず寄るのが目黒川沿いのこの古本屋。夜になると路上に牛のトレードマークが妖しく映る。本がこじゃれていた時代の粋なアイテムが並ぶ。路面の文庫本コーナーには、各種の『不思議の国のアリス』翻訳ものが並んでいた。



0523(Fri)


木曜日は散々outputするので、翌日は猛烈にinputへの欲求が増す。
近所のレンタル店で『マグノリア』を、またCDは気志団『Boy's Color』、ミッシェルガンエレファント『サブリナヘヴン』、椎名林檎『カルキ・ザーメン・クリノハナ』、深田恭子『Flow』、山下達郎『レアリティーズ』を借りる。『マグノリア』は、『アメリカンビューティー』と同様、「病んだアメリカ」がテーマ。こういう内省ものはきっともう受けないのでしょうね、本国で。本当に病んでしまえば病んだことさえ視界に入ってこなくなるわけで。ところでそもそも「トラウマ」って言葉も百凡の流行語だったのでしょうか。最近とんと聞かなくなった。心の傷なんてものもあってないようなもの、あると言われることであると思わされたというだけのもの、なのかもしれない。これもたいした話ではないのだけれど、気志団のCDのジャンルを記す箇所に「ヤンク☆ロック」とあったのがちょっとおかしかった。「ヤンク」=「ヤンキー」+「ファンク」or「パンク」なのだろうが、「チャンキー」=「チャンプルー」+「ファンキー」(細野晴臣)の言葉の成り立ちと何らか接触面はあるのだろうか。最近人に会うと、時代のファッションはいまヤンキーだとふれまくって嫌われている。いやそれより、丸井あたりのセンスがいま一番「底」なのだと思っているのだが、きっと数年後の最先端であろう彼らをダサイと見たらいいのかハヤイ(早すぎ)と見たらいいか悩んでいる(ほんっとどうでもいいことなのだけれど)。



0520(Tue)


黒田育世《アウラ》を見た
(谷桃子バレエ団 CREATIVE PERFORMANCE at パーシモン@めぐろパーシモン小ホール、夜公演)。

ともかくちょっと驚いた、「成長著しい」とはこういう人のことを言うのだろう、ともかくも「鮮烈!」な作品だった。
これまで二回見た僕の感想として、黒田作品の特徴は、(女性の)身体の、もやもやいらいらした歯がゆい、抜け出せない感じが丁寧な振付のレベルで描かれるところ。と思っているのだけれど、今回の場合、この感じが五感すべてを刺激してくるところが圧巻、だった。

青い花をつけた緑色の茎の印象的なラヴェンダー(床に干し草のように敷かれ、またダンサーの胸に隠れた)は、「視覚」だけでなく「嗅覚」を意識させる。足首に巻き付けられ、ときに口にくわえられる鈴付きのベルトは、「聴覚」にも訴えるがそれだけでなく銜えた口の「味覚」も予感させる。水を湛えた大きく透明なボウルは光の反射だけでなくそこに差し込む足の「触覚」も想像させる。はがゆい、どこか不可視の彼方からの力で縛られているような苦しい体の動きが、このように五感を引っ張り込むことによって、見ている側は体全体を持って行かれるような刺激を受ける。まず特筆するべきは、このような巧みなアイテムの用い方だろう。

さてそんな戦略を携え、舞台の二人は、ある種のア・シンメトリーなシンメトリー(非対称的な対称)の関係にある。簡略化して言えば、左と右にいわば「暗」と「明」のような関係で存在する二人の白いワンピースを纏った女(少女?)が、前方に据えられたボウルを媒介にしてこの対称性を入れ替える。と、こう言えばスッキリした作品かと思いきや、なんの、不可思議な読解不可能なアレゴリーがそこここにちりばめられている(そもそも作品タイトルの「アウラ」の意味がよく分からない。とはいえ、分からないことは作品の評価にはまったく拘わらないのだけれど)。

印象的な箇所を幾つか。足首に巻き付けられ、また口にくわえられもする鈴のベルトは、「カウベル」の如き悲しみを表しているようだった(うれしい時にも勝手に鳴れば辛い時にも勝手に鳴るそんな自分で外すことのできない悲しいベル)。

また、前半の決して振りかえることなく背中向けて激しく踊る黒田、あれは「振付」の精度のなかで存在している限り、激しいけれど、あくまでも抑制された激しさなのである。それがこの作品が独特の美を湛えることになる要因なのだろう。はげしさやにえきらないもどかしさ、時には汚らしいものまで感じさせながら、この作品はしかしあくまでも美しかった。エゴンシーレのスピリットで踊られたモネ、なんて言っても分かりにくいだろうが、ぼくのなかでは(絵画に於ける)表現主義あるいは印象派の方法と重なる点があるような気がしたのだ。表現主義舞踊の正しい活用、と言おうか。ともかく今日、大雨の中はるばる見知らぬ目黒の小ホールまで行ってよかった!



0517(Sat)


ひょんなことから『ションベン・ライダー』を見た(@京橋)。
映画はどこまで動くことができるのか、かつて大学で映像サークルにいた時に、先輩たちからよく言われた命題を思い出した。ともかくこの映画を見ずして相米慎二を語るなかれ、という彼らの言葉の意味がよく分かった。冒頭の延々長廻し、「人間」と言うよりは「虫」、いやもはや生き物でもなく電子の運動(?)、運動そのものと化した三人の少年たち(男としか思えない河合美智子含め)、素晴らしい。




0516(Fri)


大倉摩矢子『微熱な日々』(@中野、テルプシコール)を見た。
テルプシコールという会場主催の企画(「舞踏新人シリーズ」)の第28弾、そのなかの一作。
ということはつまりジャンルとしては「ブトー」なのだが、ブトーなのに(!)なかなか今後が楽しみな新人さんが登場した、ということになりそうだ。

青白いジーンズに白いタンクトップといういたってシンプルな出で立ちに、うす白塗りをして真横からふっと現れると、約五分くらいかけてじーっと舞台中央に進む。そう書くと単にゆっくりとした動きという風に受け取られるだろうが、「ゆっくり」というイメージでは言い切れない何事かがそこにはあって、その時間を飽きることがない。舞踏でいいダンスの場合には、微動が全身に行き渡っており、あらゆるところがあっちこっち小さな事件を発生させていて、ひとときもこちらの気を休める暇がない。大倉の舞踏はまさにそうだ、そしてそれ故に彼女の舞踏はダンスだった。微動にある種のグルーヴ感がある。このグルーヴ感が気になる、大倉のダンスを見ながら、一方でこのグルーヴの条件を考えていた。

微動というのは「反復と差異」ではないか。例えば地震計の針が微動していると思うのは、左右の振幅が繰り返されるからだろう。「左」「左」…と一方に振れるだけでは動きというのは単調な直線でしかない。そうではなく「左」「右」「左」と行きつ戻りつした時、はじめて動きはその実質を獲得するだろう。もちろん同じ振り幅が繰り返されるだけでは、それもまた単調さを露呈して「動き」としては捉えられなくなるに違いない。そこで反復は同時に差異を含むのでなければならない。いやむしろ差異の反復とでも言うような矛盾をはらみながら進んで行く時、真に動きのある、すなわちグルーヴのある動きとなるのだろう。それはすなわち、「左」「右」「左」のような対称性のはっきりした関係の反復ばかりではなく、「左」「上」「前」「横」「斜め」のような単に反復とは呼べない、差異の関係項を随時更新してゆくような展開をあらわしてゆきながら、どこにも落ち着く果てをもたない、留まらない反復でもありうるのではないのだろうか。舞踏というのは、このような差異の反復を起動させた時すこぶる豊かなダンスとなる。ぼくにはそう思える、例えばこのような大倉のダンスを見ると、、、

などとぶつぶつ考えながら、この人の寄り目は悪かないなあとか、後半の赤いスカートに履き替えてから、額を床にこすりつけながらずんずん四つんばいで進む姿に不思議なアイデアを見たという印象をもったり、全体的に好印象だった。何より、この人、舞踏をトップダウン的な先入観(えらそーな先生に「舞踏とはかくあり」なんて言葉に洗脳された)ではなく、ある種マニアな姿勢で愛好しているのだろうなあと思わせるところがいいと思った。舞踏が自分なりにリミックスされている、しかも方法的にも追求がなされている、そして趣味がいい(音響のセンスとか含む)。


この夜の前、真昼に渋谷で『北京ヴァイオリン』を見た。素晴らしかった。最後のシーンなんてほんとに泣けた。またいずれこのよさを書きたい。
そして文化村で本屋によると『美術手帖』の最新号が。何気なくめくっていたら、授賞式の写真が2ページ分ドーンと載っているではないか。ハズカシー。針生先生と岡本敏子さんの間にはさまれています。ほんとにくらくらと腰が抜けましたよ。



0514(Wed)


研究会が立て込んでいる。今日はクレーリーの新作『知覚の宙づり』を読む上智の会。
知的な考察は、それが高度であればそれだけ、実はいろいろなものにアクセスする体力をもったものであったりする。クレーリーのこの本は翻訳がないこともあってなかなか手強いのだが、読みほぐしていくと、いろいろな話題に応用でき、議論が盛り上がった。家で一人で読んでいても出てこないようなアイデアが「ポッ」と自分の中から出てきたりするのが楽しい、研究会はそれが醍醐味。

14年来の友人が、北海道から戻ってきてちょっと新宿で再会。2時間くらいなんだけれど、もう会えばだいたい何を考えているのかどんな気分なのか察知できる。だから年に一回会うか会わないかなのだけれど、それでいい。まあ、よくこの世界でサヴァイヴしてきているよなあと二人で感慨にふける。この人と上智で大橋先生の研究室に集まってライプニッツを読む研究会を始めたのが、18の時。そうか、ぼくの研究会人生はこいつとはじまったのだな。最初は難しくて何にも分からなかったのだけれど、研究会で過ごす時間に、生きているという充実感を猛烈に感じていた、なあ。「微小表象」という言葉とかに強烈なファンタジーを感じた、高校卒業してすぐのガキには本当にカルチャーショック、だった。



0513(Tue)


ふらふらくらくら忙しすぎてナチャラルハイなんてなところで、今日買った本のことでも。

1.G・C・スピヴァク『ポストコロニアル理性批判』月曜社、
2.ジェーン・カリアー『EGON SCHIELE』新潮社、
を買った。

1.ようやく出たスピヴァク先生渾身の一作。カントの崇高論を読み解くのに使いました、以前。
やや時代遅れになりつつあるとしても、こいつはよんでおかなきゃあ、いけない。
付録の「脱構築への仕事のとりかかり方」は短いこともあるし必読でッス。
2.奈良美智が『美術手帖』五月号で書評していたこの本。本にも興味を持ったわけだが、何より奈良君の文章のうまさに驚いた。奈良ファンの隠れアイテムにすべきですわ。本はとても図版がきれいでGOOD。

今日は、久しぶりに母校で行われているKU研究会(カントの『判断力批判』を読む会)に参加。すると、NHK教育の科学番組でまなべかをりと共演しているうらやましい先生が参加してくださった。その後会食会飲。



0512(Mon)


やたらめったら忙しいのだが、忙しさに拍車をかけるように、同好会に入会。
土曜から空手始めました。「形(かた)」って、滅法美しいんですねえ。



0509(Fri)


夕方、girls don't cry(@渋谷、パルコミュージアム)、
村上隆「けばけば」(@原宿、ナディフ)を見た。
やっぱこのあたりを見ていると、「アート」という拘束具は不要なのではないかと、思わずにはいられない。
青木陵子の、紙っぺらに自然を線描して、それをどんどんつなぎ合わせ壁に貼り付けた作品、その線の繊細さと独特の手癖は、例えばダーガーを見た時に感じたような、アート文脈から自由な感じを受ける。が、なのだが、それでいてこの人の志向の中に、そう言う自分をやはりアートという鎖に縛っておきたいという欲がどこか見え隠れもする。それがいいことなのか悲しむべきことなのか分からない。いや、ただのお絵かきとしてグレイトだったらいいじゃん、って、そう言ってみたい気が凄くする。そうなったらいいのに、もうそうなるだろうに、と思ってしまう。(もち、この「お絵かきとしてグレイト」という時の、アート文脈とは別種のグレイトネスにも、やはり基準があるのだろう、だとすればこの基準はどこにあるのか、それを考えないことにはこんなこと言ってても意味ないのだけれど、ね。斉藤環氏とか、何か言ってないだろか)



0508(Thu)


イデオロギー装置としての「近代」を説明するのに、『マトリックス』がもっとも都合のよい教材(?)と信じて、授業に使う。問題は、キアヌリーブス(ネオ)のように、マトリックスの外に僕たちは簡単に出られない、ということ。ともかくもあらためて見返して、この映画はまさに革命の映画だなあと感じた。
ところで、学生の間に、「パンク」が人気なのは非常に興味深い。これは単に大学のカラーなのだろうか。ぼくの中学時代のパンク体験記(4/24の日記の話)を話すとかなり反応が返ってきた。この「パンク」人気を身体(肉体)の復権と勝手に解釈してみたくなる。

下北沢のタイ屋台料理の店で、晩ご飯。ずうっと賑やかなイイ音楽が流れているので、堪らず店の人に聞くと、中村とうよう監修のカリプソのCDだった。激辛タイ料理に酔い、貸し切り状態の小さな店で、カリプソで踊る。



0505(Mon)


前の晩、あまりにテレビがつまらなくてラジオを付けると、小泉今日子の新譜をめぐる番組が。それ聞いているうちに欲しくなって今日の朝早速購入。『厚木I.C.』。デビューの当初からテクノ系だのラップ系だのの人々とコラボしてきたアイドルが、今度はとうとう曽我部恵一、浜崎貴司、BIKKEなどぼく世代のミュージシャンと絡んで作ったこの新作。彼らのプロデュース曲の中で、ひっそり細野晴臣がベースで参加しているあたりとかは、一種の逆転現象が起きていて面白い。時代感覚を捉えるのほんとにうまいなあ。ぼくは子供の頃松田聖子派だったので、まさか将来小泉今日子買う羽目になるとはゆめゆめ思ってなかったなあ。

で、そこにやはり参加している人に、永積タカシという人がいる。この人の名は、冨田LABのCDに参加していたことで知っていたのだが、この冨田との共作(「ハナレグミ」名義)の曲がもうすんごくよかったので、今回つい彼のアルバム、ハナレグミ『音タイム』も合わせて購入。この人基本はブルースなんですね。聞き込まないとよさが滲んでこない感じ。ムム。



0504(Sun)

東浩紀 笠井潔『動物化する世界の中で』(集英社新書)読了。
往復書簡の体裁をもった二人の共著。元は集英社新書のホームページ連載。編集部による「はじめ」の中にあるように、5信(東)から「急速に、緊迫の度を増して」いくのだが、つばぜり合いと言うよりは、互いが勝手に「カッカ」してゆくのをどちらも無視したままで、そのうちたまたま幾つかの小さな塔が積み上がっていったというところか。内容はともかく、そういうそぶり(「カッカ」ぶり)がぼくは「粋でない」(=「イケてない」)と思ってしまう。動物化はまさしくこの往復書簡の中で起きている!のでは。揚げ足とられたと思い込んでカッカするさま、は、でもカッカしている分だけ、むしろ相手との関係の中でもまれている人間的状況の証拠と言うべきか。ともかくも、「イケてないなあ」という趣味判断は、まさしくぼくが近代的人間観(不粋を避け洗練を重んじる)からこの書の振る舞いを見ているからだろう。

ところで、東くんはぼくと同い年なのだけれど、この人の80年代とぼくのそれとは大きく異なっていたのだなあ、と強く感じる。オタク的(中学くらいの頃そんな言葉なかったな、言われてとてもイヤだったのは「ガリ勉」だったあの「スキゾ」時代)なタイプの自己完結的振る舞いがほんとイヤで、毎日100メートルと200メートルを五本ずつとか部活で猛烈に走った後、電車のってパンクのライヴ見に行くような超フィジカルなガキだった、ぼくは。ところで、いまぼくが住んでいる近所にかつて暮らしていた東君が、「文化のデータベース化、主体の動物化、インターネット的なるものの台頭による物語性の凋落、いずれにしても、それらがまず顕在化したのは、東京の私鉄沿線の郊外においてだったのだと、いまなら漠然と分かります。そして僕は、実のところ、デビューのときから、一貫してその「郊外」の殺伐とした感覚を出発点に批評を書き続けてきたように思うのです」と振り返っているのが面白い。小田急線の中の動物状態は確かに。



0503(Sat)

花柳寿南海主宰 木の花會を見に行く(@国立劇場)。

日本舞踊というものは、イメージ的にはノリの悪い、踊っていない踊り、と思われがちだ。授業でダンスのビデオ10種(ひとつ3分)を学生に見てもらった時にも、日本舞踊(寿南海さんの《都見物左衛門》)は総じて人気がなかった。しかしこれはきっと先入観のなせる技。ほかのグループにはそういうところもあるのか分からないが、木の花會はちょっと違うぞ。かなりグルーヴ度が高かったでやんす。

基本的には、お弟子さんの発表会をかねた公演。昼の11:30にはじまり、夜の9時過ぎまで延々やっている。ぼくは最後の方の5本見た。《釣女》《二人椀久》《鳥刺》《角田川》《風流船揃》。
とくに《鳥刺》の花柳寿之介がよかった。タイトルは鳥の刺身のことではなく、「竹棹の先にモチをつけて鳥をとって商売をする人」(プログラムより)のこと。長い竹ざおをもった粋な着流し姿の男(踊り手は女)がコミカルに鳥を採りそこなう。例えばそんな「外す」動きとかがかなりカッコイイ。

ところで、日本舞踊の動きの多くは、日常の動作の模倣(ミメーシス)で成り立っている。ならば、それは演劇同様「演じる」(なりきる)ことなのか。というと、ちょっと違う。何か誰かになりすましていることが約束として観客に共有されれば、もう踊り手は自由にその何々「ぶり」をもてあそぶことができる。なんとか「ぶる」というのは、それを真似ることではあるけれど、「振る」という点で見れば、動作に集中し動いている線の魅力に集中するということでもあるだろう。ある設定の範囲で、どこまで自由に線をもてあそぶことができるのか、実は日本舞踊の世界で行われているのは、そんな線の美学の追究のような気がしてくる。例えば、コミカルな《釣女》で、「おかめ」のような顔の「醜女」と太郎冠者が正面でぶつかって仰向けに倒れると、転んだ亀のように手や脚をばたばたさせる。最初の「ばた」が「太郎冠者が倒れてあわててる」という記号の役を果たすと、次の「ばたばた」からは、その「ばたばた」振りの面白さを楽しめばよい。だから「ざーとらしい」動きは、模倣としてみるからそう思ってしまうのであって、純粋に動きとしてみるとどんどん興味深いものになってゆくのだ。

そんなこんなつぎつぎと、かなり自由に軽快にグルーヴの追及が行われている、他にも音数の少ない音楽の間と踊りの間のスリリングな絡みにやられた。

最後の寿南海は、当然素晴らしく、それまでの踊り手のグルーヴ追求のレヴェルを遙かに凌駕するのだが、高齢のためか、やや回転のさいに不安がある。いやしかしすすむにつれてエンジンがかかってくる、いつまでも止まらぬ動き、息を継がずに進み続ける線に後半ただただ引き込まれていった。

あと、「アジアのダンス」としての日本舞踊と言うことを考えてしまう。
バリの舞踊とかなり重なり合うところがあって、今回も幾つか驚く動きがあった。あるいは、奇声ぎりぎりの踊り手の声色、節回しは、バリの狂気に境を接したような声に似ている。バリと比べると淡泊、たおやかなのだが、ある基本フォーマットの料理の仕方が違うと言うだけで、元は一緒という気がしてくる。



0502(Fri)

BLOOOOM NITEという名のイベント、
Ujino's MACHINERY LAB presents LIVE @Super Deluxe
を見てきた。
珍しいキノコ舞踊団が宇治野宗輝(LOVE ARM)+ZAKYUMIKO(ZAK+大野由実子[Buffalo daughter])と共演。

はじまる前に流れていたいわゆるラウンジミュージック。
始まりも終わりも曖昧な、テーマもメッセージもないいうなればただただ装飾的・デザイン的な音楽。
それに体がなじんだころ、まずは音楽三人が即興的に始める。即興といっても、「前衛」のにおいはまるでない、ひたすら快楽的な波の追いかけっこがつづく。宇治野のバイクを模した奇妙な装置、アクセルをふかすと音がドライヴする。ビートに制御されずに、音はだから時間的というよりは空間的に思い思いにばらまかれてゆく。広げられた布に縫い込まれる刺繍のようだ。「ミライの音楽」なんて言葉が浮かぶ。作家性が消え、ただ音響の快楽が追求される。「追求」といってもエゴは希薄で、むしろ共存・共鳴の方へトライアルしてゆく。「音」は人間の身体感覚から10センチくらい遊離していて、時にオーヴァー・ドライヴする音に体は反応できずに痙攣するのだけれど、それがむしろ快楽だったりする。
さてそこに「珍しい〜」のダンサーが、中央におかれたローランドのスピーカー付きドラムマシーン(ええっこんなもんあったの??って不思議な機械。音はシンプルだがパーカッション音などメチャカッコイイ)を一人一人いじっては加わっていく。
こういう音楽の即興とダンスとのコラボレーションってよく見るけれど、こんなに相性のよいコラボ見たことない。最初、戸惑いながら伊藤千枝が踊り出した時は、音楽の「10センチ遊離」に対してダンスはローテクの体でもって挑まなきゃなんないのか!と思いやや心配になったが、しばらくすると杞憂に変わった。この相性のよさからはっきりそうだと確信したのだけれど、キノコのダンスって、要するに装飾的・デザイン的なのだ、やっぱり。昨年の作品『フリル』のタイトルから気になっていたのだけれど、、、。
minaの布生地にあらわれる様々な意匠(木、電信柱、波、鳥、その他名付けられぬ様々なかたち)のように、マスコットやキッチュな置物のもつ妙にかわいい輪郭線のように、ビニール・ボールの光る艶のように、ひたすらキノコのダンサーの動きは空間を奇妙な、かわいい、おかしな線で満たしてゆく。「ぴゃぴゃぴゃ」「しゅーっ」「くるっくるる」なんていう線の動きにメッセージはありません。縫いぐるみのくまにかわいいことの意味がないのと同じ。線の魅力をひたすら落書き帳のような空間に描き続ける。線を引く瞬間「ぴゅー」とか無意識に声を上げてる子供のように空間の落書きに没頭するダンサー。
あるいは空間のソーイング/ダンシング。ひたすら縫って縫って縫いまくれ!かわいくておもろくて不思議な線を縫いまくれ!そうですこれは単なる遊び、でも遊びだからこそ簡単に止められない。無限に続くソーイング/ダンシング。
音楽がダンスに絡まる絡み方と、ダンサー同士が絡まる仕方がすごく似ていた。それがこのコラボを成功させた一因かも知れない。いうなれば「かかわりながら争わないで、争わないけど自分の快楽はほっとかない」なんてスタイル、それがある種の共通感覚として、2003年の東京にこの空間を通して伝播していくようで、なんとも素敵だった。《ノイズ&ファンク》を見た時にも感じたことだけれど、ダンス(もちろんこの晩のように音楽も)は「アティテュード」を伝えるのに優れたツールで、そしてこのことのなかにアートというフォームによる革命の可能性をみることが出来る(のではないかっ)、そんなことまで考えたくなる。これも去年の『フリル』公演で思ったことなのだけれど、キノコを見るとぼくには「東京のコンテンポラリー・フォークダンス」という言葉が浮かぶ。ある種の「東京」の「フォーク(何かを共有する集団)」をゆるくまとめあげていくような踊りなのだ。彼女たちのソーイング/ダンシングする線は、あきらかに何かのゆるいまとまりのサークルを縫い上げている。それがみえないのは、かわいいものとうまくつきあえない「大人たち」が悪い!

ダンスの(ひとつの)未来形をみました。



0501(Thu)


ふいに思い立って、三島由紀夫「禁色」と「午後の曳航」を読む。
むせかえるほどのナルシズムとスノビズム。彼のもつ「人工性」は、ヨーロッパ文学とくにロマン主義の時期に燃えさかった、反省の累乗のもとで豊かな数多性を自己のうちに育む可能性を仄かに見せもするのだが、いかんせんこのナルシズムとスノビズムが邪魔をする。どこまでいっても軽い、どこまでも表面の文体(「午後の曳航」にはズバリ、「猫はただ表面だった。この生命はただ猫のふりをしていただけだ」なんて文が出てくる。少年たちが猫殺しをして、猫の皮を剥ぐ場面)。ぼくは川端の方が好きだな。川端は三島とは違って、文学の方法を知っているだけではなく使っている感じがする。三島の場合、セックスをしないセックス研究家みたいなところがある。この時代の文学が香らせるナルシズムとスノビズムをより薄めた形で現代に機能させようとしているのが、東京都知事ではなかろうか。と思うとこの三島に対する「何となくイヤな感じ」の背景の全体が見えてくる気がする。「彼の心の中で死はなまめいていた」(「午後の曳航」)などという言葉が響かせるナルシズムから感じることなのだが、自死と比べると命を全うする行為は、ナルシズムからより遠いという点で優れているといえるだろう。死ぬがままに任せるという「自暴自棄」(大げさにいえば)は、あらゆる他人からの接触に身をひらいた状態なのだと言えるだろうから。
土方も「死」という言葉をしばしば使う。また、周知のように三島の「禁色」は土方の処女作(?)を動機づけた。しかしおそらく「死」という語の活性に関して、両者の方向はもはや「対蹠的」と言ってよいほど異なるのだ。
以前書いた『青の炎』は、三島的気分を漂わせることである種の「気品」を醸しつつも、少年のナルシズム(自分を特権化する意識)はひんむけば結局「欲望」の力(青の炎)そのものでしかないことを暴露して、なおも加速していってしまう、その点で「倫理的」であり、現代的(2003年の現在でも見るに耐えるもの)なのだ。