日記バリのことダンスの経験ダンスの思考/哲学と美学/BBSAbout/Link/Top
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02 黒田育世『花は流れて時は固まる』/03 板橋勇仁『西田哲学の論理と方法』/06 『ジゼル(s)』/07 「バリ」ページ紹介/08  室伏鴻『すべてはユーレイ』12 吉本隆明/13 舞踊学会/ 14  珍しいキノコ舞踊団『FLOWER PICKING』/16 『永遠に女性的なる現代美術』と『DEEPキリスト狂』/17 哲学は動くもの/18  黒沢美香/19 『球体関節人形展』『円山応挙展』/20 シャルトリューズの真相/24 雑感/26 佐々木敦の舞城王太郎評/27 ダンスクロッシング中止・いかりや長介/30 雑感/

□0330(Wed)


山ごもりライクに家ごもり。ワープロ打ちの合間に見ているのは、『ALL ABOUT CUBAN DANCE』(ポニーキャニオン)のDVD。キューバの古今さまざまなダンスが堪能出来る59分。ストリートでの「土曜ルンバ」と呼ばれる町中の集会では、「リズムにのる」っていう原理だけを見せるシンプルなダンス(釜揚げうどんをしょうゆで食べるみたい??な)を、狂ったように踊る男たちに狂わされる。「狂わされる」って確かに調子を狂わされるのだけれど、同時になんとも直接的に「くる」ので、さわやかな痛快さがあり、そこがたまらなくいいのだ。バリのダンスでも思ったりすることなのだけれど、すぐれたダンスは、強烈な差別感をもつ(絶対に自分は持ちあわせていないものを目の前のダンサーが存分にてらいなく発揮する)が、別にいやではない。一億総中流の幻想から抜け出せないでいるぼくたちには遠い、でもとても美しく分かりやすい価値観だ。◆◆◆同じく、最近煮詰まると見たりするのが、『Michel Gondry Best Selection』(アスミック)。ベックやビョークのビデオを撮ったひとの、ビデオクリップ集。音楽のリズムに「べた」なくらい反応した映像、例えば「世界の車窓から」みたいな、ただの電車の車窓の定点映像(多分CG)で、電柱とかコンテナとか、目に見えるものがリズミカルに反復する。確かに電車のっているとそういう反復のリズムを音楽聞くみたいに眺めたりするよな、、、でもそんなトリビアな感覚を実際に作品化するこのひとの真っ直ぐさ加減って、凄い。しかもアートじゃなくて、ミュージック・ビデオという商業的な場でやっているんだから。反復反復、転がり転がる。これってダンスじゃない?◆◆◆昨日の晩、北海道大学へ数学を学びに行くと数年前突然哲学をほっぽって行ってしまった友人が、再び上京すると言うことになって、久しぶりに二人で飲みに行った。「一番安かったから(=6000円)」という理由で彼が宿泊したのは、渋谷の円山町にある、三陽会館というビジネスホテル。ホテルっつーかこれ合宿所みたい。フロントは青いエプロンをつけた若者二人だし。ぼくはこんなラブホ街にビジネスホテルが存在していることが驚きだったが、友人はホテルに門限があることにびっくりしていた。円山町のちょー寂しい居酒屋で、ライプニッツの(異常!なほど)ロマンチックな解釈にしばし耳を傾けた(フムフム)。



□0327(Sat)


−−この度は、「六本木クロッシング:日本美術の新しい展望2004」関連企画:六本木ダンスクロッシングにお申込みいただきまして、有難うございました。
六本木ヒルズで発生いたしました事故を受けまして、森美術館といたしましてもイベントを控えさせていただくことになりました。
今後、時期を改めましての企画実施も視野に入れつつ、対応を検討させていただきます。
詳細が決まりましたら、改めてご連絡させていただきますので、何卒、明日の[中止」についてご了承のほどお願い申し上げます。−−


このような文面が突然夕方七時頃送られてくる。「事故」は、回転扉に小学生の頭が挟まって死に至った、というものであった。ニュースは盛んに扉の機構の不備と、これまでも同様の事件が32件発生していたことを報じている。あの扉はぼくにとっても随分恐いと思わせるものだった。「ヒルズ」なんてピクニック気分で丘に登るような雰囲気を醸していても、実際にはひとにやさしくない凶器をあちこちに隠しているのだ。本当の自然(丘)ではこういうことは起こりにくいものね、だからそういう違いを冷静に認識しておくべきで、子供の手は繋いでおくべきだということも正論だろう。それはともかく。
このようなときに、「自粛」の憂き目にあうダンスとは、いったい何なのだろうとどうしても考えてしまう。昭和天皇の体調が悪くなった時期の年末年始にテレビからタモリが消えたことがあった。タモリはこのようなときにはテレビにいてはいけないんだ、ということは凄い驚きだった。「自粛」の憂き目にあうほど力をもつ存在という意味で、タモリはむしろこのことを歓迎したかも知れないが。ダンスなんて楽しくて軽くて、悲劇的な出来事、重大な過失の脇にあっては簡単に隅にやってしまっていいもの、そういう認識があるようにどうしても思ってしまう。ダンスがバカにされた、と考えるのは大げさでしょうか。


いかりや長介の追悼番組がTBSで放映された。日付は例えば79年とある。そのころぼくは小学3年生くらいだったわけで、つまり、どっぷりドリフだった時期だ。あまりに当たり前にこの番組があった、要するに「ぼくの身体」だったし、「ぼく」だった。最初の学校コントでは、いかりやの扮する先生は、理不尽なことばっかり言って、横暴で、生徒に100回くらい「バカ」と言って、自分自身デタラメなのに、やさしくておおらかなのでもあった。「オイッスゥ」に、声は出さなくてもテレビに向かい合いながら「ォィッスゥ」と内側で言っていた。そんなことは当たり前の日常だった。志村けんはたしかにあの頃は子どもたちのヒーローで、下ネタのラッシュ、子どもたちは大受けし、でもさすがに「勃起」とか「性生活」あたりのワードになると暴走も小学生を追い越して極まってくる。そんな、いかにもPTAから苦情が続出しただろうネタを、「追悼」と称して筆頭に放送したTBSに気概を感じた。カラダの笑い、ぼくはこれをみて、これにシェイクされて「これいいなあ」なんて反省することなどなくて、ただこれしかない、それが当然と思っていた。ぼくの土曜日は、昼に「お笑いスター誕生」を見て、夜に「八時だよ、全員集合」「おれたちひょうきん族」を見るのが日課だった。そんな土曜日は素敵だった、なあ(もう少し年をとると、土曜の深夜番組の大流行が起きる、「オールナイトフジ」とか、ね、そのとんねるずとか)。あれが土曜日だと思っていたぼくにはもう土曜日がないのと同じだ。常日頃、「ダンス、ダンス」とか言っているけれど、べつにダンスが大事なのじゃなくて、この頃に自分が感じていた身体感覚をダンスという場で取り戻そうとしてみている、と言うことなのじゃないかとさえ、ドリフのネタを見ていると思ってみたりしたくなった。



□0326(Fri)


それほど丁寧に探して読んでいた訳ではないので無邪気な感じで、誰かきちんと評論しろよ!と漠然と思っていた舞城王太郎。今月号の『BT/美術手帖』(「タモリから遠く離れて−−(承前)舞城王太郎の”内面”」)に、特設されたNOVEL HEADコーナーで、佐々木敦が彼のことを論じていた。それを読むと、あまりまともな評はこれまでなかったようだ。そして、ぼくが信用しているこの佐々木氏は、舞城の情報処理戦略(by大塚英志)などではなく、むしろ正反対の愚直なまでのストレートさに対して眼差しを向けている。
「歯の浮くような、マジで?と問い返したくなるような、あまりに直截で素直すぎで愚直でさえある言葉を、だがしかし未熟さや稚拙さの臆面もない発露とも、あるいは小賢しい「戦略」の類とも違った、ある困難な迂回路の旅路の果てにようやっと辿り着ける、だが言われてみれば誰もが最初から分かっていたはずの「ほんとうのこと」として、ふたたび見出すこと……」
この愚直なまでのシンプル・ストレートな精神を、宗教的な「愛」と連想してみれば、以前から考えていた初期ドイツ・ロマン派の文学論の構造にますます類似して見えてくる。イロニーとウィットで多数性に満ちていながらそれらは根底にある愛に支えられているというような思考。このあたりを理解しながら、あまり狭い時代精神の変遷みたいには考えないで、もっとも深く本質的な文学の構造を揺すぶっているのだと考えてみるべき、なのだ、きっと。



□0324(Wed)


雑感(Go!)
→村上龍『タナトス』(集英社文庫)購入(ぼくはこの人の例えばこんな言葉をつい言えちゃうところ、「小説という容器が悲鳴を上げるようなことをやってみたい」なんて思えてたりするところが好きなのだ)。『エクスタシー』『メランコリア』と合わせた三部作の三作目。これらは通して「長編」と考えて読むといいかも。でもそれでも徹底した告白体は長編であることを拒むだろうが。「告白」という形式は、柄谷『探究』で論じられたドストエフスキーの独白がポリフォニックだという議論を思い出させる。「ひとり」は誰に向けて、誰に対するオブセッションで、誰として話すかなどを語りが意識することで十分複数的に語ることになる。(Go!)→あわせて『フューチャー・イズ・ワイルド』(ドゥーガル・ディクソン/ジョン・アダムス/松井孝典監修、ダイヤモンド社)、『日本美術応援団』(赤瀬川原平/山下裕二、ちくま文庫)を買う。前者は「2億年後の地球!」と帯の言葉にあるように、遠くの未来のもはや人間なんてめんどくさい生物が生きていない世界の生命たちを科学者たちが科学的に想像した未来の生き物カタログ。人間のいない世界は何と楽しそうなんだろう!後者はいきおいで、円山応挙見た余韻でつい。でも、バリの絵画とか見ていた一ヶ月前にもそう言うこと思ったけれど、西洋基準の鑑賞眼ではまったくうまく見ることの出来ないやつら(アジアなアート、アート?)は、なんて生き生きとしているんだろう!(Go!)→あと、「人形」の余韻も。『bean's』なるちいさな人形オモチャ雑誌購入。Blythe(ブライス)特集に反応しているオレって!(Go!)→ほんとにほんとは最近、高山宏『奇想天外・英文学講義』(講談社選書メチエ)に夢中。知る人ぞ知る高山宏、ここでも以前『目の中の劇場』の魅力を紹介した記憶があるけれど、いやあ、これ一冊でご飯三杯いや、本20冊は行けます。20冊読んだ気になるのではなくて、読みたくなると言うこと。すんごい紹介が上手な人で、こういう人が先生だと部屋にどんどん本が増えて財布からどんどん札が消えていく幸福(!)な運命にはまることだろう。「何々」とお題を出すと、「何々といえば、、、といえば、、、といえば、、、」という脱線を永遠していっきそうな高山センセーのウィットにまじ感涙必至。(Go!)→昨日表紙の写真を更新。彼女は「アユ」さん。最後の日に泊まったユリアティ・ハウスの長女。午前中に自宅で稽古しているところ。指が凄いの分かりますか。単に反りかえっているだけではなくて、反りかえってるくせに強張ってないその指は、風に揺れる木の葉みたいに軽く軽くでも高速で揺れてるのだった。




□0320(Sat)




ネットでシャルトリューズ購入。あっという間にやってきた。便利な世の中だねえ、何とも。外の白は、「大雪」みたいだけれど、きれいな透明の緑色を表現したくて、ただ露出上げただけっス、確かに今日都心などでは雪降ったらしいが(撮影は前日)。



□0319(Fri)


『球体関節人形展』に行く(@東京都現代美術館)。
土方巽論にベルメールを導入したあたりから、とりわけ関節人形には関心を持ち始めていて、でも場所が遠いので敬遠していたのだが、思い切って春の気配に期待して行く(でもおどろくほど寒い日だった!)。東京駅からバスに乗っていく。東京でバスというのはなかなかトリップな気分にさせるが、今日は乗客に「ゴスロリ風」の女の子たちがパラパラ。
会場へ。とても混んでおり驚く。映画『イノセンス』の関連展覧会、しかも企画はジブリということから、このような人気になったのだろう。でも、実際に展示されているのは、かなり「人形度」の濃い、あるいはかなり人形フェチのフレグランスがぷんぷんの作品たちばかり。あまりよく知らず、「ジブリ」で「人形」という告知だけ出来てしまった人は、この濃度に吐き気を催してしまったのではないだろうか。正直ぼくも、2/3くらい見たところで、「まだ終わらないのか、、、」とすっかり満腹感で疲れてしまっていた。
人形はそこにいるだけで誘惑してくる。誘惑される心は、欲望の皮を一枚一枚剥がされ、剥き出しにされる。それは「生きている」と見まごうからだ。でも、そこに生じる欲望は、実はそれらが「死んでいる」という事実に突然強烈に拒まれてしまう。その表情は生きたままで強張り静止している。じゃあ、「死んでいるのだ」と納得して先の自分の中に生まれた欲望を「冗談冗談」って笑って立ち去ることが出来るかというと、ことはそんなに単純ではなく、生きているようで死んでいるようで、その間を猛烈なスピードで心が往復してしまう。
そう人形とは「死」である、とりあえず。朝日の夕刊で三谷幸喜が「衝撃受けました。文楽初体験」というエッセイで、「「死」を描くと文楽は強い。だって本当に死んでしまうのだから。魂を抜かれた人形たちは、その瞬間から文字通り、動かなくなる。さっきまで生々しく動き回っていた彼らが、突如としてただの物体になる。」
でも、人形の本当に凄いところは、生−死の二項性にあるのではなく、よくよくみるとそれがただの「物体」要するに生でも死でもなく「無」であることにある。ただのものなのだ、人形とは結局。その事実が立ちあらわれてぼくは徹底的に人形に拒まれる。それがぼくと人形との関係性だと思う。でも、「そうかじゃあ、ぼくのイリュージョンを拒むのだね、君は、アディオス!」と言って分かれられないところがあって、「無」と「生」と「死」のメリーゴーランドが永遠に凄いスピードで回り続けるのだ。吐きそうな満腹感の内実は実はこれだったのだ。

『円山応挙展』も行った。江戸博物館まではバスで10分くらいだった。やはりいい。とても好きだ。部屋を生きた者たちのトレースで埋めようとする欲望。そのときの写生。



□0318(Thu)


黒沢美香『DIAMOND NIGHTS いじくりまわしてとうとうこわしてしまうまでも−1987年〜2000年黒沢美香ダンスの変容−』を見た(@シアター・バビロンの流れのほとりにて 略称:東京バビロン)。

Aプロ「椅子のアリア」「ラルゴ」

電車の中で村上龍『エクスタシー』を文庫で読む。この頃の村上作品は好きなのだけれど、今日読みながらどうしてこれらは「中編」小説なのだろうか、と考えていた。200頁はあるのに長編小説というべき葛藤や解決がないのだ。瞬間のエスカレーション、ムーヴメント、まるでサーファーが波に乗るその間のような一瞬間のスパーク。一枚の絵のような小説(ベーコンのような?)。知らない人が見たらフランス書院と誤解されそうな刺激のある表紙なので、無意識のうちに人目から隠そうとするのだけれど、そうしてもっていた夕刊を敷いてその上に小説を重ねて読んでいた。ふと、まぶしいような光を感じる、それは夕刊の一面写真。赤く白く燃える炎、バグダッドの建物を燃やす死の光、それが四谷あたりの総武線の座席に座る日本人の読書をちらちら照らす。

舞台というのは極小のことをするときにこそダイナミックなレンジをもつ、ということを手塚夏子の公演とかで知っていたけれど、今日の黒沢にもそれを感じる。シンプルであまりにもデリケートで余計なものがすっかり余計だなと感じる。となりの男性が眠いのか首をカクンカクンいわせて、それがもう邪魔でしょうがなかった。それが理由なのか否か、今日の黒沢にぼくの精神は乗り切れなかった。集中して見続ける出来事の無為は、静かに沸騰しながら、どんなピークも拒否していた。それを淡々と見てしまった。



□0317(Wed)


人間を体液として理解しようとする考え方が西洋哲学史にはあって、それに従えば、胆汁質などの四種類くらいに人を分け、性格区別することができる、という。それを今真剣に科学的に検証しようとする人なんていないと思うけれど、人間は体液なのだと痛感することはときどきあって、例えば春休みのようにしばらく人と会わないで二日ばかり過ごすと、自分の中が淀んできて、ぼくは濁ったどろどろの体液なのではないかとしょぼくれるてしまうことがある。そういうとき、人と会ったりいい刺激があると、液体のような自分がシェイクされて活性化してサラサラの状態になった気がして、抜け出すということがある。
では、その場合の「いい刺激」とは何か。よく動いている状態のものに触れることだ。物理的なものの運動でもいいのかも知れないが、単に物理的なだけでは効果は弱く、ようするに「概念が動いている状態のもの」、これが一番なのだ。「概念」は単に知識ではなく情報でなく、思考のなかでいきいきとその論理的諸関係のなかを動くはずのものである。昔、大学で映像サークルにいたとき、先輩のゴダール狂い(確か加藤さんと言った)から「映画は動いてないとね、キムちゃん」とよく言われていたっけ、このことを考えるときにはその頃のことを必ず思い出す。動くとは、働いていることで、分かることではなく生きることというか、生きているところで理解が生じるというか、そういう精神の状態だ。そしてぼくの知る限り、哲学というものこそ、動くと言うことに対して一直線なものはない。最近つくづくそんなことを思い起こさせられたのだ。
そのきっかけになったひとつは以前も紹介した友人板橋の本。これについては読了した後で何か書こうと思う。もうひとつはこれも友人(横浜在住)の哲学研究者が最近都立大学の大学院博士課程試験に合格したのだが、彼女の論文。フッサールの『デカルト的省察』のなかにあるたったひとつのことについて論じたもの。彼女にとってテーマは本質的だったのだろうが、読んでいるこっちからすればテーマの解決よりも、その論述の過程のなかで思考が動く、幾つかの概念が滞った状態から動きだすところにこそ、唸らされる内実があるのだった。それはサッカーやバスケの、ごく狭いスペースでなされる一対一のようで、動きの空間は小さいのだけれど、幾つもの力が競合している諸関係のなか、どの力も凍らせずにでももっともそれらが生き生きと働くコースをひとつ見つけだし、そこへとブレイクスルーする、そういう運動なのだ。
こういうものを読むと、知的なプロセスなのにわくわくドキドキしフィジカルな感動が起こる。そしてスカッとする。体の中がサラサラになって、自分も何かいいものが書きたくなる。でも、世に溢れる哲学書にこのような「運動」を感じるものはそれほど多くはない、いやほぼ皆無だ。だから人はそのことを知らない。知られてないけれど、哲学とは動くことのドキュメントであり、その意味ではアートといってもダンスといってもよいだろう(動いているアートやダンスもほぼ皆無なんだけれどね)。よく語られるカントの言葉、「哲学を教えることは出来ない、哲学することを教えることが出来るだけだ」というのは、まさにこの意味の哲学を指す言葉だろう、にね。



□0316(Tue)


清水穣『永遠に女性的なる現代美術』を読む。「永遠に女性的なる」ってどんな意味?あまりピンと来なくて、どうせラカン崩れみたいなことかい、と思い込んで敬遠していたのですが、古本屋で見かけて開いてみると、それは「いつまでたってもオバサン的なる」という意味だった!オバサンとは、オバタリアン(死語!)のことではなく、凄い情報網をもっているカルチャーの「通」でありながら、カタログ的にしかアートに触れることが出来ない(独立独歩でアクチュアルなアートシーンに触れようとしない)、お金と暇を持ったいまのアートを下支えしている女性たちのこと。アートイデオロギーを体現してしまっている彼女たちを「現代美術そのもの」と呼びながら、そこからどう逸脱することが出来るか、はみ出せるか(できないか)をめぐる、内容の詰まったしかし文はごくごく平易な良本です。ティルマンス、クレー、メイプルソープ、荒木経惟、リヒター、モネ、ジャッド、、、とくに、奈良と村上を批判的に書いた「「可愛い」という政治」が面白かった。「奈良は、可愛い記号の微小な部分を歪曲し誇張することによって、具体的には奇形化(特大の頭、醜い顔)、サイズの拡大(巨大化させられた愛玩物)、部分の肥大化(足が十本あるぬいぐるみ)といった方法を通じて、可愛い記号の内部にその可愛さを壊さない程度の無気味さを滲ませて、我々の脅迫的な愛に冷水を浴びせ、居心地の悪さとともに、抑圧された恐怖と嫌悪を見る者にはっきりと意識させる。/これらの子どもたちの特大の頭を後ろから蹴り飛ばしたらさぞ爽快だろう!」十分言葉で蹴り飛ばしてます、爽快です。

毛皮族『DEEPキリスト狂』を見た(@駅前劇場)。
開演三分前に、江本純子登場で、気づくと始まっている。ああやばい、来ちゃった、、、という後悔混じり。でも、この人たちの方法のいちいちが、何とも演劇的だなあと思って、とくに前半は楽しんでみてしまっていた。マイケル(ジャクソン)ことイエス(ノー)キリストこと江本純子。この累乗は(よく知らないが)バロック演劇的な性格と言ってよいだろう、少なくともドイツ・ロマン主義の演劇観(その後ベンヤミンが継承するような)に符合するものである。面白いと思っているときは、このキャラの競合がリズムを帯びてけんかしあっているようなときで、そのあたりが停滞しはじめると瓦礫のなかのスパークが炸裂することなく、ほんとの瓦礫たちになってしまう(あるいは若い女たちのなまなましさがただなまなましくただよう)。前半はいいと思っていたのに、どうも結末にかけて失速したような、、、やや残念。でもある種アンチクライマックスなのだから、どさくさ的な終わり方の方がよいのだろう。


いまNS見ていたら、松本智津夫の三女が和光大学から一端入学通知をもらっておきながらあらためて合格破棄させられていたというニュースが流れた。犯罪者の娘にはもはや大学教育の機会もないのか、この国には。恐ろしい。確かに「私立」というのは自分たちのモットーに沿った学生ばかりいれたって構わないのだろうけれども。逆に国立大を受けていたらどうしたんだろうか、国は。スゴク簡単な国になってしまったのだ。恐いねえ。


今週号のAERAに「再びBUTOH人気」という記事があり、ぼくのコメントが載っています。笠井叡の写真(カラー)の下です。



□0314(Sun)


珍しいキノコ舞踊団『FLOWER PICKING』を見た(@CLASKA)。
原美術館での公演のときのような、観客参加型の瞬間があって、あのときよりももっと本格的に参加させるのだけれど、同時にそう言うコーナーが突然始まったという感じでもあり、ああいう(原美での)おのずと踊らずにはおれない気持ちにさせられる、と言うところにまでは至らなかった。でも、踊ってみたけれど。シンプルで、盆踊りでした、ね。イヤじゃないのだけれど、欲を言えばもっとエッセンスを共有出来たら好かった、あの独特の線の形象をトレースしてみたかった、そんな意味で残念。

今日の場所は目黒通り沿いのホテル兼ギャラリーという変わった場所、立地で、たまたま同行人の母校が学芸大駅の近くと言うこともあり、始まる前あたりをふらふらと散策した。他人の母校にも「懐かしさ」はただよう。校舎とか校庭というのは、そこに生きた人たちの日々が刻まれて、擦り切れたようになっていて、少し気味の悪くなるくらい切ない。他愛のない想い出を耳にしながら、懐かしさのおこぼれを味わう。公演後、青山で食事をした後、表参道あたりの行きつけの店で飲み直す。ごくごく個人的なことなのだけれど、最近この半年くらい毎週のようにこの店に顔を出している。ここにくると本当に落ち着く。自分の部屋よりも、きっとそうだ。あまり頭でっかちじゃないジャズをかける店で、普段はビーバップ系のものが多いのだけれど、今日はずっとスタン・ゲッツが流れていた。いつもは一番奥の席で、剥き出しのベニヤ板の感じと黄色い暗めのライトの雰囲気に酔って呑んでいるのだけれど、今日はレコード・プレイヤーの近くの入り口付近しか空いてなくてそこに坐る。とうとう、「いつものね」と気さくなウェイターの兄ちゃん(ラルクのギターのひとみたいなルックス)にニコっと言われるようになった。彼は二ヶ月くらい前、ぼくにシャルトリューズというきれいな透明の緑色したフランスのハーブ酒を教えてくれた。それを砂糖代わりのようにしてハーブティーに割って飲むのが最高においしい。壁の鏡に反射するトーキョータワーを眺める。今回の冬はやけに長い気がしていたが、それももう終わるのだ、と言う空気が今日のすべてを支配していた。




□0313(Sat)


舞踊学会(あるんですよ、これが)の例会なるものに初参加。日大芸術学部が会場だったので、江古田へ。大人気ダンスグループのメンバーが、今日は制服を脱いで発表をしていた。季節の変わり目は毎度風邪をひく、今日もぼけぼけさせられる。風邪のせいか薬のせいか春の風のせいか、ぜーぜーする喉の感じがトランスな気分なのだった。明日、珍しいキノコ〜へ、楽しみだ。



□0312(Fri)


今日は田舎に戻る。なぜか東金は雨が降っていた。不思議に雨が「春」っぽい。一年前に他界した祖母の墓に行くと、親戚も花をもってきていた。祖母は仕事をあまりしない祖父のせいで随分苦労したそうだ。木村家は隔世遺伝で、放蕩→堅実→放蕩と性格が変わる(そう簡単に一面化出来ないが、ちょっとそう言うところがある)。もちろんぼくは放蕩の世代なのだけれど、ぼくの従兄にはジャズ・プレイヤーを志している者がいて、彼がその花をもって現れた親戚なのだけれど、彼やぼくがその(放蕩の)典型なのである。平日の昼間から墓参りに出られるのはぼくたちだけ、雨の中で線香の煙が低くただよう。
その晩、母に漱石作品で何が一番好きかと聞くと、『夢十夜』と答えた。小学生のぼくに安部公房の『壁』を読めと勧めた母である。幻想的なものが好きなのである。そんな話をしていたら、吉本隆明の『夏目漱石を読む』が面白い、最近買ったから見せる、と持ってきてくれた。これが、とても、面白いのだ。興味深いのは、何回かに分けて行われた講演をおこしたもので、だからとても平易な文で読みやすいことだ。最近この手の手法が流行っているようだ(『バカの壁』とか)。読みやすくて楽しいのだが、ちょっとバカになったような気にさせられる。高校の頃、やはり母が買ってきた『文藝』を背伸びして読んでいたぼくにとって、当時「言葉への触手」という連載をしていた吉本は、その難解な文章からにじみ出てくる未知の感覚の魅力ゆえ、「ヒーロー」的存在だった。難解さが子供心をゾクゾクさせた、その蛇行につきあってみることは、田舎の子供にとって、かっこいいおじさんと見知らぬ町中を並んで歩くような緊張と楽しさがあった。平易さにはこの「ゾクゾク」はない。少なくともこれは文ではあっても文章ではない。語り口調の個性はあっても、文章の個性というものを楽しむことは出来ない。吉本の「〜だぜ」って言い方は、おじさんの「若気」って感じで昔から好きだったけれども、ね。『門』の御米(主人公の妻)がいいという吉本に深く頷く。例えば、御米の主人公宗助を起こす起こし方について。

平常は好い時分に御米がやって来て、
「もう起きてもよくってよ」と云うのが例であった。日曜とたまの旗日には、それが「さあもう起きてちょうだい」に変わるだけであった。しかし今日は昨夕の事が何となく気にかかるので、御米の迎に来ないうち宗助は床を離れた。そうして直崖下の雨戸を繰った。

日曜やたまの旗日の方が切迫したような言葉をかけるのは、宗助がその日には特に起きるのが遅くぐずぐずしているからなのだが、これとは対照的に、早く起きるだろう平常の朝に「もう起きてよくってよ」なんて柔らかい言葉で起こす御米の姿には、この人の気づかいのデリケートな感じがよくでていて、いいなあ、と思ってしまう。「こんな嫁におこしてもらいたいなあ」と思わせたら、小説は半ば以上「成功」している、そういうものである。



□0308(Mon)


室伏鴻『すべてはユーレイ』を見た(@WENZスタジオ)。
『ジゼル(s)』から引き継いだ、レースの蚊帳のような空間のなかにはしごとそこに貫かれた鉄製の棒。背後のパネルとレースの蚊帳の部分がスクリーンになって、そこに映像が映される。不鮮明だが空爆のような、瞬時に光って消える、あるいは斜めに流れていく光の雨。バドバトバドとヘリコプターのような音が低く聞こえる。緊張を強いられるような音と映像、しかしそれが映されるのはあくまでも女性的なレース。光るナイロン線は、中空にそのレースの固まりをあちこち浮かばせていた。はしごに乗った室伏が見える。『ジゼル(s)』で女たちがつけていたチュチュを穿いて、頭にはレースを被っている。ゆっくりごくゆっくりと動いているのは見えるが、複数の膜越しで室伏の表情など決してはっきりしてこない。はしごのてっぺんにのって、天井のポールに掴まる。ブラーンと。その姿勢、判然としないままだが、今日の室伏には身体の鋼鉄性よりも何か柔い感触が伝わってくるのみだ。後ろの白く長い箱に来ると、「クククッッ」と声を漏らしながら、その上にゆっくりと仰向けに倒れ込む。「女(しかも『ジゼル(s)』の女ならすでに兵士=男と掛け合わされていた)」×「男」×「昆虫のような怪物のようなもの」=目前の踊り手(室伏鴻)という複数性がはじける。仰向けに倒れながらゆっくりと股が開かれていく(戦場の女?)。その後、ずりずりと箱を押し、引っ張り、斜め前の迷彩ヘルメットのところまで。その間も、二重三重のスクリーンには戦争の光と踊る室伏の姿が映されている。スーツ姿の、全裸状態の室伏に対して、チュチュの室伏。レースの固まりを箱にのせた後、静かに箱(棺桶?)を引き上げていった。立て上げられる「死」(「命がけで突っ立った死体」!)。その空洞の死の箱のなかにスルッと入ると映像と音が止み、なかで「キュルッ、クククッッ」などの声だけが聞こえる。声だけ、まさに気配(=ユーレイ)だけが漂う。しばらくするとぼたたっと黒スーツ姿の室伏が倒れ出てくる。何か逆転してるぞ!『ジゼル(s)』の進行と。生から死へ、生身の女性(兵士)から妖精へ、それが妖精姿からスーツ姿へ、って。でもそれがもう生なのか死なのかはっきりと分からない。棺桶から出てきたのは誰。そう言えばレースの固まりには大声で「お前は誰だ〜!」と叫んでいたけれど、お前こそ誰だ。室伏らしいねじるようなひねり出すような動きがあらわれる。「クククッッ」と洩らしながら腕が内側にひねられる。と、硬直するというのではないのだけれど、腕の内に力がためられていくからか、見ているこっちの側の身体がねじられるように感じてしまう(実際に見ていると、ぼくの体はギギギッとねじられてしまう)。はしごに貫かれた棒が揺すられて金属質の音が響く。コンクリートの柱に棒の両端をゴーンゴーンと叩きつける。きれいな響きが漂う。こんなものまでここに並び散らされようとすることの豊かさ、よ。室伏の愛好する言葉に「エッジ」という語があるが、エッジとは連続した流れを断ち切った切断面のこと、だとすれば、不連続が連続性を切断していかなければならない。そしてこのことは、切断こそ重要!という話だけではなくて、切断が別の何かを接続させる接合面をつくるところが大事なのだ、ということをぼくに感じさせた(ああ、そう言えば『アイロニーのエッジ』という本を読んだところだった、「エッジ」、、、)。真ん中で棒を振り回す。危ない。すると頭上のナイロン糸が切られ(「ピューン」といい音がした)、浮かんでいたレースの固まりが落ちる。端に行って棒と絡む(「本当は日本刀を使いたかった」とぼやき)、最後に再び映像が映され、レースは何枚かはぎ取られ、最後の最後には黒いズボンをストンと落とすと履くでも脱ぐでもないままに倒れその足を挙げたまま、仰向く。膜の呪縛、重くもなく透き通った、しかし柔らかく拘束し、視覚を支配してくる膜の魔。そこにある戦争。つかみ所のない、ヒット感のない相手。そこにある戦争。ユーレイとの戦争、という戦争。




□0307(Sun)


バリの旅についてページを作りはじめました(「バリのこと」をクリック)。いまのところイントロダクションだけですが、どうぞご覧下さい。



□0306(Sat)


構成・演出室伏鴻、出演ダンス01『ジゼル(s)』を見た(@西荻窪WENZスタジオ)。
もう少し正確に書いておくと芸術監督竹屋啓子、振付室伏鴻、ダンス01。

「舞踏はハイブリッドである」、一年ほど前今はなきアスベスト館での『即興三夜』公演のあと、室伏はぼくに一言こう言って舞踏を定義してくれた。これは拙論『土方舞踏論のアカルイミライ』を牽引する言葉になったわけだけれど、今晩の公演をもしこの言い方になぞらえるならば、「舞踏はハイブリッド化される」と言ってみたくなる。

舞踏の本質に「ハイブリッド(雑種)」という概念がある。このことは、様式化を目指そうとするいかなる舞踏にも到達出来ない(思い及ばない)、しかしぼくが思う限り決して欠いてはならない要素である。複数であること、「2」を保ち続けること、ここに舞踏の論理があり倫理がある。とすれば、舞踏が自分自身を追求していく過程のなかで、舞踏という形式そのものを複数化の危機のなかに放り投げてみること、それがいわば必然的な運命のようなものとして襲いかかってくることがあるとしても、それは当然だろう。内容の複数性ではなく、その容器をさらに複数化の危機のなかに仕掛けてみること。

これは確かに危険な行為だと思う。舞踏の側からもモダンの側からもどちらの規準からも「不十分」と見なされて、一蹴されかねない。線は舞踏的であることを崩し、モダンの美を汚し、その半端なあたりを行ったり来たりする。ただしそれがまさにハイブリッドたる舞踏を形式ごとハイブリッド化せんとする企みだとすれば?

二部構成。前半は迷彩服に目深にヘルメットをした7人の女たちが、ゆっくりとした動きを例えば動物のような四つんばいだったり、ごろごろ寝ころんだり。『地獄の黙示録』の冒頭の音響が使われる。「かける」という話であれば、ここで兵士(男)は女に掛け合わされている。7人それぞれが描く線には、舞踏とモダンとの間のレンジだけグラデーションが出来ていて、それは舞踏をどれだけこなしているのかとか、モダンがどこまで浸透しているのか、という規準ではかりたくなるところを慎重に裏切ってゆく。「裏切る」と言う感覚は、みていて苛つくと言うところに端的に体感される。「舞踏じゃない」とか、「モダンの美がない」とかいう苛立ちは、むしろここにあるのが、モダン・ダンスを訓育されてきた身体にちいさなカプセル(「弱い毒」)を飲み込ませた結果起こる、暴発的な反応の結果なのだと分かってくると、むしろ楽しい失望に変わってくる。

後半は、ジゼルたち(前半の最後に、「ジゼルはいた?」「いいえ」「いいえ」、「ええ」と会話があった)。最後の方にでてくる白いレース(それぞれのジゼルが頭上に掲げてあらわれた)は、『美貌の青空』で男たちが格闘した真鍮板のパロディ、変化形のように見えて、ここにも「2」が機能している。ならば、この薄い皮膜、アンフラマンスの意味は?ゆっくりと倒れ込みながら、まるで女たちはさなぎのようにこの膜に包まれていったかに見えた。が、内と外を隔てる安定機能のようでいて、あらかじめ腕が飛び出ているジゼルもいる。解釈不能の解決不能のわけはやはりそこにあるのが、複数性の事件であるから。複数であることは、単にコミュニケーションすることでも、コミュニケーションの不能を示すことでもだけでもなく、ただこのように見るものを混乱の渦中に漂わせることのなかにある、なんてこともありうるのだ。
というわけで、今晩のトライアルをぼくはかなり積極的に評価してみていたのでした。傑作とさえ思いました。同行人は、一つの人生を見たと思ったくらい長い時間を過ごした気がした、と言い、自分が舞台を見てきたなかで一番よかったかも、と言ってました。多分その感想のなかにぼくが書いたようなことが顕在的にあらわれているとは思えないけれど、きっと潜在的にはしかし何か大きな(ぼくが書いたことと何らか連関するだろう)出来事が起きていたに違いありません。

また、
こういった一過性の企画を批評の側が批評する言葉を持たないせいで、こういう企画を低く見積もるという傾向にちょっと疑問を持っていたのだけれど(ムギヨノ+砂連尾の時とか)、こういうことなのだ、といい解答をもらったような気持ちにもなったのでした。

こういう晩の食事は楽しい、高円寺の沖縄料理屋で舌鼓。



□0303(Wed)


午後一時頃、PCのモニターが届く。年末の大掃除の時に洗剤を吹きかけたせいで、カラフルなジップ(縦縞)が幾本もあった画面もようやく普通に何でも見られるようになった。ああ、こんなにキレイだったんだ世界は。
「ああ、こんなにキレイだったんだ世界は」と言えば、バリに行くのにコンタクトレンズをはじめて購入した。日差しが強いのでそれの対策にと、最初は度付きのサングラスを買おうとしていたのだけれど、度のつけられるものは限られていて、ならば、いっそコンタクトを買ってみようと思い立ち(度なしサングラス+コンタクトでいこうと)、つけてみたら、これがよく見えること見えること。「ほんとのわたしデヴュー!!」のコマーシャルはほんとでした。いや、外見というより見えた視界がね。この視界を知らずに10年以上眼鏡の世界を生きていたことを後悔したのでした。

友人(学部時代からの友、出世頭、そう言えばこの男がぼくに「土方巽」という名を教えたのだった)の西田幾多郎研究者、板橋勇仁(ゆうじん)が本を出したと連絡してくれました。『西田哲学の論理と方法』(法政大学出版局)。まだ読んでません。買えって言われました。だって俺も大変なんだから、と言っております。きっと名著です。読んであげてください。図書館に入れてあげてください。



□0302(Tue)


黒田育世『花は流れて時は固まる』(@パークタワーホール)を見た。
音がうるさい、照明が派手派手、舞台美術が(白い床の継ぎ目とか四角い前景の池とか、背後のコンパネの部分とか)あまりキレイではない。ダンスの周りがこれだけ品がなければダンスどうこうの話じゃなくなる(こう言うとき「ピーコのファッションチェック」を想起してしまうのは、ぼくがテレビ好きだからと言う訳ではなく、そもそも舞台というものは社交の一つであり、会話や仕草や手紙の文体の振る舞いと大差ないからだ、と考えている)。コーディネイトは繊細でなければ、そして他人に見られるものなのだから、大鏡に映しして(手鏡ではなく)よく見なければならない。
とはいえダンスも。動きがともかく激しくて、「激しい」と言うことが伝わるだけだと、のるというよりひく。一貫して引かれる線がそういう傍観を余儀なくさせるただの激しい線だから、長く見るに耐えない。胸を手で隠して変なラインダンスのようなものを踊る。胸を手で隠すその形があまりキレイではないのもあるが、隠さねばならぬほどに大事なものが「胸」であることに、少女臭さとその奢りのようなものを感じて、気分が悪い。そんなところに手がある必要ないから、見せても見せなくてもこっちはどっちでもいいので、ただもう踊ってください、と言いたくなる。そう、踊り(の快楽)はほとんどなかった(バリではほんと50年くらい前まで女性は男性とほとんど変わらず上半身裸だった。当時、女の子が二人で踊りの練習をしている写真が残されているのだけれど、それは体が全身踊りに向けられていてとても美しい。それをいま思い出した)。バレエはあったのか、モダン・ダンスはあったのか、そちらの人には何かの好感を与えるのだろうか。気配がどんどん「駅前劇場風」になっているな、と思ったら案の定。でも、それはそれで江本純子(毛皮族)にも怒られると思うよ。

でも一応紹介記事を書いた手前、すこしフォローを加えておくと、このような自意識でダンスどころじゃなくなってしまっている女の子の状況が端的に日本の2004年の社会である、そのことがよくよく分かる公演だったとも言えよう。ダンスには何が可能で何が不可能であるのか、その境界線の綱渡りを渡る緊張感を生きようとするよっか、ただともかくこんな私を見てーと叫んでしまう。その貧しさのなかにあるということ。


室伏鴻『ジゼル(s)』(出演ダンス01)『すべてはユーレイ』(ソロ)が今週末(来週頭)にあります。BBSに告知がのっておりますが、楽しみ楽しみ、言葉だけでもゾクゾクする。