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200403



(200312)

02 踊りに行くぜ!!(大阪編) /04 Abe"M"aria /08 上智哲学会 シンポジウム/14 マトリックス・レヴォリューションズ・ピナ・バウシュ『過去と現在と未来の子どもたちのために』 /16 五反田紀行/18 五反田団『おやすまなさい』男×女/19 女×女ゲネ 上智大コミカレ一日目/20 泥化/22 『呪怨2』/25 手塚×黒沢『ある天才少女スミレ』/30 笑いとアートとダンス/1202 『カント全集 15 人間学』は面白い!/05 伊藤キム「劇場遊園」 /06 土方メモリアル /07 ふたつの室伏 /09 小浜正寛 /12 『赤目四十八瀧心中未遂』/14 北村明子『スクランブル・スイート』/19 舞踊家の目はどこについているのか、それが問題だっ!/20 ネクスト・ネクスト4/23 OM-2『作品No.2』/25 踊りに行くぜ!!/26 肉体のシュルレアリスム

 *ダンスは
赤字


1229(Sun)


ある方に「そろそろ表紙の写真かえたら?」と言われ、痛いとこ突かれたと思い(ぼくもまえから思ってたんですけどねー)、冬期講習の合間を縫って撮影に行って来ました。別にたいした写真ではないですが、冬の九十九里。

 

 

この寒いのにサーフィン盛況でした。そんなことお構いなしに、九十九里名物浜千鳥は寄せる波に足を取られることもなくツツツツツと濡れた浜を走る。
その後、舞踏家室伏鴻を囲む忘年会に出席。





1226()



1226(Fri)


『肉体のシュルレアリスム 土方巽抄展』見てきた(@川崎市岡本太郎美術館)。
感想後日。


1225(Thu)


仕事に出るのにあと30分しか時間がない(!)ので、メモ程度。
踊りに行くぜ!!東京編を見た(@天王洲スフィアメックス)。

ズンチャチャ『ラムネ−夏休みのうた−予告編』
短く脚を横に出す、バンバンバン。ペンギンの如き小股な動き。顔の表情も踊る。決してあるサークルの枠をはみ出さないのだけれど、「はみ出さなければならないのだ」という呪縛でダンスが堅くなったりしないところで好感を持った。ダンスってこれでいいのではないか、とまで見ているときに思った。トラディショナルなダンスでも、アートのダンスでもなく、といったところで、ミュージカル的なダンスを採り上げるところは、案外コンテンポラリーダンスが見逃しているところを突いている気がした。


三好絵美『Sinking float』
人間から逸脱して、例えば昆虫の体に嫉妬して、昆虫を深く頭にイメージする、とこんな動きが出てくるのか、という感じ?最初の右腕と右足がデュオを踊るあたり、両手が熱帯魚のごとく踊るあたり、楽しんでみた。両手のところなどは、親指以外の四指がひらひら動いていると、人間の体の中にこんなに変なパーツがあるんだ、と思ったり。欲を言えば、タイトルのように抽象的なものではなく、凄く具体的なものがテーマで貫かれていると、単に「ウェルメイド」と称賛されるだけではない、魅力が爆発しはじめるように思う。


身体表現サークル『範ちゃんへ』
大阪で見たときの方が、事件だった。やっぱり「一発」の要素は大きい。だから次回作が見たくなった。


康本雅子『夜泣き指ゅ』
この作品見るのは三回目だけれど、一番面白かった。というか、今日のぼくのベストだった。何か本当にとらえどころのない、名づけようのないふらふらした独り言のような動きがチラされているだけなのだけれど、飽きずに見続けてしまうのは、底流に流れている康本固有のリズムがとてつもなくおかしいからだろう。独り言って凄くリズミカルじゃないですか(テレビ見ながらつっこむときとか)。この人のプライヴェートなリズム感が、最後までひっぱっていった。


塩澤典子『ギギギギファーファーファーボボボボウーウーウー』
これほどデリケートなダンスだったのか。今日のは殆どの人が言うようにダメだったのだけれど、ちょっとしたノリの具合の違いで誰もが分かるくらい結果が違ってくる。今日のは「初期衝動」がなかった。パンクバンドの3rdアルバムみたいだった。


砂連尾理+寺田みさこ『男時女時 short version』
両手をあげてアーと逃げるように戸惑うように、しかしのろのろと走る砂連尾。それを感じているのかいないのかほっといて踊る寺田。どんどん「一緒にいる」というかすかな繋がりだけを残して、二人はそれぞれのデタラメを繰っていく。無人島の男みたいな、焦点の合わない、他者を欠いたかに見える(イメージの中の他者にはひたすら呪縛されている、ような)砂連尾がよかった。振り切って男の話にしてしまいそうになりかかって、そうしない彼らの倫理観は、作品をやや難解にしているのだけれど、そうしようとする勇気がこの作品を同時にひきしめていた。(後日書き足します)



1223(Tue)


OM−2『作品No.2−−ハムレットマシーンより−−』を見た(@新宿アイランドホール)。



1220(Sat)


ネクスト・ネクスト4を見た(@森下スタジオ)。
来年のダンスの新鋭を探す、先物買い的なこの企画、驚くほど観客が沢山いた、また濃い!

相原マユコ、j.a.m.Dance Theater『エクレクティック0.8』
関西系のグループ、には独特の感性が漂うことがあり、例えばこの作品の音楽にはそれが匂った。それがなければダンスそれ自身が際立ってくるのかも知れないが、壁紙の役をしている音楽のセンスが余計なことをしている。たたく、いらいらする、あきれる、強い感情の発露、の表現ということは伝わる。それがこの人の中にしかない一つのリアリティを語るものであれば、ドキッとしたかも知れない。

林貞之、ゴルジ工房『メソラメラmesolamella』
室伏鴻の最近の好演に出演していたこの人、意識している訳ではないのだろうが、黒いシャツに灰色のジャケットを羽織って、ドイツ語の基数を呟き、ホーミー崩れみたいな音を出し、ボヤキのような言葉を発するところは、やや「室伏」を感じた。張りぼての大きな足首が散乱している。それが蹴り飛ばされ、放り投げられ、サッカーされる。スッ、ととぼけた風情は、この辺な身体の錯乱で、何かを予感させたが、中盤ソロのダンスのところで見るものに注意を引き起こしきれなくなり、最終的には「鳥」のモチーフ、足をなくして空を飛ぶようになる、というロマンチックな展開で終息してしまった。

高野美和子、time and locus『匿名トリップ』
大阪でこの人のソロを見たときのことはこの日記にも書いた。非常に丁寧に線を描く人、線の質感で見せることの出来る人、それがソロの時には日本の昭和三十年代の映画に表象される女性たちのような、清楚で凛としていながらエロテックな雰囲気を湛えていた。今回の河村篤則と伊藤歌織を交えたグループ作品では、それはSM的で静謐な絵画を動かしているような独特の美学に彩られていた。背を向けてがに股になると長いスカートをゆっくりとたくり上げ足がぬーっと現れるところのシャープで残酷な感覚を与えながら、またコミカルにも感じるある美しさ。美しい。そう、美しい、それはそれだけでは何ら批判されるべきことではないだろう。ただしその美が内向的な疾走によって果たされているとすれば、これが外側へと振り向いたとき、どんな展開を示すことになるのか、と言う期待をもつことも許されはしないだろうか。

鈴木ユキオ、金魚×10『Today is Today』
しゃきっと錬成した身体のムーヴを置く、という方法をとらないで、だらっと普段着な不純物の多い身体でしかもダンスの瞬間を図ろうとする、多分今回の金魚の企てはこう整理することが出来るだろう。冒頭のごっこ遊びの連打。横にした椅子の上に横になって坐る、上限裏カエした椅子の脚をボタンに見立てて何か操縦するような身振り。途中、だめだめなひろっとした体であらわれた男(ふかわりょうな?)が、ひたすら喋っている、ダンスのうんちくを語っている。こういうメタダンスの言葉が、一番面白かったでは困るのだが、最後の方で鈴木ユキオが横並びした他のダンサーとともに踊ったのところはよかった。同席した女性は、「下北沢演劇的」と称していたが、その妙に熱のある、で技を見せつけるでもないクールな、あまりまとめようとしない拡散した熱の舞台は、ウワアッと思わせるものをいつか見せてくるような予感がするけれども、今回スコーンと突き抜けた感じは残念ながらなかった。



1219(Fri)


美術家の三輪美奈子さんの誘いで、梅ヶ丘の画廊で行われたパフォーマンスを見に行った。
石井かほるというダンサーが踊り、三輪さんの作品が置かれた画廊の空間を舞台に、また三輪さんの娘さんらしき方がバイオリン演奏をした。
ダンスは目のくりくりした表情が踊るという感じで足に堪え性がなく、「舞踏」という感じにはなっておらず、モダンダンスから出てきたものなのだろう。若くはないが精神は「乙女」と言った風情で、バルティスを意識させる。要するにある時期の「耽美な」モダンアートの末裔なのだ、そしてあからさま末裔である彼らは、メインストリームでやる感じではなく、であるだけに珍しいものを見たと言う興奮が静かだが起きたのだった。
だが問題は、そのようなことではない。ダンサーにおける目とは何かである。
舞踏のメソッドをもたない、「つたない」とも言われるかも知れない石井というダンサーは、最後にほとんど動くことなく、体を震わせながら、顔を斜め上に向けてた。その表情の中にある目が何か妙に印象的で(この人の場合、くりくりした目がよかれ悪しかれ表現の中心に置かれている)、この目はどこを見ているのだろうと思った。目はどこを見ている?そのテーマはぼくの土方論のひとつのテーマだった訳だけれど、今日は大野一雄のことを思い浮かべていた。大野一雄の魅力、それは多分(何せ大野のことはぼくはほとんど理解出来ていないので、多分)、なりたい何かを必至にイメージしながら、その何かになれる訳でもなくでもそうであるからこそくっきりとなりたいという願望が際立ってくる、その「なりたい」「憧れ」がびんびん響いて、その思いの強さに見る側がやられる、そういうことなのではないだろうか。。
その時大野の目は見開いていながら感覚的な対象を見ているのではなく、その意味で機能していない目を通して、今大野が憧れのイメージを必至に見つめていることを伝えている。
舞踏家の目は、常に内側に向いてついている、そう言うことが出来るのではないだろうか。だから、舞踏家がマニエリスティクと揶揄したくなるほど共通して白目をひんむいたりするのは、それが内側についていることの必然なのかも知れない。目は機能的にはたらく意味を失っているのである(でもそもそもすべからくダンサーにとって目とはこのようなものかもしれない、空間をチェックしたりする以外は、目は踊りのために使用されないのだから、バリ舞踊は目も踊っているけど、ね)。
そう考えたとき、あらためて、舞踏家にとって、使わない目はどういう意味で舞台に置かれているのか、と問いたくなる。
ところで、「目の表象」という問題で、想起するべき論考がある。『観察者の系譜』というたいそう面白い視覚論を書いたジョナサン・クレーリーが、新しく書いた”Suspensions of Perception”は、「注意」の問題を扱っているが、たまらなくいいと思っちゃうのは、この「注意」は「気散じ」と対立するものではなく、両者はひとつの連続体だとクレーリーが考えているところである。一生懸命目をひんむいて注意することは、一つの対象に没頭するあまり同時に他の多くの者に対して「気散じ」の状態になることである。標準とか規準とか、人間性とかそういうスタンダードを失ってしまってからの人間は、この注意を拠り所としながら、常にそれが正反対の気散じを孕んでいるという不安の中にいる。
マネの『温室にて』という絵を挙げて、そこに表象されている男と女の目の描き方をクレーリーは問題にする。まさに規準を失った「注意」の時代の人間らしく彼らの目はうつろでどこを見ているかわからない。もはや注意も気散じへとスライドしそうになり、すべてが輪郭を曖昧にしそうになるところで、この絵の中では例えば指輪や服のベルトやそういうものが、この流動を固定しようと務めている、クレーリーはそんなあやしげなことまで言う。
舞踏家の目も、従順な身体ならもっている規準を失った曖昧さのなかで漂う、クレーリーならば「宙づり」と言うだろう、そんな眼差しの表象なのだろうか。あるいは先に大野を考えたときに言ったような、内側へと憧れ見つめる目、故に外界を見つめることを忘却したような目、なのだろうか。



1214(Sun)


北村明子 『スクランブル・スイート』(@シアタートラム)を見た。
「Making of scramble suite」というロゴがビデオ画像にあらわれる。要するに、パソを使って一曲ここで作るという趣向、らしい。マイクとスタンドがパッド代わりになった装置で、粟津裕介と演奏すると、それがレコーディングされる。「メイキング」が本番という作品、そうこうするうちに50分のパフォーマンスの2/3は過ぎてしまった。残りの時間で踊る、でもライブ的でありうる「メイキング」がほとんど仕立てられた相貌しかあらわすことがなかったために、踊りも何かシャープにこっちに直接来ない。ギターの演奏に合わせて踊る、あるいはかなりヴィデオのエフェクトがかかったダンス映像に合わせてギター演奏する。そういうコラボは、「もたついた即興しかしかなり予定調和的な」という印象しか、残すことはなかった。
単純な疑問なのだけれど、なぜ北村は「踊らない」のか。ダンスはつねにそれ自体として自立することが出来ず、「〜とともに踊る」という形態をとらざるを得ないものなのかも知れない。そのときにでは何と踊ることがもっとも「しかるべきこと」となりうるのか、北村は映像と簡単なギターの生演奏などを選択した訳だけれど、それは確かに「しかるべきこと」なのだろうか。「しかるべきこと」ということが、「踊る」ということに向かっているといいと思う。
コンテンポラリー・ダンスの「屈曲」(ジャンルとしてはダンスでありながら、踊ると言うことに対してすこぶる警戒する、要は踊らなくなること)が何かしかるべき成果をはっきりとした輪郭の元に示すことはあるのだろうか。

今日は兄夫婦が見に来ていて、二人とたまたま劇場であった兄の友達とAとで、帰りに渋谷で飲んだ。



1212(Fri)


『赤目四十八瀧心中未遂』(監督 荒戸源次郎)を見た、
下北沢シネマにて。

3時間近く、でもなかなか必然性のある時間、要するに「逡巡すること」の映画なのである。監督渾身の一作が、男のこんななんとも煮え切らない、自分じゃ何も決められない「くよくよ」だということがちょっと凄い。男はただひたすら単調な日々のルーティーンの中を生きていて、映像はただそれをまた淡々と追いかけるから、うつされるのはあきれるほど代わり映えのしない世界の反復。「華麗ではない万華鏡」といったところか。これだけの「逡巡」は確かに表象されるに足るものと言ってよいかも。死の瀬戸際の逡巡。48個の瀧をめぐる男と女をただひたすら固定カメラがうつす。死ねない、ということのすさまじさ。前半だって、六畳フロなしの部屋で、ひたくら串をつくる男(三時間中一時間くらいは、観客はひたすら肉に串を刺す「くちゅくちゅ、ぐちゃぐちゃ」という音を聞かされる)、そこに色んな人が現れ、男は驚き、そこに招き話しをする、ストーリーはほとんどここでのみ展開する。あまりにこの設定のシーンが多いので、それだけでおかしくなって「くすくす」してしまった。「なすび」とかの電波少年的映像など思い出したり。
「寺島しのぶ」は確かに好演だが、好みは分かれるだろうなあ。



1209(Tue)


熱をおして仕事へ。「大人だな〜オレ」と自画自賛(誰もほめてくれないからね)。
帰り道、『TVBros』を読む。「鋼の錬金術師」の特集。これ先週授業である学生が教えてくれたアニメ。ふむふむ。母親を人体錬成しようとした天才錬金術少年がその禁じ手を行った罰に、腕を奪われたり、弟は体ごと奪われ鎧の中に魂が住みついた状態、ふむふむ。で、自分の人体を取り戻しに旅に出る。ふむふむ。舞城王太郎読以来、自由な身体観というか、腕が一本二本なくても、全然オッケーみたいなスピリッツがいまあるのだな、と思っていたのだけれど、テレビアニメの世界にまで、こんなアイデアが生きているのか。読むと、この原作者は、バイトでリハビリセンターのバイトをしているときに、車の事故で足を失った人にあったという。「若さに任せて無茶した結果、足を失ったそうです。後悔はしたものの、得たものはあった、と言ってましたね。その時、テーマの一つである「失ったモノの代わりに得たモノもあるはずだ」が思い浮かびました。」なんて言ってて、これ善悪の彼岸的思想だし、そのごく自然な応用だよなーと感動。元気になる番組だといいな、子供にとって。足の不自由な人が街でいたら、妙にドキドキして「カッコイイ」とか思ったりして、いいな。要は観念の問題なのだから、大人は子供にこんなアイデアを提案するべきなのだ、大人が子供になったからと言って子供は喜びません(あっ脱線!)。

とこれは、今日のメインではない。電車の中ぱらぱらとブロスめくっていると、突如、「小浜正寛フィリップ・ドゥクフレの新作に参加」と見出しが!驚いた。この表現って、「野村萬斎シェイクスピアに挑戦」みたいじゃん。もう「小浜正寛」って超メジャーなネイムなわけ?だって、次の小見出し(12/14の「芸術劇場」)は、「インタビュー…ピナ・バウシュ」なのだ。バウシュと「並び」なのだ(ところでこの「…」のところ気になる。「インタビューって言うよりもですねえ、、、実は、、、」ってなんか意味深!深読みしすぎか)。今度の日曜日、夜十時(教育)、楽しみにしてます。



1207(Sun)


グループの室伏とソロの室伏はかなりニュアンスが変わる。ソロの場合、彼の中の奔放な想像力でいくらでもへんてこな怪物だの、得体の知れない魑魅魍魎だのが呼び出され、それが彼の特権的な肉体に憑依し、しかもその憑依さえも覚醒させるボヤキや、好きを作る動きが頻出することで、豊かな複数性が保たれる。グループになると、現実の複数性が実は想像力の無邪気さを抑制するようなところがあり(少なくともぼくにはそう見える)、空間は大人しくなりがちになる。今日は昨日見たものをもう一度見たせいか、このおとなしさが際立ってしまっていた。
想像の複数性の方が現実の複数性より豊かだというのは、いろいろなことを考えさせる。
一つは、舞踏がつねに内向きに動きを起動させるという特徴があるのではないかと言うこと。ぼくの土方論(Vol.2)の言い方にまねると、通常のアイデンティファイを拒む他者のイメージが動きの動機づけである、ということである。山崎広太とやったときでも、巻上公一とやったときでも、室伏の動きはまず内側に向いてからしか始まらないので、相手にちょっかいを出す前に出されてしまう(この「内向き」のことはこの前、黒沢美香と一緒にやった手塚にも言えると思う)。
また一つは、必ずしもジャムセッションを目論んで室伏はグループ作品を作ろうとしているのではないのではと言うこと。「内向き」なのだったら、全員うち向いてそれぞれがデタラメやればいいじゃん、ということを目指しているのではないと思う。フリージャズのカオス状態が到達点ではない。想像の複数性が良いのは、なるべきものと自分とが決して同一化せずに2をキープしうるところだ。そしてそれがいいのは、多分、他者と自己との間の移行が踊れると言うところだ。この移行を、具体的な他者との関係の中であらわすことがいったい可能なのか。
単にバラバラな1がデタラメに踊ればいいのではない、ということは、コミュニケーションが室伏にとって本質的な問題だということを示すものだろう。そこで重要になるのは、単なる1の共同体でもなく、1のバラバラな個人でもなく、2であり続けること、ではないか。舞踏が決定的に問題含みで、面白く、可能性をもっているのは、このような問いかけをする可能性があるところだろう。「どうしたら2でありつづけられるのか」、これですよね、大事なことは、室伏さん!
(以上、とりあえずアップしましたが、体調が回復したあとで、再考するつもりです。ゆえに、乱文、ご理解を!)


1206(Sat)


昨日の晩世田谷から帰る途中「風邪」の気配を感じた。それが実体を伴ってきた。のどが凄くいたい!風邪薬のつもりでオレンジジュースをよく飲むのだけれど、のどが痛くて飲めない、ピンチ!(なんか具合悪いって話ばかりになっているナー、この日記、読んでて気分悪くなったらごめんなさいー)
『土方メモリアル』を見に行く(@パーク・タワー・ホール)。
まずは『夏の嵐』(荒井美三雄、71分、2003)
基本的には、1973年の京都大学西部講堂での公演がソース。

(小林嵯峨+黒沢美香また室伏鴻の公演については後日)



1205(Fri)


伊藤キム+輝く未来『劇場遊園』を見た(@世田谷パブリックシアター)。
ぼくは伊藤キムのことがよく分からない。伊藤キムについての感性に乏しいのか。ここは悪いな、と言うことは分かるのだけれど、イイと言うところが自分ではあまり上手く把握出来ない。そうこうしている間に、何度か見に行くと、自分の中で「伊藤キム・ライン」というものは出来てきて、そこを跳び越えたりはみ出したりしたときには、イイと思うことにしている。
今回の公演は、その意味で「イイ」と思っていたのだけれど、何がイイのか分からなくなってきた。アート化したダンスの袋小路に伊藤キムは立っている気がする。足立智美とのコラボレーションなどはそう解釈してしまうと、スーッと醒めてしまう。観客席とステージの反転というアイデアは、『二人だけ』で見せた退屈な自己反省に比べれば、観客を巻き込む可能性をもっていたはずなのだが、、、結局何も起きなかった。



1202(Tue)


「機知がそこにいる御婦人方にもお気に召して、彼女らに向かって彼女らの性に関してちょっとくだけた、とはいえセクハラにはならない範囲でくすぐりを放つと効果てきめんで、彼女たちの方も意味深な機知で応酬してきてまんざらでもない様子を見せるほどで、このようにして饗宴も笑いのうちにお開きとなるのである。」

さて、この、陽気でちょっときわどい、でも誰も傷つくことなく楽しい夕べの宴を観察し、言葉にしたこの男は誰だろう。これ、カントの文章なんです。えっあの、近代哲学の重鎮、カントが「セクハラ」って言ってたの?もちろん、『人間学』の新訳(岩波書店のカント全集新刊、ここ数日でようやく出た!)を行った渋谷治美先生のセンスでこう表現されているのだけれど、一旦このように訳し直されたカントを読み始めると、カントという人が「人間」をどうまなざしていたのか、そりゃもうほんとリアルに伝わってくる。カントは生涯ずっと「人間学」という講座を行っていて、その講義を元に晩年本にしたのがこれ。だから、砕けた言葉で訳すのは然るべきことであった、しかしここまでやるなんて、、、と驚きまた感動したのだった。「セックスフレンド」なんて言葉がでてきた日にゃ、時計代わり(散歩するカントの姿を見て、「あっ今三時だ」ときんじょの人は思ったという)の勤勉生活をしていた堅物の男、と言う一般的なイメージはかなり修正しなきゃならなくなるだろう。
観察に徹した、と言うことは多分本当で、耳年増というか、女性週刊誌的というか、それは間違いないのだろうけれど(要するに、観察を元に「実践」していたとは言いにくい、とくに恋愛関係については)、そこまで人間の機構というか、運命というか、人間のネイチャーを愛情をもって見つめたドキュメントなんてあるのだろうか、とまったく感心してしまう。重厚長大な「人間とはなんぞや」という遠大な問いとは異なる、「素の人間らしさ」を振りかえる絶好の書だろう、今でも。
専門家ではなくても、カント読んだことなくても、この本の面白いところをペラペラめくることは、この上なく楽しい価値ある読書ではないでしょうか。ともかく、ほんと名訳です。