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01抱負/02 TLCなど/03 工場見学会/05 、マヘル・シャラル・ハシュ・バズ/07 コルトレーン/08 国士舘学生と/10 ヨコハマプラットホーム1日目/11 2日目/13 プリファブ・スプラウト/15 ムギヨノ×砂連尾、ダニエル×北村/『差異と反復』/29 つれづれ

 *ダンスは
赤字

□0129(Thu)


またまた一週間、書き込み出来ませんでした。すいません。このページのタイトルは、「ネット上にあらわれたる限りの木村の表現の場」といったニュアンスで名づけられているのですが、「ネット上」にあらわれていないところでは、実にいろいろと起きています。ただしそんなものはここでは書けない。書けないというところにネットの日記における限界というものがあるのですね。
ところで、最近のダンス公演、どうなっているのでしょう。ついつい縁遠くなっていて、クビライカン『メカニカ・ポプラール』を見逃したことを、昨日の朝日新聞夕刊の石井達朗評で知りました。まあ、「ゆるい構造と構成のなかで孤立した身体性が際立っている。そこから、エスニシティや政治の問題が身体からにじみ出るように見えてくるには、もうひとつ筋のとおった輪郭と知的な戦略が必要だ」とあり、もう見ないでよかったなんて気になってしまう。イヤ、どうだったのでしょう、見るべきだったのでしょうか、むしろ。
公演行をぼけぼけにしてしまっているひとつの問題は、友人のHPが閉鎖になり、そこにあったダンスのスケジュール表が消滅してしまったことがある。これが意外と大きい。個人の行為として本当に偉大なものだったと思う。あれを目印にダンスにかようと言うことをしていたひとは、十人とか二十人ではきかないのではないか。彼はあれをボランティア(自発的意思)でやっていたのだが、そのことにぼくは感謝したい。と同時に、こういうことを個人の意思に委ねないで、多少お金が出ている団体がこういうものを作る必要があるのではないか。
そういうわけで、お願いですので、ぼくに公演情報どんどん流してください。教えてください、ね。



□0126(Mon)


今日で塾の営業を閉じることになった。気づけば九年も、ぼくは自分で作った看板を立てて個人塾を経営していたのだ。かなりのことを学んだ。生きるということは、人に頭を下げ、相手の今の想いを汲み、自分の欲求よりも先に相手のそれを優先させることなのだと、知った。アルバイトの「雇われ」状態では決して得られない経験だった。
一番印象的だったこと、今でも鮮明に覚えていることは、小学生の男の子が問題の答えがひらめくと「分かった!」と背筋と首を「ピン」と伸ばす瞬間。分かると言うことは、身体的な出来事なのだとはっきり分かった事件だった。その子の感度が非常に高かったと言うこともあるのだろう、この子はいま大学受験に挑んでいるが、彼のセンターの成績が恐ろしいほどに高得点だった。それが嬉しいやら驚くやら、でもあのときのあの「ピン」の感受性が彼をここまで推し進めたのだろうと考える。



□0122(Thu)


気づけば、一週間滞ってました。ははは。
最近は熱にうなされたように、ドゥルーズ『差異と反復』(1968)を読んでいる。一筋縄ではいかないが、ポイントを掴んで読み進めることができれば、こんなに面白い本はない。凄い本なのだ実に。読んでいるうちに、あつくなってしまう。ダンス(精確に言えばリズム)論として読めるし、それが実はドゥルーズによるカント読解という課題のなかで生まれているものなので、ぼくにとってはカントを踊らせるための本として読めてそれがまあたまらないのだ。ゲームマニアの小学生が、どこに行くにもゲームボーイが手放せなくなっているように、手放せない。いつか、この春休み中、ドゥルーズのリズム論をここに書ければと思ってます。

今日でテストも終わりようやく新米先生の一年が終わった。昼ご飯を学食のモス(があるのだ)で女子学生たちと過ごし、夕飯はぼくの家に男子学生が遊びに来て音楽を聴いて過ごした。仲良くしてくれてほんとにうれしかったです。でも一番嬉しかったのは、テストの日なのに自分はそれを受けなくてもいいことっ。テストなのにウキウキなのは生まれて初めて!



□0115(Thu)


JCDN国際クリエイティブレジデンシープロジェクト【アジア編】を見てきた(@麻生die pratze)。
ムギヨノ・カシド×砂連尾理『to-gether』
こういう公演は「企画もの」として流されやすい。というか、ぼくはしばしば流してしまいがちだ。グループとかソロの公演とかは、それらの団体とか個人の歴史性、過去から現在に至る物語として読み込むことが出来、その読み込みのなかでいまこの作品を享受し評価するということができる。逆に言えば、ぼくたちはこういう現在展開中の物語を背後に意識しながら見ているのだと言えるだろう(例えば、解散したバンドにノスタルジー以外の感情をもてなくなってしまうのは、この物語が展開し終わってしまったと言うことがあるからではないか)。だから一過性の企画ものというのは、その瞬間の妙味を純粋に味わうことになるのだが、それが今日は十分に堪能出来るものだった。

ムギヨノはジャワの人なので、やや異なるのだがぼくにはバリの舞踊の幾つかのエッセンスを感じさせた。トラディショナルであることをことさら意識しない、むしろコンテンポラリー云々の理解の元に身体をおいているのは明白なのだが、そのような抽象化の過程にある動きよりも、ムギヨノ本人のプロポーションというか身体能力がもつ、独特の在り方がともかく楽しかった。コミカルな小刻みな動き、ああそういえば、ある村のチャロナランダンスで、カトちゃんケンちゃんみたいな体で笑わせる演目を見たなあ、と連想が膨らむ。身体の特性に滑らかに沿っている動きが、ここちよくまた魅力的だった。それに比べると砂連尾の体は何とも日本人の今の若者の体の不安定さ、確固としていない感じがこぼれ出ていて、その「ことなり」が何とも面白い。肩幅に足を開いて二人並んで立ったときの、ムギヨノの安定感に比べて砂連尾の内股気味の立った雰囲気の何と落ち着きのないことよ。砂連尾はこのような自分の特性を隠す方向にではなく、むしろ野放図に任せるようにしていって欲しい、そうすると何かとんでもなく見応えのあるダンサーができあがってしまうかも知れないと言うわくわく感が正直起きる。逆さにした机にムギヨノがのると、砂連尾は「アアアー」と叫びながらそれをソリのように押しまくった。あの何とも言えないなさけないような切実な「ボケ」振り、例えばこんなところがたまらなく予感させてくれるのだ。
えっと最近気になってます、砂連尾の動き、パークタワー楽しみです。



□0113(Tue)


バリのことを考えながら、吉本ばななが自身のバリ旅行を書いた本を読み返していると、プリファブ・スプラウトの「クルーエル」がバリではかかりっぱなしだった、というエピソードが出てきた。これ、最近買ったコンピレーションに入っていて、なんていい曲なんだろうと思っていたところだったのだ。早速、HMVで二枚組ベスト版を購入。80年代を中心に活躍したグループらしいのだけれど、ぼくはこんな好きな感じのグループに反応してこなかったんだ〜とショック、だが、新しく好きなものを見つけられてまたハッピーでもあった。夢見がちな(と言うより妄想癖のある)男のつぎはぎで出来た空想世界旅行という感じ。モーマスにも似ているが、あれほどモンドしてないところがいい。38曲入りで全部いい。って、気が付くともう一枚手にしてた。小沢健二『刹那』。気恥ずかしいくらいのセリフがでも凄くリアルなのは、この人が見据えていたイメージがちゃんと「強い」からなのだろう。不覚にも新宿の街で信号待ちながら、「プラダの靴が欲しいの〜」(『痛快ウキウキ通り』)と歌われたときグッと目頭が熱くなってしまった。森山の息子では100年かかっても到達出来ない、ね〜。



□0111(Sun)


昨日の続きで二日目の模様。
岡登志子『ECHO』
「トヨタ」で見たものと同作品か。面白くない訳ではなく、見てしまうのだけれど、楽しいかといわれると「どうかなー」と言った感じ。明確なダンスへの意識があるとして、その意識の明確さに頷かされてしまうとしても、すぽんと吹っ飛ばされて、持って行かれるという感じが出てこない、とすれば、それはダンスなのかという疑問にまで繋がってくる。例えば、この作品のヴィデオをダンスというアートジャンルに特に興味のない健全な学生に授業で見せた場合、説明なしで「ピン」と来るのかどうか、そんなこと考えて疑問、なのだ。「素人には分かってもらわなくても」、って言い回しはダンスに相応しくなかろうし。
伊藤郁女『a person』
伊藤の「ドゥクフレ以後」の作品、という印象を強く持つ。ユーモアのセンス、とかね。半年ほど前にみたデュオ作品と方法は似ていると思うのだけれど、ヴィデオの洗練具合とか、相方のダンサーの質とかが違うとこうも変化するものか。キム・ミヤがかっこよかった。拳握って腕振り回すところなど、このマッチョ(?ミヤさん女性ですけれど、ね)な身体なしには出てこない魅力が炸裂していた。ビデオの手ぶれとか、車での風景が流れる動きとか、内容と言うよりも、ビデオ画像のもつリズムにダンサーが同期するというアイデアは、あまり見たことない新鮮なものだった。
康本雅子『脱心講座〜昆虫編〜』
デュオ。男がゴルフケースを担いで登場。そこに康本が入っている。解説書を読みながら、女が作動しはじめる。女が男を導く、主たるテーマはそこにある。男の妙に色気のある佇まいが、康本の奔放な方向の定まらないアイデアに受けて立つ、その感じがいい。こういう男女関係が「ダンス」の舞台に上げられたことないぞ、と思う。ビデオの康本の動きに合わせて男がエクササイズする。ビデオと身体のデュオ、どんどん洗脳されている男。あほらしい動きに促されているからこそ、ムダな考え(知的な映像と身体とのデュオとはなにかという頭でっかちな観念)から自由になって、むしろ見せるべきことの真相(映像と身体がデュオするとどんなことが始まってしまうのかという、頭でっかちではない真実)を伝えることに成功している。タイトルにあるように、「昆虫」化する二人は、でも船になったり、女をあやつる人形と人形遣いになったり、さまざまな変転を重ねながら、ヒューマンの枠組みを見事にすりぬけてゆく。ドキドキするほどいやらしい関係(男のルックスもさることながら、やはり康本の長い手足の魅力が特権的に機能していた、ズルイ!ってくらい)が、しかももはや人間の形をともなっていないところがよい。なにかを一歩進めてしまったデュオだ。

結果として「ナショナル協議委員賞」は、最後の二組、伊藤と康本に決まった。最後の二つというのも、、、と高野さんがトップバッターだったことなど思い返しながら、すこしイージーだな、という気持ちにもなったが、この二組がよかったことにはかわらないので、納得ではありました。さて、フランス行きは誰?



□0110(Sat)


桜木町には、港方面の明るい賑やかな場所とは正反対の、酔っぱらいオヤジにとって聖地といった風情の場所があるのを知っているかな(藤原新也風)。海側ではなく丘側のほうに歩き出すともう赤ら顔のオヤジだの、妙に顔の悪いウェートレスのいる喫茶店だのが所々見えてくる。コンビニの女店員は、ばかばかしいほどの色気を噴出していたり。そのなかに、「三陽」という「ヤラシイ」ラーメン屋がある。若鶏のしょうゆ焼きが有名でもある店なのだが、入ると早々に、「餃子食べますね」と「いらっしゃいませ」より先にオヤジは話しかけてくる。「は、はい」と事情が飲み込めぬまま頷くと「ビールもですか」と次はビールが勧められる。まだ席に座っていない段階でである。メニューには「チン○ン麺」「チョメチョメ麺」など書いてある。これらは「毛沢東オススメメニュー、ナンバーH」なのだそうだ。真面目にふざけていて、餃子もラーメンもおいしいので、カップルも来ていたりするのだけれど、隣の二人ははげた明らかにダメそうなオジイとどうしてこんなオジイと飲んでいるのか皆目分からない若めの女で、昼まっからがんがんビール飲んでいる(ラーメン屋で昼に4600円も払ってるんだぜ)。店内が細長く狭いので、店員が通る度におなかだかお尻だかがあたって気持ち悪いのだが、店員はこちらの気持ちなどまったくお構いなしにずんずん行ったり来たりする。その度に背筋がゾクッとし「ピン」と伸びてしまう。カオティックな店、謎のィヨコハマ。後ろの男たちはずっとフィリピンパブの話をしている。店の外に小さなキャンプ用のテーブルセットがパラソルとともにあるのだが、そこは「ビアガーデン」と呼ばれている(でもこのガーデン、二人しか座れないよ)、そしておっサンは寒さなどものともせず、毛沢東セット(餃子セット、店の者たちは「もう一丁ー」と言う)をもくもくと食べていた。最高だった。




そんなニンニクの匂い漂わせつつ、『ランコントル・コレオグラフィック・アンテルナショナル・ドゥ・セーヌ・サン・ドニ(旧バニョレ国際振付賞)ヨコハマプラットホーム』の一日目を見た(横浜赤レンガ倉庫1号館ホール)。
高野美和子『匿名トリップ』
本人に聞くとトラブルが音響面、照明など頻発し、もうこのまま途中でストップがかかるのでは、と思ったほどだったという。こちらはそんな風には思っていなかったけれど、トップバッターの不運だとしたら本当にかわいそうだ。今日は河村君よりも高野さん(また伊藤さん)の印象が強かった。三人でユニゾンする妙にリズム感のあるステップとか、ユーモアやらつやっぽいエロティクなイメージとか、ぼくはとっても好きなのだけれど、河村君の頭に伊藤さんの頭以下がジョイントしているイメージなど、シュルレアルな部分(要するにそわそわさせるけど脈略の取れない部分)が、シャープな方向性を見せたら、ぽーんと突き抜ける「トリップ」になるかも。個人の閉じたしかし豊かなトリップ、それがさらに見せるものへと進展するのにそのトリップ「匿名」であることは、時に余計なことだったりもするから。
岩淵多喜子『Be』
二年ほど前にパークタワーで見たものと凄く似ているのだけれど(同タイトルだったかな)、今日の方が楽しく見られた。男女二人がおいかけっこをする。女が逃げると男が追う。簡単にいうとそれがルールでそのルールの枠のなかでひたすらヴァリエーションが繰り広げられる。要するに設定の枠があり、しかもそれが狭く限定されているので、「繰り広げ」というほど広がる訳ではない。それぞれのソロパートもちょっとあり、女のところの脂肪のパーツを握ってリズムをつけて踊るところとか、「ぎゅ」とするところの感覚がちょっと面白く、握られぬ決して自分自身では動けない脂肪もそこでは無理やり動かされて踊らされている、って感じがややウケではあった。
岡本真理子『ききみみ塔』
ウッドベースとのコラボ。床に小さい鉄板があり、片足でタップシューズ。楽器と即興的な絡みというので、なかなか見事!と思わせてくれるものに出会わない。とてつもない鬼門に思えてくる。ところで、この人の場合、踊らないという抑制なのか、踊れないということなのか、わからない。何を待っているのか、何を起こそうとしているのか、ぼくにはあまりよく見えない。
ボクデス『BOKUDEX』
これまでのショート作品の「20分」のためのコラージュ・ヴァージョン。(1)壁男(2)Watch man(3)ゲラー・ダンス(4)なにかが道をやってくる(5)shortcake(6)蟹ダンサー多喜二。
ぼくはヴィデオで見ていて好きだったのだけれど、やはり今回見てよかったのは「なにかが道をやってくる」だった。細切れでしかないそれぞれ独自に屈曲した線がデタラメに繋げられている。ときに連想ゲームになったり、ならなかったりしながら、そのデタラメに繋がっている線の応酬がたまらなくおかしい。とかいいながら、もっと面白くなりそうと欲張りな意見も湧いてきたり。また「蟹ダンサー」も実はライブで見るのははじめて。おかしかったが、ボクデス(小浜)の表情は豊かなのだけれど、蟹の目がこっち向いて踊っていたら、蟹がまさに「ダンサー」として堂々踊っているのだという可笑しさがさらに一層噴出したことだろう。だって「蟹」を「ダンサー」にしてボクデスはその振付家に過ぎない、なんて構図が明確に浮かんできたらそりゃおかしい、よう。



□0108(Thu)


三コマの授業をなんとかやりこなしたあと、下北沢へ。学生とお話会(ぼくと学生Aさんだけ飲み会)をしたのだ。場所は夏と同じタイ屋台料理屋(「スパイス」)。ここはメニューが少ないけれど、こぢんまりとしていて客がほとんどいなく、貸し切り状態みたいに出来るのでいいのだ。しかも、「えへ、このCDかけてもらえませんかネエ」みたいなわがままリクエストにも笑顔(苦笑)で答えてくださる。
でも、なんとみんな大人しい学生たちばかりなのだろう。4コマ目の授業するみたいにして切ったエンジンもう一度かけておしゃべりしまくった。



□0107(Wed)


音楽部屋でついつい長居してしまい、仕事部屋にいかなくなる(明日は今年度最後の授業第一弾、なのに。明日の講話は「崇高論」なのだ)。でもあれだな、音楽は「ながら」で聴くのが一番かも。シーンとじっとして聴くよりも、コメ研ぎながら聴いている方が「のる」。昔のレコードを田舎からもってくるとき、かなりの数のコルトレーンのレコードをもっていることが分かり、過去の自分にちょっと驚く。その中でも『ヴィレッジ・バンガード・アゲイン』というやつが一番のお気に入りだった。あらためて聴いても凄くいい。かたちが次第に溶解してゆきキテレツなかたちに変貌しつづけながら転がる。あっそうか、ぼくはこれ中学生くらいの頃聴いて、ここから運動の問題とかリズムの問題とか、その後ダンスを見るとき感じたり考えたりすることの基準にしていたのかも、と思い、ちょっと懐かしいというか、感慨深い気持ちになった。メロディーの線が「溶ける」、何故溶けていかなければならないのか。超気真面目なルックスのコルトレーンが、奇怪な脱線を慎重かつ大胆に進んでいったその理由を考えてみる。それが今2004年の運動やリズムの問題にどう触れ合ってくるのか、とちょっと考える。



□0105(Mon)


昨日は、塾のために帰郷。その時に、銀座でアリシア・キース『ザ・ダイアリー・オヴ・アリシア・キース』と半野善弘『リド』を購入。正月気分で「テレサ」とかいっている場合じゃない!と思って、また新しくターンテーブル(!レコード・プレーヤーじゃないよ)とアンプとスピーカーを手に入れたので、やっぱききごたえのあるもの聞きたいと、今月号の『ミュージック・マガジン』(特集 ベスト・アルバム2003)を手にいろいろと物色しようと言う魂胆なのでした。の、第一弾がこれ。昼用事(パスポートの更新)を済ませながら、車のなかで聞いたアリシアの「ユー・ドント・ノウ・マイ・ネイム」が最高。ヒップ・ホップだのテクノだのちらつかせながら、ジャケットのテイスト同様あくまでも音のなかにアコースティックな匂いがある。声が体の空洞に反響して出てきた、と感じられる、そんな正統的ソウル・ミュージックでもある(そう言えば、ぼくが幼少(→小6くらい)の頃最初に反応した洋楽アーティストはオーティス・レディングだった)。声は、「雨上がり」の佇まい。「ちょっと」と思って海に行く車のなかで、雨がパラパラ降り出したと思いきや、遠くの空には雲間から光が差し込んでいる。なんとぴったりなオーディオ&ヴィジュアルだこと!海の空はターナーしてやした。
その後、夕方そそくさと上京。渋谷でさらに物色行。タッカー『タッカー・イズ・カミング』、サトコ・フジイ・カルテット『ゼフィロス』などとともに、マヘル・シャラル・ハシュ・バズ『今日のブルース』を買った。このマヘルがもう絶品。パーカッションだのユーフォニュウムだの、ギターやベースだので、ワンアイデアをすこぶるへたへた(「へたうま」にもならない感じ)な演奏で放り込んでくる。下手な感じが、「美しかろうがなかろうがともかくここに生きているんでやす」と言われている気がして、そうでなければでてこない空気感とか情感とかが本当にすばらしい。「植物的」と言おうか。ぼくの部屋にいる観葉植物はまことに自分勝手に自分の葉を枯らしたり新しい芽を吹いたりしているが、その自分の情動のみを信じている様子が、このマヘルの音の佇まいに似ていると思ったのだ。前作も買ったのだが、これはライヴ・レコーディングらしく、通しで聞いていないのであれだが、ひょっとしたらこちらの方がもっといい、かもしれない。



□0103(Sat)


五反田団の「工場見学会」に行って来た(@五反田、前田宅の工場跡)。
主宰前田氏の自宅の工場(恐らく現在はまったく機能していない)で、プレスの機械やら何やらごちゃごちゃしているなか、年末年始に相応しいというか、友達のうちこの時期いくと、友達のお母さんがいろいろもてなしてくれたよなってな気分にしてくれた。こんな会はなかなかなくてまたそれが五反田団らしさだと言うところがいい。
基本的には、『びんぼう君 21世紀バージョン』の上演。あだ名を「水飲み百姓」「えたひにん」にされてしまったイジメられっこの男女(前田君の物語にはほとんど必ずと言っていいほど「アウトカースト」な人物が登場し描かれる、ここ重要、アンダーライン!)が、お父さんと一緒に月の観察の宿題をするという話で、いつものように他愛もないのだけれど、物語としてすばらしく、もう何も言うことはない。ぼくは台本を予め読んでいたので、アレがこういう風に演じられるのかと言うことにまた感動した。
その後、テルミンとマリンバの演奏、沖田修一監督の映画「鍋と友達」が上映された。アンコールみたいにして、前田作「SM社長」も上演、「きっこうしばり(?)」された「社長」の縛りに驚いた。
イベントのニュアンスが濃厚な会だったけれども、こういうものがじわじわと世界を変えていくのだ!と世界から見捨てられた廃墟の工場で思っちゃったりしたのだった。



□0102(Fri)


昨日の晩、近所のレンタル店がツタヤに変わってからはじめて行ってみた。そこで、TLC「3D」、オフコース「ベストセレクション」、テレサテン「グレイトヒッツ」、ジョイス「フェミニーナ+水と光」を借りる。何と節操のないことか、オレ。そして何とも言えない年末年始チョイス(大晦日になるとテレサの「つぐない」聞きたくなりません?紅白見てると心のどこかでテレサを探してしまう!)。で、いまTLCを聞いて泣きそうになったりして。音楽が無茶無茶好きで、セックスも好きで、好きなものに対する一途な眼差しがあって、それを実現する才能があって、しかもそれが直にどんな人の体にも伝わるように、聞き手への愛情に満ちたパッケージになっている。なんて素敵なんだろう。Couldn't it be better?愛が深いと言うことは、シンプルなのだ、いかに重層的なリズムで責めていても、シンプルなものなのだ。
で、今日は古いレコードがずっとプレイヤーのないためにお蔵入り状態だったのを覆すために、プレイヤーを買いに行く予定。DJ仕様のものにするか迷い中。

ところで、数日前、小津安二郎の『晩春』(昭和24年)を見た。簡単に言うとファザコン映画である。結婚適齢期にさしかかった娘紀子(原節子)は、母のいない家庭で父と二人暮らし。父はどうにか娘に結婚してもらおうと、自分が再婚するので出て行くようにとうそをつき結婚を促す。促さなきゃならないくらい、娘は父との暮らしに満足しそれが続くことを強く望んでいる。何せラストには、娘による父への告白シーンさえあるのである。かなりヤバイ映画なのだ。この娘の異常な情熱は恐らく、抑圧を受けるはずの「母」の座が空席になってしまったことにより、娘は子供であり、妻でもあるという形で、エレクトラ・コンプレックスの三角関係の二つの角を独占してしまっていることに原因があるのだろう。まさにだからこそ、父は再婚する必要があったのだ。しかし、娘が結婚に同意するのは、その座が奪われたことだけでなく、父がそれを望んでいるということによるのであり、娘は父の望みに叶うことをすると言う仕方で、父に最大限依存しようとするのだ。ムーあまりによくできた精神分析的−構造論的映画なのである。

恋愛というのは、男から見た場合、自分自身のエディプスコンプレックスだけではなく、このようなファザコンに陥った彼女の父へのエディプスコンプレックスに責めさいなまれることなのではないか。しかも、この女の子に彼氏が隠れていたり、元彼の影が見えたりしたら、この男に対するコンプレックスとも戦わなくてはならないことだろう。
要するに、恋愛というのは、このような二人の当事者以外のもう一人との関係で構成される三角関係、しかもしばしば複数の三角関係の織物のなかで展開されるのだ。そして、この構造の病は、得てして「恋愛の物語」が自分を饒舌に語るためのファンクションとして機能するためにだけ、存在する。この物語のコマになって、熱を上げて、その熱のためにだけ、展開されるものが恋愛というものなのかも知れない。

このような精神分析的−構造論的恋愛というものは、ようするにうざったいものなのだ。だってそうだろう、「物語」に奉仕し、気づかぬうちに思わぬセリフを喋ってしまったりするものなのだから。ここから抜け出るための作法がアンチ・フロイト的方法としてのラカン−ドゥルーズ=ガタリに違いない。あるいはもっと徹底して言えば、象徴界をひたすら回避して想像界を生きることなのかもしれない。何ものも成就させないこと、運動だけを戯れだけを生きること。

このような弁証法を、つまり関係性の物語性格を晒しに晒して、しかもそこからの逸脱の標を掲げるというような、そんな表現を見てみたいものである。ねえ、誰かそんなダンスを踊ってくれないかなあ。


舞城王太郎『熊の場所』読了。



□0101(Thu)


新年あけました。今年もよろしくお願いします。
おととい、大掃除をしていて、お部屋のマイペットを「プシュッ」とディスプレイに思わず吹きかけたら、それ以来画面上にニューマンの「ジップ」みたいな縦縞がそこここに30本くらい入ってしまいました。新しい画面、みなさんにはお見苦しいところはないかも知れませんが、ぼくはとーても見にくい状況でいま、日記書いてます。よかったらこのぼくの苦しみ、想像して読んでください。

昨日帰省し、田舎で大晦日を過ごし、夕方いつものそばやにいつもの上天そばを食いに行き、いつものようにオヤジが「ちょっとなんかつまみでも」と言ってコンビニで買い込み、紅白を見ながら(去年の場合、なぜかレッスルする人々をどんどんチャンネル変えながら見て、それにしても曙のカエルがぺしゃんこになったような倒れ振りは、なんとも切なかった)、昨日の朝帰ってきたばかりの兄貴夫婦にパリ島(ウブド)の変貌振りを聞いて、悔しいやら切ないやらいろいろな気持ちになって、インドネシア語を思い出したりしているうちに、「行く年来る年」と「岡村隆史イリュージョン」を切り替えながら気づくと新年に変わっていて、こんなんでいいのか03→04は!と思いながらも、お猪口で家族と乾杯、の大晦日でした。

そんで新年、雑煮を食べると今度は塾。受験生には盆暮れ正月はありません。とはいえまあ、イベントですね、今日もちゃんとアクセルふかしとこうゼってなモンで。その後、昼を食べると今度は九十九里のプールへ。ホテル・サンライズというバリ島と比べると本当に恥ずかしい(ハヅカシーッ)リゾートホテルがあり、そこに併設されているプールで泳ぐのが時間のあるときの楽しみなのだけれど、元旦早々快楽遊戯へ。火の光に差し込まれ、プールの水は網目模様の顫動する線の戯れを起こし、その中を泳ぐこの上ない快楽!平泳ぎしかチャント出来ないのですが。スイスイ。で、帰ると早速高速バスで川崎へ帰宅(忙しい)。


昨年のぼくのダンス鑑賞(?なんかしっくりこない言葉だ)経験について。
ベストは?ともし聞かれたら、黒沢美香の「ダンス☆ショー」に相違なく、そしてそういうってーとーつまり(と振り返ってみれば)、ぼくはダンスを見に行くときに、「ダンス」が見たいのだという至極真っ当な結論がふわりと浮かんでくるのだった。笑えないお笑いを見に行く人はいませんよね。いや絶対にいないと思う。でも、ダンスを見に行くとき、それが「ダンス」じゃない場合でも、「ふふーん」となんか分かったような、分かんないけれども何か理屈をつけてみたりして、何とか自分を納得させて帰ったりすることがある。「分かんないけど偉いのだ」というエクスキューズは、「アート」というジャンルが得意とするところで、そういう意味では、ダンスが「アート」を自称する振る舞いを見せたときに、突然それは「ダンス」じゃなくてもいいのだ、と言うことになっていたりする。昨年は、コンテンポラリー・ダンスが陥っているそういう現状につよく憂いを感じた日々でもあった。『赤目四十八瀧〜』は面白いよ、と教えてくれた西村清和先生が、「哲学論文なんてーのは、要するに面白いか面白くないかだ!」とぼくに話してくれたことがあるが、そう、ダンス公演だってそうなんだ、要するに面白いかどうかなんだ、そしてその「面白さ」が「ダンス」に接続していなければならない、当然。「じゃあ、この「ダンス」ってかぎかっこつきで言っているそれは何なのさ」と切り返したくなる人もいるかも知れない。簡単に言うことは出来るけれど、さあ、そこでぼくのこの一年は、この「ダンス」をどうにかぼくなりに多少なりとも整理して話が出来るようにしたい、と、そういう抱負をここに掲げておきましょう。たぶんそのためにはぼくも「ダンス」する必要があるのだろう。はい、ならば、踊りますよ〜。

あとことしぼくが気になったダンスパフォーマーは、塩澤典子と高野美和子でした。塩澤さんについては、「パンクロックを聞いていて内側で沸騰してきたものに抑えきれず体が暴れ出す」を純度を高めながら作品化した姿勢に素直に感動した。これでいいのだ。そうあのときオレは聞き手として存分にダンスをしていたのだっ、ということをきちんと確認させてくれ、またそのような「内向き」の動きも踊りになる(見るに耐えるものになる)のだと言うことを教えてくれた。高野さんには、あの人間としての体温というか湿度をきちんと感じさせながら、繊細で強い美的センスを奮いまくる時間に、もっと見たいという気持ちを強くもった。「通りすがりの女」(ベンヤミン)のように二人に惚れたのでした。今年の二人はどうなるのでしょう。期待したいっス。あと、オトギノマキコやはじめて目撃出来た中村公美も昨年の印象に残った人たちでした。

ぼくが今年出来れば、このHPでやりたいことをあげておくと、
☆どこにもまだ買い手がつかないエッセイを書き散らす(テーマは「舞城王太郎と新しい身体観」「ブリッコとは何か−−松田聖子と松浦亜弥を比較して」「お笑いの構造分析(機知とリズムの問題)−−笑い飯とかフットボールアワーとか」)。
☆身体論の文献リストを作ること。で、そこからクモの巣状のチャートをこしらえて、そこからさまざまなリンケージ可能性を模索すること。
☆パリ島に再訪し、その旅行記をアップすること(そのために濃度の濃い旅行がしたい、計画中)。