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1027(Sun)

今日も黒沢美香。再び隅田川沿いのマンションへ。
今日は「アクタイオーンの水浴」「ラルゴ」
(感想は後日)

告知です。
演劇理論研究会での発表が水曜日(30日6:00)になりました。
題目は、これまで通り「土方巽の舞踏論への試論」です。
興味のある方は、是非お越し下さいませ。

1026(Sat)

Sketch Showのタワレコ・インストアライブ&トークを渋谷で見た後、
『アートアニメーションの素晴らしき世界』というムック本を買って帰る。
Sketch Showの方は、ご本尊はライブをせず、デイジーワールド系のアーティストが二組演奏した。
Gute Volkと高木正勝。
前者は、女の子ヴォーカルとドラムの編成でその他の楽器がカラオケという変則演奏。
変だけれど、どちらも普通のバンド編成の中で一番生のレンジがある楽器で声なわけで、
特にドラムの決してリズムに寄与するだけではない奔放な演奏にちょっとイイナと思わされた。
音楽はアコースティックで北欧的だけど耽美的。
後者(高木)は、鍵盤中心のインスト。ミニマルでアンビエント。
これは両者に言えることなんだけれど、演奏にビデオ映像が付いていたのが面白かった。
ライブなのに、観客の目はひたすら映像を見つめる。
特に、高木の映像が秀逸だった。旅行先で撮った映像を加工してあるんだけれど、
東欧の街角で店の前に座りながら、日銭のためにアコーディオンを弾いている少女の映像に、「ふわあっ」と
パソ製のアニメが被さってゆく。キリンがトラがふうっと現れては消え、孤独とファンタジーが絡み合う。
アニエスbとの共作らしいが、チャンスがあれば是非見てください。

その帰りに、前から気にしていたアニメーションへの思いが募り、先の本をつい買ってしまった次第。
そんでまた勢い込んで
買ってしまった、『ぼくらと遊ぼう』全三巻(箱入)。
去年中野で見たとき、あまりに素晴らしくて上映中ずっと泣いてしまったチェコアニメの巨匠ポヤルの傑作!
いたずらずきの二匹のくまが、変身しながらおっかけっこ遊びする、その変身の変幻自在さとスピード!
2Dと3Dの間を自由に行ったり来たり、もうホントに感動的ッス!!
はは、でも、
DVDで買ったはいいが我が家にはデッキがまだないのだった!見てー

1023(Wed)

高橋源一郎『一億三千万人のための小説教室』
『矢川澄子・不滅の少女』(ユリイカ10月臨時増刊号)
などをつらつらと読んでいる最中。

高橋の『小説教室』は、「一億三千万人のための」というところがミソ。
初期の彼の小説を読んでいるものならば、この平易さは???と疑問を持たずにはおれないのでは。
小学生の高学年あたりを対象にして書いているような、わかりやすい文章が最後まで続く。
この本のきっかけになったのが、NHKの番組「ようこそ先輩」であったらしいことも、その傾向の原因になっているかも知れない。
だがそういうことよりも、平易にわかりやすくと言うことがポップで商業的な成功と結びつくのだという企みのほうがちらつく。
小説(文学)なんてのは、数千人の特異な趣向の人たちにだけ共有されていればいいじゃんというぼくのような人間からすると、
「一億三千人のための」という言葉は、嘘っぽい。

「小説は言葉を通して真剣に遊ぶことなのだ」、高橋のメッセージを簡単に言えばこうなるか。
「遊ぶ」ということを、一冊の本にして説明しなければならない、そんな時代なのか、と思う。
そう考えると「全日本人よ、真剣に遊ぶことを考えよ!」という文学者の悲痛な叫びともとれる。
そういうメッセージとしてなら、『一億三千人のためのダンス教室』も書かれる必要があるような気がする。
でも「遊ぶ」ことまでも教わんなきゃできないのかよっ!って言いたくなるね。

『矢川澄子』の方は、一生を「あそぶ」という形でしか生きられなかった人への、遺された人たちからのレクイエム。
男達は、矢川の文章を批判し、彼女の生き方を理解できないと首を振る。
女達は、矢川の生き方を肯定しながら、自分の中の矢川的なものに怯えてもいるよう。
澁澤のダメなところをすべて引き受けてしまった、少女でありながら母親性を要求された女の悲喜劇。
男性性のダメさ加減を小説教室批判という形でこき下ろした齋藤美奈子のことを、思い出す。
ダメな女とダメな男。

澁澤系の女の人って今はもうまったくと言ってよいほどみないなあ、と思いつつ、
渋谷系なら野宮マキにあたる、澁澤系の教祖が、静かに静かに死についての思いを生のうちに広げていったことを
決して美人ではないが魅力的なかわいらしい表情の写真を見つめながらしばらく考えていた。

1020(Sun)

いやあ、日記一週間空けてしまいました。
風邪には充分気をつけてくださいね。

先週の日曜日(13日)は、
《1985−2000|黒沢美香ソロダンスの変容》
の第二回WAVE('85)/距離('87)を、
そして今日は
第三回椅子のアリア('87)/ロマンチック・ナイト('91)
を見に行ってました。
今月は仙川での親子共演もあったり、まったく「黒沢MONTH」の状態ですねえ。

批評なんてとても無理、どんな作品だったかをぼくなりにトレースしてみます。

〈WAVE〉
上半身裸で白いズボンだけを身につけた黒沢が部屋の奥に目をつぶったようにして立っている。
八畳くらいの横長のワンルームの6階、窓からは隅田川が見える素晴らしいロケーション、
で照明は部屋にこぼれる夕方の日差しだけ(全長40〜50分の間に次第に暗くなってゆく)。
正面を向いた黒沢がゆっくり7,8歩進んで、同じ歩数ゆっくり後ずさりする。
この前進と後退が延々と繰り返される。
上半身の動きは一回ずつ変化する。例えば、
右腕を小さく水を掻くようにくねると渦を描くような動きになりそれが全身に及んでゆく。
あるいは、歩く動きにあわせて、伸ばした腕の膝だけを微妙に内へ外へ動す
(真似ているとは思えないけど、アントニオ猪木の動作を想起させるような妙にリズムのある動き)。
下半身の動作はミニマル、でも上半身は少しずつ体を試すように変化し続ける。

〈距離〉
上下黒い服に着替える。これはさらにミニマルさが増している。部屋の右前方から左奥へと
3〜4メートルの距離を斜めに後退してゆく。
四種類ほどのパターンがあり、それを順番ずつゆっくりとこなす。
例えば、右足を「ズッズッズッ」と床にすりながら前に出す、すると上半身が反って次第に仰向けになって沈んでゆく。
左足を右足に合わせるように前へ進めると、同じ動作を再び繰り返す。この動作を左奥に到着するまで何度も続けていく。
抑制された単調とも言える動き。「アンビエント」という言葉が浮かんでくる。でもそういう感覚よりも、
ゆっくりと重心を移動させることで、四肢がまたその指や関節がどう関係しバランスを変えるのかを試す、
そんな風に身体と静かに対話をする黒沢の真摯さが強く印象に残った。

〈椅子のアリア〉
真ん中に置かれた木製の椅子に座る。ゆっくり足が上がると徐々に腰が前にずれる、頭が背もたれにかかる、やがて崩れてゆく。
椅子との対話というと聞こえは良いが、そういうよりはむしろ
身体各部位の関係が動くにつれ変わってゆくその変化を椅子を仲立ちにして繰り返す試み、という方が正しい。
〈距離〉と同様バランスの確認、実験の作品との印象をもつ。
椅子の後ろに立ったかと思うと、「ぱっ」と背もたれを跨いで素早く立ち上がり、無表情で「スタスタ」と降りる。
《ROLL》のような作品ならば奇怪なユーモアに映るこんなちょっと意表をつくような動きも、
ここでは速い動きの真面目な実験に見える。

〈ロマンチック・ナイト〉
出口→が奥の方に立ってブルブルブルブル震えている。黒沢はその前で、白いワンピースに金ラメの妙なレースのついた黒い長手袋をはめ、
ふわふわなピンクのマフラーをまとって踊る。
ラテン系(マンポ、サルサ)の音楽や前川きよしのブルースや淡路恵子のシャンソンなどが流れ続ける。
直立してブルブルするだけの出口に存在感があって、これまでのストイックな空間が騒がしくなる。
そこで踊る黒沢は、すっとぼけた動きをこれでもかとやり続ける。
突然、どんどんどんと大きな音を立て床を踏みつけながら、一方の足をコンパスの軸にして回転しはじめるとか
蛙のように足をひらいてどんどんと執拗に床をならすとか、
また突然、空手のように腕に力をためて腕を振るとか、
音楽とは一見全然関係ない動作が繰り返される。
最後は、出口の帽子をかぶせたクッションの上から何度も踏みつぶしていると、
それまでじっとしていた出口が黒沢をどかして帽子を取り戻す。
そんな出口に黒沢がマフラーをぐるぐる巻いてエンド。

1013(Sun)

昨日(12日)は《銀河計画》(@世田谷パブリックシアター)を見に行ってきた。
笠井叡が伊藤キムと踊る。

笠井はオプティミスティックな人だ。
舞台は、様々な装置が剥き出しになるほど可能な限り広くとられ、「銀河」とまでは
いえないとしても広大な空間を感じさせる。
この「空間」がここにあるということ、その信頼において笠井は楽観主義だ。

「空間」を「神」に置き換えてもいいだろう。
ここに空間があるということ(神がいるということ)、空間が与えられているという喜び、
笠井の踊りはただひたすらこの喜びのために捧げられる。
「ひらっ」と飛び上がる跳躍が、二時間近い公演の始まりから終わりまで延々と繰り返された。

笠井の動きはすべて、「空間」が「わたし」に「与えられている」ということの表現である。
これが体現されていればどんな動きでもオッケー、いや、どんな動きでもオッケーという時間を生み出すことで
このことを体現しようとしている、と言う方がきっと正しい。
そう考えると、この公演は「ダンス」と言うより「イベント」の傾向が強い。「降臨」のイベント。

ある種の陶酔感と共に、騙されている気にもなってくる。
最後の〈VACATION〉で踊るところとかは盛り上がった一方で、実際はたいしたことやってなかったもの、ね。
「空間」=「神様」バンザイ!ってなメッセージが繰り返されるばかりで。

バリ・ダンスだって神様に捧げたダンスだけど、
彼らの場合は、高度な動きを緻密に繰り返すことではじめて「降臨」は可能(かも)と考える。
扉を開く鍵は、鍵穴の形状に合わせて精確に微細に彫り上げられなければならない、
そんなストイックさがバリ・ダンスの動きの魅力になっている、と僕は思っている。
そこには「鍵は簡単には開かない」という認識があるはず、それに比べると「銀河計画」は何とも楽観的だ。
笠井叡という人は幸福な人だ、と思う。神の恩寵に恵まれた人。
ただしそうであればあるだけ、「ダンス」じゃなくただの「イベント」になってしまっている!と感じてしまう。
(ここにダンスの秘密が秘められている、が、なんだろ?)

1010(Thu)

更新がまたもや滞っていましたが、すみませんでした!
緊張と集中を強いられる日が数日続いて、ようやく一段落したところなのです。

この沈黙の間、「踊りに行くぜ!!」と黒沢親子が石井漠を踊る企画を見てきました。
(ホントなら日曜日の黒沢マンション公演も見る予定だったのですが、、、とても残念!)
どちらも色々と書いてみたいことがあるのですが、まだ体力が回復せず、頭が回転してくれません。
一両日中になんとか言葉にしてみたいと思っておりますので、またアクセスしてください。
一応、最近見た公演+今日見る公演を以下にリストアップしておきます。

5日 踊りに行くぜ!!前橋(@前橋 臨江閣)
出演 山田オリエ/山賀ざくろ/砂連尾理+寺田みさこ/手塚夏子/丹野賢一

8日 黒沢輝夫×黒沢美香 両氏が語る石井漠の実像(@アネックス仙川ファクトリー)

10日 NDTT(@さいたま彩の国芸術劇場)

1004(Fri)

日記の更新が滞っていましたが、
突然身辺に事件が発生してしまいまして。他日そのことを書けると良いのですが。

ランダムに幾つかの報告とお話を。

『Ballet』の新刊にぼくのVACA評が掲載されております。
今号をもって休刊になってしまうということなので、立ち読みといわず
是非ご購入してお読みいただければと思います。
タイトルを「モダニズムとダンスの相性は?」としました。
この問いかけ自体はVACAに限らず、最近みる所謂「コンテンポラリー・ダンス」に
しばしば感じることでもあります。
後日、このタイトルであらためて日記にぼくの意見をまとめたいと思います。

心配していたことですが、火曜日に研究会に来てしまった方がいたとのこと。
ぼくの知っている以外にもいらした方がいるかも知れません。
この場でお詫びをすると共に、この振り替えが24日の清水君の発表の後、
おそらくその次の週、ないしはその翌週になることを(暫定的ですが)報告しておきます。
具体的な日時はまた演劇理論研究会HPにて掲示するつもりです。
その機会には是非これに懲りず足をお運びいただければと、思います。

また数日前にも書きましたが、もし原稿を読みたいという方がいらしたら、
メールにて連絡してください。

これから前橋の「踊りに行くぜ」に行って来ます。

1002(Wed)

伊藤キム《ふたりだけ》(@シアタートラム、2002/9/27)

わたしと「わたし」の物語、それが映像や背後に吊られたロングドレスを相手に語られる。
すべてはこの物語をどう見る側が受け入れるのかってところにある気がするけれど、
正直ぼくには、「すばる文学賞」の新人小説を読まされているような「薄い」印象しか残らない。

それはまだアイデアが作品と呼びうるまで錬成されていないということなのか、そもそもこれが伊藤の上限なのか。

最初のシークェンスでは、スクリーン上の伊藤がぼつぼつとしゃべる声にあわせて舞台上の伊藤がダンスする。
昨年秋の武蔵大でやった島田雅彦とのコラボレーションを思い出す。
詩を朗読する島田の脇で、時に身体的に絡んでいったりしながら、結構面白い空間になっていた。
ただそこでも感じたことなのだけれど、ダンスはなかなか言葉のもつ力に勝てない。
島田の詩の方が「主」で、伊藤のダンスはどうしても「従」の位置から抜け出せない。
今回も、スクリーンの伊藤が発する声の面白さにダンスは「背景」になってしまう。
声のねじれた感じに観客の腹はよじれる、それに舞台上のダンスは勝てない。

また、映像がすこぶる観念的でそれ故「稚拙」と言わざるを得ない。伊藤に限らず、なぜこれ
ほどまでにダンスの舞台に映像が登場するのか。ぼくにはかなり疑問だ。映像と身体の関係、
映像的身体性とは何だろうとか、あるいは身体的映像性(?)とは何だろう
とか、よくよく考えられることなく、便利なアイテムとして安易に用いられている気がする。
要するに、単に観念を映像化しただけで、映像の身体性から導かれたアイデアに乏しいのだ。
例えば、駐車場にビデオカメラを二台向き合う形で並べて、その真ん中にいる伊藤が行ったり来たりする。
合わせ鏡のような効果が生まれているが、正直、「この映像は合わせ鏡なのだな」と認識すると
もう見終わってしまう。そこからは「合わせ鏡」という観念についてぽつぽつ考えをめぐらすことはあっても、
その考えが映像のなかの伊藤の動きから触発されることがない。WhatはあってもHowはない?
(こう考えるとボクデスの試みは十分に評価されるに値するというべきだ!)
ダンスの時間が安易な観念の物語に押しつぶされている、と思わずにはいられない。

いや逆に言えば、ダンスとはいかに観念的なものかということを痛感させられるとも言える。
つまり伊藤のわたしと「わたし」の物語が観念レベルで
どこまで練られているか、非常に疑問なのだ。わたしとは何か、誰か。
そこに「ダンスは感覚的なもの」という逃げは許されない。その考えもまた一つの観念として身体にあらわれるだろう。


−−−


NDTU(@さいたま彩の国芸術劇場、2002/9/28)

《ドリーム・プレイ Dream Play》(2000年)
《シンプル・シングス Simple Things》(2001年)
《27’52’’》(2002年)

1001(Tue)

戦後最大級の台風
とニュースキャスターが嬉々として(危機というより)語っている。
(何か台風中継って、ニュースのお祭りって感じでなんだか盛り上がってますよね。
わざとビニール傘を強風にあてて壊してみたり。「台風祭り」なんだな。)

これに怖じけて、今日の演劇理論研究会は突如中止になりました。
もし知らずに研究室に来てしまった方がいらっしゃったら、あやまります。本当に済みませんでした。

今日にあわせて書いた原稿をいつ再び研究会で発表できるか今のところ未定。
もし興味のある方はご一報下さい。中間発表段階ですが、添付ファイルにてお送りします。
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