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(2003010)

02 秋の風/03 ローザス『ワンス』/04黒沢清『ドッペルゲンガー』とユン・ミョンヒ『エクボ・ナイト☆フィーバー』/05 反重力ジョニー/08 グラフィティのこと/10 ローザス『レイン』/11 『帰宅しない放蕩娘』/12 ドゥクフレ『IRIS』/15 天野由起子『ユメノタニマ』/19 オトギノマキコ『即興ままごと』三日目/21 中村公美『たとえばこんな夜』/23 マギー・マラン『拍手は食べられない』

 *ダンスは
赤字



1023(Thu)


マギー・マラン『拍手は食べられない』を見た(@世田谷パブリックシアター)。
暴力の表象。それはわかる、それをしていた確かに。でもコーティングが美しく、最終的にはよく出来た作品だね、と観客に思わせて「よかったよかった」と安堵して帰らせる、それでいいんか、とちょっと難癖つけてみたくなる。ダンスというものがこのコーティング作用をもっていて、だからダンスを高めれば必然的に生まれてくるものなんだよ、と、そういうことなのかも知れない。でも、あのカラフルな三方の壁、カーテンはかっこよかった。不意に現れ不意に消える。よけいなところがカットされていて、映画のようなテンポ感といおうか。そこずっと見てました。



1021(Tue)


中村公美 ソロダンス『たとえばこんな夜』を見た(@デザイン・フェスタ・ギャラリ)。
とっても面白かった。ラフな面もあるけれど、世の中こんなデリケートな作品ばかりだったらいいのに、と思った。オトギノマキコに続き、インディペンデント系公演に拍手喝采。頑張れ、問題は客の数ではない(というのは、はんぶん嘘で、みなさん是非是非見に行きましょう。コンポラ・ダンスの問題は実は観客にあるのではって思うんだよね、間違ってぼくのHPいま見ている中高生B&G!騙されたと思ってぼくのオススメする公演見に行ってご覧!一回行けばもう君はダンスギャラリーのメインメンバーになれる!)。いま別件で12時間連続机に坐ってワープロ打ってる。頭から火がでているので中村の感想は後日。


そう、そういうわけでオトギノマキコ第四日目今度の日曜日、みなさん見に行きましょう。いや、かなり面白いッスよ。



1019(Sun)


オトギノマキコ『即興ままごと』第三日目を見た(@渋谷ルデコ)。
身体の細部までを噛み分けるように見ることのできる、数少ない一人。「ままごと」とは料理をしたり、洗濯をしたり、掃除をする、その情景のなかで踊るという趣向。
ロフトのようなスペースと階段、そして降りた一階がステージ。一旦ロフトに上がり、縞模様のハイソックスの脚だけ見せながら、外に投げ出すようにしてゆっくりと回す。次にマイクスタンドを階段の踊り場に置くと、中国歌謡をバックに踊る。これは「かわいい内臓」のときに、松田聖子をバックにしたのと設定は似ている。要するに、歌を歌う時に身体内部で起きていることをひらいていくような踊り。屈曲した手首のあたりが奇妙な痙攣をみせる。強張っているのか強張っているように見せているのか判然としないが、ともかくこの奇妙なブレ続ける動きが目を見張る。最近、なぜかホラーとダンスをくっつけて考える回路が自分のなかに出来てしまっているのだが、まるで『呪怨2』でみた幽霊の動きみたい。恐怖をどう表象するかと言う時に、あのような細かく切断を繰り返してつなぎ合わせたようなエフェクトをホラーは試みる。それは不慣れな動き=恐怖と言うことだ。同時にそんな動きは、意味とか物語とか蹴り飛ばして動きとしてのみ迫ってくるので、怖い=面白いということもあるのだろう。オトギノの微動には、その無意のなか、どこかしら性的な問題性のようなものが透けて見えてくる。微動は単純に言えば「行きつ」「戻りつ」という二つの動きからなる。二つのものからひっぱられるあるいは押し出される関係が予想されもする。両義性。例えばオトギノの好きなイチゴジャムも、甘いうっとりする要素と赤が連想させる生々しいあるいは暴力的な要素とが往還しているともとれるだろう。関係の気配がする身体は、表層の奥にある抑圧の構造を訴え声を挙げようとしている(ただし無音で)ようにも思われる。こんなこと思うのは、最近仕事でフロイトを読みふけっている影響に過ぎないかも知れないが。
後半は、小さなテーブルの上に手をついたり、また乗って踊る。一本指をついてその指の動きだけで見せるシーンは、手塚夏子以後の日本のコンテンポラリーダンスシーンが、ひとつの葉脈を見つけた瞬間のように思えて興味深かったが、そんなことより、手塚とはまた違うニュアンスで、つまり先に述べたようなある種の関係性を漂わせながら指の動きだけに没頭する豊かな瞬間だった。その後のテーブルに乗って踊るところでもそうなのだけれど、西洋のダンスの中にこのような狭い空間で踊る歴史はあるのだろうか、ないとすればこれはかなり「日本的な」ものかもしれない、と思ってみていた。四畳半ダンスというか。別にこれを特殊日本的な現象として西洋にアピールする必要は全くないけれど、寝ている姿勢で踊る舞踏とか、日本にはこのルーツがあるなと思う。ところどころベルメールを連想させるオトギノが、舞踏という文脈とはまったくかかわりがないはずであるのに、舞踏のひとつの方向をともにしていることに、興味をもったのだった。



1015(Wed)


天野由起子(構成・演出・出演)『ユメノタニマ』を見た(@麻布)。



1012(Sun)


フィリップ・ドゥクフレ『IRISイリス』を見た(@神奈川県民ホール)。


1011(Sat)


美学会全国大会に足を運ぶ(@成城大学)。
「書評セッション」というシリーズが行われ、外山紀久子(埼玉大学)さんの『帰宅しない放蕩娘』というカニングハムやジャドソン派を主な対象とした本の書評会があった。ダンスというものは、言語化がしにくいもの、一旦それを試みると議論が途端に雑駁なものになってしまう。幽霊のようなダンスの存在を痛感する。



1010(Fri)


ローザス『レイン』を見に行く。
『ドラミング』を思い出させるような作品。フライヤーに「スティーヴライヒ・シリーズ」なんて表現されるように、ライヒ作品(「18人の音楽家のための音楽」)による、高テンションの作品。曲に合わせて70分という尺になったのだろうが、やや長い(冗長)なと感じたことは事実としても、ローザスらしさの真骨頂を見せつけられた。黄金比を元にした渦巻きは、『ドラミング』でも多用されていたが、そのような自然の曲線がとりわけ前半、基本モチーフになっていた。ミニマル+表現主義(「風」とか「波」とかあるいはそれらの力を具象的にあらわす)?なんてすこし醒めた目で見ているうちに、気づくと飲み込まれていた。背中から引っ張られるように傾ぐからだ。それが孕む次の動きへの予感は、スローモーの「ため」であればあるほど、スリルを生む(ジャンプする瞬間などにもこのスリルが生まれている)。力の諸関係が無数にあらわれる。ひとつの方法で緻密に織り上げられた作品。極端な進歩はないけれど、ローザス節の肝は確かに伝わった。
やや気になるのは、方法として抽象度が高い一方、小突き合う仕草だとか、男女の濃密な抱擁(?)だとか、具象的な暴力的表現や性的な表現が垣間見えたこと。ここらへんのニュアンスが(「ワンス」が一層そうだったからなおさら)今後のローザスを指し示しているのだろうか。



1008(Wed)


今月号の『現代思想』はグラフィティ特集。ああ、やられたー、という気持ちでめくると、ふーんなんだよ。結局、ある種のサヨクのネタになっているだけで、全然ストリートな人々の言葉はフォローされてないじゃん。ぼくとしては街のかべに(BBSみたいに)書き込みすることの面白さやマーキングの動物性みたいなことが、現象考現学(?)的に分析されているものを期待していたのだが。
てことでいえば、今月号のRelaxがThe Wild Bunchなるヒップホップ集団を採り上げていて、そのメンバーの3Dが色盲故に独特の色彩感覚でグラフィティを描いていることをインタビューで引き出していたり、こっちのほうが探究的かつ知性的じゃないか。要するに自分の思想に適用可能なものとして選ばれているだけじゃん、『現代思想』のグラフィティは!ぼくはそういうのが好きじゃないんですよね。



1005(Sun)


ぼく個人のBBSに舞台告知の掲載をすることが効果的かはともかく、歓迎です、こんなところでよかったらと言う感じです。今後、ダンスに限らず演劇や美術の個展とかの宣伝が載ったりしてもいいな、なんて思ってます。どうぞ。
さてぼくのHP見てくれる人にどれだけ伊藤存ファンの人がいるのか、これも不確かなのですが、今日、彼方から反重力ジョニーのデモテープが降ってきました。何故かSony制作、なぜか「反重力音楽グループ・ジョニー」のタイトル。音はむちゃむちゃシンプルなロックンロール。初期のスタークラブみたい。歌詞がとてもかっこよくて、とても伊藤的(このバンド、伊藤が主導的立場にあるのかないのか分からないのだけれど)。「そろそろ地球はやめようぜ/上とか下とかやめようぜ/大とか小とかやめようぜ/勝ちとか負けとかやめようぜ/スペースマグロは今日も飛んでいく…」(「ロックンロケット パート2」)凄い深読み出来る歌詞なんですよね。これは伊藤存の方法を読み解く暗号なのではないか、、、と思ってワタリウム見に行くと良いですよ、きっと。



1004(Sat)


家から出るのに用件ひとつはもったいないので、悩んだ末、黒沢清『ドッペルゲンガー』を見に行っちゃうことにする(@新宿武蔵野館)。『アカルイミライ』よりも、ぼくにはさらに一層シンプルで明瞭なメッセージを感じた。要するに振り返らない、ということ。極端なまでの現在至上主義。ドッペルゲンガーや人工人体の機械という分身を媒介にして、自分(がまとうあらゆること)から自由になること。一番笑ったのは、あまりにもあっさりショットの終わりが削られていて、多分この人のおしゃべりが続いていたんだろうな台本では、ってところでパチッと切られていて、本当に俳優の演技とか個性など不当なほど無視にされている。この監督の乱暴な素振りは、あのドッペルゲンガーのいやらしい笑い声よりもずっと高らかにスクリーンに響いている。もはやこれは、落語のような映画、監督の話芸をそのでたらめさの切れ味を賞味する映画なのだ。こうなると役者は、自分の演技がどれほど構築的に行われてもすぐにぶち切りにされてしまうのならば!と思っているのかどうか分からないが、どんどん瞬間的な動きを痙攣的に行っていく(というように見えた)。このクールな俳優と監督との関係に今回のマドンナ(?)永作博美はなかなかはまっていた。いやそれよりも、ユースケである。この人には日本映画はしかるべき役を供給してあげるべきではないだろうか。本当に狂っている役を。何度殺されても全然死なないというような、狂った役を。
そのあと速攻、落合南長崎駅でおり、枇杷系スタジオへ。ユン・ミョンヒ『エクボ・ナイト☆フィーバー』を見た。



1003(Fri)


かなり早い時期に買ったチケット、別の重要な用事があるも、これで払った分をドブに捨てるほど裕福ではない。ので、ローザス『ワンス』に行く。
感動するためのいくつかの重要なトリックというものがある。その一、高い金を払う、その二、遠い所に行く、というものだ。旅行なんてのは、この効果で感動していたりすることも多いだろう。現地の人にはありふれたことでも、「(お金を払ってわざわざ来た)わたしにはキラキラして見える!」ってな具合で。この圧力でさいたま芸術劇場の公演は成り立っている、ように思う。だから、ぼくは見に行く前に「王将」にいって、普段着の気分になってから向かう。この店、店員がほとんど高校生で、学園祭の模擬店に食べに来たような気分になる、「あいつとあいつ、できてんじゃないの?」なんて0.2秒くらい戯れに考える。
『ワンス』は、最後の黒いパンツ以外全裸になったケースマイケルが、ほとんど踊らずに直立した背後に戦争の映像がかぶさる、この新機軸にみんな飛びつくのだろうな、と思うとちょっと辟易してしまった。ジョーン・バエズのライブ曲がかかるまでの、すべての意味を排除して、自分が立てた厳格なメソッドのなかで自閉しながら踊る、この抑制に「あらまた!」と思いつつ、バエズが流れ出すと、非ダンス的な要素が突如頻発し驚いた。歌いながら踊り、タイトルを叫んだり、時には客席に話しかけ、音響に怒ったりする(このあたり、そういえば山崎広太に似ている。ケースマイケルも見ていた?山崎、、、んなこたあないか)。なぜバエズなのか、もちろん「We shall overcome」が象徴するような反戦・平和へのメッセージを明確にするため、と言うことが多いだろう。でもそれに限定されてしまっては、ダンス公演として淋しすぎる。要するにバエズ的フォークは、ケースマイケルのダンス・メソッドにちょうど合っていた、と言うことがあるのでは。ぼくはフォーク、嫌いではない基本的には。コドモの頃はアリスだの吉田拓郎だの兄貴と聞いていた。でも、ある頃からネオアコが好きになり、また成長して「サイモンとガーファンクルはギターバンドでもある」なんてことに気づくにつれ、音楽的要素のやや希薄な一部のフォークを敬遠するようになっていた。日本で言えば森山良子みたいなバエズに、なんら2003年的リアリティを感じない。ある種のもたもたしたダサさが、実はケースマイケルの運動性や心情にぴったり来ているのでは。そんなこと、音楽がライヒの時には思いもよらなかったのだけれど。ある方が、ローザスはウラ拍をしらない、故にダンシーではない、というようなことをよく言っていて、その言葉がやけに今日はリアルに響く。ああでも、そういうことよりも、「40女の乙女心」ライクなありように、ある種の人々が飛びつき、(ピナ・バウシュの場合を連想させるような)ファンになっていくのだろうか。「好きなんだからいいじゃない!」「はいごもっともです、、、」なんて感じで寂しい、ね。

帰るとNHKのにんげんドキュメントで田中泯がとりあげられていた。なかなか面白かったです。弟子が白目をむくように不確かに半目を開けていると「そうだ、そうすると脳が自分を見つめるようになる」なんてこと言っていた。白目の秘密の一端を見た気がした。



1002(Thu)


今日はやや暑く、午後の授業はひろく開け放たれた窓からの風に、学生が皆ぼんやり吹かれている。どんどん首がうなだれていく、なかにははっきり「睡眠」とシールを貼ったようなのもいる。10人弱の授業でしまいには起きているのがどうもあと一人、という状態にまでなる。この一人が寝たら一旦話すの止めよう、いや独り言もいいかな、、、なんて思いつつ、でも最後の一人はきちんと聞いてくれていた(「優美」の話は難しいッスよね、と言い残して帰っていったが)。その彼が、貸してくれたX-JAPAN「Art of Life」聞かなきゃ。ぼくの音楽のルーツがRCサクセションであったように、二十歳くらいの彼(いまはデスメタルを愛好する)のルーツはX-JAPANなのである。