日記バリのことダンスの経験ダンスの思考/哲学と美学/BBSAbout/Link/Top
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01 オリヴェイラ『家宝』/02 恥ずかしい/07 山田+天野+有田/08 塩澤典子/10 五反田団『逃げろおんなの人』/12 黒沢+オガワ 「機知」=「フットボールアワー」etc./14 北村成美/16 『マトリックス・リローデッド』/17 「珍しいキノコ舞踊団の”フリースタイル”あるいはソーイング/ダンシング」/19 『リアルの倫理』/20 「ルミネ・the・よしもと」/22 《泥人魚》/25 クレーリー/27 『relax for GIRLS』→北澤憲昭/28 山下残/29 『クイック・ジャパン』・『relax』・『パサージュ論 第1巻』・『身体をキャプチャーする』・まことクラヴ・《トーク・トゥ・ハー》


0629(Sun)


最近、インプットの欲求が高いのは、アウトプットへの熱を高めようと無意識にしているからなのだろうと信じて、余計なものを沢山読んだりなんだりしてます。
『クイック・ジャパン Vol. 49』最新号、横山剣がまさにクレイジーな顔している表紙、この歪みヤバイ。この雑誌を「エッジ」と形容するのはなんかヤだな、エッジなことねらい過ぎってところあるから、と思っていたが、やっぱり、超マイナーbutグッドな情報を得るのにはやっぱりこれなのか。気がつくと、紹介されていた”サケロック”というイージーリスニング・フォロワー系(こんな言い方してみたが、そんな系あるのか?)若者バンドのCDを買っていた。バンド名は、マーティン・デニーの曲のタイトルから。講義でこの「SAKE ROCK」の話しをしたばかり(いったいどんな授業をしているのかって?)。今週講義にもっていくことだろう。
『relax 2003/07 77』の特集は「ビキニ」。ビキニで今の気分を伝えようと言うのは、なんか絶妙な気が。今年のはやりのひとつにはサーフィンがあるけれど、映画《ブルー・クラッシュ》の主人公たちはビキニでハワイの超荒波をサーフする(予告編を見たけれど、凄い、とくに音響は凝っているらしい)。好きなのは、「オッス!帰宅部」のコーナー。公園や遊園地に行って小学生たちにインタヴュー(おしゃべり)する。ここらへんの世代の心情って限りなくフォローされずにほっとかれがちなのだが、自分のこと思うとホントに高速回転で色んな感情を生きていた時期なのだし、こういうアイデア、素直にいいなと思う。別に好きじゃないけど、「こういう時はいつも男の子を誘っているから」でダブルデートしちゃう女の子たちへのインタヴューが楽しい。親には依存したくないけど、恋愛にはまだはやい自分の今をそんなやり方で楽しんでいる、ちょっとオドロキ。「女の子同士だと、遠慮とかしちゃうから。男子なら、いっつもふざけてるから言いたいこと言えるし」、もう完全に男子いいオモチャです、男子こんな活用女子にされてます。
『パサージュ論 第1巻』ベンヤミンについてはもうほとんど文庫で読めるようになるのでは。これは凄いことです。もっとフツーにベンヤミンについての会話を日常的にしたいなあ。そんな世の中になったら世界は変わったと思えるのだろうね。意識改革のための書。
『身体をキャプチャーする 表現主義舞踊の系譜』慶應義塾大学アートセンターのブックレット。「表現主義舞踊は、身体のもつ「力」を問いつつもなお観念的にならずに、しかも日常性に解体されてしまわないで、より高められた「力」を持ちえようとした三氏[シンポジウムに参加したダンロップ、ミューラー、シュテッケマンを指す]が指摘したのだが、このような指摘での分析はコンテンポラリー・ダンスを読み解く方法としてどこまで有効なのだろうか。ダンスが力を持ちえたあの幸せな時代を回顧し今を嘆くことで結局は終わってしまうことは避けなければならない。」当然の発言を松澤先生があえて言わなければならないあたりに、ダンスディスクールの細さ、薄さが露呈していると言えるかも知れない。

なんて本たちをバックに詰め、今日はダンスと映画をはしごした。
まことクラヴ《迷宮神楽坂》(@神楽坂、セッションハウス)。
「迷宮」とダンスとの関係について、最近ケレーニイ『迷宮と神話』という本を通じて考えていた。黄泉の国へ向かうには迷宮を通っていかなければならない。その時に生まれる迷宮は建築よりも、ダンスとしてよりはやく存在していた、とケレーニイ氏は言う。古代ギリシア彫刻にも残る、手を繋いで蛇の如き曲線の連なりを描いていくダンスは、「迷宮」のダンスだった。、、、といろいろブツブツ考えて来たものの、まことクラヴの場合、「迷宮入り」には「新聞」が最終ゲートになっているらしい、、、ムムム、分からない!
このわからなさに、最後までのってくチャンスをかき消されたようで、正直楽しめなかった。ダンスは基本的にシンプル、ダンスそれ自体で何かをつかませてやれと言うようなディテールへの意志があまり感じられない。「やってられっかっつーの」を連呼するダンスは、VACAを想起させる。ぼくのなかにどうも「このライン」というのが出来ていて、ミニマルな動きの連鎖に、ただ規則の反復という印象しか受け取ることができない(公演前後にビデオで映された、この手のミニマルダンスを町中でやるパフォーマンスは、黒沢美香でもう十分、という気持ちがどうしても湧いてきてしまう)。
どこにこだわっているのかがつかめないのだ。真面目に向き合おうとすると、「いや部活ッスから」と言われている感じがしてしまって。「中森下真樹菜」(森下真樹)のところも、扇子をばちばち叩きながら踊るのは面白いが(この人は笑いがとれる女性として希有な存在、皮肉ではなくてお笑い路線で行ってもいいのでは、とちょっと思ってしまった、ごめんなさい)、「宴会芸」というか「部活芸」であって、だからどうなの?ってどこか満たされない。いたるところがそんなまじめとはぐらかしの往復になっている気がしてしまう。そんでも「部活」という青春に一種のノスタルジーを感じ、また素人芸って「許して」見ると楽しいねって思えれば、例えば裏「コンドルズ」的な人気を獲得するのかも知れないという予感は起きる。そういうニュアンスで考えてみて、でも「裏」(「迷宮」とか「新聞」とかあるいは「眠り」とかダークスーツでの不穏な踊りとか)の意味がよく掴めずわたしゃあ入りきれなかったッス。

そして帰りに、ペドロ・アルモドバル《トーク・トゥ・ハー》を見る。
冒頭と終幕にピナ・バウシュのステージが取りあげられている。前者は《カフェミューラー》、後者は《緑の大地》。この映画、要するにピナ・バウシュのダンスをアルモドバルが解釈した映画、というような作りになっている。後半ある事件が起きるまでは、いかに男性というものはダメで、男性の生きる道は唯一女性を介護して生きることだ、ということが切々と語られる。それは《カフェミューラー》で、目をつぶった女性が進む道を作るのに、必死になって椅子や机をどかし続ける男の姿と重ね合わされる。しかしこれで済まないのが、「奇才」アルモドバル。その後の奇妙な展開は、おすぎが「10年分の涙を流した」と言うようには、簡単に感情移入を許さない。カエターノのパフォーマンスも見られる、ともかくお得な映画でした。



0628(Sat)


山下残《残という名前の男》を見た(@水上アートバス、ダンスパフォーマンス、日の出桟橋→浅草)。
枇杷系、北村そして山下と今日で今年の水上バス企画を一通り見たことになる。今年は、「水上」の出来事であること、あるいは、「観光バス」の中で起きることを意識してどの作品も作られていたように思う。この企画の成熟が進んだというようにも言えるだろう。そんで山下残なのだが。
冒頭、脇の方でバスの震動に同調しているかのように痙攣しているかと思うと、遠い目で、川にか川岸にしか分からないが「おーい」と誰かに挨拶をかける。その後、下に降りるとテーブルに坐り、お猪口で酒を飲みすしをほおばる。次に見学者を呼んでおしゃべりしたり、自分が食べていた残りのすしを食べてもらう。その時には気づかなかったのだけれど、これは「魚」という伏線になっている。残はトイレに消えるとハチマキに「残という名前の男」と書いた別の人物と入れ替わる。入れ替わった「残」に導かれて再び船上へ。みどころは、かつお(?)を抱えて空中を泳がせながら縦に長い通路を進んでいくところ。残念ながら見学者が多く、泳ぐさまは断片的にしか観察できなかったが、地上と水面下をぐるっと反転させられたような、そんなイメージに思わず引き込まれた。これがダンスなのか、それは皆目分からない。でも、二つの世界の間を縫うように走る「水上バス」という場には相応しいこのイメージは、死んだ魚をむりやり泳がせているその無理やり加減がちょうどいいのかも。今度は金魚鉢から金魚がすくい上げられると一旦床に落とされ、その金魚に同調するように残はピクピクと床を這う。そして金魚はまたつかまえられると隅田川へと投げ飛ばされる。残は再び金魚を思うように「きもちいい!」と叫びながら宙を泳ぐ。最後に、金魚鉢の中に一本花が差し込まれてエンド。
前回の北村が、観客とダンサーの敷居を緩やかに取り除くダンスだったとすれば、今回の残は、水上と水面下の間を反転させようとするダンス(?)だった。ここでなければありえないアイデアに溢れた作品という点で、なかなか見応えがあった、のだった。

その後、某大学講師会へ。生きることは戦うことなのだと知りました(トホホ)。



0627(Fri)


雑誌は世間の「旬」をつかまえるメディア。そのなかでも読みたくなる、どうしてもフォローしておきたいのはエッジな雑誌。今なにがエッジな雑誌か、もし聞かれたらぼくなら『relax』と答えますね。
このような雑誌のなかで「アート」の概念は、揺さぶりをかけられ、2003年の感性に相応しいように更新されている。今日買った「for GIRLS」(リラックス増刊)は特集が「イーリーキシモトとメルボルン」なのだけれど、イーリーさんのテキスタイルのデザイン(絵柄)が10頁くらい目次のあとすぐ紹介文もなく続いてゆく。この特集頁の最初に付された文句には「art for all みんなのアート」とある。こういうセンスに2003年現在の感性をぼくは感じてしまう。テキスタイルをアートの一員に格上げすると言うよりは、テキスタイルをアートと呼ぶことで「アート」概念の緩やかな更新がなされているように思う。
個人的に最近凄く気になっている「グラフィティ」のこともフォローされていて、ニューヨークで単身「ボム」っている日本人女性が取りあげられたりもしている。その他にも最終ページには喜多順子という『VOCA展』入選者の作品が何気なく見開きにページにドーンとのっていたり、そうだと思えば、「手芸部」と題字されたページには浅草橋や日暮里の布地屋さんやビーズ屋さんが紹介されてたりもする。
こういう日常的なデザインによって、自由に「アート」が読みかえられているさまはなかなか痛快。この点、『アヴァンギャルド以後の工芸』や『「日本画」の転位』で評価を得ている北澤憲昭さんならば、どう考えるのだろう、と思ったりする。明治時代以降の近代化は、日本に「美術」という概念を導入させ、その概念に入るに相応しいジャンルを選別しまた相応しからぬものを排除した。北澤氏は、この時排除された「工芸」こそ、反アートの試みとしての「アヴァンギャルド」と重なり合い、アート概念に揺さぶりをかけるジャンルになりうると述べる。ぼくが思うに北澤氏の論述で残念なのは、論理としては同意できるのだが実際の工芸を見渡すとなかなか北澤氏の言うような「アヴァンギャルド」的作品が生まれているとは言い難いと言うところ。工芸にこだわるのは、氏が日本美術史にこだわっているからで、その意味では北澤氏は美術史批判というやり方であるにしろ論理がそれに依存していると言わざるを得ない。要するに、ぼくだったら、工芸にこだわらずに、現在のデザインの隆盛あるいは服飾の展開の方に視点を移すことを考える。そこではまさに、アートの概念から自由なあるいはそれを更新するような「アヴァンギャルド」的動きがどんどん起きているのではないか(「アート」と「日常」の境界を崩すことがアヴァンギャルドの方法のひとつだとすれば、これらが日々実践していることはまさにそれだと見なすことも可能だろう。勿論「前衛」の方向をうち消すような力がそこに働いていることもまた事実なのだけれどね)。例えばこの『relax for GIRLS』なんつーのを見たりすると、そんなこと思いついたりするのだ。



0625(Wed)


Jonathan Craryの新刊SUSPENSIONS OF PERCEPTIONを読む研究会を上智大学でやっていて最近のぼくの憩いの時間になっている。「博覧強記」「百花繚乱」といった感じで、異様なほどどんどん人物名詞が出てくるクレーリーの文章。「よく勉強したねえ、よしよし」と言ってやりたくなるが、その分一つ一つに対する批判が中途半端で雑。次第にクレーリー批判に終始するようになる。でも、「注意力(attention)」という言葉をこれだけ分析したものはないのだろうから、その手の研究者(「注意力研究」なんて表だったものはないけれど、でも今後流行るかも知れない。「情報化社会」では「選別」「分類」の問題が自ずと主題化されるだろうから)にとっては必読書という事になるだろう。
その研究会には、学部一年の非常に英語が読めるメンバーがいるのだけれど、彼女から「木村さんー、顔半分ムラサキ色してますよー、大丈夫ですかあ」と心配されてしまった。心身共にやつれていたにはいたのだけれど、そんな顔しているかあ。ジェスチャーから顔の右(or左)半分がということらしいけど、ブラックジャックじゃないんだからさあ。といいつつ、なにかを見透かされたような気がして、またそう指摘されると本当にやつれているんだと納得してしまった。はい、ぼくは疲れてます。



0622(Sun)


唐組《泥人魚》を見た(@新宿、花園神社)。
久しぶり(11〜2年ぶり)に唐組を見た。テント側面がバッと開かれると神社参道をけったいな格好ではしる唐の姿が。テントの内と外との境界を揺さぶるやり口は相変わらず。この唐の自転車に括り付けられたブリキの板。湯たんぽを作っている男の家が舞台として設定されていて、その材料ではあるのだけれど、最初これは、《肉体の叛乱》の真鍮板のオマージュか?と思わせた。それはぼくの思いこみによる思い違いかも知れない、このブリキ板は、諫早湾の海と調整池とを隔てる門へと読み替えられていく。調整池をめぐる問題、それが「人−魚」というハイブリッドな存在の問題として展開する。以前見た時に比べるとせりふ廻しがもたもたしていて、若手中心の公演の甘さを感じざるを得ないと言う気持ちにもなったが、唐のこのようなイメージを転がしてゆく方法の面白さは健在。
最後、これもお決まり、舞台奥が倒れてテントの外にまで舞台が広げられる。今日思ったのは、戯曲の中の縺れからまった展開をイメージの方に向けて疾走しようとするとき、むしろ開かれるのが現実への通路だと言うこと。いや現実をイメージの場として開こうというのか。このイメージと現実とが錯綜する瞬間が唐のつぼだとすれば、これはやはりシュルレアリスムの日本的展開とみなしてみたくなる。土方の舞踏による方法との違いをゆっくり考えてみたくなる。
でも、事実としては、なぜいま「唐」なのか、という問いが起きる。過去の遺物か、それとも。



0620(Fri)


ふと思い立って「ルミネ・the・よしもと」に行って来た。
要するにミーハーなんですね、ぼくは。講義で「機知」という美学の概念を扱う際にお笑いを資料に使ったら実際のライヴを見たくなってしまった、というわけ。
夕方からやっているのだけれど、二部構成で4時からが新人を中心とした「2h(にえいち)」、7時からが大物を中心にした「7じ9じ」になっている。どちらも面白かったしいろいろなことを考えさせられた。
ダンスではほとんどの出演者(ダンサー)が女性なのだけれど、お笑いはまったくの逆。その対照が一番気になった。男の出る幕はダンスではなくお笑いの方にあった、といっても過言ではない(か)。笑いというのは、漫才師の力量がはっきり面白いかどうかを左右する、ほんと。ちょっとでも「つまらない」と思わせてしまえば、観客はどんどんおとなしくなる。でも、客をつかんではなさない技をもつ者たちは、いつまでも観客をひきつけて笑わせ続ける。
あと、興味深かったのはお客。出演者が若い男たちと言うことは、観客の多くは若い女性たち。彼女たちの笑いのピントというのは、「見事!」と言っていいくらいネタのピントとずれていて、全然関係ないところで笑っている。まあ、お金払って笑いに来ているのだから、どこで笑ってもいいといえばいいんだけれど。あとは、ネタのスピードについてこれず隣の友達に聞く子の多いこと。笑いってかなり教養(雑学)を必要とするものなんだよね。「農民一揆」も「桑名正博」もどちらも知らなければネタで笑うことは許されないのだ。
でも、中川家とかは、内容と言うよりも、「間」(ま)で笑わせているところがあって凄かった。最高の水準の笑いは、そういうリズムなのだろう。高水準でありながら誰でもアクセスできるところがグレイト。



0619(Thu)


アレンカ・ジュパンチッチ『リアルの倫理』(河出書房新社)を大学図書館から借りる(原書のタイトルは「Ethics of The Real」なので、訳は「リアルなものの倫理」であるべきだろう。名詞で「リアル」はちょっといただけない、それはともかくとして)。
今週火曜日、母校でやっているKU研究会で「現代思想のカント受容」なるテーマの小発表をした。その際に盛んに話題になったのは、「カント」を参照することで、自分の格を保証しようとする最近の傾向はやだね、ということ。本当によく見かけるこの身振り、でも、この本はちょっと無視できないところがありそう。ぼくはジジェク系のラカン=カント解釈とスピヴァク系のカント解釈だけは、読むべき所があると思っていて、この本は前者の最新の書というものらしい。ジジェクが序論を書いている。ジジェクは彼一流の映画分析を披露しつつ、ウッディ・アレンは、実生活を映画に反映させているのではなく、「「実生活」のほうが、芸術作品の中で典型的に見られるような記号化された行動パターンを模倣するのだ」と語り、このような主体の問題のラカン的読解はカント批判としてではなくカント解釈として有効なのだとみなしてこういう。「ラカンの言う「主体の脱中心化」とはまさにこのことであり、この脱中心化された主体とカントの超越論的主体との間にある血縁関係を見ることは、けっして難しいことではない−−要点は、両者とも空虚であり、内部にいかなる実体をももってはいないということである」。このような解釈には素直に賛同してしまう。なるほど確かに、「超越論的」という思考の中に「空虚」という概念は密かにであるかも知れない(この言葉が用いられているとは言えないかもしれない)がはっきりと機能しているに違いないのだ。
ところで、
このジジェクの序論の最後がなかなかいい。
「同僚の哲学者にとって真の敬意を表す唯一の反応は、嫉妬に悶え、そして憎むことである。−−何ということだ!私ともあろう者がこの著者に先を越されるとは!そうすれば私は、ぬくぬくとうぬぼれに浸っていられただろうに!」
こういう言葉って本当に「批評的」で「爽快」だなあと思う。そうだよなあ、でも案外こういう経験って希有。こんな嫉妬を人に与えることも与えられることもあったらいいよな、と思いますね。



0617(Tue)


『BT/美術手帖』で「STAGE HEAD」のコーナー連載、はじまりました。第一弾は、珍しいキノコ舞踊団です。色んな要素が詰まってますが、一つには、「線の美学」の観点からダンスを見るということについて、今回書いてみたかった。「線」を愛好するホガースからカントという流れ、それはさらにカントの共通感覚論まで問いを延長することができる。
ちなみに誤植は編集部によるものだということを弁明させてください。

ところで、今月号で取りあげられているヒロ・ヤマガタは、かなり気になる。横浜でやっている展覧会は、天気のいい時に是非行ってみたい。

この晩、母校でKU研究会を行った。今日はぼくが「現代思想におけるカント受容」について発表をした。ぼくも一応カント読むんです。何故かこの晩は、異常なほど少数精鋭、こゆいメンバーがそろってしまった。黒崎先生は最近毎度のご出席なのだが、若手の若手が恐れをなす人物もあらわれなかなかいいバトルになった。アーレント、リオタール、デリダ、スピヴァクのカント解釈をそれぞれ斬ってみましたよ、大胆にも。いやあ、それはともかくとして、そのあとの飲み会が凄かった。全員がカント研究者なので、お互いのことで下手な事は言えない。そうなると第三者の悪口大会になる(いやですね、人間という性を感じますな)。その「第三者」のレヴェルが、内容が、凄かった、トラウマになりそうだっ!



0616(Mon)


『マトリックス・リローデッド』見ました。終わったあと、周りの客が「ズリー(ずるい)」と言っていました。次の見ないと何にもわかんないよ、って言う展開で、そりゃないよっ。アクションシーンは、まるでディズニーランドの3Dのアトラクション的に迫力があり、それが三本分あったと見れば、それだけで1800円の価値はあるかも知れない。けど、このアクションシーンと「哲学的」とも称されるストーリー(ないし設定)を語る場面とが連動していないのが、不満。終わりのあたりの「マトリックスには六種類あって〜」なんて話こそ映像で説得して欲しかった。前作の方が、そういう努力があったと思うのだが。期待していただけにやや残念。



0614(Sat)


水上アートパスダンスパフォーマンスで、北村成美をみた。
(浅草→日の出桟橋)
サーヴィス精神旺盛北村は、バスのあらゆる場所に座る乗客すべてにダンスを振る舞おうと右往左往する。この北村をどう見るか、じっと坐っているだけでは、ちょっともらいが少なく物足りなく思う。でも、この空間全体に自分を振りまくことが肝心なのだと言うダンスなのだとすれば、この空間全体が緩んだ心地よい自由さを満たしていること自体を楽しむべきなのだろう。
先週の枇杷系と比べると端的なのだが、枇杷系のようにバスに劇場用のダンス(とほぼ変わらないもの)をおく場合、ダンスは人を招くと言うよりは人に距離をとらせるところがある(ex.山田せつ子の配るカラフルな包みものをもらっていいか戸惑う客)。北村の場合には、客は北村のリズムに同調しようと、こっちのできることを探したりし始める。ダンスには誘惑と拒絶の二つの側面がある、としたとき、このような水上バスという環境でどちらの側面がより効果的であるかを考えさせられた。

水上バスは観光用で通勤用ではないのだが、さらにそこにダンスがあることで、40分はあっという間に過ぎる。通勤電車でダンスやって欲しいな(冗談ですけど、でもあったらいいな)。電車の中で、二人でおしゃべりをする。ただのおしゃべりなんだけれど、ちょっと聞き込んじゃう話が含まれているような話をする。「静かな演劇」を現場にもっていく、とどうなるのかなと言うことを昔夢想したことがあった、っけ。




0613(Fri)


ラボセレクション、大倉摩矢子は、欠席しました。体調くずしました。夕方にくしゃみが止まらなくなり、こんな調子ではSTに行けないと、しぶしぶねてました。明日は、水上アートバスダンスパフォーマンス、北村成美。見られないかも。



0612(Thu)


黒沢美香+オガワ由香をみた(@ラボセレクション、STスポット)。感想後日。


木曜日は「お仕事」日で、先生ぶっていなきゃいけない日である。でも学生の方は、ぼくの努力などつゆ知らず、友達みたいに接してくれる。授業の後にまるで日替わり?って感じで彼らはぼくに話しかけにきてくれる。時には、ぼくが教えてもらうこともある。今日も。

今日からある授業で、「機知」という言葉をめぐって講義をしている。機知は、二つのものの間にありえない類似を発見してしまう能力。その例に挙げたのは「お笑い」。
今回ある学生から18時間分のビデオを入手して「お笑い」(ネタもの)見まくったが、とくに凄い!と唸ったのは「フットボールアワー」。

「〜夏休み嫌いですねー。セミがミンミン鳴いて、ハトがポッポポッポ鳴いて、電話がりんりん鳴って、ミンミン、ポッポ、リンリンって「ミポリン」やんかー。ミポリンがうるさくてしゃあない〜」。

「ミポリン(中山美穂)」と「セミ」「ハト」「電話」(まとめて「夏休み」)がその鳴る音の文字的な連なりによって重なり合う。こうやって分析しちゃうと「醒める」が実際のマンザイは堪らなく面白い。凄く複雑な構造をしているのだけれど、ネタとしては20秒くらいでさらっと喋って終わってしまう。潔い。でも、これよく見ると「セミ」はともあれ、「ハト」と「電話」が何で夏休みなの?と学生に言ったら、授業後で自分の解釈を披露してくれる学生が現れ、「ハト」は関西人にとっては修学旅行で必ず行く「ヒロシマ」を想起させるもので、故に「ハト」=「夏休み」は自然であり、「電話」は、「リンリン」となっているところから「黒電話」だと分かり、ならば、「おじいちゃんちに遊びに行った時の朝」を思わせてやはり「夏休み」アイテムとみなすことが出来る。さらにこれは「夏休み」=「懐かしい」という連想のもとで「ミポリン」が出てきてもいるのだという。いやいや、ここまで考えてくれるとは。本人は、「関西ではこんなの常識ですよ」と一言。そうですか。ありがと、脱帽です。



0610(Tue)


五反田団『逃げろおんなの人』を見た(@駒場、アゴラ劇場)。
数日前から予習のつもりで、販売されていた過去の台本を何冊も読んだ。面白い。そのなかに『逃げろ〜』も入っていたのだが、これがひっちゃかめっちゃかで、どうやってこれが舞台に上がるのだろうと思っていたら、いやはや、とんでもないことになっていた。

見ていない人(で見に行こうと思う人)はこの後読まない方がいいかも知れない、、、

簡単に言うと「夢を舞台にした作品」なのだけれど、「夢」という設定ないし約束事をこなす演技ではまったくない。「ああ、ここどこお?」なんてせりふはないわけ。夢の中では繋がらないものが繋がったり、不自然なことが自然に起こったり、その不自然さを不自然と思わなかったり、ひとが猫になったり(猫を帯びたり)、空を飛んだり、一度出てきたアイテムが全然別の文脈で再登場したり、などする。こういう夢という現象がつぶさに記述される。平田系「静かな演劇」の方法論をこのように「夢」に応用した人なんているのだろうか(オリザ氏もやっていないのではないか)。観劇後、まずそのことに驚く。
和室六畳みたいな居間、「ビデオ返しに行かなきゃ」と言い始めた「妹」が、小さなちゃぶ台の下を通ろうとして何度やっても上手く行かない。そこが通路でそこを通らなければいけないみたいなんだけれど、見ている側は「何のこっちや??」。こういうのが、ウケねらいのボケの連打だったら、観客は笑っていればいいのだが、どうも笑っていてもしっくり来ない。ギャグマンガやマンザイであれば、つっこみが入って、不可解さについての溜飲が下がる余地がある。でもそれがうまくいかない。その違和感の理由は、この作品が「夢の記述」にひたすら集中しているからだろう、と思う。では、「夢の記述」が一体、「静かな演劇」の応用ということ以上のどんな意味があるのだろうか。
と、ちょっとまじめに考えてみようかと思うのだけれど、夢という現象は、演劇においていわば「アブジェクション」(おぞましきもの、排除すべきもの)の位置にある、そこに揺さぶりをかけようと言うねらいを感じる(こう深読みをしたくなる)。「演劇というもの」は、脚本家や演出家と観客との間で共有できる、一種の「共通感覚(常識)」への信頼をもとに、あるいはそこにすがりながら展開すると言うことがある。このことは、自明なことかも知れないが(いやいや批判吟味するべきなのであって)、この「信頼」は、常識の共有できる人びとのサークルを自ずと形成してしまっている、ところがある。そしてこのサークルは自ずとサークルの外にあるものを排除する機構をもつが、こいつは自らを自動的に働かせながら同時に自分の仕組みを人目に隠すところがある(こう書くと、やっぱスピヴァクの「脱構築」論を思い出さずにはおれない)。「演劇というもの」は、ようするに「常識」のトレースであったりして、そうと気づけば、見ることは結局「常識」の確認に過ぎないのだから、あらためて見る必要はない(だから、ぼくはほとんど演劇は見ない、のかも)。
それにひきかえ、「夢の記述」はひたすら「私的言語」だ、といっても夢の出来事というのは、夢を見ている人(「妹」)にとってさて意味の分からない事柄の連鎖なのだ。それが舞台上に置かれる。もはや役者も意味のとれないせりふを不確かに口にしている、よう。誰も夢の出来事についていけない。でも夢は勝手にどんどん突き進む。夢なるアブジェクションが今は主人公、どんどんしゃべり続ける。笑っても腑に落ちない、でも体がどんどん笑い始める。夢と体が勝手に対話しているのか、もうこっち(人間)の威張る余地はない。
あと、いくらでもつっこめるのだけれど、やっぱり「山田」(今回の役柄は「人」)のこと。あとは、不安と夢の展開の関係。あるいは想像界と象徴界の夢に於ける往還。猫。卵。「妹」のだらけた猫のようなおなかの感じ。

や、ホントこれ見といた方がいいですよ。つうか、演劇はこんなことやっているのか、ダンスどうするよって、かんじ?



0608(Sun)


JCDNというNPOがこの三日間東京で大会をやっていたのだけれど、最終日は、「踊りに行くぜ」という全国巡回公演の関東地区予選をやった、それを見に行く。
公開審査なのだから審査員は自分の判断を観客(純然たる関係者以外の「観客」はいなかったのだけれど)の前で表明して欲しかった。それは一応置いておくとして。
奥田純子+塩澤典子+森下真樹+康本雅子+岡田智代+金井久美が1人ずつ踊って、トークして審査される。
ぼくは純粋に「観客」の立場でずっと見ていたのだけれど、ダントツ一位は塩澤典子「ギギギギファーファーファーボボボボウーウーウー」。二十分一本勝負のパンクのライヴのように、一直線で突き進んでいく。一曲目は髪の毛「貞子」状態にして、髪が横に揺れるのとあしが軽いステップを踏むのがダンスになっている。「ダンスになっている」?、「ダンス」という言葉が自ずと帯びてしまっているモダン・アートのニュアンスはこのダンスにはない。ただじっとパンク系音楽のもつ衝動を捕まえていく。それがステップとかリズムをもった動き=ダンスになっている、ただそれだけだ。これを「ダンス」とみなすかなんてどうでもいい、むしろこのダンスに「ダンス」が揺さぶりをかけられているんだぜ、ってことが重要。トークのところで、塩澤が、ダンスの公演会場にパンクファンは来ないし、パンクの会場にダンスファンはいない、そこに不満があるというようなことを話していた。彼女のしているデペイズマンの身振り、その批評性に評価が下されることを!最後の曲では手話の動きがでてくる。これを「手話」として片づけてしまえば、「手話を「ダンス」の場所でやられてもネエ」的な浅薄な過小評価を呼んでしまうかも知れない。でもぼくにはハワイアンとか日本舞踊にある「あて振り」のエッセンスを感じた、それにビジュアル系のバンドでファンがやる動きにも似ている、だるそうなそれでいて微妙に楽しそうなそんな身体がここ(「ダンス」の審査会場)に置かれたことが何ともイイと思った。地方の「踊りに行くぜ」公演で、塩澤のこの作品が、「ダンス」なんて普段見ない知らない興味ない故にホント偶然に来てしまった若い人びとに鮮烈な興奮を与えるかも知れないことを勝手に妄想して(「ダンス」の枠に安住しているのではこんなことは起こりはしないだろう)、かなり盛り上がってしまった。

今日は乗り物に乗っている間、ずっとうすた京介作『ピューと吹く!ジャガー』を読んでいた。素晴らしすぎる。どうしても声を出して笑ってしまう、どう考えてもヤバイひとになっている。これが累計120万冊も売れていたりする状況に驚きつつ(『少年ジャンプ』連載らしい、、、)、漫画の世界はかっこいいなあと思う。ひたすら「私的言語」の猛襲。壁の落書きのようなコマのところに、「アプダクション」の文字が。要するにこういう漫画はほっとけないわけよ、と思う(って塾の高校生に教えてもらったんだけどねこの漫画の存在)。



0607(Sat)


水上アートバスダンスパフォーマンスの企画で、山田せつ子+天野由起子+有田美香子をみた(浅草発→日の出桟橋)。
休日の水上バスを半ばゲリラ的にのっとってダンスをやってしまう大胆企画。大胆だけれど、挑発的な傾向はなく、どんな楽しみ方でもオッケーだぜって雰囲気ができあがっている。その今年第一弾。
白いワンピースの三人が、鉱物の輪郭のような、植物の蔓のような、ユーモラスで繊細な線を描きながら、デッキまでの通路を歩いてくる。音楽はない。でも無音ということではなく、バスのエンジン音や波の音が音響になる。三人の動きがこのノイズと何か深いところで繋がっている感じのする、うまく説明はできないのだけれど。揺れるバス、で踊る、その切ない頼りなげな踊りが、しっかり伝わってくる。(うまくかけない、ので、後日書き直します)



0602(Mon)


地元東金が市民のためにおくる広報誌、『広報東金』、この今月の「今月の主役」のコーナーは、ぼくが登場してしまう(『美術手帖』受賞がらみで)。そこで「インタヴュー」というものを初めて受けた。ぼくがはじめて美術に興味をもったのはいつかなど、市役所の広報課のお兄さんに質問を受けたのだけれど、じぶんのことってホントよくわからないんですよね。「あのー、そういえば小学校二年生くらいの頃、応接間にあった近代絵画の画集で、「ダリ/エルンスト」の本をよく眺めていましたね。それが高じて、伊東の池田二十世紀美術館に春休み行ったりしました。あれが最初だったんですかねえ、、、」などと話してはみるものの、なんか嘘くさい。自分を語ることは、どうしても騙ることになってしまう。だって、あのとき美術館への興味が一割で、九割の関心は美術館の脇にある「一碧湖」のバス釣りだったんだから(あのころ自分は釣りキチ三平だと思い込んでいた、てっきり)。でも、こういう場合用に「木村覚の個人史」なんてものをでっち上げておく必要があるか(、、、ないか)。写真も撮ってもらったんだけれど、とられるにつれて顔が堅くなってくる、どんどん目が睨んだようになる。人前で笑えって言われてもネエ。



0601(Sun)


オリヴェイラの『家宝』を見た。たまたま映画の日だったので安く上がった分、夕食をつい奮発してしまった。ポルトガル映画にかけてスペイン(?)料理店でパエリアを。だが何しろ高かったので腹八分目、そのためつい帰りにさらに中華料理店でチャーハンを食べてしまった。なんだかね。