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200403



(200402)
01 つれづれ補/04 パルマコン(薬/毒)としてのダンス/06 野坂昭如「エロ事師たち」/07 ソロ×デュオ一日目/08 二日目/09 『クサマトリックス』と『六本木クロッシング 日本美術の新しい展望2004』/12 旅行のこと/13 『蛇にピアス』『蹴りたい背中』『透明人間』/14 行って来ます/23 帰ってきました/25 砂連尾+寺田『男時女時』/26 『H in H (free love)』/27 安藤×フォーサイス/28 ニブロール『ドライフラワー』

 *ダンスは
赤字


□0228(Sat)


ニブロール『ドライフラワー』を見た(@パークタワー・ホール)。
赤、青、白。色はこう流れた。音や映像を含め、様々な色紙の切れ端が、貼り付けも縫い込まれもしないで並べ置かれてみている。そこに相互の葛藤は主題化されていない。これまでニブロールを見る視線には、この(関係から生じる)葛藤を受けとるという心構えがあって、だから、いまそのまなざしがお預け状態になっていることにはちょっと戸惑ってしまう。とはいえ、それしかありえないと言うことでは無論ないわけで、葛藤の代わりに前景化されているのは、並べ置かれた色とりどりの全体で響く叙情、といったものだろう。いたいようなそれは、矢内原の男の手を踏む(『コーヒー』作品の「人を跨ぎ超える」という出来事が今回は「人を踏む」という出来事に移っている、と思われた)ときの口をきっと結ぶその口の小さくねじれた形に凡て凝縮してみたくなるようなものなのだが、そのことが、さまざまなダンサーの身体性のなかで別のニュアンスを散らしながら示されもするところはなおクールではある。とはいえ、その叙情に震えるような感動は訪れなかった。『コーヒー』を見たときのような苦しいほどの感動はなかった。まずは初演、ということでもあろうか。



□0227(Fri)


安藤洋子×ウィリアムフォーサイスを見た(@世田谷パブリックシアター)。
『WEAR』
シャカパン(シャカシャカ音のするナイロンパンツの意)にダウンジャケットを着た男二人と女。女の頭はでっかいアフロが乗っかってて大変。『Relax』系の雑誌のもつダウナーな衣装と雰囲気、ダウン着て寒いってことは、ここは極寒の地?そんな危険な感じも残して、でもストリートっぽい動きが見えてきたり、それでいて、凄い精度で行って戻って来るというような「らしい」動きもふんだんで、突き抜けるようなヒット感はないのだけれど、前菜的な、「イヤ今、こんな遊びに心引かれてるんだけどね」って正直さが感じられて悪い気はしない。安藤と二人の男のもつ身体性の違いがかなり目立った。男たちはフォーサイスメソッドの緻密な縛りのなかでかなりゲームを楽しむみたいに楽しんでいるようだった。
『(N.N.N.N.)』
四人の男たち絡ませ絡まり、動く建築を更新し続ける。凄いスピードの組み体操というか、体操的になりかねないところで、スピードの中どんどん流していくところで、ダンシーの果汁が広がる。
『QUINTETT』
気づけば、この作品の並びは3→4→5人なのだな、と言っているうちに始まる。背の低い男と女(安藤)、長身でマッチョの黒人とオレンジ色のぐんぐん動く女とギャロっぽい男、五人。後ろにミラーがあって穴があいていて、後半背後で車窓の風景のようなものが流れるが、ごくごくシンプルな舞台。思想とメソッドの追求は、もはやことさら語るべきことではなく、ただ動くことの楽しみスリル、テンション、これらが「目的の表象なき合目的性」(ってことは「美」?)と言いたいような仕方でただただ展開される。



□0226(Thu)


moz-art第4回公演『H in H (free love)』を見た(@キッド・アイラック・アート・ホール)。



□0225(Wed)


砂連尾理+寺田みさこ『男時女時』(おどきめどき)を見た(@パークタワーホール)。
いま『アイロニーのエッジ その理論と政治学』(リンダ・ハッチオン著、古賀哲男訳、世界思想社、2003)を読んでいる。まだ読み終えていないが、すばらしい本だと思う。アイロニーは言っていることとそれが意味していることが別である場合のその効果を指す言葉だが、「きらいきらい」と言う言葉が「すき」の意味である、ということが一義的に決まる、ということでもない。そこでは「すき」を意味するようでいてなおもやはり「きらい」の響きが依然残っていたりする。アイロニーの力はこのどっちつかずの曖昧なままであること、それでいてあるベクトルをおのずと示してもいること、そこにある。「きらい(なんちゃって)」の「なんちゃって」がアイロニー。この「なんちゃって」がいつまでたってもその残響を残し続ける。それがアイロニー。
今回の二人、特に前半の二人は、まさにこのアイロニーのように、「なんちゃって」の数珠繋ぎのような踊りを踊った。二人がいること、そこにある「恋」「愛」「愛情生活」、でもそれに対してストレートに互いに表現をするはずがない。生活というのは、そんなラブストーリーみたいなものではないから。それとも表現すると途端に消えてしまうようなはかないものこそ「愛」?いや、むしろそれぞれがそれぞれのファンタジーのなかで互いを思いながら、でもそれが決して簡単に重なり合うことがないという、そのことがアイロニーを招き呼ぶ。二人は決して目を合わせない(「まぐあい」することがない)。唯一のシーンでも寺田はまくり上げたシャツに顔を覆って、だから目と目の間には一枚の膜が介在する。一体化の幻想など、幻想としてしかここにはない。「…なんちゃって」×「なんちゃって」×「ちゃって」×「ちゃって」。とぼける、前の動きをすかす次の動き。どこまでもこの「なんちゃって」は残り続ける、それは男のせいでも女のせいでもなく、究極のアンサーが拒まれているぼくたちの運命が原因なのだ。だから「いいときとわるいとき」(おどきめどき)がある、それはそう、しかたがない。このアイロニーのリズムが踊りになる、寺田のみならず、砂連尾の動きが楽しい。このリズムにアイロニーの説得力が光る。
後半は、ピンポン玉がどんどん床にまき散らされてゆき、数が増し、玉は二人(男と女)の関係の物語を照らすプリズムになる。高島屋の袋を腕に登場する寺田、抱えて倒れるとピンポン玉がわっとこぼれ落ちる。過剰、豊饒、でもまた抱えきれずこぼれてしまい自分の手から放れてしまった記憶とか経験とか、二人に関わるもろもろの事物のようにも見えてくる。ひとり×ひとりは、なんと広く深い無数の出来事を生み、捨ててゆくことだろう。もはやそれらは自分たち自身にも手に負えるものではない。「手に負えない」と言う感じがあまりにリアルな手触りをもって、ぼくに伝わってくる。「手に負えない」あぶくの山にまじって踊る時間、そのよきにつけ悪しきにつけそこで踊ること、それのみが「現在」であるということ。繰り返されるリズム。そこに溺れるように、でも溺れ死ぬことも出来ない煉獄としてそこに溺れる。
見てよかった。コンテンポラリー・ダンスのひとつの達成。



見たあと、知人と『夫婦善哉』だの『門』の話などした。いまは27日、『門』スピード読了。どうも『三四郎』『それから』は読んでいたのだが、『門』はまだだったかも知れない。すくなくとも内容を忘れていた。やはりいいな、漱石(当たり前ですが)。まったくの余談だけれど、「御化粧」のルビに「おつくり」とあるところとか、とてもイイ。主人公の精神的恐慌が春の到来と共に消え去ったかに見えたラスト、
「「本当に有難いわね。漸くの事春になって」と(主人公の妻御米が)云って、晴れ晴れしい眉を張った。
宗助は縁に出て長く延びた爪を剪りながら、
「うん、然し又じき冬になるよ」と答えて、下を向いたまま鋏を動かしていた。」(『門』)
この冬から春、またあたらな冬の予感、この反復、流転、砂連尾+寺田の達成は、大仰に響こうが、このラストに比肩しうると思う。



□0223(Mon)


イェェェェェェェェェェイ。
昨日っ、帰ってきました。帰りたくなかったけれど、帰ってきてしまいました、嗚呼。日本はどうでしたか、みなさん、どう過ごして居られたのでしょう。
ぼくはスゴォォォォォォォォォォォく楽しかったです。いまだ頭にはガムランが鳴ってます、ガムランのような鳥と虫とニワトリとカエルとトッケとウシと子供の泣き声とバイクの音と川のせせらぎと雨のザーザーと男の「トランスポート」の声とラジオの切ない歌とがグルグルと混ぜ合わさって次々転がってゆくサラウンディング・サウンド・スケープが鳴ってます、まだ。ダンスは7箇所で見ました。そのなかにはいわゆる観光客用の公演ではない、オダラン(村祭り)のものも含まれます。体験出来なかったことものなどいろいろ未練ものこしながら、でも今回もいい旅でした。いろんなバリの刺激がぼくの皮膚を襲ってきました。鼓膜が震え、眼球は透過し、舌は堪能しながら口内炎もつくりました。皮膚はいまだに発疹が出来ています。少し頭痛と寒気がして、それはぼくがあの世界に触れたことを証してくれているようでとても嬉しいのです。近々、旅日記連載します。では、とりあえず、帰国報告。





□0214(Sat)


「とけろ!リアリティ」(『はらいそ』)って感じで、行って来ます!アディオス!


「一番おもしろいのは門をくぐる瞬間を記述するということと門の内側に入ってその世界を見て、その門の内側に蓄積されたものを知ることのほうがずっとスリリングでおもしろい。」(「マジック・イン・バリ」)



□0213(Fri)


先日『文藝春秋』を買い、話題の芥川賞受賞二作を読んだ。結構「どうなのかねえ?」と軽く疑っていたのだが、正直、面白かった。金原ひとみ『蛇にピアス』は、ラストの整理の仕方がきちんと文章を小説化していて、「力量」というものを窺わせた。けれど、このように小説として読めるものになっていると言うことが、この文章をよきものにしているのかどうかは疑問。先生(的存在、父?)にほめられたいと言うことならばともかく、自分の描写したいものに対してともかく集中したいという執着に忠実であれ、と考えるのであれば、そのことだけに向かってくれた方がよい。その点、綿矢の作品に比べると描写が甘い、と思う。そういう甘さは、ときどき登場人物たちの動作をどこかで読んだような見たようなありふれた型のなかで語ってしまいそうになるところにあらわれている(例えば、「アマの怒濤の質問に辟易している私を、ユリが笑いをこらえながら見ていた。駅前で落ち合う約束をして電話を切ると、ユリは吹き出した。」アマは「私」の同棲相手、ユリはバイト仲間。このユリの描写はかなり戯画的というか、大雑把な感じがする。そんなコト、「笑いをこらえながら見ていた」なんてしないよ普通って)。多少、こう言うところが気になるのだけれど、恋愛とか、相手への感情とかを、身体に傷を付けることでしか語れないということを示してくれているところが、やはり2004年の小説だと思った(いやでも、身体を傷つけることを媒介にしながら、傷つけることでは何も解決しないと言うことを実は金原は説いているのだけれど)。綿矢りさは、正直ルックスが好みなんですけれど(どうして小説というのは、主人公と作者を重ねて読んでしまうのだろう、どこかで「ハツ」に作者の顔がダブる)、それはともかく、描写の丁寧さに最終的に舌を巻いてしまった。「いじめ」の風景ともいいがたい、あまりに平凡で、だから誰も描写しようとは思わなかった、描写することが出来なかった、教室のおもったるい、演技にまみれた風景。それを丁寧に丁寧に書きこんでいこうとする。同じクラスのはじかれもの「にな川」の背中を蹴りたいという感情が説得的なのは、単に彼への思いが文中に書かれているだけではなくて、主人公の境遇が彼女に余儀なくさせる鬱屈したものなしには「にな川」への想いは成立せず、そういう意味でこの感情が本当に「愛」だの「恋」だのという言葉に収まらないことが、きちんと語られているからだ。自分を言葉で括ってしまえない、このことは、クラスのどこかのグループに属すことが出来ずに(それはみずから選んだことであるにも拘わらず)いらいらと切なくもどかしく過ごしていることと重なる。相手を蹴るという乱暴な振る舞いの思いつきだけが、誠実な自分と相手との触れあいなのだと、「欲望」という言葉に引き合わせながら、主人公はその行為に引かれていく。ここにあるのは、「認識」であり、認識というのは「発見」の記述なのだと思う。そういう記述だけが、「読みたい文章」のステイタスを獲得出来る。

「「痛いの好き?」
痛いの好きだったら、きっと私はもう蹴りたくなくなるだろう。だって蹴っている方も蹴られている方も歓んでいるなんて、なんだか不潔だ。
「大っ嫌いだよ。なんでそんなこと聞くの。」」

これは別にベットでの会話ではなく、「にな川」の好きなアイドルのコンサートを一緒に見に行ったとき、混雑してきゅうきゅうになっているところでの会話である。「なんだか不潔だ」の意味内容は、ドゥルーズの『サドとマゾッホ』なんかでも説かれている、とりわけ真新しいものではないかも知れない。でもそれを「なんだか不潔だ」と言う言葉に託すことで、この主人公の体験と想像力の中から生まれた知識であることを豊かに示すことに綿矢は成功している。あと、このコンサートに遅刻しそうになって一生懸命ピーサンで走って会場に向かうことろの描写も美しい。「高いビルが立ち並ぶ舗道に、息を荒げて駆けていく私たちは全然そぐわない。すぱんすぱんと、私のビーサンの鳴る音が広いまっすぐな道路に間抜けに響く。道路には街灯が両脇に等間隔に灯っていて、走る私の体の両脇を一つ一つの蜂蜜色の光が、尾を引きながら後ろへ流れていった。大きな橋にさしかかり、スピードをゆるめずに走りながら、橋の下に広がる夕陽を反射してきらきら光っている川を眺めた。途端に場違いな、すがすがしい気分になり、さらに速く走る。身体が風に溶けそう。」

山下残『透明人間』を見る(@オリベホール)。
何か無性に腹が立ってきてしまった。イージーにいろいろなものが汚されたように思ってしまった。トイレを我慢して空腹に堪えていたからだろうか、そうじゃないけれど、そういうことにしてしまいたい。

、、、要するにダンスにも言葉にも音にも何の疑問も持っていないことが、それぞれの存在を無邪気に無視してしまっているのだ。



□0212(Tue)


慌ただしくしていて、気がつくと何のメッセージもないままに、十日間ほど無言の状態になるかも知れないので、忘れない内に報告しておきます。ぼくは2/15−22の間インドネシアのバリ島(まあほとんどはウブトUbudという芸術村)に行って来ます。なんだかんだ言って4−5年振りなんです、おしゃべりの端々に「バリダンスは〜」とか言っていた割には、かなり久しぶりなのです。ときどきぼくは何でダンスが好きなのか、何でしばしば公演に行くのか分からなくなったりするんですね。そういうこと考えると、ぼくはいわゆる「ダンス」が好きだと言う訳ではないのかも知れない。どうも、マニアックにひとつのものに固執するというのは性に合わないところがあって、ふらふらとあっちの花こっちの花と飛び回っている方が気持ちいいのですね。そこででも、ひとつだけとどまっていようとしているものがあるとすれば、自分の感覚、体内感覚、リズムなのかなと思います。それがともかくきちんと動いていて、反応出来ていて、いつでもどんな対象がやってきてもこっちの手持ちの道具で対処出来る、そんな風でいたい、と思ったりします。それを異国の地で錬成する。それが今回の目的なのです。
ちょっと早いですが、行って来ます。



□0209(Mon)


MAMにて『クサマトリックス』と『六本木クロッシング 日本美術の新しい展望2004』をみた。
二時の約束を思いっきり遅れてあらわれると、待ち合わせた学生たちの視線が冷たい。でも、展望台のすばらしい見晴らしのおかげで何とか、何とか。この二つの展覧会、見応えありあり。特に『クサマトリックス』はあっという間に入って出てしまうけれど、本当は一つ一つをじっくりと楽しみたいもの。5つの部屋があり、そのそれぞれが無限の反復のなかにある。それが偏執狂的な草間の作品性を単に内向きにさせず外向きに開く力になっている。コミュニケーションの方にきちんと開いていることは、前知識のほとんどない学生たちがきゃーきゃー言って楽しんでいたことから明白、だった。『蛍の群舞の中に消滅するあなた』は、真っ暗闇の四面ガラス張りの小部屋に、ところどころ豆ライトがつり下げられていて、ときどき色を変えたり点滅などをする。それだけのシンプルなアイデアなのだけれど、合わせ鏡の効果でその光のつぶつぶが永遠に彼方にまで続いているように見える。ここは盛り上がった。
その後、行きつけの飲み屋に連れて行き、ご飯をうまいと言わせて、いいきになった。


□0208(Sun)


ソロ×デュオ<competition>の第二日目を見た。
高橋智子
高野美和子
安達香澄
ジョン・ヨンドウ
木野彩子
(感想は後日)



□0207(Sat)


ソロ×デュオ<competition>の第一日目を見た。
JOU
新鋪美佳/福留麻里
森下真樹
矢内原美邦
(感想は後日)



□0206(Fri)


『性の追求』(全集 現代文学の発見 第9巻)を読んでいる。
谷崎や坂口はもちろんのこと、吉行淳之介(『砂の上の植物群』これ性の描写としては、いまやそれほど刺激的ではないが、文の構造の複雑さはなかなか面白くて見事、ときどき読む吉行はいつもいいなあと思わせてくれる)やなかには室生犀星の「性の追求」と呼ばれうる小説を収録したアンソロジーもの。コンピレーション版CDを買うみたいな気持ちで読む。へえ室生犀星ってこういう人なんだあと新鮮な感動があったりしながら、しかし実はぼくの目的は野坂昭如の「エロ事師たち」にあった。はじめて野坂昭如を読んだ。大阪の男たちがフツーの人々に「エロ」を売り歩くさまを物凄いリズムのある文章で書き抜けていく。読みながらもしぼくが小説を書くなんて機会があったらこういうことを、、、と思っていたものに近いことが書かれていて、なかなかショックだった。



□0204(Wed)

「パルマコン(薬/毒)としてのダンス」


以前バリに行ったときにも読んだ本、中沢新一の『野ウサギの走り』は、ぼくにとって誘惑の書である。バリ以外でも、この本の中に収められている「冬祭りがはじまりだった」を読んで、2年前の正月、長野県の山奥の村にひとり、明け方に鬼があらわれる原始的な祭りを見に行ったのだった。その本をさっきも、何とはなしに読んでいた。
そこに「マジック・イン・バリ」というエッセイがある。これはバリの精神、特に芸能にあらわれるマジックの精神を、中沢が現地で読んでいたというデリダの『プラトンズ・ファーマシー』(邦訳では確か『散種』と言ったはず)に出てくる「パルマコン」の概念から説く、と言った趣向の文である。「パルマコン」の語には、「薬」の意味も「毒」の意味もある。よい薬も飲み過ぎれば毒になる。薬/毒の境界線は案外曖昧なものなのである。さて、バリには二種類のマジック、ホワイト・マジックとブラック・マジックがある。前者は善きものであるが、後者は悪しき、と言うか破壊の力に溢れている。バリはヒンドゥー教で、すなわち二元論的世界観であり、チャロナラン劇がまさにそうであるように、悪と善の闘いは決して勧善懲悪の結末を迎えることなく、混沌のままうやむやにフト終わる。この混沌のままに保たれる「2」の状態こそ、そもそも古代ギリシアが「パルマコン」のなかにもっていたものと重なり合うのであり、プラトン(ソクラテス)の哲学的行為は、この伝統を破壊して、知の支配のなかで整理整頓してしまった。こうして中沢はデリダの西洋知批判を次のように要約する。

「そこで問題になっていることはまさに、マジックの知の敗北のプロセスを批判的に描くことなんだ。デリダは、マジックの知性に支配されていたギリシア世界に焦点をあわせた。そこへプラトン、ソクラテスが出てきて、それを哲学的なマジックに切り替えたわけですね、魔術を無効にするための言語の魔術、弁証の魔術をかけたわけでしょ。そのドラマティックな移行をデリダは描いた。もともとあるファルマコンの世界、マジックの世界というのがどういうものなのか、だんだんわかってきて面白いんだ。」

そういえば、と思い出す。ぼくが4年前バリに出かけたとき、ぼくがすがるようにそこを求めたのは、中沢が語るデリダについての言葉の中に「移行」と言う語があったからだったのだ、と。「なんでデリダが面白いかというと、移行の瞬間の記述をやっているからです。脱構築の面白さってこれでしょう。でもみんな誤解しているよね。スリリングにすりかわっていくそのプロセスを描く、それしか面白くないもんね」。最後の文章など、自分自身の言葉ではないかと見間違うくらい、あの頃のぼくはカントの崇高論を通して、この「プロセス」をどうにか描き出したいと思っていた。事実は、カントの病の様なものがあらわれて、まさに薬のような毒のような考察を続けることになったのだけれど、ちょっと脱線しすぎ、、、

問題は、このような相矛盾する側面をもつパルマコン性を中沢がバリのダンスのなかに見ていることだ。そして、それは例えばこのように「スポーツ」という概念を媒介にして議論されたりする。

「ギリシア人がなんであんなにスポーツを好んだかというと、同じ身体のテクネーの問題もマジカルな健康法が抑圧されて明るい光のもとで行われるスポーツがよいものだとされる。ところが、デュオニソスの踊りは抑圧されてスポーツは称揚される。どうしてスポーツがいいかというと健康な市民の体を作るからね。デュオニソスは、健康な市民の体を作らない。」

このような政治的な力による身体運動の「スポーツ」化は、体を「見えるものとして政治化した。それはある意味で言うと、ダンスの終わりでもある」。さて、このような意味で名指されるところの「ダンス」とは何か。

もちろんぼくは、このダンスを体感したくてバリに行こうとしている訳で、それを旅行前に言語化するのは愚かしいことではある。なんか予め見たいものをイメージして、そのイメージに当てはまるものを愛でる、旅行というものはどうしても、このような回路から自由になれないもの、だけれどね。ただしそれはそうと大事なのは、確かにこのような視点でプラトンのダンス論は読まれるべき筈なのだ、ということ。そう読まれたときに、プラトンによって引かれたよきダンスと悪しきダンスの境界線がやおら取り外されたときに、あらわれるダンスは、そうパルマコンの相貌を帯びているに違いない。このような高貴で野蛮なダンスの姿をバリのダンスに過剰に期待するのは、ある種の過度の理想化であるとの批判を受けることだろう。それはそうだ。バリのダンスも技巧の洗練が極まればそれだけマジックのレヴェルが下がる、ということが起きている、のは事実である。でもそれは認めるとしても、トランス好きの、町全体がなにやら催眠術にかかっているようなあの世界では、西洋的頸木に繋がれたままで、そのことに自覚的でさえないようなダンスよりは、ダンスらしいダンスを見ることが出来るのではと、やはり無邪気な期待をかけたくもなるのだ。



□0201(Sun)


0129付の日記で友人のHP閉鎖のことを書きましたが、複数の人から復活しているとの連絡を頂きました。ありがとうごさいました。確かに復活してました。よかった。なにより。

でも、きちんとチェックしないで書いてしまってぼけているなーと自嘲しますが、ぼけているのには一つ理由があって、バリに今月の半ばに行くことを決めたことがあります。徐々に身支度をしたりして、今回はバリダンスを堪能しまくることを大きな目的としているので、それをビデオに収めるための機材関係の用意とか、公演のスケジュール情報収集とか。インドネシア語を思い出したりとか。こころはもはや「コンテンポラリー」のつかない純粋な「ダンス」への快楽に向かっております。それを南国の当地で味わうことは格別ですよ。ええ、きっと、ね。