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(200311)

02 踊りに行くぜ!!(大阪編) /04 Abe"M"aria /08 上智哲学会 シンポジウム/14 マトリックス・レヴォリューションズ・ピナ・バウシュ『過去と現在と未来の子どもたちのために』 /16 五反田紀行/18 五反田団『おやすまなさい』男×女/19 女×女ゲネ 上智大コミカレ一日目/20 泥化/22 『呪怨2』/25 手塚×黒沢『ある天才少女スミレ』/30 笑いとアートとダンス

 *ダンスは
赤字


1130(Sun)


猛烈な忙しさがようやく一段落つきそう。今年の課題はまだいくつも残ってはいるのだが。嗚呼。
あまりにも余計なところに手を沢山出しすぎているのかも知れない。「あれかこれか」と言われれば、「あれもこれも」と洩らしてしまうたちなので、ついついなのだが、いい加減いくら何でも、笑いとアートとの関係について一週間で書くなどという依頼にイエスの返事を出すのはおかしいよ、オレ。駄文かも知れませんが来月世に出てしまいます。
でも、「笑い」について考えながら、どうしてぼくは黒沢美香のダンスを見ているとつい笑ってしまうのか、なんて自問していた。人の言うところによれば、口をポカーあけてにやーとしているそうである。無意識のレヴェルで起きているので、責任は取れません。ま、それはいいことにして、はて、笑いの瞬間にいったい何が起きているのか。リズムなんだと思う、広い意味で。とてつもなくおかしな組み合わせでリズムが叩かれたとき、「ぷっ」と吹き出す。「おかしな」は「無意味」「デタラメ」とはちょっと違う。意外な角度であれ、その不意打ちがこっちの身体リズムにきちんと食いかかってきていること、それがなければ「笑う」ところにまで達しない。
アートの場合、「デタラメ」でもいい、アート言語ゲームの中で自分のポジションを示しうるのであれば、それだけでアートとしては正解になる。でも、ダンスはこれではいかん。きちんと体にこなければならない。「くる」とはまったくもって身体的な出来事で、ダンスは身体をメディアとしたアートであるなどとまことしやかに語られるけれど、要するにこの「くる」が必要条件なのである、そう考えなければならないのである。結構これ忘れられることがある。そんな時のダンスはすまして「私はアートです」なんて顔している。要するに分かっていないのである。ダンスがアートではないことを、少なくともアート+「くる」でなければならないことを。
お笑いは多分この「くる」の探究であればよく、アートである必要など全くない。一方、アートは「くる」がなくても「ハイ・アート」な顔していれば大丈夫、今のところ。でも、ダンスはアートだけでは意味がない、「くる」のでなければ。なんて言えば、凄い「阿波踊り」の名手なんてのは、ぱきぱきに「くる」、もうそう言う意味では体は見ていて笑いっぱなしになる。じゃあ、それだけでイイじゃん、みんな「阿波踊り」の磨きをかけようぜい。アート・ダンスよさようなら。さあでもそれでいいのか、アートである意味はないのか。
アートの面目躍如、それは何かと言えば、未知のものの探求と言うことだろう。まあ何とも「近代=新しい時代」の産物らしいや、と冷ややかに見ても構わないが、まあまあ、未知のツボをどれだけ探しうるのか、そういうテーマを求めたとき、ダンス=アートの幸福な出会いというものがあり得るだろう、と考えてあげよう。
だから言い直すと、アートなダンスは「アート(未知)」+「未知のくる」でなければならない。で、そう考えてみると、コンテンポラリー・ダンスは、他のどのジャンルも見過ごしがちな、アートでありかつ体に「くる」という試みをやっている希有な、価値あるジャンルなのである。そして思うに、そもそもこうでなければならないはずだ、本来アートは。だとすれば、コンテンポラリー・ダンスに他のジャンルが教えを請うなんて時代がやってくるかも知れない。そうであって欲しい。だからそのためにもコンテンポラリー・ダンスは「アート」と「くる」を両立させるトライアルをしていかなければならないのだ。
あっつくなってしまいました、つい。いま半ソデTシャツだし。

12月の台風が到来するらしい。確かに今日の雲は初冬の顔をしていない。



1125(Tue)

黒沢美香×手塚夏子「ある天才少女スミレ」を見た(@ST)。
やや個人的な話になるけれど、手塚夏子が二年前の今頃「偶然の果実」に参加したとき、舞台上で立っている彼女に黒沢が近づいてきた瞬間、何か放心状態のようになってしまった、と本人があるとき話してくれたことがある。冒頭、反対の端にしゃがんでいた黒沢が手塚のほうにゆっくり近づいていったとき、ぼくはそのエピソードを思い出していた。手塚の方法はぼくなりに整理すると、内側からの「指令」によって体の部位を自律的に暴れ放題にする、というやり方と、体が外側からの刺激を受信するアンテナになって、それを動機に体がそれに二の句を継ぐというやり方とがある。「内側」系のダンスは、成功率が高いけれど、「外側」系は必ずしもそうではなかった。ところが、この黒沢がにじり寄っていく場面で、あの瞬間の再現?と思いながら、今日の手塚の「楽な感じ」が如実に伝わってきて、これからはじまることにわくわくゾクゾクし始めた。な、な、な、何が起きるんだ?!「ハマの娘」風のシャツやアップした髪のいでたちで、黒沢は手塚のズボンのポケットに手を突っ込む。横腹を突っつく(中盤では伸ばした手を「バチン」とひっぱたいた)。
今日の舞台−客席は、ファッションショー形式といえばよいか。STでこうするとダンサーの体は目の前1−2メートルくらいの近さになる。この近さは手塚的ダンスを堪能するに好都合、でも横長のステージは、手塚に歩くことを余儀なくさせる。歩く手塚、実はこれはかなり珍しい。
黒沢との共演という制約によって無理やりこじ開けられることで、手塚のダンスの枠は思い及ばぬほど拡張された。痙攣的な動きというものはどうしても「内向き」なので、その枠内で黒沢に絡まれると、子どもに弄ばれている自動人形みたいになってしまう(つまり絡み切れていない感じになる)のだけれど、弄ばれていつの間にかこじ開けられた風穴は、「解剖」「実験」「地図」などのワードの枠をぶっ壊す動きを引き出した。中盤、腰を入れて腕を伸ばした姿(シヴァ神像的なポーズ)から、右手の人差し指を立て、それを基点にかなり激しい、しかし単に痙攣的というのとは違うより自由闊達な動きがはみ出てきたとき、特にそんなことを思った。もはや次の手塚作品は、以前のものとは異なった姿になっているだろうとさえ思った。
だが収穫は手塚の方にばかりあったのではない。黒沢の今日の動きは「抜群」だったと言っていいのではないか。「こうじゃない、こうじゃない」と言っているようなリハーサル的な確認するような動き。それはデッサンが完成作よりも強烈にたもっているあの対象を捉えようとする真剣味を湛えていた。待つそしてつかまえる。ボケの精度がダンスの間を捉える力と相まって、今日はどこまでも見所満載。いつまでも笑いがむせかえってくる。



あとで「伝説の公演だった」、そう言われるのかも知れない、特別な夜だった。



1122(Sat)


疲れていると辛いものを欲するのに似て、最近疲れているのでホラー映画ばかり見たくなる。ビデオ版『呪怨2』を見た。「あれー、これ『呪怨』(ビデオ版)と同じじゃん、オレちょっと前借りたのまた借りちゃったのかな」と自分を責め気味になりながらぼーっ(orゾクゾク)と見ていると、最初の1/3が前作の使い廻しであることが分かってくる。内容の怖さよりも、前作がフツーに二次使用されているこの事実に「気持ち悪っ」と思ってしまう。呪いの家がビデオでも映画版でも同じ場所であり、この映画はそもそも二次使用に満ちている。またさらに、ストーリー上の、以前人殺しがあったところに誰かが住んでしまうということの無気味さとあいまって(実際そのことで呪いにあってしまう)、こんな二次使用が何とも「気持ち悪っ」な映画なのだ。運動しないでパソの前ばかりにいる生活に、背筋ゾクゾクはいい運動(?)なのである。



1120(Thu)


泥化して睡眠にふける、18時間くらい寝た。朝寝て、昼寝て、夕方寝て、夜中になる前に寝た。非常勤の大学が休講日でよかった。


1119(Wed)


昨日の余韻もそのまま、さらなる疲労をためて今日は、「密着!!五反田団」三日目、女×女バージョンを見に行く。でも下記のような事情で本番は見られないので、ゲネを拝見することに。風邪をひいた役の役者さんが本当に風邪をひいてしまってかわいそうだった。本当のリアリティなど演劇には何のメリットにもならないのである。
本番の成功を祈りつつ四谷へ。今日はコミュニティー・カレッジでお話をする日。アゴラの空間にカゼ菌が充満していたのか、熱っぽくなってきたので、カコナールを飲みながらスタバでひとりリハーサル。いやあ、非常勤(しかもコミカレ)とはいえ、母校で講義が出来るなんてなんて素敵なことなんだろう、とコピー資料手に夕闇の校庭を歩いていると、高橋マリ子が脇を通り過ぎていった(!)。噂には聞いていたが、なんともはや。
いつもダンスを見に行くとお会いする方(「舞城王太郎」友達でもある)が聞きに来てくださり、とてもうれしかった。つい、本番を終えたダンサーがダメ出しに聞き耳立てるような気持ちで、「どうでした?」と聞いてしまった。



1118(Tue)


田舎の東金から東京駅まで高速バスが走っていて(逆走の経験なし、残念)、普段はそれにのって週に一回行き来している。いまだ田舎で家庭教師のようなものをやっているからだ(中2の男子が最近反抗期中で憎たらしくかわいい)。今週から時刻変更があって、バス停に行くとバスが来ない、知っていたはずなのに。こういうとんまな自分が、せつない。

こんな感じで始まった今日は、疲労ばかりをためて、夜アゴラ劇場へ。男×女バージョンの『おやすまなさい』を見た。素晴らしかった。見たなかで理解してくれる人もいるかも知れないが、今年他界した祖母の病床のことを思いだしていた。演劇とはライブなのだ、と当たり前なことを痛感。デカイ会場だとかえって希薄になるライブ感(東京ドームで見たU2のことを思い出す、あんなに好きなのにこんなにのれないなんて、、、)。ロウソクの火をみんなで囲んでいるみたいなテンション、全員(観客も)が場を動かしているんだと感じてわくわくした。

みなさん、五反田団『おやすまなさい』は12/1−3にもあります。見に行くと良いですよ。ピナ・バウシュを一回見に行くお金で、8人いけます。



1116(Sun)


我が人生史上、もっとも忙しい秋が刻一刻過ぎてゆく。何だよ、オレ。

と、ちょいと愚痴ってから。
この日は、五反田団の稽古場を見学にいった。稽古場と言っても、作&演出の天才前田司郎の自宅の一フロアである。もちろん五反田にある。工場ばかりで殺伐とした場所と想像していたら、新しいマンションが林立しているベットタウンになっていた。アポは取ってあったとはいえ、突然の訪問者に役者のみなさん暖かくお迎えしてくださって感謝。稽古が始まった。この場面いつまでで区切りがつくのかな、、、と思っていたら一時間が過ぎた。全通しだった。観ながらノートパソにメモを取って、あとでそれをみながら丁寧にダメだししている前田さんの姿が印象的だった。なかなかカッコイイ。今回の五反田団、二人芝居なのだが、2バージョンあり、男×女と女×女で、二つ見せてもらった帰り道、つきあってもらった友人と何となくどっちがよかったかという話題になり、意見が分かれる。でも、同じ台本で、異性でも同性でもいけるって面白いナー。本番に期待大。



1114(Fri)


『マトリックス・レヴォリューション』を見た。
みなさん、もはやご存じかも知れませんが、これ、まったく見る必要ないです。駄作です。がっかりにもほどがあります。


ピナ・バウシュ『過去と現在と未来の子どもたちのために』を見た(@新宿文化センター)。



1108(Sat)


上智大学哲学会のシンポジウムで司会をした。
「司会」などパブリックなところで初めて務めたが、要するに「わがままにやるべきだった!」と反省。最後は単なるタイム・キーパーに成り下がってしまっていた自分が悔しい。内容は、「美的経験の現在」で、西村清和、鈴木真理子、樋笠勝士先生をパネラーとし囲んだものでした。



1104(Tue)


Abe"M"aria's 「Abe"M" LIVE」---CRIMSON---を見た(@ウエストエンドスタジオ)。
バンドであれば、解散ということがある、椎名林檎は「椎名林檎」を封印するなんてことを言っている(らしい)。ロック的初期衝動に形を与える方法を見つけたとしても、それの耐用年限は結構短かったりする。ブランキーもサニー・デイみもミッシェル・ガンもいつの間にか解散してしまった。
なんてことだ!と嘆いていてもはじまらない、そして何故かアベさんは、今日も変わらずあの瞬間に挑んでいる。
左手が棒のように軸の役割をして、右手がブンブン振り回されて超スピードのダンスが生まれる、と言うのがこれまでのアベ的方法だと思っていたら、今回はそんな軸なしに体がブンブン奔放に動いていた。目指す地点は相変わらずだとしても、そこへ向かう道はつねに新たに見出されているのだ。
冒頭で、キックするとハイヒールが跳ぶというシーンで、弧の軌道ではなく、直線で壁に向かったあのヒールはほんと、このキレたアイデア以外ではありえないものだろう。


1102(Sun)


踊りに行くぜ!!vol.4 大阪編を見た(@Theater dB)。
翌日に用事があり、ならば「踊りに行くぜ!!」見ようということを思いつき、ほぼ初めて大阪の地に足を踏む。会場から近い方がいいと思い、まったく何も考えずに「天王寺」周辺にビジネスホテルをとる。そこから動物園を斜めに突っ切って会場に行くのだが、その途中の蛇行する通路では、雨よけテントでなにやらやっている。カラオケの声とスポットライト。「ななな何だ?」とよく見ると刀を手に踊るおじさん。大衆芸能のストリート・パフォーマンス?でも、ギャラリーはどう見てもお金もってなさそうな路上の人々、、、初大阪でもっともディープなもの見ちゃった!とドキドキしながら雨の中を急ぐ。
野口知子「エレベーターガール」
やなぎみわの写真に触発されたと言う割には、毒っ気がない。何か心に湧いてきている変なイメージはあるのだろうが、それがダンス的な動きと絡まってこない。突然開脚したりするのが、とってつけた感じで、「ダンス」が宙に浮く。予選の時は「変人振り」を発揮したと言うことなので、ぼくはそれを見たかった。
身体表現サークル「範ちゃんへ」
今回の「踊り〜」で一番事件性をもったグループと言うことになるのではないだろうか。ビギナーズ・ラックってこともあるだろうけれど、新鮮であったことは事実。要するに半端に鍛えられたほとんど全裸の若者二人がパチパチ互いを叩きながら、時にリズムがそこに生まれたり、生まれなかったり。あの「まっちろいしり」(常楽くん)の、出来損ない振りは衝撃的で、こんなものが舞台に上がってるの??ってことで見ちゃう。暗黒舞踏は、鍛え上げ断食することで、見られるにたる体を用意したわけだけれど、このふんどしくんたちは、その用意がない不様さが、なんとも「リアル」ではある。ダンスはどこかセクシュアリティに訴えるものだし、それは男性のダンサーだって当然しかりなわけで、その上でこの体かよ、ってのがくだらなくもおかしい。単に「無邪気」なのかも知れないけどね。
高野美和子「fragment vol.4」
この日一番楽しんだのがこの作品。白いシャツ、膝下丈のスカートがそう思わせるのか、昭和30年代の日本映画みたいなイメージがずうっと頭にこべりついていた。あの頃の映画の女性たちの品があり、デリケートでりりしい身のこなし、その凛とした雰囲気がこの人にはある。このアダルトな雰囲気は存在として貴重ではないか。使っていた音楽がそうだと言うよりはダンスがモード系のジャズなんかを連想させる。繊細な反復の艶。またはじまりもおわりもない感じがラウンジ系の音楽のようでもある。すきだな。
honeysuckle「リンゴの骨」
昨年の「踊りに〜」の東京編で一度見ていたが、あのときよりもチャレンジしているところが散見。松山組に共通して言えることは、コンテンポラリー・ダンスのある一定したメソッドに忠実なところ。勤勉でそこんところ爽快ではあるのだが、同時に生真面目すぎる嫌いもある。今作は、その基本が先ずしっかりあった上で、どうそれを転がすか、遊ぶか、あるいは非ダンス的なものを持ち込むかを試行錯誤していた。単にデュオという形態ではなく、「この二人」でしか出てこないものというのが、後半、じわっと出てくるような気がした。
康本雅子「夜泣き指ゅ」
春の予選会で見た時よりも、すきっと見やすいものになっていた。ところで、ダンスとは関係ないのかも知れないけれど、ぼくはこの人の作品を見ていると何か、この人の自意識について勝手に考えてしまう。見せたいという意識と隠しておきたい隠れたままでいたいという意識が反復している、ように見えてしまう。腕や指の動きだけなのに、どうしてあんな後ろの方でやるのだろうとか。自意識の整理がつくと凄く変化する人ではないだろうか、などと、勝手に。