日記バリのことダンスの経験ダンスの思考/哲学と美学/BBSAbout/Link/Top
過去の表紙コウギ(’03)


過去の日記はこちらから
200209 200210 200211 200212 200301 200302
200303 200304 200305 200306 200307 200308
200309 200310



(200309)

02 トルンカ《バヤヤ》・『ガール・ガール・ガール』/03 舞城王太郎と高野文子/04 『阿修羅ガール』/05 伊藤存とKATHY/07 『舞台芸術』評/09 KATHY論争/10 黒沢美香《HAWAII》/11 『呪怨2』/13 ほうほう堂と木佐貫邦子/14 GEISAI−4終わらない学園祭(KATHY)・階段主義(伊藤キム+輝く未来)/15 HHW/20 『ラボ20#15』一日目コンドルズ『スターダスト☆メモリー』/21 伊藤存ワークショップ『アート一日幼稚園 特別編』と『ラボ20#15』二日目/23 はんぶん月見の会(伊藤)/24 存だったり黒沢清だったり/25 後期のスタートは「ゆるーく」/26 イデビアン・クルー『理不尽ベル』/27 キリンジもベルセバも/28 雑記
 *ダンスは
赤字



0928(Sun)


唸れど答えが出ないのは、問い方が悪いからか。笑っちゃうくらい進まないワーク。
気分転換に(といっても全体の4/5くらいが気分転換なんだけど)、近所を自転車で徘徊。田んぼは稲刈りしていて稲穂を干していた。赤い実だな柿かな、桃かなと思ったら林檎がなっていた。川崎産林檎とはオドロキ。



0927(Sat)


終わらない宿題に冷や冷やする小学生のような気持ちで、ワーク。でも集中出来ない。余計なことをいろいろ片づけなくてはならず、久しぶりに一日家にいられるはずの日がずんずん過ぎていく。事務的仕事のあと、新百合ヶ丘のHMVでキリンジの新譜『For Beautiful Human Life』と、ベル&セバスチャンの新譜『Dear Catastrophe Waitress』を買う。HMVの情報誌を開けばいろんなアーティストがどんどんCDを生産しているのだけれど、あきらかに「供給過剰」の感じ。誰が聞きたいのだ有象無象の「歌姫」たちを。その点この二枚は、聞くべき二枚。ベルセバは前評判があまりによくて、『TVBros』には、「サリンジャーの『ナインストーリーズ』を読んだ時と同じ感動…詰まる所パーフェクトです」なんて熱を帯びた言葉が。こんなこと言われたら買っちゃうよ。でもいまさらラフトレード(レーベル)のCDを買うなんて、、、いや、あの時ネオアコ好きが思い描いていた未来を唯一体現した音楽、という気がする。叶わなかったあんなことこんなことが、すべて治癒されて今ここで微笑んでいる。キリンジはもう誰がどう見ても、今日本のポップ系で聞くべきグループNo.1で、今回もその貫禄十分でした。「わからない芝居を観たり/くだらない若い歌手に入れあげたり/英会話 お茶をしながら/「うちの主人は芸術を理解しない。」/知るかよ!」という歌い出しの「ハピネス」、もう素敵すぎます。
ああ、最近は日が落ちるのが早くて、空気がしっとり冷たくて、なんかいいこと言っちゃいそうで、困る。



0926(Fri)


イデビアン・クルー『理不尽ベル』を見た(@パークタワーホール)。
安定した人気や長期公演の風情はコンドルズに似ていて、あのときのことを思い出したりしていたが、そう考えるとイデビアンは明らかにダンス的要素が核にあり、そうであればあるほど近藤はダンス好きじゃないのかななんて、コンドルズのことを疑ってしまう。
ぼくは前から三列目で見ていたのだけれど、前の二列になぜか明らかにアメフトな人々が十人くらい座っていて、彼らはダンサーの動きの間に健康な身体で反応し健全に笑いで応じていた。笑いのポイントが、体育会系なリズム感があって、その瞬発力とあまりおかしくないところにはストレートに無反応の様子に、妙に好感を持ってしまった。一緒に笑っているのが楽しいなあという気分。これはコンドルズの客にはないよな。あれはほんと下品だった。たれ流し的笑い。に対して、彼らのリズム感のある笑い。
なんて、観客のことを考えたくなる今日この頃。そんな対比が際立つのも、今回のイデビアン、ダンス的なつかみ所がとても多かったからだろう。ASA-CHANG&巡礼の音楽をバック(そういえば今週の授業レポートに彼らの曲のことを書いている学生がいたっけか)に、(お得意の)音楽解釈をダンスに消化する。つい、「わはっ!」と笑ってしまうところ(意味でではなく、ただ体が反応してしまっている)に、ダンスの間が、独自の間がある。
自転車で現れる女たち、主婦というか、ともかく荻窪駅前あたりの自転車置き場を思わせる。中心になるのはこの20人くらいの女たち、でもここに女らしい美も、醜もトラウマも異性愛も、とくにない。ともかくリズム、ともかくグルーヴ。でも、ちょっとポーズ(静止する)が多いのは、そこに間が集中しているとの考えか、やや冗長に感じる。
快作でした。
舞城王太郎『ドリルホール・イン・マイ・ブレイン』(『ファウスト』所収、講談社)読了。ここここれは、すすすすすげー。ここに文学のひとつの到達点がある、そういっていい絶対。すご。



0925(Thu)


後期一発目の授業。まだ全然「先生」気分になれないので、内容はぼくの「夏休みのおもひで」。KATHYとか、ぼくがこの夏見たいろいろのビデオを見せる。ゆるーく後期は始まった。



0924(Wed)


伊藤存の展覧会に三度目(!)行く。夕方ワークショップに参加。あぶり出しで「どうつぶ」を描く。最初は不安だったが、やり出すとかなり楽しい。「やり出すとかなり楽しい」という気分にさせる存さんの雰囲気というものがある、と言うことも分かる。「未確認動物」というファイルにぼくの「みねけこ」が入っているはず。ネコの顔した動物が背中に三本富士山を生やしている。ぼくの想像力ってこんなもんなんだ、なー。参加者が、存さんの話聞くのに壁にもたれかかろうとして布の作品にもたれてしまったり、のれんのように手でどけたりしている。この作品たちの何と「敷居の低い」こと!まあ、雨の日だったこともあるのか、布の作品自体少し縮んだようにだらしなくくたっとなっている。彼の作品は、一見して思うほど、アナログでものほほんでもかわいいでもなく、東浩紀+舞城王太郎的なのだ、と言うことを今日強く感じる。一回じゃわかんないッスよ、この人のことは、リピーターにならないと。
その後、空かせたおなかはそのままに、青山ブックセンターで行われた「恐怖のリミックス」黒沢清+篠崎誠のトークショーに行って来た。『リング』の「ビデオ」は、「地獄」なのだそう(by黒沢)。こわー。アメリカ版はよく出来ていたが、このビデオのことはさっぱり理解出来なかったのだろうと清は言う。さらに、篠崎があの「ビデオ」の白い布を被って指を指している男は、高橋洋が深夜テレビで見た、宮崎勤の実況検分の映像らしい。こわーこわー。無意識に働きかける戦略って半端な「サブリミナル」よっか「揺さぶられる」感じ。いや、あの映像はほんと凄いもん、ね。



0923(Tue)


朝、田舎から帰ると川崎の住まいのあたりは、墓地街でもあるらしく、お彼岸のお参りに来ている人を沢山見かける。スクーターで卒塔婆を乗せて走る人には驚いた。さぞかし先祖も驚いていただろう。

夕方、晴海埠頭から屋形船に乗る。伊藤存の「はんぶん月見の会」に参加した。朝は快晴だったのに夕方には曇り空に。でも誰も月が出ていないことを話題にしない。二時間のツアー、ときどき伊藤のガイドが入るが(「あ、右手にタマちゃんがみえまーす」とか嘘ついたり)、基本的にはまったりとした時間が流れる。船内は彼の切り絵が所々に施されていて、天井には背骨が貼られ、真ん中に心臓がつられている。この写真でも、黒いウサギが跳んでいるのが見えるだろう。最後の30分にアニメとギター演奏が披露され、そこが濃厚に伊藤ワールドを堪能する時間になった。ぼくは参加費用を彼方から出してもらったからいいけれど、5800円はちょっと高かったかも。でも、しおりに絵付きサインをもらってみんな満足して帰っていった。勝ちどきのあたりはカフェなんて皆無で、ぼくとKさんはもんじゃとお好み焼きとビールを三杯飲んで帰った(ちょっと頭痛くて二日酔い気味なのは、船に揺られていたせいかな、、、)。



0921(Sun)


朝から伊藤存ワークショップ『アート一日幼稚園 特別編』を見学に行く。これから存さんはこの日記に頻繁に登場するでしょう、理由はあとで。どうぞみなさんも存さんをワタリウムに見に行って、よかったら感想聞かせてください。
今日のワークショップは最初、「どうつぶ」コーナーで、「かえる」の文字を入れ替えた「かるえ」を子供たちに書いてもらう。一年間「アート一日幼稚園」を続けている子供たちは、絵を描くことにてらいもなく挑んでいる。でも、「かるえ」という言葉の響きを絵に変換(「言葉(の響き)」→「イメージ」)させるという作業は、かなりむずかしくもあり、年少組はほとんどついてこれていない。とはいえ、年長組になると、意味にとらわれやすくなり、絵がどうしてもおとなしくなる。「きんじょ」(=かえる)の「はて」(=かるえ)にたどり着くのはなかなか難しい。次は、ブタの輪郭が描かれた絵に塗り絵を施す。どうつぶのときもあったが、存さんが描いた絵を子供たちに説明してもらうところが楽しい。「これはなんですか」と聞くと、「なんでもない」と答えるコドモ。それを後で、いい答え方だったと述懐する存さんは、やはり「はて」に導くために試行錯誤していたわけだ。
行くのは二回目だった訳だけれど、かなりポイントが見えてきた、収穫の多い雨の青山。
『ラボ20#15』の二日目。
今回キュレーターの岩淵さんとぼくの相性が悪いのかも知れない。どうもポイントレスなのだ。



0920(Sat)


『ラボ20#15』とコンドルズ『スターダスト☆メモリー』(@シアターアプル)を見てきた。
昨日からPDAを導入。電車のなかでも客席でもどこでも原稿が書けるようになった。つまりそうでもしないと間に合わなくなってきたということでもある。そんなフラフラした意識で見たせいかもしれないけれど、『ラボ20』は正直、どの人もピンとこなかった。コンドルズは、観客の「いいとも!」状態が凄かった、それがともかく印象に残る。何をやっても受ける、機知に富んでいない方が、ただ雰囲気で笑える方がいいみたいで、すぐに笑う。演劇は何であれ物語があり、物語についていくという難度がともなうが、コンドルズのコント+ダンスは、物語が希薄な分、ただ一瞬の出来事に瞬時に笑いを挟みそれですませてしまえる。多幸症とか自民党政治、という言葉が浮かぶ。



0915(Mon)


HOT HEAD WORKSという加藤みや子氏を中心とする(おそらく)ダンスのイベントに参加。松澤先生の企画した「朝イチとれたて 出店 舞踊学合戦」なるものに発表者として加わったわけだ。帰りに出演料をパアッと中華街で使う。山下公園まで水上バスで。今Aのなかで「パイレーツ」がはやっているらしく、かなり気分ぴったりだったらしい。




0914(Sun)


今日は超忙しい中、GEISAI−4と伊藤キムを見てきた。
國方真秀未さん(本人に会うとどうも敬称を付けたくなる)の新作、『鉄肌』を購入。ご本人はカラーページがあったりするので、高くなってしまった(1200円)とおっしゃっていたが、いやいやその金額で手に入れられるならほんとに安いですよ、という気持ち。40頁ちょっとを3ヶ月かけて書いたのだそう。素晴らしい作品。春のG3よりも広いのかすごい見るのに骨が折れる。ひたすらキョロキョロ。あとはやはり稲田由美子さんの新作が素晴らしかった。フェルトでつくった平面の少女人形、でも顔が歪んでたりキツイ表情、それがパラソルに沢山つり下げられていて、2−3人しか入れないその傘のなかに入る。そうすると稲田ワールドにすっかり包まれる。そんな招きの仕掛けが秀逸。春G3の時にもそんなこと思ったが、さらに巧みになった気が。この人ならすぐNADiffあたりで個展していいのでは。というか見てみたい。この二人のようなGEISAI常連の意識の高さは、本当に群を抜いていて、他のほとんど8−9割は、既成の感受性の模倣でしかない。でも、奈良風、会田風は姿をほぼ消えた。その代わりにスタイリッシュ系の少女漫画家の物まねみたいのが支配。
KATHYのライブをまた見てしまった。もはや勢いとしてはKATHYファン?いやあでも、今日の作品は本当によかった。KATHYを見たことで今回のGEISAI行は引き締まった。満足感あり。15分ほどのステージ、最後の二曲がキャッチーで秀逸。一曲は『Times go by』(ジャズ)をバックに、ひたすら転倒を重ねる。ふらふらーと脚が縺れてバッターン。倒れてからの脚の高く上がってエビぞりになる姿勢がダンシー。「倒れる」で思い出すのは、冬に黒沢美香がお弟子さんたちとやった時のバッタバタ人が勝手に倒れたあの作品(あと、ボクデスのバナナがクツにくっついた作品も)。一種のオマージュ?とさえ思うが、「倒れる」質は負けてない。もう一(最後の)曲は、NADiffの時のアンコールでもやった、くるくるのダンス。桜井さんもほめてたけれど、これ純粋に美しい。何でか切ない。回ってるのか回されてるのか、ともかく止まることは勘定に入ってない。最後の最後は顔に被った黒いストッキングの垂れた脚の部分が長く伸びて、顔から伸びた触覚みたいにもみえたが、それよりもひらひらと回りながら揺れる感じが新体操みたいだ。なんだか気持ち悪いほど色々なものがここにはジョイントされている(そこに思わず涙が)そこにKATHYの決定的なオリジナリティーがあるのだきっと。前半のメロンパンが出てくるとか、ダンスの既成観念に縛られているあいだはけっして出てこない融合の楽しさ面白さ。ここには「謎」はない、ただ僕たち(言葉の側)がまだ理解出来ていないだけなのだ。
金賞は、誰でもピカソのアートバトルに出ていたグルテン。でもぼくはKATHY(とはいえ彼女たちはノミネートしてないか)か稲田さんに金賞。

3時頃国際展示場を後にすると、小田急多摩センターまで。ぎりぎりで間に合い伊藤キム《階段主義》を見た(@パルテノン多摩)。
前半はいわゆる「コンテンポラリー」って感じで、また判りにくいことを尊ぶ系?と警戒してしまったが、途中から伊藤のソロで、バックに株価を読み上げるラジオの音がかかり、その声のリズムにダンスが反応しだしたあたりから、階段にダンス的な時間が流れ出した。上からどんどん人が転がってくる。その倒れた群れの仕草がおかしくなってきた、と思ったら、曲調が80年代ダンスビートに変わり、そこから階段のあちこちで鳥の踊りだったり、ひげダンスだったり、ただぼーっと体育座りとかなんだとかが展開し始める。ダンサーは自由にその群れのあちこちを行き来する。夕暮れていく時間に逆行するように、暗から明に変わっていく。ここにはきちんとダンスがあった。



0913(Sat)


ほうほう堂《北北東に進む方法》と木佐貫邦子+neo《愛に至るなら》を見た(@麻布)。
単に「(コンテンポラリー)ダンス」というジャンルがあるのではなく、そのなかに複数のジャンルがあるのだとすれば(例えば映画のように)、ぼくには向いていないジャンルとして遠慮しておけばいいのだ、きっと。このジャンルが好きな人もいるのだ。「なんでだろー?」と疑問に思うけれども。
浮かんだ言葉は「安全」。どの線もけっして危険な賭けをあえて犯すことはない。不安も心配もない、動き。それはまた「ダンスではないという仕方でダンスである」というモダニズムの思考を帯びたダンスに固有の矛盾があり、「その難しいところがなるほど味わいどころなのかな」、と人は納得されかかる。でもスリルがない、という大きな問題を回避してしまう動きは、もはやトートーロジカルに「これもまたダンスなり」を反復し自閉しているだけ、ではないか。でも、世の中にはそういうのが好きという人もいる、どうしよう。

黒沢美香の場合、「ダンスではないという仕方でダンスである」とは異なり、「一見ダンスではないものを散らしながらダンスを招来しようとする」のだ。黒沢の場合には、けっしてダンスは無視されていない。いやすべてはダンスのために用意されている、のだ。

いや、最近お勉強でいろいろなダンス論を読んでいて、そんな読書でいかにアートという枠組みにダンスを入れ込む二〇世紀的運動が、ダンス自体を見失ってきたのか、ということを痛感したので語気があらくなったのかも。例えば、外山紀久子『帰宅しない放蕩娘』は、二〇世紀のダンスをとても上手く整理していると思うのだけれど、ダンスのアート的モダニズム化については言及されていても、そもそもそのダンスにダンス的価値があるのか否か、ということにはまったく触れられていない。いや、触れる必要がないのだ、きっと。二〇世紀のダンスにとって自分が「ダンシー」であるのかどうかなどそれほど重要ではなかったのだろうから。「それ、踊れる?」「それ体にくる?」ってことが無視され続けてきたのだ。このことは、考えてみれば本当に驚くべきことなんだけれど。

ハーッ暑くて暑くて、、、確実に時間がリバースしている、ちょっと若返った気が、、、するか!


ところで、log osaka webmagazineなんていうページをある方から教えてもらいました。伊藤存のインタヴューとか、ワタリウムに行く前に読んでおくと楽しいかも。珍しいキノコ舞踊団の講演録、ローザスのダンサー池田芙美子さんへのインタヴューもあり。



0911(Thu)


清水崇『呪怨2』を見た。なぜか池袋で見てしまい、客席が普段とはまったく違うムードで、そのことの方が映画より気になってしまった。いわゆるガキばっかりで、CMにも出てくるゼンマイの音みたいのを、静かになると物まねするのがいたり、一番精神的には「くる」だろうところで、笑い出すのがいたり。まったくもって「気散じ」状態の観客。いいんだけどさ。「楽しめよ」って言いたくなる、ちょっと。楽しむってとりあえず向こうのゲームに乗ってみることでさ。あるいは「肝試し」と勘違いして、見終わったあと、「別にーそんな怖くなかったじゃん」とか、冷静さを友達にアピールしてたり。これは映画なんだよ(ってでも確かに映画の形態としては恐さを存分に賞味するって状態になってて、「映画的には、、、」みたいなことがトンでっちゃうところが面白いのはそう)。これはまあ「お化け屋敷」だね。
ホラー映画っていい。端的に狂っているものを、こんな大勢で共有しちゃっていいんだろうか。『悪魔のいけにえ』とかも、フツーにロードショー公開とかで見てたんだよな、当時。オジー・オズボーンが聞きたくなる。



0910(Wed)


昨晩、黒沢美香《HAWAII》を見た(@神楽坂die pratze)。
2時間の大作、常夏のイメージなのにクーラーで冷え冷えになってしまったが、もう永遠にクロールし続けてくれれば永遠に見ているのにと最後は思ってしまった。
〈VACATION〉をテーマ曲にティアラを冠した、白いミニドレスの黒沢登場。軽妙なステップ、《薔薇の人》シリーズにしては軽い感じ?と思っているとカラフルな旗をもってきて振ると突然ボタッと捨てる。この「ボタッ」の理不尽がやはり《薔薇の人》だ。それでもこのあたりは陽気さと明るい艶っぽさが漂っていて、CKBぽいポーズも決まってる。曲が〈Yesterday〉に変わると、赤いチューブトップに浜辺っぽい巻きスカートに着替える(首には花飾り)と、奥から丸太を数本載せた台車をゆっくり押して再登場。ゆっくり押している感じが、スッチー気取ってる風にも見える。脇に台車を止めると、丸太をひとつずつ担ぐ(ちょっと静止、重さを量っている?)、それを繰り返す。理由は判らないが一本が選ばれた。今度はまた奥に行くと神楽坂die pratze独特の奥にある通路で目をつむりクロールを始める。空をかく、空をかく。ピッと後ろ足がのびる。美しかったのは、コバルトブルーのレジャーシートが中央に敷かれると、そこにゆっくりと脚を差しのばすシーン。プールだ。体がのめって行くとガシャガシャとシートの音がする。ばた足する。
ここまではまさにハワイ。幻想のリゾート。薔薇の人の暗黒には、こんなシャイニンサイドもあるんだあ、と油断をしてたら、ハワイアンをバックに、ノコギリが取り出され、丸太が中央に固定されると、キコキコキコと切り出した。???真剣に、ちょー真剣にキコキコする。「あん?あっあん?」と丸太の切れ具合を確かめる黒沢の(眼力強烈な)表情が異様におかしい。なかなか切れない、どうやってもすぐには無理。でもなにやってんだ?なんかトビー・フーパー(『悪魔のいけにえ』)見たばかりだったからか、異常で残酷なことやっているようにも見える。丸太に脚を載せ腰を入れた姿勢でキコキコキコ。この決まり具合がとてつもなくおかしい。どうやっても切れない。すると休憩がはじまり、そこに踊りが挟まれる。このハワイは、ツーリストのそれではなくネイティヴのそれだったりして。『ブルー・クラッシュ』のサーフ・ガールみたいに、仕事と遊戯を交互に生きる。しばらくすると、木こり再開。なかなか切れない。するとまた遊戯。今度はマラカスが出てくる。くたびれてしゃがみ込んだ両手にマラカスが微妙に揺れる。バックの音楽に反応しているという単純なことではなく、自分の中に流れているメロディーに揺れている、と言うか、メロディーの底に沈殿している過去の澱が風鈴みたいに揺れるのに応じて揺れている、と言うか。この深い、しかし音としては微かなこの時間はよかった。
丸太の両側がわずかにカットされると、そこに金具をつけて(このときのつける動作がまた超真剣でおかしい)、上から垂らした紐に固定し、ブランコのようなものができた。でも、それに乗る訳ではなく(やはりツーリストではなくネイティヴなんだ)、振り子状態にすると、スッと真ん中に寝そべった。仰向けの鼻に掠りそうなところで丸太が抜けていく。へんなサーカスのアトラクションみたい、妙なスリル。そういやナイフを突如壁に投げたりしていた。その危険な気配。
今度は振り子の脇をスッスッとまわる。異常なデュエット。最後はこの揺れる丸太の後ろで、クロールする黒沢(誰が歌っているのか知らないけれど、「コガネムシーはー金持ちだ」って曲)。クロールのリズムが何か絶妙。お弟子さんと10人くらいで一斉にやってもいいだろうな。これだけでも、十分楽しいダンス。これいつまでも見ていたいなあと思ったら次第に暗転していった。
照明がともかく素晴らしかった。艶っぽいテラッとした常夏の色。

最近の黒沢公演は「当たり」が多い。この打率は半端じゃない。この人をコンテンポラリー・ダンスと呼ぶ必要をぼくはまったく感じないが、この人がいるおかげで日本のコンテンポラリー・ダンス界は安泰、存在の価値を保証されている、なんて言ってもよいのではないか。ダンスは「する」ものではなく、「招来する」もの、ダンスのやってくるのを「待つ」ものなのだと(じっと呆けたように静止する時などはその象徴だろう、あの時間の中にダンスの様々なことが起きているのだ、きっと)、すべてはダンスが到来するための「待つ」作法なのだと、そう思った。はじめて《ROLL》を見た帰り、放心して神楽坂の上り坂を上った時と同じように放心して帰った。

その帰り、フト空を見ると話題の火星が月の下に光っていた。これか。



0909(Tue)


KATHYのことが妙な話題になってます、下でも触れた桜井圭介さんのHPのBBS上で。
これこれ

かなり荒っぽいおしゃべりなのでネー、どうしようか。でも、0907日付の下の日記に書いたこととKATHYとを連関して最近考えているので、それをネタに卓に加わろうか。どうしようか。



0907(Sun)


桜井圭介氏のHP上に暴露されてしまったので、告白しますが、ぼくは今日、黒沢美香の公演の場所を間違えて行ってしまった。die Pratzeはいま、神楽坂と麻布にあり、最近の黒沢公演が麻布に集中していたので、「てっきり」思い込んでしまったのである。しばし放心状態。こう言う時に何をするのかというとヤケ買い。でも本ね。

『舞台芸術04』
は、その勘違い友達(!)桜井さんの文章(「『コドモ身体』ということ−−コンテンポラリー・ダンスにみる歴史と記憶(?)」)が載っている。面白い文章です。とりあえずイマドキのダンスのマトリックスを形成する一助になる。ただ、手塚夏子が「自傷」で語られているところは、やや「いまの日本」と「いまのダンス」を過度に文脈づけようとした勇み足に見える。だからリストカットは言い過ぎだと思う、けれど因果関係のカットはぼくも賛成。だからこそ、このカットの意味をもっとダンスよりに解釈していった方が生産的だと思うんだけれどね。読みましょう。

また、國吉和子さんの4回続いた季評の最終回、「ダンスの技術が生まれる瞬間」も読みましょう。でも、幾つか異論。國吉さんの「技術」への意識が希薄なダンスはダメだ、と言う主張は、先ず納得。でも、それが例えば、何でもどんどん受容しちゃう寛容な観客にその一因があるというのはいかがなものか。むしろそういう「ファン層」なんてダンス界には存在しない。いつもいる、うるさ型の関係者しか客席にいない。それが大方の事実だろうし、その事実はまた國吉さんの言うのとは別の文脈で憂うべきことだろう。

それよりも、「技術」の不在を憂うとき、そもそもそこで語られている「技術」とは何だろう、ということが疑問、ぼくにとってはこれがかなり本質的。

國吉さんの論旨は、貫成人氏の見解に対する批判に発している。つまりイマドキのダンスは、コミュニカビリティ重視であり、<コミュニケーションが可能でありながら、メッセージ交換に帰結することなく続く励磁状態>であるコミュニカビリティの発揮されたその場においては、「メッセージの意味を理解し、交換するより。場を共有して和み盛り上がることに意味がある」と貫氏は言う。これに対して、いま価値あるダンサーは、「コミュニケーションの不可能性を知っているダンサーではないか」と言うのが、國吉さんの主張。貫さんの元の文かつて読んだんだけれど、いま手元にないので、國吉さんの引用部分だけで読みとるが、要するに貫さんのは近代以前(バレエ以前ないしルイ14世以前)のダンスのありようを思い起こさせ、いまで言えば「レイヴ」が代表するような価値観だろう。対して國吉さんのは、一種の崇高論(否定神学的な)であり、近代の思考回路に基づいていると思う。また、「技術」の重視も、その時に出てくる「身体の内側に深く降りてゆく」というしかるべきと國吉さんの考えるダンスの価値観、とくに「内側」というキーワードもすこぶる近代的だ。ダンスというジャンルの自律的自己批判的な作用を重視せよ、というメッセージに聞こえる。

何か長くなってしまったけれど、もう少し。

ぼくだってダンサーには「技術」を錬成して欲しいと考えている。でも、その技術って何のため?どこに向けられているの?と思う。モダンな自律的形式主義的自己批判的な芸術の在り方を、もっとも積極的に導入したジャンルが美術かもしれない。そう考えると、この在り方でダンスを論じていくと、銀座の画廊の芸大OBさんみたい(チト乱暴?)な閉塞した作品をこねることになりはしないか、あるいはそれを良しとするさむーい事態が起こりはしないか。誰も別に必要としていないのに、自分たちのルールのなかで「これが求道的探究の目指す途」と決め、閉じた迷走を続ける輩になりはしないか。だからぼくは「ダンスの技術」って何のための技術?と聞きたくなるのだ。

そこで実は貫さんとぼくの意見は重なる(一見)。ダンスの技術というものがあるとすれば、それは本質的には「コミュニケーション」のための技術であって、それが核になければならない。ぼくはそう思う。土方は、國吉さんの強調する「不可能性」とともに、その不可能性がひらくコミュニケーションの場を生み出そうとした、ぼくはそのようにさえ考えているのだ。これは近代以前に戻ろうと言うことではなく(さようなら貫さん)、でも近代のように閉塞をよしとするのでもない、そういう意味ではポスト近代のコミュニケーションの在処をダンスを通して求めることなのである。

だってこれがなきゃダンス見る意味ないじゃん!楽しくないじゃん、ハラハラしないじゃんドキドキしないじゃん!

要するに、ダンス論じゃなくて身体論(「身体」というキーワードをベースに論じるという意味で)であることに、問題があるのでは。それは桜井さんにもちょと言える。身体の探究ではなく動きの探究でしょ、ダンスは。「動く」って時におのずと「(他者と)関わる」ってことが起きる。この「動く」ことを論じなければ、「関わる」ことが出てこないし、そうなるとダンスを語ったことにならないんじゃないの。「ダンスの身体」ではなく、端的に「ダンシー」について語ろうよ。と思ったら、どうも國吉さんの思考のなかでは「ダンシー」は、「動きの美」あるいは「動きのグルーヴ」と言うよりは、単に「ダンスっぽさ」「ダンスらしさを当て込んだ身振り」と言う意味でしかないようだ(手塚夏子を語る時に「ダンシーな動きは完全に拒否され、訥々と途切れがちに応答してくる身体の部分を掬い取ろうとしているのだ」と言い、「ダンシーな動き」の「拒否」をかなり積極的に語っている、ので)。ぼくにとっては手塚にも、手塚にしかない「ダンシー」があって、だからこそ魅力的なんだけどナー。これは『美術手帖』に書いたことでもあります。


で、
黒沢清『映画はおそろしい』
も買ったのだけれど、この話は、書く体力がなくなりました。レンタル屋で早速トビー・フーパー『悪魔のいけにえ』を借りてみたことだけ記しときます。
あと
岡崎京子『うたかたの日々』も。



0905(Fri)


上智大学で本を借りて、夕方赤坂見附までてくてくと散歩する。暑いけれど、風が乾燥して心地よい。お堀で釣りをしているヒトが羨ましい、けど、釣れるの?

伊藤存《きんじょのはて展》を見に行く(@ワタリウム美術館)。
「おおきくたまるみずのした だきあうさるのいちごだに しろめのけしきはからいかぜ すすきあわだちどこにいく いまなにみえた しろがねいろのニュータウン」チラシにはこんな謎の副題。布に糸で縫う、それで描かれた風景や動物。このステッチングという方法の魅力は、かなりすごい、確信犯的な感じ。それよりもワークショップと称して毎日伊藤本人がお客と何かやると言うコーナー(?)があるらしいのだが、会場にはいるとそこには絵ではなく壁を見つめる女の子たちと伊藤らしき男性の集団がいた。壁にさりげなく書いた落書きを見つけさせる、という趣向だったらしいが、その女の子たちの楽しそうなこと、なんか近所の楽しいお兄さんと遊んでもらっている子供たちという風情。ファンらしき女の子の存在、もはや奈良を予感させる人気?9日の六時には、松井みどりさんらをパネラーに、トークショーがあるそう。行こうかな。
青山周辺をプラついて、《たけしの誰でもピカソ大博覧会2003》なるものを(@スパイラル)ひやかして、その後、そお《あわ〜っと展》近藤聡乃(あきの)の展示を見た(@ギャラリー エス)。そおは、モンドリアンを想起させる繊細な網状線の絵、ふむふむ、で、近藤はおかっぱの女の子と蝶など昆虫たちが絡まる、こわかわいい、の世界。びっくりしたのは、伊藤と同じくアニメ作品が普通に展示されていたこと。みんな簡単にやるんだね〜。技術革新とその廉価販売のおかげ。その後で、ようやく、

KATHYのソロ公演《KATHY cruises in NADiff》(@ナディフ)を見た。
音楽はキャッチーなものがしばしばつかわれるのだけれど、その音楽のリズムでもメロディでもなくただその生理的感覚(ないし雰囲気)を動きに変換する。この掴まえ方が上手く、その掴まえ方はポップ、受ける理由がこんなところに例えばありそう。観客のノリが良くて驚く、楽しんでる感じがいい、パーティーの雰囲気、これダンス公演にはないッスよね(ダンスの場合にはどうも「先生−生徒」とか関係が堅い、ファン層みたいのとかあんまりないもんね)。
帰りの飲み屋でかわいいネコに絡む絡まれる(ミャア)。



0904(Thu)


舞城王太郎『阿修羅ガール』読了。やっばい、ぼくはこれを読まないで過ごしてたんだ、のーのーと。反省。っうか、これ読んで世界のさまざまな謎が解けた気がする。五反田団の「山田」という張りぼての役者の存在とか。ニブロールの身体へのアプローチとか。三池崇史『デッド・オア・アライブ』の身体とか。『海辺のカフカ』における身体性とか、いろいろと。いま挙げたどれよりも、確かにこの本は新しいのだけれど、このような本をフィルターにして初めて見えてくるものがある。とすれば、この本がこれらの基点と言うことも出来るのだ。そういう基点たる貫禄あり。最後の章は、いわばこれまでの自省になっているのだけれど(だから引用しやすい、わかりやすい、いわばサーヴィスの部分だね)、ここから気になるところを切ってみる。

「私もヒトだから、内側にたくさんの人格があって、いろんな声があって、それらが様々な音を立てている。それらを全て支配しているあの怪物はつまり、私自身だ。あの姿、あの形、あれはつまり、私の人格とか自己像とか、そういうものとは関係ない、もっと奥深くの、真ん中の、芯とか核とかそういうものなんだろう。エゴ?良く判んないけど、そういうの。」

「でもそんな風に、何かを自分が作り上げたイメージってことにしてしまえるなら、私自身だって架空の存在なのかも知れない。我思うゆえに我ありって言うけれど、もし自分と他人がどっかでくっついていて、相手の内側にお互い入ってこれたりするんだったら、ほんとに我思ってるの?ってことになる。我思ってるつもりで、実は別の誰かが思ってることもありえる訳だから、我思ってると我思ってるけど、我思ってるんじゃなくて彼思ってるのかも知れない。じゃあ我ありってことにならない。」

「自分を壊す、自分を殺すってのは、脊髄通して脳まで伝わるタイプの実際の痛みってものさえなかったら、結構皆のやりたがることなのだ。この世にいるのは自分のことが大好きな人間はばかりじゃない。そういう人が好きじゃない自分を殺して新しい自分を求める。」

昨日の日記にも書いたけれど、このような記述を、例えばシュレーゲルの『ルツィンデ』の世界と並べて読んでみることはまったく可能だと思う。そう考えれば、これは異端ではなく看過されてきた真髄なのではないだろうか。



0903(Wed)


山に籠もるように色んな作業を続ける。同じ椅子に座ってるの飽きた。そんななか、
舞城王太郎の『The Childish Darkness』読了。小説というものについての考えが、読書の過程で確実に変化していった気がした。スゴイ。子供の時に大江健三郎読んで、小説というのはこんなカッコイイものなんだ!と感じた、その時の変革の気分ににている(内容は異なるが、勿論)。早速『阿修羅ガール』を読み始める。これまた面白い。近い内にきっと本格的な舞城論が出るだろう(イヤでるっしょ、絶対、だって面白いもん)、その時に主題になるのは十中八九身体の扱いだろう(もうひとつは「脳内独り言」としての小説、という方法に向けてだろう)。この身体=バトルフィールドと言うアイデアは、まさしく「今」って感じなんだけれど、舞城の立った到達点をもっと良く省察しなきゃって思う、思うよ。
さらにアマゾンで高野文子『黄色い本』も買った。素晴らしい、ともかく素晴らしい、なんだか知らないけど泣いてしまった。高野は舞城と似ている点があって、意識の独り言が作品の運動体になっている、ところ。内省の作品。これはまさに『阿修羅ガール』でもアイコがひとつの出来事に対して様々な解釈をどんどんの並べていくところなんかそうで、ドイツロマン派なんかと類似点を探して読んだら、専門家から怒られちゃうだろうか、でもほんと類似しているんだから、仕方がない。
あと、三浦雅士『身体の零度』も読んだ。以前日記に書いた大澤真幸が近代の舞踊を論じる箇所で参照していたので、気になって読んだ。多分言説レヴェル(思想史をきちんと背景にしているもの)では、ダンスを論じる際、この9年前の本以上のものはまだ出ていないのだろう。でもこれは身体は語っているが、ダンス(少なくともダンシー)を論じてはいない。そこにスキあり。



0902(Tue)


イジー・トルンカ『善良な兵士シュヴェイク(1)(2)(3)』(’54)『手』(’65)『バヤヤ』(’50)を見た。
『手』という19分の短編は、人形の暮らす小さな赤い家に突如白い手が侵入しこの人形を殺める、という話。見ていて奇妙なのは、「人間の手」ではなく「非人間の人形」の方に見ている側はシンパシーをもってしまうということ。人形の方がひとがたにちかく、手は異形の感じがする。さらに面白いのは、手の動きはコマ撮りもされるが実写がおおく、そのシーンになると人形は動かせない。両者が出会う物語なのに両者が共存する瞬間は実は乏しい。相容れぬ時間を生きる、手と人形、その葛藤の映画、だった。グレイト。『バヤヤ』は赤褐色の世界。素晴らしいが『真夏の夜の夢』の前つんのめりな青の世界への没入には及ばない。
これを昼に見て、代官山までてくてくと買い物に行き、その後、てくてくと山手通りでバス停を探す。初台まで行き、ICCで「ガール・ガール・ガール」を見るためだ。でもなかなかバス停がない。暑いなかずんずん歩いてようやく見つけて乗ると、次の停留所から「初台〜」の名前が続く。バスの運転手が驚くわけだ、「初台に行きますか」って聞いたら。夕方に着いて、この展覧会をさらっと見た。若い女性達が集められているが、ほとんど知らない人たち。ヘルメットに模様をペイントして「エルメット」とか、南仏あたりの海辺をイメージした小物を集めたりとか、小さな紙製の家をたっくさんつくってその並べ方を観客に委ねるとか、コンセプト重視、また観客参加重視の作品群。突発的に電車のなかでスチュワーデスのドリンクサーヴィスをはじめるタニシKは、コンセプトを、迷路をめぐらせスタンプラリーをさせることで見せるという手法で上手かった。でもちょっとふっくら体型なのでこの人が何を演じているのか、なかなか出くわした人が理解できない、ってかんじがもったいなかったが、それは愛嬌、か。どの作品からも発している「私見て!」ってメッセージが会場に充満している。そのための見所(細部の追求)がほんとは前景にあればいいのに。それがコンセプチュアルの語のなかに解消されてしまっている。トルンカ見た後だけに、職人的偏執狂的なこだわりが見たかった。