日記バリのことダンスの経験ダンスの思考/哲学と美学/BBSAbout/Link/Top
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(200308)

01 丹野賢一/NUMBERING MACHINE《PUNK EXECUTION》/02 第2回 阿佐ヶ谷バリ舞踊祭/04 『殺しのドレス』/05 虚弱微弱/06 毛皮族『夢中にさせて』、黒沢美香+上杉貢代+堀江進司《東京ロケット》/08 物質と精神と萌えと不安/12 ムーミン/13 帰省/14 F兄弟との楽しい晩餐/15 『シティライフ』/16 送り/17 やませかおい/19 『ベアーズ・キス』『10話』/21 KU以後/22 イジー・トルンカ『真夏の夜の夢』/23 《午後舞踊》/24 『ホテル・ハイビスカス』 /29 舞城王太郎/30 妻有ニブロール/31オトギノマキコ《かわいい内臓》

 *ダンスは
赤字

0831(Sun)


オトギノマキコ《かわいい内臓》を見た(@Plan B)。
今年一月のラボではじめて見たオトギノ。その時の気になる感じが気になって行ってみた。
カラーはシンプルで明瞭。女の子的なもの、かわいいこと、というか「ぶりっこ」なこと。外見をこしらえ上げる「ぶりっこ」の内側から生じる破綻(内破)が動きになったもの、なんて物語で整理したくなる。ポータブルプレイヤーのロココ的音楽とか、キャンと鳴き歩行するオモチャのイヌとか、白いしイヤーウォーマーとかがある。イヌが梱包されて箱に入れられ胸のところで強く揺すぶられると、「キャン」とはっきりではなく「キュン」「キン」とかすかな声がして、なかなかグロい。かわいいがこわいへと移行(内破)する、の一例。このコワレルは、明らかにベルメールあたりを連想させる、でんぐりがえしの途中で潰れた体の相貌へと応用される。どうしてもこういうテイストには個人的に好感をもってしまうのだが、もっと極まった瞬間があるような気がして、欲がでる。それはやはりダンスへの欲だ。かつての体操着のような格好にウォーマーを耳に当てて、静かにちょっとだけ脚を屈伸させるところ、には奇妙な感覚があった。ここにポイントを絞るか?微かな鈍い味を噛み分ける。また、ディズニーのエレクトロニカルパレードの曲で直立して踊るところ、一旦人形的に意志から解かれた体が、ディズニーらしい表情豊かな曲にロックフラワーのごとく反応する感じは、イイ。ブトー?ロボットダンス?マイム的なコントール?あるいは手塚的方法?でもどれにも掠りながらどれでもない。どれでもないというところで、では何であるのかが見えてくるまでにはいかない、が。としても、音楽にノる、ということについての独特な彼女的解釈というものが、何かを引っ張り出してくるような予感がある。イチゴジャムに綿棒を突っ込んでそれを耳に入れてみみそうじをした後の、最後のせいこちゃん(曲は「白いパラソル」)は、ぶりっこ聖子の首の振り方とかが確かに繊細な微動を含んでいたことを思い出させ、それが内側から破綻していくような(今日は何故か変な「内破」の語を用いているが、そのイメージは多分、昨日読んだ岡崎京子『ヘルター・スケルター』の「りりこ」の身体にあるのだった)様が、何か不思議な説得力をもっていた。このあたりは、あと二曲くらいやると、何かに変貌しそうだった(もっと踊って欲しかった)。



0830(Sat)


今日は日帰りで新潟で遊ぶ、妻有(つまり)アートトリエンナーレを見に行ったのだ。新潟の過疎の村は、ゴミなんてひとつも落ちていなくて、棚田も含めてウブド(バリ)から三十分くらい入ったところにある、小さな村の風景などを思い起こさせる。非常に美しい。またこぢんまりとした家の周りの景観なんかも素敵で、「夢の家」と称する、昔の家を改装した作品などは、家のなかよりも外の感じ、例えばすぐ下の棚田に降りる小径とか、庭の小池とか、物干しの有りようとかがたまらなく何か心揺さぶるものをもっているのだった。「暮らし」がなんと贅沢なものに映るのだろう、家のなかの風情はソクーロフを思わせる、光とか闇とか声とか音とか。
そんなこんなぐるぐるとタクシーで村々をめぐると、色んなところにアートが置かれているものだから、むしろあらゆるものがアートに見えてきて、村を美術館にしたような、美術館が村の形をしているような、村=アート、こんな錯覚が楽しくなってくる。自然やっぱいいよね、ってアートが押しやられることもなく、結構うまく共存しているあたりが、なかなか成功の企画だなあと思った。

で、今回のメインディッシュは、ニブロール《ノート(NO-TO)》だった。
松代(まつだい)駅の近くにある文化センターのピロティ、が今回のステージ。スケールの大きさは、パークタワー並、いや奥の雨降る田園が借景になっているので、それ以上の感じがする。途中から寒さが激しくなって、集中力がやや落ちたのだが、ともかく、ソリッドなダンスの舞台を久しぶりに見た、ニブロール、これじゃん!って気持ちになった。《裏》《表》などのトライアルが、ここに来て、ぶっこわれた感じでまとまって、強いものがあらわれた。詳しくはきちんと書き直そうと思うけれど、メモを。
舞城王太郎『The Childish Darkness暗闇の中の子供』)を新幹線で読んでいたのだけれど、彼の独特の文体、脳内独り言のような言葉のリズムを、ニブロールの繋がっているようなデタラメなような動きのパッチワークと重ねてみていた。/プライベートな感情を逆撫でされる感じ。この感じの理由は、「記憶」に動きの形が連動しているように思われるからか。「記憶」となると「子供」「暴力」「遊びとイジメ」なんて連想が湧いて、自分の記憶とダンスがリンクしてくる気がする。/記憶が自我である、とある美学の先生が話してくださったこと、ボケた人がアイデンティティーを失うのは、記憶を失うからだ、と。/記憶はだからアイデンティティーとやらに絡んでいるが、ニブロールはむしろその同一性を疑う。「うそつき」と連呼するエンディング。/記憶が過去(の自分)と繋がっていると即断するのは危険だ。記憶は今に向けてデッチ上げられるもの。捏造?いやここでもう一度舞城に戻ってみたい。意識のもつ何とも不安定な流れ、実のところノイズの嵐。そこにある種の整流回路(理性)を導入することで人は「普通の人」として社会に生きているが、それはその人の一部でしかない。ぶつぶつ独り言をし続ける脳内自己対話なんて当たり前すぎて問われないだけ(でも要は抑圧されてきた)で、実は僕たちにとってはとてもリアルなもの。この、記憶のキチガイじみたデタラメの連鎖が、今回の「ノート」の姿だった、なんて思う。「すべてがくだらなくてサイコーでした。」なんて言ってみたくなる。



0829(Fri)


眼鏡を久しぶりに新調したのはいいけれど、どうも世界が歪んだように感触がこれまでと違ってしまった。渋谷から井の頭線に乗って下北沢で乗り換える時階段を降りる足元が不安定で「勘」で歩いている感じ。とはいえ、しばらくして慣れると、ぼくの「世界」はこれがスタンダードになってしまうのだろう。そうなってまた以前の眼鏡をつけたら、再び慣れない不安な感触が、そこに生じるのかも知れない。世界はかくも相対的なり。
眼鏡店の店員は、とても丁寧に対応してくださり、昨今どこでもそうな「コンビニ店員対応」とは正反対だった。でも、二つのフレームの内どれがいいのか悩んでいると、「今日お決めなさらなくてもよろしいんですよ」なんてことまでおっしゃるので、優柔不断でものを決めるのが心底苦手なぼくとしてはホントに困って、「イヤ、今日は絶対買います」なんて逆に意気込んでしまったり。なんて結局は、店員さんの選んだの買っているのだから、まんまとなのかもしれないけれど。ほんとにものを決めるのは、出来ない。絶対がない場合の永遠の相対性に苦しみ結論を出す時、たいてい、決め手を見つけられた達成感よりは、なし崩し的偶然に身を委ねたむなしさばかり漂うもの。だからこういうものは他人に決め手もらう方がいいのかも知れない、だってそもそもボクは、鏡に向かうわずかな時以外自分の眼鏡(姿)なんてほとんど見ないんだから!

今日はその後、前から気になっていた、
舞城王太郎(まいじょう・おおたろう)の
『The Childish Darkness 暗闇の中で子供』(2001)
『九十九十九』(ツクモジュウク、2003)
を購入。ちょっとよんだところ、かなりほっとけない気持ちになる。



0824(Sun)


中江祐司《ホテル・ハイビスカス》をみた(@シネマライズ)。シネマライズの日曜の最終回は1000円なんですね。ディスカウントセールにつられるみたいにして不意に見てしまった。



0823(Sat)


ローランプティや白州もほっぽっといて、片道ゆうに3時間半かかる北関東前橋にまでダンスを見に出かけた。考えてみれば、神奈川→東京→埼玉→群馬、四都県を行ったり来たりしたわけだ、旅だよ。
《午後舞踊 其之弐》という名の企画(去年がその一だったらしい)で、staccato on staccato、塩澤典子、くぼ月彦、ザパッチ怪盗団(staccato+塩澤)。
ザパッチ怪盗団〈キオクドライブ〉:ツナギ姿の女三人、《ダウン・バイ・ロー》あるいはコーエン兄弟のようなオフ・ビートのダンス。staccatoのマイムというか物語志向にこのセンスはいけるかも知れない、でも塩澤は?ぼくの目には随分違うセンスのふたつなので、噛みあわなさに見ていて照れてしまった。「塩澤典子の呼びかけにstaccato on staccatoのメンバーが応える形で結成したカンパニー」ということで、塩澤にグループでやりたいことがあるってことに興味が湧いた、が、それは何?
くぼ月彦《再生〜Re birth〜》:ぼくは「自分語り型」よりも「情景描写型」の表現が好きなので、やや苦手な作品となる。この手の作品を見るとこれがダンスだったら、と思ってしまう。
塩澤典子《Birth》:塩澤の新作、パンクというよりはビョーク、あるいはフォーク(民族的音楽)の要素をのこした音楽というイメージ(赤いハイネックセーターに薄い小さな花模様のスカートがそれを助長する)。反復の振りが、ロック的なリフのようにみえる。まだまだ荒っぽいけれど、秋の公演ラッシュ以後、再び練ったこの作品をもう一度見てみたい。
staccato on staccato《スタッカートオンスタッカートの「勝手にしやがれ」》:11本のコネタを連打。見たことのあるものも多いので、新鮮さはそれほどない。音楽の趣味がよく、振りにもオリジナリティがある。あややの「ズバット!」みたいに大きく「のび」する瞬間は独特な痛快さがある、しかもそれがゴスペル歌手みたいな体格でやられれば、、、。沢山作品を作って厳選されたら(今日の会場がライブハウスで、バンドとのアナロジーでそんなことを考えた)、イイグループになるだろうに、と思った。女コンドルズ?いやダンスの森三中?

一番驚いたのは、新前橋から会場までてくてく歩く間、家を新築している脇を通ると、デュランデュランが聞こえてきたこと。いつだ?


夏の気分を盛り上げるDVDと思って、アマゾンで買ったのがしばらくして届いた。アマゾンとかは、時間差が起きるので、欲しい!と思った時の思いが持続してなかったりして困るのだが、「夏はやっぱ青春オバカ映画でしょ?」ってことで買った《初体験 リッジモント・ハイ(FAST TIMES AT RIDGEMONT HIGH)》(1982)は素晴らしかった。ショーン・ペン演じる、クレイジーな高校生(ジャンキーでサーファー)は、しゃべり方や異様な躁状態とか、《チャーリーズ・エンジェル・フルスロットル》のキャメロン・ディアスを思い出させる。アメリカ人にとって、こういう青春映画は、心の深層にあって強く彼らを規定しているのかも知れない。日本人にとっての「ふぞろい」とかみたいに。ひたすら男も女も「アレ」のことしか考えていないのだけれど、リアルでコミカルでせつない「あっというまFAST TIMES」が不思議に奇蹟のようにトレースされる。音楽もよくて、JUNIOR SENIORみたい、とすると1982=2003みたいな不思議な等式があったりする。《ブキー・ナイツ》とか好きな人は、そのルーツ的な感覚で見られる、またGREAT3好きにもお奨め、だって彼らのFirst Albumのタイトルなんだから(「Richmondo High」あっでもちょっとスペルが違う)。



0822(Fri)


今週のムーミン一家は、洪水に遭い、水上劇場船に乗りこみ、途中でムーミンと女の子がはぐれ、牢屋に入れられ脱出し自由を謳歌しいつか一家と再会する。
その後、イジー・トルンカ《真夏の夜の夢》を見た(@ユーロスペース)。
美しい、あまりに美しい!美しすぎる夜の狂気、青を基調としたしかし無数の色の夢。
かつてクライスト(このHPではお馴染み)は、マリオネット人形こそ、バレリーナよりも優美をあらわすのに優れた踊り手、とみなしたが、「糸」を介してリアルタイムに踊るマリオネットよりも、時間を自在に滑るアニメのパペットの方がはるかに一層自由であり、美しく、狂気を孕んでいないか。人形(=死体)をコマ録りすることによって、生命を与える。しかしこの生命は、いわゆるリアルタイムに酷似しているという意味での「リアル」とは異なる生動性をもっている。最近、マトリックス以後の映像における時間操作の新時代!なんてことをぶつぶつ考えたり、おしゃべりしたりしてたのだけれど、マトリックスとは時間の問題としてアニメの文法そのものなのだな、なんて思ったり。何気ない、大理石の床の中庭を交叉する沢山の人々の光景は、複数の組のそれぞれがもつ時間が交叉している、なんて思って見始めるととんでもない映像に見えてくる。それはリアルとは別の次元で起きているとんでもない現実なのだ。不思議なコマと、その連鎖との間の真空に隠れた静と動の神秘。
そして、これを可能にしているのはただ「愛」とでもいうしかないものであることにまた、感動するのだ。愛?そう、幻想への深く強烈な愛。「愛」とでも言うべきものがなきゃこんなもの、90分のストロークで作れるわけがない。異常な、持久力のある、繊細な細部に渡る、愛。
シュルレアリスムに興味のある方は、ダンス好きも、見た方がいいッスよ。


0821(Thu)


昨日、KU研究会夏休みヴァージョンがあり、深酒をした後(酒豪のお姉さんがワインを頻繁に追加したおかげ!でも何で最近の若手女性カント研究者は美人なんだろう。男性陣のダメさ(もちルクスのことね、もち自分のこともだけどさー)とキアロスクーロ(強烈な明暗の対照=カラヴァッジョ並み)してますな)、なのに飲み足りない人がいて、家で飲み直すことに。何か最近、木村家は人がよく泊まりに来る。その後、一人が帰ると、残ったぼくと二人で昼までまたーり寝過ごし、コーヒーを飲んでまたまたーりだべり、おなかがすくと焼きそばとビールでまたーり昼だか夜だか分からない食事をとり、だらだらと。ぼくではなく、お相手のキャラ、これは。ぼくはせっかちなので、基本。しばらくたって合わないものに同調して、慣れて気持ちよくなってきた頃に相手は帰っていった。それがまだとれない。



0819(Tue)


溜まった映画を消化、『ベアーズ・キス』と『10話』、渋谷。
『ベアーズ・キス』は、かつて『コーカサスの虜』をみてちょっと好きだったセルゲイ・ボドロフが監督した、くまものファンタジー。「くまもの」というジャンルが確立しているとは言えないが、例えば、『ホテル・ニャー・ハンプシャー』で、ナスターシャ・キンスキーが扮した、ホテルに住むくまに心揺さぶられた輩なら、そんなジャンルがあったらいいと思っているはず。で、これはみごとな「くまもの」。かつて熊は森の王として神格化されたり、熊と交合することによって森と人間との関係に連続性を与える神話が在ったという(中沢新一の名著!『熊と王』より)。そんな逸話をかすめながら、サーカスの熊を愛する少女がいつか人間の姿に変身する熊と結ばれる、といういたってシンプルなストーリー。檻に閉じ込められたものが主人公であったり、他者からの侵犯に抵抗しようにもしきれない切ない物語は、『コーカサス〜』の枠組みとかぶさる。むしろ行き場のない少数者の絶望が、政治的な色彩をファンタジーに塗り替えられたことで生まれ変わった、そんなところにあらわれたる、ボドロフと言う男の希な意志を讃えるべきだろう。とはいえこの映画の魅力の8割方は、ぼてっとした唇の主人公の少女が握っていることは隠しようのない事実なんだけどね。
『10話』は、「稀代の魔術師」(by蓮實重彦)、キアロスタミの新作。固定カメラにおさめられた車乗の人々をただ見る一時間半。このカメラアイは透明人間にでもならなきゃ叶わない。もしくは神様の目線?それを体感しているんだと思うとぞくぞくするやらうるうるくるやらで、もう忙しくなってしまう。フィクションとノンフィクション、作意と偶然、キアロスタミ映画のドラマはつねにこのあわいのスリルに内包されている。ともかく、ひとりひとりの人間が生涯一回しかやらないことを見ていると言う感触は、恐ろしく神々しい。蓮實重彦も述べているのだが、この映画が女性を主人公に据えていることは、キアロスタミの初挑戦である。唯一登場する男は、主人公の息子(小学生)だけ。ここに率直なあまりに赤裸々な会話を通してあらわれる、親子(男女)関係は、あまりにもフツー(まっとう)で、例えばアメリカの人々を使ってもこれ作れるんじゃないのってところがある。そうみてみたところで、でもアメリカ映画のフィクショナルなカッチリ感を思うと、自由度はイランの方があって、表現の自由は実はアメリカなどけっして高い方ではない、むしろかなり制約されているぞ、と考えずにはいられないのだった。作品を作るということはそういう告発でもあるのだな、と。



0817(Sun)


鼻がぐずぐず、この寒さはいったいなんだ。帰省中はほとんど寝ていた。さあ明日から、哲学モードにギアインして、論文を二本仕上げるぞっ。



0816(Sat)


お盆には、先祖のたましいを迎えに行き、また見送るという行事を行う。今日は送りの日だ。提灯に火を灯し、親戚と行列をなして、ある場所にまで先祖を送りに行く。この「ある場所」というのが不思議で、近いのだからお墓に行けばいいと思うだが、決まって、線路脇のなんの変哲もないところに行き、提灯を消す。そこがある種の「入口」になっているということなのだろうが、事の真意は向こうに行ってみなければ分からない。今年は火の消える瞬間が堪らなく悲しかった。



0815(Fri)


雨が止まない、芝生が池に変わる。

どう考えても語義矛盾のある地元タウン紙がぼくを取りあげてくれるというので(土方論の余波 田舎編その2)、どしゃぶりのなか記者さんを迎えに行って自宅で取材を受ける。でも、なんか気がつくと記者さんの身の上話を聞いていた。「そうなんだ脚本家にねえ、なろうと、、、で賞の応募とかしているの?」とか。大体、全然記者さん予習してこないので、真面目な話しを途中からする気なくしてしまったのが大きな要因。だって「、、、そうか、えっとお、じゃああ、そもそもう、「舞踏」と聞いてどんなことを想像します?」(ぼく)「はい、「舞踏会」です(元気よく!)」(記者さん)「あああ、「鹿鳴館」のあれとか?」(ぼく)「はい(元気よく!)」(記者さん)。こういう人に限って、帰りに「原稿の直しは事実誤認の場合に限ってください、、、文章書き直されたら私の来た意味がなくなるので」などとおっしゃる。あまりにおかしくてかなしい。



0814(Thu)


兄弟で塾に来てくれているF兄弟二人を、夏休み特別企画として夕食に連れて行く。行く前に弟(中二)と英語をやるが気持ちは食べ物の方にふらふらふら。何を食べに行くかでずっとおしゃべり。「インドネシア料理」「インドカレー」「パエリア」など浮かぶが結局、「ハンバーグ」(コドモ!)と言うことになり、どしゃぶりの中、三人でハンバーグ屋へ。帰りにどしゃぶりの海をひやかした。



0813(Wed)


「ダンス」のこと書くのは、「身体」のこと書くこととは違うのだけれど、だからといって無視しちゃって、身体論のイマドキモードを見失うのはダサイ、ので、こやつも(身体論も)気にしているつもり、つもり。昨日上げた原稿を書きながら読んでいたこの本、『<身体>は何を語るのか 20世紀を考える(U)』新世社に載っている大澤真幸の「生権力の変容」は、そんな意味で一読に値する論考でした。アンソロジーなのに、一人で100枚以上書いている!大部なのだけれど、彼の「第三の審級」っていう例のアレを身体の論理へと移しながら、しかもひたすら近年の猟奇的犯罪(もっともよく扱われているのは宮崎勤)の問題を取りあげつつ論じている、というところが特徴。まあ、驚くほどに批評的(論理的・哲学的ではなく)連想によって議論がどんどん展開されていくので、ナンダカナー、なところもあるのだけれど、「第三の審級」の議論が近代的主体の問題を露呈させるのだとすれば、結論部でそこからの乗り越えが説かれる、このプロセスは、ぼくの基本的な立ち位置と重なるので参考にはなる。他者と自己とが交錯するめまいを起こすような経験を回避して両者をひとつのモードで媒介してしまう「第三の審級」によって防衛してしまう、そんな防衛壁が起こすトラブルから自由になること(これ、そのままボードレール論のベンヤミンですな)、結論はこう結ばれる。
「<私>が他者に魅了され、他者へといわば変容していく体験を回避するために、第三者の審級が投射されているのだ。そうであるとすれば、われわれは、投射の前に踏みとどまり、他者との交錯の体験を積極的に引き受けなくてはなるまい。」
これって鈴木雅雄ちゃんと同じじゃん、というか、ぼくの土方論の基本的な枠組みとほぼ同じなんだな。ようするに、20世紀のモダニズム批判(土方の舞踏論はまさにこれだと思う)はいまだに課題なのだ、ということなんでしょうか、ね。



0812(Tue)


渋谷でパペットアニメの〈ムーミン〉を見に行った。それほど強烈な表現に溢れているというのではないのだけれど、「アニメ」を見るということは純粋に快楽のあることだ。「動く」こと、それが映像のもっとも核となるファンタジーだということがもっともエレメンタルに直感出来る、その快楽。「動いている」だけでわくわくどきどきしてしまう、って単純なのかもしれないけれど、そんな正直なドキドキ感は誰にも否定出来ない。でも、きっとあちこちに坐っているちびっこの方がもっとドキドキなのかも(帰り際、ちびっこの群れが扉から飛び出してきて何ともかわいかった!でも小さすぎて踏んでしまいそうだった!)、、、あの頃に比べれば、没入度が浅くなっているような気がする。十秒を一時間くらいの密度で体感していたあの、白昼夢深度よ、甦れ!



0809(Sat)


<仮面舞踊劇>(ウロツテノヤ子、ユリアティ、デワアリットなど出演)を見てきた(@西荻窪、音や金時)。ぼくが4年ほど前、バリのウブドというところにしばらく隠遁(?)していたとき、そのプリアタン村で一番のダンサーだったユリアティ。彼女が日本に来ていることを知ってオドロキあわて、早速見に行った。この企画の主催は、男性のバリ舞踊家、小谷野哲郎という人なのだが、話を聞くと八年バリに滞在して、修行してきたのだそう。最初、「バリの人?」と見間違ってしまったほどイイ踊りを見せた。トペン(仮面)を被ったこの人が突然日本語話した時には驚いた。肝心のユリアティ(現在19才)は、4年前見た時よりもややふっくらとしていて、シャープさに欠けていた。でも日本とも西洋とも違うバリニーズの身体の美というものがあって(インドの女性を想像すると近いのだけれど)、曲線だけで出来ているような柔らかい輪郭が特徴的なのだ。その点の魅力はあったのだけれど、少女の華奢な体のもつ、鳥の足のような鋭角線が踊るダンスの激しさはここにはなかった(ぼくのバリで見たユリアティはまさにこれだったので)。
とはいえ、本場のバリダンスを体感出来る貴重な機会なので、お奨めでッス。

8/21、22
POTALAKA SPECIAL「牡丹灯籠」
に、再びユリアティが参加します。
@西荻窪、音や金時(ネパール料理が美味)
料金 3000円



0808(Fri)


久しぶりに村上隆HPを覗いたら、第6回 芸術道場昇段試験の結果が発表されていた。お題は、「芸術における「物質と精神」」「「萌え」の構造」 。ふむふむ。「萌え」ってよくわかんないよねって、B帖編集者の方と話していたので、お勉強のつもりで、ふむふむ読むが、、、あまりよくわからない。要するに、「萌え〜」の瞬間のリアリティーが「すき〜」とか「まじで?」とか「イイネ」とかとどう違うのか、どうして「オタク」バイアスがなくちゃならないか、分からない(そりゃ「オタク出自」のものだからだろうけれど、そんなローカルな話がどうして重要なのかみえないのだ)。東君のパフォーマンスによって、このローカリティが「日本の今」なのだ!という説得がなされて、「ハーネー」と納得させられた時もあったが、「ここ数年、べつにオタクなしにやってんじゃん日本」、って思うとホントにある時代(例えばオブチ政権下)の産物って気にもなる。要するに、「萌え〜」をもっと書いて欲しい、それどんなリアリティ?

って、ここのBBS見てたら、面白いもの発見。人の精神「不安(定)」を商売にする薬会社が、向精神剤の広告に、さまざまな「不安」のイメージを呈示してきた歴史。「解消」を売るためにはまずは「不安」がなきゃダメだもんね。「不安でしょ?こんな感じでネッ」ってな具合。そこでフィーチャーされるのがシュルレアリスム絵画(マグリット風)だってことも「ベタ」で。そういやあ、昨日ロングトークしたある人(踊る人)によると、「不安」は背中のあたりに宿るらしい。精神に問題があり、不安を感じている人の背中はカチコチなのだそうだ。こういうのも「人間学的唯物論」(ベンヤミン)といっていいのかな。徹底的に物=身体から精神=人間を理解するんだから。オカルト的なんだけど聞いているうちに異様に説得されてしまった。

あとここで談志さんがもの申してました。

0806(Wed)


今日は二本立て。
昼に先ず、毛皮族『実録!!ヌッポンオエロケ犯罪歌劇 夢中にさせて』を見た。
演劇はいわば小説、ダンスは詩だと強く確認した。何せ長い、全長三時間、立ちあがる時苦労する。小説の特徴はどうでもいいことがどんどん差し挟まれてくるところ。いつまでも始まらないしいつまでも終わらない。ベンヤミンは確か、映画と同様小説のこういう特徴を「気散じ」の文脈で論じていたと思う。集中でなく弛緩してみるものなんだ、と納得してからは面白くなってきた。ただし、レビューとか、前座のSPEED(?)みたいなグループの歌とか、踊り出すとダルイ感じがどうしてもしてしまう。戯曲レベルの小ネタはまあまあなのだから、ダンスとか動きの方でも洗練があっていい。演劇の横山剣、「昭和」の力をもてあそぶ。ならば、あとはどうリミックスするかが見る方の関心、最初の方のシーンで、江本純子(作・演出・出演)が、横でナレーションしながら、どんどんことが進行していくあたりの妙にはそそられたりしたので。
夕方、黒沢美香+上杉貢代+堀江進司『東京ロケット』を見た。
冒頭と終わりにやった振付のダンスがなんともイイ感じ、スコーンと突き抜けていた。黒沢の空間で踊るダンサーは、マジックにかかったように素敵になる、このことは「ダンス☆ショー」でも感じた。自分なりの踊りをやっているのに、バラバラなのに閉じていない。こんなイイものが見られた晩には、幸福感がしばらく体に漂い続ける。



0805(Tue)


原稿を書く時だけぼくはタバコのやっかいになる。そのタバコの吸いすぎか、手足が微弱にしびれて、外出中断。と突然大雨が。



0804(Mon)


朝、デパルマの『殺しのドレスDressed to Kill』を久しぶりに見た。
夕方、信じられないような記憶違いをした、自分不信になる。不毛な外出の穴埋めにHMVで夏のCD漁り。『Listen!01』という雑誌が「夏」「メイク・ラヴ」のテーマで色々な人のCD紹介を載せている。それに促され、買った一枚、Junior Seniorの"d-d-don't stop the beat"が最高。パーティ・ロック?カラオケ・ロック?ソウルフルで青春!でも歌っているのはどう見てもさえないボーイ&おじさん。ロックの「パワー」ってとこだけを抽出して増幅させたって感じ。



0802(Sat)


今日は、夕方から阿佐ヶ谷の神明宮境内で行われる「第2回 阿佐ヶ谷バリ舞踊祭」にてくてく行って来た。境内の参道をステージに、その両脇に観客が地べた座りするというリアルなマニア的な会場に思わず心がざわつく。「これだ」。
BINTAN BEERを買って見る。あまりの客の熱気で気分が悪くなり演目全体の2/3しかみることが出来なかったのだけれど、それでも充分雰囲気を満喫した。でもね、やっぱね、バリの舞踊には幼い頃からの「身体矯正」が必要なんだよね。とても丁寧に再現し、時に「おっ踊っている!」と感じさせてくれる踊りもあったのだけれど、身体の分割の度合い(解像度)が低く、もっと体が細分化されもっとあらゆる部分が動いてくれたらもっと「クる」だろうにい!と思ってしまった。そんなこんな考えながら、ヤバさの度合いが(それは善も悪もともに信仰してしまうバリ人の宗教観の反映でもあるのだろうが)、分裂する意識の度合いが半端なく高まった時にあらわれる、ほんとに狂ったようなあのバリダンスの時間を、思い出していた。

上は「レゴン・ラッサム」の一シーン。この踊りを踊らせたらNo.1と言ってもよいだろうバリのダンサーが、実は(実は!)今日本に来ているらしい。来週見に行ってきます(場所はまだ内緒、、、)。
阿佐ヶ谷に行く前に、井の頭公園に行った。スワンががんがん泳いでいた。夜は高円寺の「抱瓶」にて、オキナワン料理に舌鼓。酔い覚めに高円寺の迷路をさまよったり、中央線の醍醐味を堪能した土曜の午後だった。




0801(Fri)


短編5本の連続公演、でも、春のBARBや去年の犬島でのパフォーマンスなどがビデオで映されたりして、「丹野近作の集大成」の要素が強くあった。
前回002−BARBの時には、確か「丹野賢一はただ丹野賢一をやっているのだ」と日記に書いた記憶があるが、もはや最後の023−SILVERになるともう冷静に判断することができなくなっていた。これだけ音響や照明や美術がしかるべくセッティングされると、これまで感じられなかった丹野的なものが充分に堪能できる。
021−WRINKLE、019−WRIST、020−FRILL、味付けはさまざま、でもどんな風味でも最終的に煮込まれた「丹野賢一」を味わうところに行き着く。そうと分かればメイクも衣装も立った髪も「PUNK」もどうでもよくなり、動く丹野賢一のたたずまいに注視すればよい。そうといっても、身体を既成のダンススタイルで整えているわけでもなく、スタイルの達成の程度を賞味するなんていう余地を与えてくれはしない。首をまわす(FRILL)、手首をふる(WRIST)、口を指と手で触れる拭う(RIDERS)、このようにミニマルな動きの反復に、丹野的動きの形式を受け止めようとするのだが、スタイルに依存しない故か、そこにある身体はすこぶる「薄い」。このペラペラは凄い、「骨をしゃぶるのね」ってはじめると中は空洞。表の肉がメインではない、でもメインといっても、しゃぶる骨に中味はない。その薄さに酔ってくる、瞬間(刹那)にただ反応する。
こうして「丹野的身体」の形式へと向かうことで何とか冷静になろうとするのだけれど、そうすると今度は身体以外のあらゆる部分が今度は、身体と共犯的に関わっていることに気がつく。ヤバイ、巻き込まれる、フレる、とどまれない、最後のSILVERの冒頭、銀色の皮膚でじっとしている丹野が胸のあたりを激しくかきむしると、ひたすら内臓のあたりがかゆくなる、意識じゃなくて体が反応していることが分かる、ガスカンクの、車のクラッシュオンがそのままコンクリート・ミュージックになったような音が、激しく揺さぶる、この作品も例えば、冒頭と最後の、仰向けに大の字になって身を起こしまた倒れるという動きの反復が「身体の在り方」として見所になっている。ここにはしかし何もない、ダンスもブトーも意味も世界観もない、ただ非人間的な光景が人形であればこっちは気楽なのにそれが人間であることによって不安でいても立ってもいられなくなる、そんな生理的感覚だけが、金属を口にしたときのような触覚がただひたすら漂う。
参りました。