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(200406)

05 水上アートバスダンスパフォーマンス/08 CD三枚/15 スパイク・ジョーンズのDVD/16 良本一冊/18 ラララヒューマンステップス/19 Ko&Edge/20 口福/23 ジュネ/25 「人形少女は傍若無人」

 *ダンスは
赤字


□0625(Fri)


ここ一二ヶ月で書いたものがちょこちょこ世に出始めている。上手くかけたような気がする原稿もあれば、押し出しが弱かったなあと悔やむ原稿もある。ぼくは実生活でもそうなのだけれど、自分を表現する時に「サイト」に凄く影響を受けやすい。どんな場所でどんなシチュエーションで、どんな人の前で自分が喋るのかに「自分」が強く作用されてしまう。でまさに文章書きの作業にこの傾向が出てしまって、「借りてきたネコ」的な状態になってしまうこともある。「若いナ」と自嘲してもいいけれど、この過敏さそれはそれ、いい方に作用すれば、悪くもないだろうと、思ったりする。まあ、デリケートっうか小心なわけで。小心っつうかデリケートでもありということで。
『TH series no.21 少女×傍若無人』(アトリエサード)に、「人形少女は傍若無人」という原稿を書いた。「権力の問題」に触れずにはいられなかった。権力(男性的主体)の構造から自由であることが傍若無人と言うことだろう?で、それはどう可能か?と言う話。でも本当は自由じゃないのに、粗暴な乱暴な自分の振る舞いに酔って自分が麻痺してしまうことによって、自由をえたように錯覚してしまう傍若無人さ、というものもあるのかもしれない。最近の12.3才の女の子たちの暴力的事件は、そういった「マヒ」が引き金になっているようだ。「マヒ」のなかの陶酔感にはまりこんでいるひとに、責任を問うことはほとんど意味をなさない、と言うところが、被害者の立場に立ってみるとたまらなく悲しい点だろう。そして、なんら権力から自由になれたわけではなく、彼女たちの情報は、ネット上の匿名的(男性的主体の)欲望の餌食になるのが落ちだ。実のところ、は。
あるいは、「少女」の特権(?)のような気持ちで「自分を無邪気に晒す」傍若無人さは、そんなネット上の消費対象となり、そのことが一生の後悔の元種になることもある。
それでも私は晒すわよって居直るのか、あるいは「居直る」なんて時に生まれる主体などもうそこには存在しないのか、そしてただただ自分を晒す快楽を享楽し続けるのか。
えっと、「晒す」にこんなにもついこだわってしまうのは、絶対「ショーアップ大宮劇場」ショックに原因がある!どうもあまりにもショックだったせいで、そんなに脈絡ないのに授業でこの「おとなの社会科見学」のことを喋りまくってしまった!そんなぼくの告白(ストリップ)を、学生たちはぼくが大宮で感じたようなとまどいを感じながら聴いていたかも知れない。ストリップに困惑するのは、やる側ではなく見る側なのだ。そうそう、そう言えばぼくの「少女」論原稿は、そんなとまどいから書きはじめていたのだった。



□0624(Wed)


宇野邦一『ジャンジュネ 身振りと内在平面』(以文叢書)が面白い。強力プッシュである。

「物語は、一つの不均衡な配置から生まれる。ジュネは他者の言葉で書く。書くことは、愛の行為であり、他者に浸透し、浸透されることである。彼はたえず、なぜ書くのか、どこで、どんなふうに書いているのか書く。彼のなかに次々と生まれ、登場人物たちと溶け合ってしまうさまざまな語り手を、一つの平面の上、欲望の平面の上で、連結するためである。彼は繰り返し分裂しては、また連結する。彼の書く理由が、彼が盗んできた言葉が、無数の身振りの系列が、物語を引き裂いてしまう。物語することは、すでに一つの裏切りにほかならない。」(224)

例えば、このような一節を切り取って読んでみる。と、ぼくにはなにやらこの文章が舞踏に捧げられた言葉であるかのように思われてくる。「書く」という言葉を「踊る」に変換すれば、それはぼくが考えているところの室伏鴻のダンス論と酷似するじゃあないか。どんどんそういう読み重ねが出来てしまい、お風呂で読みながら不思議と背中が寒くなってきてしまう、と、あらあら、ページをめくれば次の小見出しには「犯罪舞踏そして世界地図」と。宇野さん、要するにこのあたりから(その手前から)土方のことをジュネに重ねながら書いていたのだね、どうも。だから、か、ね、シンクロニシティー。そのあたりで宇野はこういう、

「東北を、そして肉体、病、闇を、独特の言語として強く変形しながら自己の根拠としていた土方は、確かにジュネを反から脱への方向においてとらえていたと思う。それはまた、彼自身の根拠からさえ脱していくことである。そのことによって、土方のなかのジュネとぼくたちのジュネが浸透し合う。」(229)

ここでの極めて重要な指摘は、「反から脱の方向」というところだろう。アンチは、対抗する何かによってみずからを形成する側面があり、いつまでも自民党を必要とする野党みたいな性格がある。そこから「脱」の論理に至ること、それはただ境界を際立たせることよりはその境界を曖昧にし、どちらにも移行可能な状態にすることを導く。なるほど。
でも、「脱」は移行可能性についてのオプティミズムのなかにある、とも批判できるだろう。どこでも扉はあり、開かれていると信じることは、しかし、自由にどこにでも行ける自由闊達さを過信してはいないか。マルチカルチャリズムの無邪気さ。そう、だから「裏切り」なんて言葉が、やはり見逃せないのだ。「裏切り」の瞬間身体は「痙攣」する。この痙攣にぼくは暗黒舞踏の倫理を感じる。でも、まあ、ともかくも、

「レジスタンスは「陰毛の中で敏感な男根が立ち上がるように、茂みの中に現れ、立ち上がった」」(220)

なんていう、直喩の強引さに身を任せたオバカな表現を繰るジュネに参ってしまう。おもろい。


あと阿部『シンセミア』読了。



□0620(Sun)


夕方からフト思い立って、他の用事もなしに横浜中華街へ。行きつけの店「口福」で夕食。横浜線の車窓の景色は窓が広く、青い青い、素早くながれる(台風接近中)雲の形がすばらしくまるで空を飛んでいるかのようだった。気づけば石川町(うちから小一時間なのだ)。駅前はネコ天下。大根モチと高かったがとびきり美味いエビの辛味ソース炒めは絶品。おばちゃんも覚えていてくれて、豆腐のサラダをそっと一品出してくれた。山下公園では、日本語が流ちょうなアメリカ人が路上パフォーマンス、すごくたいしたことのない芸でガンガン儲けていた。要はおしゃべりで楽しませること、「いい時間を過ごしたな!」という束の間の錯覚を与えること。あいつ一晩で十万くらいは稼いでいるのじゃないかな。



□0619(Sat)






Ko&Edgeのショーを見た(@ショーアップ大宮)。
かつて舞踏のダンサーたちは、アスベスト館の運営のために(また個人の生活のために)しばしばストリップ小屋(やキャバレー)で踊ったという。だれだったろうか、土方が踊り以外の仕事はしてはならないといっていたことをある時話してくれた記憶がある。今回初めて「ストリップ」というものを見たのだけれど、ごくごく極端な形ではあるがこれもダンス、いや最古のダンスかも?いやはや、ともかくすごーく疲れた。こ、こ、この疲労感はなにゆえなのだろうか!
踊り子さんたちは、それぞれ個性を作ろうとしていて、ダンスにもそれは反映される。ジャスダンスあり、ストリート(ヒップホップ)あり、社交ダンスあり、田舎芝居風(?)あり、趣向は驚くほど様々だった。二十分の時間、踊りがなければ時間がもたない、盛り上がらない。「肉体」という言葉があまりにもぴったり来る場所で、しかしダンスする「身体」がそこにともなっていなければ、ショーとして、観客にファンタジーを与えることが出来ない。観客は案外このファンタジーに酔いに来ているのだ。でも、ね、ようするにさあ、数曲踊って最後には「ご開帳」があってという形式はごくごく一定化されていて、一曲目は激しく何事もないかのように踊るのだけれど、その後はあまりにも予定調和なのだった。もう途中からどうなっていくのか分かっているので、かなりお腹いっぱい状態になってしまったのだけれど、おじさん中心の混み合う観客たちはまったく揺るがず盛り上がりまくっている(「ご開帳」の瞬間湧きあがる拍手は、でも、正直、べたべたすぎヤン!と突っ込みたくなる)。あの表情は、踊り子さんのポーズよりも、忘れられぬ記憶になってしまった。

と初スト話はこれくらいでいいとして、男三人のストリップは、、、(いや彼らはストしてなかった。要するに、最初からあのアトム水着で登場)
四つんばいで、両腕が縄を括り付けられた状態で目黒が登場し、しばらく正面を向いて獣振りを見せる。縄のもう一方の先端は他の二人が握っていて、引っ張られるように二人も現れる。もはや感動的なくらいに無感情剥き出しの観客。でも、裸の男たちは、「裸の男なんて見たくないだろう」と煽るのでも「女っぽいから見ていってぇ」とすり寄るのでもなく、裸の男のなまめかしさを漂わせながら、「そんなおれたちって何かねえ、ハズいっちゅうか、惨めな、なんか気持ちいいようなっ、てね、ふふ、ふふ」ってな感じで曖昧に突き進む。動物振りは、腕の柔らかい動きや、それに伴う肩胛骨の上下動や、進むごとに揺れる腰とか、こういう場所で見るとより明瞭になることなのだけれど、なまめかしい動きなのだ。馬の目黒と馬引きの男の林が、回り舞台でゆっくりと歩く。最後は鈴木が縄で叩いたり、すると目黒が倒れるのだが、関係ない林が遠くから「痛い、痛い」と言っているところはかなり可笑しく、しかも最後に「痛くない!」と一言言うと、観客も受けてた(この公演ではじめて笑いが起きた瞬間だったと司会者が言っていたのには、驚くやら何やら)。Ko&Edgeの「肉体」編を見たというと、決まりすぎかも知れないが、確かにそんな感じではあってこのグループの奥行きが確かめられたには違いない。見た価値あった。



□0618(Fri)


ラララヒューマンステップス『ameliaアメリア』を見た(@彩の国さいたま芸術劇場)。
線を描く、スピードをつけて。
これがすべて、そしてここに彼らの見つけたダンスがある。何か、久しぶりにダンスの快楽をえた、という気がした。純粋に踊りに向かう一時間半。一点集中、「つぼ」に無限に反復される刺激。このツボの名は「スピード」。
「スピード」の表象はなぜ「力」を感じさせるのか。このような彼らの呈示する力を曖昧な「強度」とか、便利に使い古された「崇高」とか呼んでお茶濁しするのはもうよして、細部に着目してみよう。さて、スピードが単にひとつの腕振りの速さではなく、複数のスピーディーな動きの交錯するところにはじめて生まれる、とすれば、ホガースが目の悦楽を「困難さ」に見たあの純粋感覚主義の美学を想起する必要があるだろう。


「活発な心はつねに自分が行使されようと熱心に向かってゆく。追求することは我々の生の振る舞いである、たとえ他の観点からは捨象されようともそれは快を与えるのであるThe active mind is ever bent to be employ'd. Pursuing is the business of ourlives; and even abstracted from any other view, gives pleasure.」(41)。

「我々は一行に並んだすべての文字を等しく、完全に一目で見ようと努力するとき、いわば架空の光線は一行をあちこちと猛烈な速さで追いかける。それだから目は、厳密に言えば、連続するこれらの文字にただ注意を向けうるだけなのだが、魅力的な容易さと素早さによって−−それらを伴いつつ目はこの仕事を実行する−−、我々は広大な空間を一瞬の眼差しで充分満足して眺めることが可能になるwhen we endeavour to see all the letters in a line equally perfect at one view, as it were, the imaginary ray must course it to and fro with great celerity. Thus though the eye, strictly speaking, can only pay attention to these letters in succession, yet the amazing ease and swiftness, with which it performs this task, enables us to see considerable spaces with sufficient satisfaction at one sudden view.」(43)。


詳しくは、本HPのホガースのダンス論を参照してください。「追跡Pursuing」の快楽、それは体育会系の部活みたいに、辛い目標であればあるほど燃えるものだとホガースはいう。「intricacy放縦さ」「variety多様性」という言葉も用いられるこのようなホガースの美学(感性論)以上に、エドゥアール・ロック率いる彼らのダンスの美を説明出来るものはないだろう。
ところで、このすさまじい(照明の効果も手伝っての)速さで展開されるダンス、ぼくの体はときどき「ぴくぴく」と痙攣を突発的に繰り返してしまっていた。それについて、ぼくがこのダンスを「力」として感じた場面だとしてみよう。何故スピードの力を、つまり「力」とでも呼ぶしかない圧倒される感覚を感じるのか。それはぼくたちが普段ダンスを見る時に自分の身体をダンサーに重ね合わせていることにまずは起因するだろう。ぼくたちはダンスをしながらまさにダンスしているのである。目でダンスをする、ホガースだったらそういうかも知れないが、要するに目を通して身体全体でダンスを見ているのである(「共鳴現象」とかいろいろな表現でいわれるものでもある)。見ることは踊ることだとすれば、見ることの器官が機能不全を起こすと、身体が踊ることが出来なくなり、身体に痙攣が起きる。「追跡」の「快楽」はその機能不全を起こす時、もうひとつの快を誘発する(ここまで説明すればこれを「崇高」の名で呼んでも良いだろう)。
スピードが人間の身体を通して(すなわちダンスとして)表象されることで、このような共鳴現象とその機能不全が起こる。だから彼らの踊りが自動人形、アンドロイド、3Dポリゴンのように見えたりしても、目指すところはそこではなくそこから逸脱する人間的な線だろう、と思う。人間的なのだけれど、それは共鳴しながら逸脱する線であって、その二重にパラドクシカルなところに、彼らが掴んだ「ツボ」がある、と思ったりする(理屈っぽいか、な)。


ところで、
ホガース繋がりでひとつお知らせ。
広島大学の桑島秀樹先生という方が、『W.ホガース優美論にみる感覚主義あるいは〈悪〉の美学−−ヴィーナス・蛇・風景式庭園−−』(甲南大学人間科学研究所編『心の危機と臨床の知』vol.5 2004年)という論文をお書きになりました。ホガースのことを正面切って書いた論文はほんとうにない。ので、その意味ですばらしい意義ある先行研究です。これからホガースの優美論を使って「ダンス美学」なるものを立ち上げようとしているぼくにとってほんと励みになります。しかも、この中で桑島先生は、ぼくのこのHPのことを註で紹介してさえくれており、もうなんだか有難いことこのうえなしです、です。



□0616(Wed)


ある日、かなり前からのお知り合いから、仕事先(大学の研究室)に電話があって(その方はある大学の助手になったのだ、それで)用件をすませた後、しばらくおしゃべりをしていたのだけれど、そのなかで、「木村くんの日記を読んでいると、疲れたとかカゼひいたとかばかり書いてあって、心配したよ」なんて言われた。それ以来、あまり体調のことは書かないようにしようと思っていたのだ。でも、ね、さすがにヘヴィーになってきましたね。学校という世界にとって、6月は祝日はないわ、学会・シンポジウムなどの季節だわでもっとも休みがなくかつ忙しい日々。そろそろふらふらになってます。調べもののために近所の和光大に行って、学食でうな丼食べちゃうくらいの疲労度。なはは。

そんななかで、良本を入手したので、ご紹介。
『20世紀美術におけるプリミティヴィズム 「部族的」なるものと「モダン」なるものとの親縁性』
(ウィリアム・ルービン編、吉田憲司監修代表、淡交社、1995)。
モダニズム芸術(特に美術)の成立にどれほどプリミティヴなものが影響を与えたか、という主題が、豊富な図版を用いて、しかもしっかりした文章の書ける論客の手で様々に語られる。交差への視点というのは、「カルスタ」な人たちによって語られ様々な対象をもって分析され、もう「オッケー」と思われてしまっているところがあるかも知れない。いやでもそうではなくて、交差の接触面で起きる様々な出来事は、未来の可能性のための知恵になりうるのだ、あるいはその出来事に使われた能力についてもっと反省するべきなのだ、未来のために、なんてぼくは思ったりする。そのために細部を、凝視しなければならない、そしてその凝視の方法をえるヒントが、この本の至るところに転がっている。でも、スゲーオススメなのだけれど、重い上に高い、難点。



□0615(Tue)


ダンス公演に最近あまり足を運んでいないことは、決してほめられたことではないが(肩書き詐称!と言われそう!)、実にあまり行く気にならないのである。困った。観劇とか、映画ファンとか、ロック少女とか、その熱の流れの中にいるときには、「あああ、あれ見逃したら生きてはおれない」なんて思っていたりするのだけれど、一旦その流れの外に立ってそこから傍観すると、案外平静でいられたりして、ああ別にそれでも良いんだなんて思うのではないか、と当たり前のことを納得したりする。
ぼくはダンスが好きだ。と、もし公言したとして、でも、そのダンスとはいったい何なのか、と言うことについてあまりよく分かってなかったりする。「ダンスが好き」と言いながら実は限定された「コンテンポラリー」とか「ストリート」とか「バレエ」とかを指していて、その限定に本人あまり気づいていない、ということはよくあるのではないか。限定なしに「ダンスが好き」って言える人って、いるの?なんて思いながらぼくはそうだ、と気づきつつ、それはつまり、「ダンス感覚」とでも言うものが好き、と言うことなのでは、ということに思い至るのだった。
「ダンス感覚」あるいは「ダンシー」。でもこれも大抵は「ある種の」という限定をみんなもっているもので、さあそれもでも取りはらいたいと思っているぼくには、ハッとするような変な興味深い、体揺すぶられる時間感覚はすべて「ダンシー」と呼んでみたくなる。そして、ぼくはただその時間を感じてみたいというそれだけで、劇場に向かっているのだ、ということに思い至る。

と、前書きが長くなりすぎたのですが、
昨日、スパイク・ジョーンズのDVD(主に彼のMTVでの仕事を収録)を見ていて、そこにたくさんの魅力的なダンスがあって、その当たり前のことに感動したのだった。要するにリズミックな、ビートのある、グルーヴ感のある音楽には、おのずとイイ感じのダンスがともなうものなのだ。でも案外、こういうこと、ほっといちゃうんだよなあと自戒しつつ、楽しんで見ていた。
とくにFat Boy SlimのPraise Youで踊るフツーの人たち(Torrance Community Dance Groupと言うらしい)のちょっと変なユーモラスな踊りがもうもう最高で、これでイイのだ、そう断定してしまいたくなるのだ。Fat Boy Slimのあの細くなまっちろい男が、へなちょこなステップで暴れるように踊るところは、『踊らん哉』の冒頭でフレッド・アステアがひとり楽しげにタップをする時のアンバランスの瞬間リカバリーするスリリングな動きを思い出させてくれたり、はては、甲本ヒロトの方がスリルとしては上だななんて思わせてくれたり、特にそんな見所もある。ぼくはこれがみたい、みていたい(だから、MTVはダンスの宝庫だぜ、これ見て蘊蓄している方がダンス好きとして健全だぜ、なんて暴言してみたくなる、あっとあと、そういえばこの曲が流行っていた頃のMTVアワードを見ていたら、同じ様なダンスをステージで見せていて、あのときも感動したことを思い出した!あっ、そんでその模様も収録されてた、今見てます)。これが劇場のダンスの構造のなかではじかれてしまうのならば、ぼくは別に劇場に行かなくてもいいような気がしてくる。まあ、でもね、モダニズム(アートを牽引した思考)の罪ばかりをのべたてるのはフェアではないとも思う、確かに肯定すべき可能性としてみるべきこともあるだろう、なので懲りもせず足を運ぶのでしょうが、今後も、、。



□0608(Tue)


今日は三枚のCDを買った。
曽可部恵一『shimokitazawa concert』
カヒミカリィ『Montage』
スチャダラパー『THE 9th SENSE』
でいまそかべ君のDAT生録りのほとんどノイズリダクションしていないみたいな、まるでラジカセ一発録りみたいなライヴ版を聴いているのだけれど、あまりにあまりにすばらしいので、興奮してきてついつい日記してしまっている、そういう感じで、本当にすばらしい。もはやHMVなんて行ってもまったく夢なんてなくて、ジャケットが映えるからと言う理由だけでちょっとおうたのうまいモデルがCDデビューとかしているのばかり目について、当たり前じゃんこんなのばかりじゃ人はCD買う気なくなるよ、ってほんとにカッツカ来て(最近のテレビの歌番組ももう「壊滅的状況」で面白くなく、「ヘイヘイヘイ」がダメなのなんてかなり前からだけれど、「ニッチ」的アイデアで乗り切ってきた「うたばん」ももうダメ。ただ普通に歌聴かせればそれだけでイイのに、ああテレビの人って何やってんのって)、そしたらキース・ジャレット『ケルン・コンサート』みたいなごくごくシンプルなジャケでそかべくんのCDがひっそり売られていたので、そく買い。下北沢のレコード店で70人の前で歌ったという音が圧倒的にすばらしいことは、「大手と大手が大合併/さらなるサービス大宣伝/ところが見落とす ある盲点/バッタバッタなくなる支店 支店」(スチャダラパー「YES/NO」)ってな現状顧みてあたりまえかつ当然レア。
でも「ノイズが多いなあ」と正直思いつつ、でもそれによってサウンドスケープの無意識(無意耳)がじっと喜んで聴いている反応している気がする。ああこういうの知ってる、そうそう最近よく行くこみこみのカフェのジャズ流れる店内の喧噪みたいだ。その音はうるさくてひとつひとつの音が会話の成分なのだけれどもうただのざわめきにしかなっていなかったりしてそれがただの形を伴わない色の散らばりになっていて、それが案外とぼくは好きなのだ。

あっといま阿部和重『シンセミア』遅ればせで読んでいまして。最高。ぼくなりにいつかコメントを。



□0605(Sat)


水上アートバス「ダンスパフォーマンス!」を見た(@浅草発日の出桟橋着水上バス)。
水と油おのでらんとニブロールに出演等のたかぎまゆが絡んだ、一種のショー。前半は、靴の中敷きみたいな足跡(番号付き)をおのでらんが置いていき、たかぎがそれにあわせて足を出してゆく。途中、坐った観客の膝の当たりにそれが貼られたり、観客に渡すと天井に貼られたりして、古の舞踏譜みたいになった足跡の付いた床はアクロバティックなダンスを踊り手に指示するのだった。その行程を何度か踊り、さらに観客にもそれを求める。いつのまにか観客と出演者たちの境界は曖昧になり、舞台とデッキの間も曖昧になる。見事社会の中にアートは滑り込んだ。後半は、二人がすれ違い最後は再会する、と言うような趣向。これまでの「水上アートバス」に比べ、巧みさが際立った、のではあるが。
マイムというのは、ダンスに比して遙かにコンヴェンショナルな(約束事の)身振りだ。つまり観客の反応は、役者の表情によってあらかじめほとんど決定しているものだ。この安定感、そこには一定の技量を持つもののみ達成出来る領域があることは間違いがないだろう。ただしこの安定感こそが問題なような気が、見ている間していたのも事実。
この安定感のもとにある動きには、もはや批評の余地はない。それが完璧に向かっていればそれだけただ「楽しむこと」だけが残される、それがなるほどエンターテインメントというものなのだろう。そしてこの「楽しむこと」には、「こうこうこうして(楽しむ)」という指定がすでになされていて、観客はここではひとつも頭を使わないでよい。このエンタの良点、安定感は水上バスという未知数の場所においてさえも柔軟に機能した。このまったくといってよいほど揺るぎのないことに唯一問題をたてるならば、スリルがないことだ。しかし実はこのスリルのためにこそぼくはダンスを見に行ったりするのだ。だからそれだけにこの安定感はぼくの気分を不安定にさせたのだった。