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(200307)

02 田中聡『不安定だから強い』/04 一足お先に夏休み/05 手塚夏子/10 斉藤環『文脈病』/12 通りすがりの女/15 渋谷の谷川人気/18 ポカリン/ 19 ネクステージ(ボヴェ・山崎・濱谷・岡)/20 ネクステージ(黒田・大植・白井・林)/22 KU/25 KATHY/29 『曖昧な未来』/31 『自殺サークル』
 *ダンスは
赤字


0731(Thu)


気温上昇!ようやく「暑くてヤダねー」なんて言える夏到来、か?遅い昼ご飯買って、煮詰まった原稿をほっぽっといて、ビール飲みながら、ナツウタを探す。とりあえず、GREAT3『ROMANCE』の「ナツマチ」にしよ。

「人生最高の/一日なんてもう/とっくの昔に
終わってしまった/そんな気がする/どうでもいいけど」

なんで夏は始まると同時に寂しくなるんだろー、もう切なくなってる、もう終わりを語っている、どこからか劣等感が湧いてくる、そんな真実があって、でも、

「君を抱いていられないのなら/あと2回しか夏が/
来なくてもいい/小さくなるくらい/くいしばっていた/
歯を見せて笑った/夏を待ち」

なんて未練たらたらだったりもする、実のところ。こんな輪廻が、次の「玉突き」って曲では、

「好きになって/嫌いになって/愛しあって/愛をなくして/誰にだって/よくある話って/わかるけど/また恋に落ちる」

ってもはや昆虫並みの本能が夏によって晒されてしまう、その人間(いや、つまり「オレ」)って奴の切なさが沸騰している。


園子温(その・しおん)『自殺サークル』をレンタルで借りて見た。
コノヒトのことは、10年以上前、彼が『自転車吐息』という映画で注目された時に大ファンになって、その時には、彼にサインをもらってそこに「頑張れ意志」と書いてもらったことが凄く嬉しかったのだが、その彼がエンターテインメント(あるいはジャンル)映画を作った。「自殺」という表現によって自分を表現するしかない事態を「現代」とみなした映画、と言えようか(「仕掛け」を少し無視して俯瞰すれば)。「自殺」という表現は派手で強烈な記憶(心的外傷)を人に与えるかも知れないが、同時に貧しい。貧しいけれども精一杯派手な表現を選ぶ時代のつらさヤバさを思う。その昔、お百姓さんやって、村祭りで好きなおなごつかまえて時が来れば親が決めた嫁さんもらっていればよかった時代には、自分を表現するなんて大変なコトしなくてよかったのに、誰もが携帯もったり大学行ったりバイトしたり会社入ったりする世の中で自分を表現する(社交する)ことの難しさに絶望する人は多いのではないか。だってその人の遺伝子に含まれていないのだから無理なのはしょうがないではないか、なんて暴言を吐いてしまいたくなるほど、実際に恐らくかなり困難なのだ。姉妹が路上で縄跳びしているところに、「楽しそうだったから」という理由でナイフをもって突入してしまう少年の想像力と表現力の貧しさは、彼の責任なのだろうかとさえ思ってしまう。ふー。「近代」を生きることは、今の人間にとっても、とっても困難なのだ。



0729(Tue)


『曖昧な未来』という『アカルイミライ』のドキュメンタリー映画がある。これを一日三回くらい見て、アドレナリンを溜め込んでいる。このなかで黒沢がいったこういう言葉にシビレてしまう。

……ただ勘違いしてはいけないのは、ぼくを含めた大人たちにとって明るいという意味ではないです。若い人たちが明るい未来を作っていく、若い人たちにとって明るい、それが年寄りにとっても明るい同じように明るいというところに大変な間違いがある。とことん価値観は対立したままです。

あの映画はこのように正しく要約される!と思うのだけれど、ドキュメンタリーが黒沢を斬る時に「曖昧」というキーワードをもってきたのはこれまた正しい、と思った。撮影はフィクションであり、ノンフィクションである、それは役者が考える役と監督が考える役とがひとつの体の中で曖昧に漂うということでもある。それを積極的に認めながら撮影する黒沢の映画は、難解ないし解答のない映画ということになるのだけれど、むしろその「曖昧」さのなかにある多様性、自由にこそ彼の賭があるのだということがよくよく分かった、のだった。



0725(Fri)


この晩雨の降る六本木、KATHYをSuper Deluxeで見た。
謎の女三人組。今日はファッションデザイナー津村耕佑(こうすけ)のファッションショーのなかに混ざってのダンス。彼女たちはGEISAIで脚光を浴びるようになったわけだが(先月号の『美術手帖』に5頁にもわたって特集された)、今回は服飾系の企画と絡んだり、またこのイベントの後半には、珍しいキノコ舞踊団のときにもコラボしていた宇治野宗輝がでたりで、もっとも軽いフットワークをもちクロスジャンルでやれているダンスグループと言えるかも知れない。顔を明かさないグロテスクさとファンタジーと過剰なオブジェが交錯する。ダンスがパーティーに機能することのおもしろさ。「作品以外」のダンスの可能性をボクは強調したいっ、とこういう機会にひたすら思う。雑誌のページとページの関係くらい、ゆるーいゆるーい関係の連なりがここちいい。帰りに食する場所をもとめて雨のなか見知らぬ街をさまよう。外国人の多い街と言うこともあり、異邦人感覚にちょっとトリップ。時間がなくて回る鮨を二皿ほおばって濡れた体に熱燗して帰った。

STスポット、ラボセレクションでの山賀ざくろ《エレガンス》についての拙評がSTスポットのHP上に掲載されました。表紙にすぐに行けるようにしてあります。どうぞご覧になって下さい。そしてざくろさん、これはぼくの愛と期待の結果ですので、なにとぞご立腹なされないように!



0722(Tue)


今日のKU研究会も相変わらず「こゆい」メンバーで行われた。凄い凄すぎる。怖すぎる。毎回の飲みが今後の語り継がれるレジェンド!ここで認められたらカントで生きてけるかも、でもさもないと、、、ウワーッ!



0720(Sun)


ネクステージ二日目。
結果は、黒田育世が《SIDE B》でアワード受賞。彼女にはよかった(!)と思うのだけれど、しかるべき若手の対抗馬がいなかったことはかなり残念。黒田についてはどこかでまた書くとして、二日目の三選手のことを。
大植真太郎《リビングルーム》
下半身パンツ姿で新聞を読み、コーヒーを入れる。エスプレッソのポットを足に引っかけて巧みにコップに注ぐ。新聞には何故かメグミルクが貼りついていて、それもリズミカルに注ぎ口がコップに突っ込まれ、最後の数滴を振り切る時にもリズムが跳ねる。マイム的な遊びでエンターテインしながら、そこにダンスが起きる。麻袋のようなもので体を隠して手足をだして四本で歩く、手の方が赤いヒールを履くと男とおんなのダンスが始まる。アイデアは素晴らしい!もうぼくはこういうファンタジーを見せられるとゴリラにあったマイケルみたいにはしゃいでしまうのだけれど、でも残念ながらアイデアがさらに発展・展開することがなかったからか後半単調に見えてきてしまった。「飽き」が来てしまうのは、ダンス(ダンシーなもの)に没頭してしまうような時間が乏しかったからか。そうはいっても次作も見てみたい人である。
白井剛《衝動とミディアムスロー》
20分のはずが40分やってしまうなど白井暴走の巻、アワードらしくないデタラメさが随所にあった怪演だった。踊ってくれればまちがいなくある程度の快楽を満たしてくれるのに、そこに全然入っていこうとしない。その代わりに「ムダ」と思える神経質な動き(ドラム用バチが置いたイスから落ちると進行をとめて置き直しに行ったり、、、)に、なにやら独特の「間」「リズム」が生じている。それを見る。客席の方に降りたあたりは、《銀河計画》の笠井を思いだし、なにかとてつもなく深遠な?ヤバイ!ダンスの神秘に手をかけていこうというそんな意思が一瞬香った。
林貞之《ワタシガモトモトモトモト・・・コノヒト》
「はじめ人間ギャートルズ」的、文明以前の集団の奇怪な肌触り、が「なーにやってんだか」という笑いに落ちるのだが、「あー林さんてこういうひとなんだねー」なんて案外気楽に傍観できるところが不満。泣くほどそれで死ぬほど笑わせてくれたらいいのに。系統としては、まことクラヴなどを想起するが、例えばぼくは初期型のわきの下「プッ」のダンスの方が正直狂うほど笑えた。より方法のなかに前のめりでつっこんでいけば、よかったのかも、しれない。



0719(Sat)


トヨタアワード、ネクステージ一日目を見た(@シアタートラム)。
ボヴェ太郎《不在の痕跡》
下半身の柔軟で安定した動きはちょっとドキドキさせる、方法としてはバレエ的なものではなくストリート的なもの、要するにムーンウォークの応用なのだけれど、それがこういう場所にあらわれるところがそうさせたのだろう。しかしこのことが自覚的・批評的に行われていたというわけではないようだ。上半身(手の動き)は、バレエから流れてくる優美さのラインを大きく逸脱することがない。あるところからこれは勅使河原そのものだ!という声を耳にした、なるほどね。
山崎広太《Night on the grass》
以前見たもののショート・ヴァージョン。深海の世界のような、静謐さを感じる。そこはかとなく悲しい、それがどこから来てどこへ向かう悲しみなのかは分からないのだけれど。山崎以外の人の動きに強力な説得力が受け止められればよかったのだろう(でも、大久保裕子の早くて強くてしなやかな動きには目を見張った!前回見た時も彼女ばかり見ていた記憶が)。山崎広太は、終盤以外はひとり舞台奥で「狂人」の如く佇む。脈絡の分からない断片の繋がりが、ある種の連続として迫ってくる。「狂人」のなかの生理がダンスとなっている、そんな強度をもった時。ダンスはどこか非理性的、意識を超えた次元にある、そんなダンスの本質的性格のなかで、一見尋常ではないこの瞬間もある、のではないのだろうか。
濱谷由美子《prologue of Rassel》
以前見た時に比べて格段の成長を遂げた作品、ではあろう。なんなのか分からないけれど、ある種のテンションを持続した動きが起きていれば、その中で見る側もそのテンションの「張った糸」の具合を楽しむことができる。それでいいのだ。でもやっぱりダサいセンスが残っていて、赤いラインの前に二人並んでなんだか心電図の線みたいな手の動きをするところなど。ここのあたりをどう解釈すればいいのかもうよくわからない。
岡登志子《Way in the Dark−闇の中の道−》
「コンテンポラリーダンス」という言葉が、それまでの既存のスタイルに当て嵌められないから便宜的に「いま」という言葉でくくろうとしてると言うニュアンスではなく、まさしくスタイル化してしまった結果、その基本OSを疑うことなく、その範囲で新しいもの未知なものを取り込んでいこうという、そういう作品に見えた。カエルやハエの音、気配の感覚は好きだ。でもそれが「ダンス」というものとどう関わっていくのか、「ダンス」にどう揺さぶりをかけ、更新をすすめていくのかという点に目配りが見られない。



0718(Fri)


ポカリン記憶舎《ピンポン》《アイスクリン》を見た(@アゴラ)。
「着物美人」がウリなのだという。スタッフがみんな着物で出迎え、役者も何人か着物で登場する。短編二本の今作は、間にトークがはさまれるのだけれど、その中で主宰の明神さんは、着物への熱い思いを語っていた。特に身体論へ繋がる問題として着物に注目しているらしいが、どうも舞台そのものを見ている限り、その効果はみられない。むしろ、、、
むしろ気になったのは、無邪気に応用している近代的な演劇法の踏襲。「近代演劇力」と名づけようか。要するに、アゴラの小空間にもかかわらず、向かい合う二人が異様に大きな声で張り上げてせりふを喋る。ときどき電車のなかで必要以上に大きな声を出している人がいて、ぼくはどうもそういう声に神経が触ってしまうのだが、その感覚に似ていた。目の前に相手がいると言うことを意識した演技であればそんな大きな声はありえないはずなのに、そう思うとせりふがどこまでも独り言のように聞こえてくる。あるいは、独白を二人の人が交替で読み合っているというような。
興味深いのは、そういう「近代演劇力」は、観客の側にある種の力を振るうところがあって、リラックスして笑ったりできない空気が広がっている(そこが例えば五反田団と比較したくなるところ、同じ場所でもこうも違うか)。演劇ってそういう圧力を観客にかけたりするのだよな。「着物美人」というフレーズにせよ、おしつけがましい、と言う感じがしてしまいました。ずっとひとりでおしゃべりをつづけてこちらは30分くらい合いの手しか入れられない、そんな電話をしているような。これは、トークのときの明神さんを見ていても思ったこと、ようするに演劇って脚本家なり演出家なりの人(「観念」あるいは斉藤環氏的に言えば「顔」)を見ることなのですね、どうも。



0717(Thu)


國學院大學に宮下誠プロデュースの美学講座を見に行く。谷川先生に用事があったこともあったのだが、学生の谷川人気の凄さに驚いた。確かに、澁澤系の美学を志向する人たち受け皿としてはここしかないということもあるのでしょう。喜多崎親氏のギュスターヴ・モロー論が面白かった。ちょっとチェックしてみよう。



0715(Tue)


砂連尾+寺田《ユラフ》をみた(@シアタートラム)。

妙に抽象的で妙に具象的、この二人のダンスは、よかれ悪しかれこの間で漂う。
デュオは「会話」という言葉を想起させる。会話はそれ自体で興味深い、帰りの世田谷線でであった病院の話ばかりしている二人の老婦人の会話も、二人にしかない呼吸(間)があって、言葉の癖とかイントネーションとか、「聞くべき対象」として耳を傾け始めると何か掛け替えのない個性をそこに受け取ることができる。だから今日の二人のダンスも「会話」としてみた時、二人によってしか出てこないものを呈示しようとしているのだから、それが「妙に抽象的で妙に具体的」だろうが、それでいいじゃないか、という気にもなるのだが、、、
どうしても砂連尾の腰(あるいはむしろ背中)の硬さが気になる。冒頭彼ひとりが踊るところで、低く屈む姿勢になるところ、どうしてももう数センチ腰が入れば「ツボ!」なところに入り切れていない。と思い始めてしまうと全体にそのところが不完全燃焼と思えてしょうがなくなる。寺田が加わる、しばらくは舞台奥で横切るように後ろ向きで進む。この後ろに一歩退く時の脚の「シュッシュッ」と上下に振る仕草がダンスになる。寺田の動きはこれでもかと身体の仕草的ツボに入ってゆく。はじめて見て「寺田ファン」になる人が出てきても不思議じゃない、キメキメの魅力的でユーモラスな動き。二人が向かい合って同時に腰を落とすところでは、寺田のお尻がくっと後ろに(しかもちょっと上がり気味で)突き出されたりするところなんかもタ゜ンス的にキュート。その時の砂連尾はけっしてそんな腰の(お尻の)動きのツボを狙わない。この対照は、意識的なものなのだろうか。つまり寺田はよりダンシーに、しかし砂連尾はやや硬めに、とか。こういうところが分かりにくい。つまり彼らはこういう「会話」を見せたい、と言うことなのだろうか。
今日はともかく寺田を見ていた。寺田はかなり観客への意識が行きとどいていて、ユーモラスな仕草も観客に伝わっていく。特に寺田で興味深かったのは、突然しゃがんで「おめぐみちょうだい」みたいに手を出すなんて、イタリア映画の「小僧」みたいなイメージが突然入ってきたり、かと思えばスカートを静かにユラして首を傾げて歩く「ウィドウ」みたいなイメージが続いたり、単にあるひとつの女性像を描くなんてことに止まらない、変幻自在な要素があらわれたことだ。そんなことしてきた際に、砂連尾はどう対応するべきか、「受ける」か「すかす」か「ぼかす」か「のる」か、、、砂連尾の方から切り出す瞬間があってもよかったろうが、それがはっきり出てこないのも二人の「会話」を重視すれば納得できる、としようか、「寺田に対する砂連尾」らしい、と(この点、砂連尾のフェミニズム論なんてあったら聞きたいところでもあったり)。
照明などやや過剰演出かとも思ったけれど、全体として昨年末に見たヴァージョンよりは遙かに楽しめた。ただ銃声のような音がしたかと思うと舞台全体が明るくなりフィナーレ、ラストは頂けない!と思ってしまった。床に散った赤い紙片が過剰な意味を帯びてしかも予期せぬ方向に一義化してしまったからだ。たしかに、ユラフというテーマにおいてエンド(終わり=目的)をどうするかというのは難しかろう、だからこそ、それゆえにそれは余計な解釈をよびこむだけ、ではないか。
補(抽象的で具体的とは、日常をしばしば想起させる動きである点で具体的であり、それがつねに「振り」へと昇華されんとしている点で抽象的、と言えるかな。ちなみに日舞にもこういう二面性があるのだけれど、日舞は「日常」の動作を名前にしているのに対して、二人のこの作品は動作の状態性を名前にしている点がちょと違う、ってのはどういうことなんだろ!)



0713(Sun)


《ブルークラッシュ》を見た。すばらしいです。必見。



0712(Sat)


あるダンサーのことをまとめようとしてずうううっと逡巡している。気負い過ぎなのだな。そんで、夕方からビール飲んで(風邪完治してないのに!)まったりしてダメな人になって後悔しているので、ちょっと雑文。以前から思っていたこと。

『ボードレールにおけるいくつかのモティーフについて』のベンヤミンに、ダンスを語るのに相応しい印象的な箇所がある。それは次のボードレールの詩、「通りすがりの女」への解釈にはじまる。

「(……)ひとりの女が通りすぎた、褄とる片手も堂々と、
裳裾の縁飾り、花模様をゆるやかに打ちふりながら、

軽やかに気高く、彫像のような脚をして。
私はといえば、気のふれた男のように身をひきつらせ、
嵐が芽生える鉛いろの空、彼女の眼の中に飲んだ、
金縛りにする優しさと、命をうばう快楽とを。」

都市の街路、群集のなかに「女」を見かけた一瞬。ベンヤミンは「この詩では、心をうばわれる瞬間が同時に永遠の別れである」との的確な読みを示した直後、この詩の提示するものを、「ショックの形象」「ある破局の形象」とする、さらなる解釈を重ねる。
ダンスへの愛のひとつは、このような「一瞬」性にあるのではないだろうか。現れた瞬間にどんどん消えていくダンスというもののはかなさ。ただしダンスの「一瞬」を愛好する者は、ダンスの細部を愛好できる者であるに違いあるまい。細部への眼差しがダンスをいわば街路の「群集」のごときものとしてとらえる可能性を与える。あたかも、群集のなかに分け入り、時に肩をぶつけながらさまようひとりとしてダンスに介入していく時、ベンヤミンが「ショックの形象」と呼ぶようなダンスに出会うことができるのだろう。ショック回避の装置をはずして、裸足の状態でダンスの「充溢せる身体」に触れる、その経験こそ、その他のどの芸術ジャンルも与えてくれない経験なのではないだろうか。ぼくがダンスを見に行くのは、このような経験を求めてなのだ、と言ってしまいたくなる。
「通りすがりの女」としてのダンス。

ちなみに、『ベンヤミン・コレクション1 近代の意味』(ちくま学芸文庫)を参照。



0710(Thu)


火曜、水曜といつもの二つの研究会に参加したが、風邪がひどくて苦しかった。今世間は風邪大流行中である。ぼくだけじゃなくて研究会でもう一人か二人はやられている。夏の風邪といえば、バリに行くとかならず風邪をひいた。あれはバリの空気にぼくの体内免疫力がうち負かされるためだろう。そんなことおもいながら薬でぼーっと。

斎藤環『文脈病』(青土社)。以前から気になっていたこの本。扱う対象が、ヘンリー・ダーガー、望月峯太郎『座敷女』やら、吉田戦車、宮崎駿やらだったことが大きい。でも、文章がかなり恣意的で、この人の妄想を読んでいる気になってしまう(といったら言い過ぎだろうか)。例えば「ファリック・ガールズが越境する」というダーガー論では、「戦う少女」を論じるという主題を置きつつ、ダーガーの少女に何故ペニスがついているのか→切り抜きのコピーで少女を描いた「写しの写し」→少女のペニスは「回収しきれない過剰」であり、そこでは「ファルス」ではなく「子供」が表象されている(??)→われわれはダーガー作品などを通して「ファリック・ガールに導かれつつ「子供」になってゆくこと」を志向する。このような箇条書きでは分かりにくいかも知れないが、実際よく読んでも分からない。なぜ戦う少女(ファリック・ガール)が、ダーガー的「ペニス」問題へと迂回しながら、しかしただの「子供」というレベルで収束してしまうのか、しかもその子供が「レピッシュ」(「破瓜病的な子供じみてばかげた態度」を指すらしい)として片づけられてしまうのか。なんか対象が面白く、「少女のペニス」という重要な論点をつこうしているだけに残念な展開だ。
ぼくがダーガーの作品を見て驚いたのは、「支配者的男性」と戦いつつ彼らから自由であるような少女がそこに描かれていると思えたからだ。「戦う」だけではつねに、戦う主体は戦う対象に存在理由を依存してしまうことになる。戦うことが少女たちの存在理由ではなく、彼女たちは、戦いの最中にも無邪気なのどかな戯れの時を興じている。戦わざるを得ないのは、彼ら(男たち)がちょっかいだしてくるからで、彼女たちの生活は彼らなしにはない、ということはない。故に「ペニス」は「戦う少女」の戦闘性にも関わっているかも知れないが、それよりなにより彼女たちの自立(ないし自足、自律)の象徴ではなかろうか。もちろんダーガーの男性をめぐる二面性にも、注目しなければならないだろう。つまり彼は収容施設の威圧的な男性に対して嫌悪しながら(その意味で戦う少女に自分を重ねる)、自分もまた少女を欲望の対象として見ている。男性の描く「自律した少女」という屈折を保ちながら、でもやはりその自律の謳歌を、ダーガー作品から聞くことができるのだ。



0705(Sat)




手塚夏子《私的解剖実験地図》を見た(@ル・デコ、渋谷)。

短期間に手塚夏子はぐるぐると変転を繰り返しているのだが、しかしその軌跡は単に個人の作品制作の変遷ということにとどまるものではなく、それはぼくの目には、何かダンスというフォーマットそのものがもつ問題の中心をめぐっているように思われる。

それは「意識」という問題をめぐっている。手塚はどこまで意識から自由に身体が暴走できるのかを踊ろうとする。ところで、ダンスというものは、技でありながら技を隠すものであるということ、隠すと言うことがさらに自分自身にとっても隠れたものであろうとする。「優美」の概念からダンスを見る時に即座に噴出するこの意識とダンスとがもつスリリングな関係、手塚作品のもつスリルの一端はここにある、とぼくは思っている。

今回の《私的解剖実験地図》は、こんなことを空想しているぼくには第三の段階に立つ作品という印象がある。昨年の1月にSTスポットで行われた《私的解剖実験2》が、意識からの自由、身体の自由をめざして暴力的な突進を試みたとすれば、この第一段階に対して、「トヨタアワード」以後の手塚は、この「実験」に「作品」としてのステイタスを与えようとしたように思う。見せる試みが行われた時期、この第二段階は、「意識からの自由」を踊るダンスというように、大げさに言えば「実験」の方法は意識的に作品の素材として扱われる時期だった。「実験」と名のつく「作品」を志向していたかに見えた手塚が、その自意識を抱えながらあえてさらに「実験」であろうとしたのが、今作、《私的解剖実験地図》。この迷走の軌跡自体が、ともかくもダンスの問題と併走しているように見えて、手塚のアイデアのもつ豊かさに驚くのだった。
つづく。



0704(Fri)


昨日で春期の授業が修了、ほっとしましたね、有志の学生たちと下北沢のタイ料理屋で飲み会しました。


0702(Wed)


だらーんと一日家にいてぐだぐだとしているのは久しぶりな気がする。
いま坂口憲二くんがタヒチでサーフィンをやっている番組を見てぼけぼけしているのだが、波がもつリズムというのはとても奇妙なものだ。地上ではあまり見かけない、ある一定の緩やかなリズム。そこに「メロウ」なんて言葉が、突然、サーフィンにむけて使われたりする理由があるのだろう。サーフィンスピリットを豊かに語った本があれば読んでみたいなあ。とかいってでもぼくはサーフィンで立ったことがない、ほとんど「丘」ですが。
本と言えば、田中聡『不安定だから強い 武術家・甲野善紀の世界』は、軽妙にしかし正確に甲野の武術スピリットを伝えてくれる良き本。甲野氏本人のものより甲野氏のことがわかるかも。内容には哲学的なところがあるのだけれど、文章術はあくまでも平易でジャーナリスト的。そんな方法があるのかあと感心した。