日記バリのことダンスの経験ダンスの思考/哲学と美学/BBSAbout/Link/Top
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(200407)

01 踊りに行くぜ!!東京予選をめぐる随想/03 トヨタ一日目/04 トヨタ二日目&手塚夏子/05 トヨタランスルーショーイング/07 ピナ『天地』/12 帰省/15 サリンジャー→スターンなぼくの文学的人生/17 超豪華ダンス二本立てあるいは東西ダンスオバサン対決/18 『スチームボーイ』は最高にくだらなくて笑えるバカジャパニメーションだった!/19 ジョグ/20 発掘!デリダのダンス論/21 竹内登志子『混合ダブルス』/25 『Dance Collection 2004 吾妻橋ダンスクロッシング ザッツ・コンポラ・ダンス・ショー!!』/28 マリア・ギレスピー『On the Way to the Melting』&イトー・ターリ『恐れはどこにある』/31 『UNloved』『69』
 *ダンスは赤字


□0731(Sat)


おとといに『UNloved』(万田邦敏、ビデオ)、昨日『69』を見た。
『69』は高校生の時に読んだ記憶がある。本も読んだけれど、思い出すのは、日曜日の夜、AMのラジオNHKの番組で文学作品を朗読する番組があって(今もあるのだろうか)、それで著者のインタビューと共に聞いたことだ。それがこんなときに突然映画になった。
69年に、高校生と言うことは、遅れてきた世代なわけで、大学生が闘争しているのを、「次男」的な視点で追体験していながら自分のものじゃない歯がゆさをもっていると言うこと。そしてそれは、兄貴たちがしていることの「うそっぱち」が透けて見える位置に立っていると言うことでもある。要するに「バリ封」するのだけれど、それは(政治に?)かぶれた美人女子学生にもてたいからで、すべてはこの正直な欲望を中心に回る主人公の時間。でも、このぶっちゃけな角度は、あまりに正直で、またあまりに現代的だ。要するに保守的なものに見えてくるのだ。「たのしきゃいいじゃん!」というメッセージは、もうかなりせつない。
『Unloved』は、男性対女性、どころか男性原理対女性原理という物語、そしてその小さな世界で展開されるどでかいストーリーを作る作家の余裕は、映画を信じてますという凄い信仰告白だったりする。



□0728(Wed)


「ダンスがみたい!6」のマリア・ギレスピー『On the Way to the Melting』&イトー・ターリ『恐れはどこにある』を見て、司会してきました。
イトー・ターリは、10年近く前NIPAFで『自画像』なる作品を見たことがあった。そこで彼女は皮膚色のラバーを全身装着して、そのなかに空気を入れる。するとふくらんでところどころもっこりしてくるわけだが、その異形が同時に女性的なパーツを強調してもいて、女性の身体の絶対的肯定とでもいうメッセージを若いぼくなりに感じたのだった。また皮膚、被膜のもつ内外の境界への関心が作品を興味深いものにしていたとの記憶がある。それは今回にも見られ、観客に被らせ一緒に写真を撮る時の白い仮面とか、しゃがんだイトーに型押しされるアルミ箔とか、画面上に現れる詩のような言葉の中の巻き貝についてイメージとか、被膜のひととして理解したくなる要素がいくつもあった。最後になって、仮面のひとびと(仮面はマジョリティーが知らずに被っている偏見を含意しているのか)イトー(同性愛者)との安定した対立軸が、あまりに安定しているのを不満に思ったのか、客席と舞台との境界線のあたりで(終了するかしないかの間で)、「どちらにいこうか」と逡巡する。最後の最後は、客席に座り、観客と共に誰もいない舞台を眺めたり。このところが、もっとも批評的でもっとも面白かった。
ところで、ちょっとこう思ったりしたのだ。パフォーマンスアートというのは、身体を媒体として最大限活用しようとすると同時に、実のところ身体を限りなく犠牲にするものなのではないか、と。パントマイムをしていた経歴を持つイトーのアクションは、「ダンス」と見えなくもないが、いやあまりに意思が身体をコントロールしきってその範囲を超えないところでダンスにはみ出さない。アフタートークで、ダンスのもつエクスタシーを自分に禁じているとのことを本人が話してくれたが、なるほどその意味で政治的な機能を発揮してはいるが、同時に意思VS身体という対立を鑑みる限り、実に容易に意思が勝利する舞台になっている。あるいは、身体は政治の道具になっているという意味で、抑圧され犠牲にされ阻害されている、のではないか。そこどうなの?と思うのだ。身体が政治の主題を語る舞台になることよりも、身体そのものが政治的なバトルフィールドなのだということが、もっと反省されていいと(このような公演を見るたび)思う。
マリア・ギレスピーのダンスは、コンテンポラリーダンスの中心(=アメリカ合衆国)では、コンテンポラリー・ダンスにある程度の固定した理論が成立してしまっていることを、教えてくれた。非常に抽象的な発想でダンスを編んでいる。「ダンスを定義してください」との今回のぼくの定番の質問に、「リリース」の理論で説明してくれた。共演の坂口奈々(OM−2)さんが補足してくれたのだが、それは滝へと落ちる流れの手前でエネルギーをためながら直後スッと直滑降していく、その瞬間のようなものだそうだ。「ためて流す」、それは運動の発端にある動機であり、運動の進行を必然的にする原理なのだろう。ただしそれは「身体」という抽象的理論的な眼差しから見た「からだ」に対する抽象的な原理であって、本当はもっと様々な具体的な力線の交錯の中に、動く「からだ」はあるはずだとぼくは思っている。まあ、とはいえあまりにフレッシュ、ヤング、もっというと「うぶ」なダンスにLAの明るい太陽の下でうまれたローカルなダンスなのかしら(?)と思ったり、またこんなダンスいまの日本のコンポラには存在しないなあ、こんなに「うぶ」じゃないぜ、いられないぜと思ったり、それはそれで面白かった、のだった。



□0725(Sun)


昨日、『Dance Collection 2004 吾妻橋ダンスクロッシング ザッツ・コンポラ・ダンス・ショー!!』(@浅草 アサヒスクエアA 昼の部、アサヒ・アート・フェスティバル2004提携企画)を見てきた。

顧問桜井(副顧問紫牟田)率いるコンポラ学園ダンス部の夏の学園祭公演、てな感じの、公演と言うよりも、エンタメ・ダンスショー。「エンタメ」ということは、楽しませることが出来なきゃダメなわけで、10分一本(ときには二本)勝負ではキャッチーな一発があるかないか試されるわけで、そのことを充分承知して集まったダンサーたちが、その意味で「大人」なトライアルを繰り返した。ということは楽しいに決まっているわけなのであります。これがいまの「コンテンポラリーダンス」です、と世間に売り込むならば、それはきっといい反応を引き起こすに相違ないという時間でした。昔だったら教育テレビのETV8とかで中継録画とか流しそうな、そうだったら知らない人でも興味もつだろうな、、、そんなことを考えてました。まあ、ちょっと盛りだくさん過ぎって言えば、欲張りな悲鳴で、でも、ニブロールあたりから集中力がかなり低下してしまったのは事実。大作ものよりも90分という基本フォーマットを尊重すべしみたいに言う、シネフィル気分で、「もっと短く!」と贅沢にもそう言ってみようか。
ラインナップは、APE「one day, I woke up. Dance Crossing Versionパート1」、康本雅子「茶番ですよ」、たかぎまゆ「いさわ」、ボクデス「河童次郎の「早く帰りたい」」、身体表現サークル「範ちゃんへ?」、風間るり子「作品タイトル なし」、VJ、ニブロール「チョコレート」、APE「one day, I woke up. Dance Crossing Versionパート1」、たかぎまゆ「男の人生応援します」、身体表現サークル「イクちゃんへ」、康本雅子「メロドラ飯事」、KATHY「KATHY in Azumabashi」、ボクデス「蟹ダンサー多喜二」(後半の順番信用ならず、多くて覚えきれなかったッス)
ぼくは断然、風間るり子にやられた。タラフ・ドゥ・ハイドゥークスの曲だったか、ジプシーな曲で、黄金の宝船を象った宝箱を担いで、アラビックな踊り子スタイルで登場する。と、腕をくねくねと蛇のようにくねらせる動きを基点にして、ただただカッコイイダンスを踊りまくる(最後には宝箱から偽札を客席に向けて投げる、花吹雪のごとし)。先週の『ダンス☆ショー』のなかにもところどころみられたアジアンな(そのときはとくにバリダンス的な)動き、その傾向が、今回はインド風(?風間オリジナルの)なダンスとしてまたもや披露された(もちろん黒沢の数多いレパートリーのひとつと考えるべきなのだろうけれども)。脱帽です、好きです。あと、康本雅子の「曲を踊る」という方法が本当にこういう場所だとキャッチーでうまく機能していた。このひとは振付家としてもう少し見られ評価されるべきなのではないだろうか。「大人の男女関係」を踊る数少ないダンサー、という意味でも、いい。

夜も見たい気持ちではあったが、てんこ盛りにはらパンク状態になったので、退散。楽しいことに出会うと淋しい気持ちになるよねって、余韻味わいつつ気分を変えて、腹ごなしに散歩、雷門をくぐって、駒形橋の鰻屋、色川へ。ちいさな外見はさえない店なのだが、入ると途端に「日本」を感じさせる雰囲気。この「日本」は「ゲイシャ・サムライ・フジヤマ」とか何とか言っている限りでは絶対に出会うことのない、さっぱりとデリケートな日本(店内はこちゃこちゃと色々なものが壁に貼り付けられていたりして、それが鰻のタレ色に染まってたりして、、、そんなこんな)。混んでいたので、母親くらいの御夫人方二人と相席になる。この二人が、さらっと気取ってないけど粋なひとたちで、ぼくが注文いつ聞きに来るのかなとそわそわしていると、「注文はこっちが言うものじゃなくて、向こうが聞いてくるものなのよ」とひとことたしなめられる。「ひとついいこと覚えたでしょう」なんて言われる感じがむしろ楽しい。二人の会話の感じ、会話に頷く時のあまり首を動かさず、きびきびと動く感じ、とかに妙に好感を持ってしまう。こういうときに感じる気持ちとダンスで感動する時の気持ちはまったくと言っていいほど等しい。二人の「下町風会話の所作」ダンスを、最後の一切れまで上手い鰻重と共に、すっかり堪能したひとときだった。



おみやげの人形焼きが今日の朝食だった。



□0721(Wed)


今回の「ダンスがみたい!6」で、ぼくは五回アフタートークの司会をすることになりました。で、今日は最初の日、竹内登志子『混合ダブルス』を見て、司会をしてきました(「司会」っていうほどのものじゃないんですけれどね)。

竹内登志子、今回はじめてみた。鈴木忠志の肉体訓練にかなり影響を受けたのだということ。確かに、舞台に交互に登場して、それぞれ誰も座っていないイスに絡んでみる二人の、とくになにをしているのでもないときの姿が、ちゃんと見るべきものになっている(もっと簡単に言えば、見ていて飽きないのである)。目の前に身体がある、そこに充実感がある、という単純な魅力は、何やら懐かしいような気持ちにさせられながら、それでも舞台を持続させるのだった。
ただし、それはダンスの充実感ではない。あまりに言語的(説明的)なのである。「イスとぼく」という瞬間のさまざまなヴァリエーションを展開させるところは、動きの形式を見てみると、パッとポーズを決めて静止する、次に移動してまたポーズを決めて静止する、その連続なのだが、ポーズとポーズの間が軽んじられている気がしてしまう。ポーズは非常に言語的で、イス(に座る誰か)と自分との関係をストレートに語る、それは分かりやすいということからしてそれ自体が悪いというわけではなく、むしろある種の技術を感じさせもする。だが、ポーズ(静止)はダンスではないのである。
変な脱線をしますが、このことを考えながら見ている間、子供の頃テレビで見ていたコメディアン早野凡平のことを思い出していた。ドーナツ状の黒いフェルトをいろいろと形を変え、かぶることで何かになりすます芸、で実は一番面白かったのは、何かになる前と後の間だった。「んんんんふふふんんん」みたいに鼻歌を歌いながら、今度は何を作るのだろう、と思わせつつ、隠しつつ、わくわく進む時間。「はいナポレオン」と決まった時には、もう「似ている」という感動しかないのだけれど、なる前なった後の「変身」の過程は、じっと見入るわくわく感があって、むしろより魅力的だった記憶がある。ハイ、脱線修了。
で、アフタートーク、ぼくは今回の司会役で、毎回聞こうと思っていることがあって、それは「ダンスってなんですか」という問い。愚直だけれど、あえて、いやこれこそ是非聞きたい。竹内さんは、悩みながら、演劇の場合、身体はポイントひとつに絞る(ひとつの役に収斂する)のだけれど、ダンスの場合、抽象的というか、潜在的な状態にしておくのであり、その点で二つには違いがある、と話してくれた。これ、面白い表現だな、と思いました。また、この作品を作るに当たって、ハロルド・ピンターをよく読んでいたと裏話してくれた中で、ピンターの文は、身体が様々な形をしていったその中のひとつという気がする、要するに、潜在的な身体がはらまれた、その可能性のひとつのが現実的になった(文の形になった)ものという気がする、というエピソードが出てきて、それは先の話と絡むような気がして、ちょっと面白い、と思った。



□0720(Tue)


「あつーーー」
谷岡ヤスジ的な声色で鳴ってます、この叫び。本気で、熱い。「暑い」どころか「熱い」。なにせ39.5度ありました、今日。「殺人的だねえ」って笑えない感じでおしゃべりしていた今日。こんなテクストに遭遇!

「ダンスの最高に無垢なところは、この割り当ての裏をかき、監視の下にあるかの諸々の割り当てから逃れるところでしょう。ダンスは場を変える、とりわけ諸々の場を変える。ダンスが目覚める時、その諸々の場はもはや認識され得ないのです。ある女性、とりわけある種の女性の動きがもつ喜ばしい妨害は、ダンスと共に、実際に我々の小さなヨーロッパ空間のなかにある諸々の場の割り当てにかなり危険な騒動を起こす好機をもたらしました。The most innocent of dances would thwart the assignation a residence, escape those residences under surveillance; the dance changes place and above all changes places. In its wake they can no longer be recognized. The joyous disturbance of certain women’s movements, and of some women in particular, has actually brought with it the chance for a certain risky turbulence in the assigning of places within our small European space.」(145)

「(…)さらにまた、私はあなたに尋ねます、もし仮に、非常に変わりやすいリズムに応じて二つの性が交換されないとするならば、いったいどんなダンスがあるというのでしょう、あるいはいったいダンスはあるのでしょうか。しかし、非常に厳密な意味でいうならば、この交換だけでも十分ではないでしょう。なぜならその二つの性の結合そのものから逃れようとする欲望が、予想も出来ない(incalculable)コレオグラフィーを発明しようとする欲望がまだ残っているでしょうから。Then too, I ask you, what kind of dance would there be, or would there be one at all, if the sexes were not exchanged according to rhythms that vary considerably? In a quite rigorous sense, the exchange alone could not suffice either, however, because the desire to escape the combinatory itself, to invent incalculable choreographies, would remain.」(154)

これは、
Ellen W. Goellner & Jacqueline Shea Murphy,のBodies of the Text. Dance as Theory, Literature as Dance, Rutgers University Press, 1995.のなかに収録されているChoreographies, Jacques Derrida and Christie V. Mcdonald(141-156)の一部だ。マクドナルドという研究者との対談録。
要するに、デリダがこのようなこと、言っているのである(1981年頃)。この夏最大の収穫かも知れませんなあ。歴史的猛暑の日の記念ですな。
最初の文の「割り当て」とは、女性には社会において場所がない、と言う議論から繋がっています。家事の場とかが女性の場とすれば、それはしかし男性的権力の支配の下に割り当てられているだけであり、それは「女性の場」(女性自身の場)というものではない。この場をもたない女性というものを、デリダはニーチェに従いながら、積極的に、ダンスと連関させてこう語るのだ。
場をもたぬものは、「場」という概念を宙づりにしてしまう、がために諸々の場を変えることができる。「変える」というか自由に場を移動する、という意味にも取れるのか、下の引用では、「交換」という概念が積極的な役を果たして、デリダ的ダンス論がイイ感じで展開されている。
どうも、このデリダの発言は、彼のニーチェ論『尖筆とエクリチュール』から滑ってきたものらしいので、それとからめて行くと、ひとつの思考がにょきと浮上してきそうだ。
このあたり、ニーチェ経由の現代思想によるダンス論としてドゥルーズだけではなく、デリダというレパートリーもあると言うことになる、ね。うお、なかなか楽しい感じになってきた。
夏休みの課題がひとつ、増えた、また暑くなる。


あと、あとあと。

さっき、日本対オマーン戦、見ていた。中村のほんとに「芸術的」なシュートが決まり、その他になんのいいところのなかった日本が勝利した。それ見ていて、二本足がサッカーしている、と言うことに妙に感心してしまっていた。中村は左利きなのだけれど、狭いスペース、迫り来る敵、という不利を克服してシュートまで持って行くには、狭い助走路のなかで、うまく左足でフィニッシュ(キック)することが出来なければならない。その時、対称的とはいえ異なる脚が二本あることが(もちろん走る際の基礎になっている、のではあるけれど)、邪魔だったり、リズムを形成してフィニッシュへもっていく技術を要求する障害になる。でも、であればこそサッカーは、この二本足のリズムの妙を楽しむことのできるひとつのダンスになりあるのだ。左足のアウトサイドでカーブを付けながら、狙い通り、でも不格好でもある姿勢で決める瞬間のリズムの高まりは、「得点が入る」ということ以上に感動的だった。
この二本のバランスとリズムということは、手のリズムを要求するバスケ、などにも言えるだろう。ただ、脚が走る道具であり蹴る道具でもあるという、二役を要求しているところが、サッカーの特異性でまた独特の魅力を引き出しているところだろう。なんて考えていた。



□0719(Mon)


大体レギュラーな出来事が一旦お休みになってきて、夏休みモードに入り出した、最近の生活。「夏休み」つって、休むというよりも、いろいろと書きたいものどもが幽霊のごとく部屋を闊歩しているので、自由時間が増え、一層キーボード打ちに身が入る、そういう感じなのではありますが。先週休んじゃったし。今は、ともかく張り切りモードなのです、ね。

で、張り切り気分が加速して、まずは体力をつけなきゃと言うことで、ジョグをはじめたりしてます。朝、ひょこっと起きると無闇に走り出すわけです。「体」って言うのは、かわいがってなにもしないよりも、無理させた方が喜ぶものなんですね。走った後に、近所のパン屋で、もちもちクリームドーナツとブルーベーリーベーグルとあんぱん(こしあん)を買って帰り、シャワーして食す。これ、今ぼくのマイブームです。誰かぼくに聞いてくれないかなあ、「木村さん最近のマイブームは」って(死語!)。



□0718(Sun)


新百合ヶ丘マイカルのシネコンはのどかな雰囲気で、地元の子供やら子供みたいなお兄ちゃんやら子供みたいなお父さんお母さんが集まってくる、まあ言ってみればブリューゲル的光景の映画館。そこで、今日は、久しぶりの映画、見てきました。大友克洋『スチームボーイ』。
前半、と言うか、最後の三十分くらいまでむかむかしてて、「ストーリーがなんかめちゃくちゃだナー」とか「キャラに魅力がないなあ」とか「大体声優の声があまりにも単調じゃない?」とか「機械の話なのに、メカフェチに応えるようなアイデアとか全然出てこないよね」とか、散々な気分になっていた。大体、人物の動きなんて凄く堅くって、サンダーバードの人形みたいなぎこちなさなんだもの。まあ、このひと、動画よりも静止画のひとなんだよねって思い直してみたり、そもそも産業革命以後のものの動きというのは、速度とか力とかが人間のレヴェルを超えてしまっているので、弛みによって生まれる曲線よりは力ずくゆえに単調な直線が主になってしまい、結果動きに魅力がなくなるのだな、などとフォローだかなんだか分からないことを思ってみたり、して。だが最後の最後、巨大な「スチーム城」が動きだし、ロンドンの町を意味不明なままに無茶苦茶にしてゆくあたりは、もう開いた口がふさがらない。ただただ圧倒されていく。「城」と言って何かが住まうとか、国の中枢とか、そういう頭使いそうなことは一切ゼロ。ただマッドサイエンティストの親子三代が、傍若無人を繰り返すだけ。「大変だおじいちゃんこのままでは人びとが大変なことになってしまう」「そうじゃなっ、どうにかしてこいつをもう一度動かしてテームズ河まで」とかいって、動き出したかと思ったら、城に脚が生えてきて巨大な脚でロンドンの町並みを次々踏んづけてゆくじゃないの!そそそそこ、どうなってるのー?なんて悩み出したら負け、です、絶対。
「ばっかだなー」と最後に言えたひとは、見た甲斐があったと言えるかも知れない。「なんだかよくわかんない」と真っ当な感想を持ってしまったひとは、かわいそうなひと、お金すりました。
要するに「力」の表象の映画なのだけれど、ここらへんのこと、やっぱり高山宏先生にお伺いしてみたいところです、どうでしたか、先生!



□0717(Sat)


今日は、東西元気なオバサン(あくまで尊称のつもりです、が)振付家の作品を計二本見てきた。合計で5時間半くらい中にいたことになるわけで、二本目の終わった10時にはかなりくらくらしてました。

ピナ・バウシュ『バンドネオン』(@新宿文化センター)
ぶらぶらしていると思ったら突然こっちに向かって、「なにかやらなきゃいけないのー」と叫ぶ男(というか風情は男の子)の場面から始まった、1980年の作品の回顧上演。客はなんだか分からないままに突然日本語を話すこの外人にこれまたわけの分からない賛同の笑いを返した、が、これからしばらくの間(終わりまで)「何か」といえるほどの何事も起きない舞台が待っていると分かっていれば、反応はもうちょっと冷静だったろう。
と、どうも、バウシュオバサンの公演には、やや懐疑的な口吻が無意識的に浮かんでしまう昨今のぼくですが、前半はマジで何やってんだかー、と言う感じでした。今日の昼の部で見たぼくたちは前半の最後に地震に遭遇。休憩中おしゃべりする周りの観客の会話が聞こえる、前半のハイライトが地震ってそりゃないよ。
後半は、要するにダンスを踊ると言うことがいかにディシプリンの苦しみ(中国人のダンス教師にしごかれた話、とか)と拍手喝采のおだてに揉まれながら成り立つのか、またそのような踊ると言うことが、ぼくたちの実人生の悲喜劇にいかに類似したものか、それらがいまとなってはピナ・バウシュ的手法として明らかに構造化して見える構造を通して、語られる。前半冒頭の「君にとってマリアとは?」の問いかけは、女性=ダンサー=苦しみと引き替えの喝采という等号で結ばれて行くように見えた。ヒステリックにホッペタをたたき合ったり、仰向けになってダダコネのようにえんえん泣いてみたり。みんなが「ひとの転ばせ方講座」(?)で遊んでいる間奥の隅の暗がりで嗚咽する女とか、もはや古典的と言いたくなる技法がいろいろと現れる。
ああ、なんかこんなこと延々書いてしまいそうなので、あとは、箇条書きで。
・シアトリカル(演技的という意味で、とりあえず)とダンスの違いの問題
・理解不能なアート的振る舞い、それを受容せよと迫るアート的振る舞いのブルジョア性とその限界
・後半冒頭の意味不明にただ飼っているネズミを最前列の観客に撫でさせるあたりの、観客との関係を作り出そうとする戦術、とその巧みさ。このあたりは、アートの難解さとまったく正反対なベクトルで、ピナ・ファンを増殖させる上手な戦略になっているはず→そしてこのあたりイスにのって立ちこっちを向いて「私はっ〜」と語りかけるモー娘。ミュージカル的(と言ってぼく、見たことないんですけれど)仕掛けについては、かなり考察を必要とする問題(悪いとかいいとかじゃなく、ね)を孕んでいる気がする。

変に思うかも知れないけれど、ぼくはこれみながらずっと曽我ひとみさんがジェンキンス氏に会った時の抱擁のシーンについて、とくにそれがぼくに与えた衝撃にどれだけこのようなアートのリアリティは太刀打ち出来るのか、なんてこと、考えていた。変ですね、変ですよ。でもね、あの接吻の瞬間のぼくたちが感じたあのモヤモヤ感、それはつまり、ひとみさんを見せ物的に見てきていたぼく(たち)の罪悪感というか、反面、リアルな人間の生の暴力的な強力さというかそういうものがない交ぜになって生まれた感覚だと思うのだけれど、あのシーン以上にぼくが今受けとめたい(感じたい)ものがあるのか、と思わされる。シアトリカルなリアリティなんて、もう北朝鮮拉致問題とかの異常な現実に比べたら、なんてことないよなって思ってしまう。こんなの、単なる知的遊戯だよなって。


黒沢美香&ダンサーズ『ダンス☆ショー』(@麻布die pratze)
去年の一月に見た感動を再び、なんて言う懐古的な期待は黒沢美香には不要アンド無意味、なのでした。チャーリーエンジェルズが「2」とかになると映画を駆動させる「エンジン」がターボ付きになっちゃうみたいな、ターボが付いてました。堀江君が参加したことで、場所がよりはっきりと混沌化した。いや混沌というよりも、明らかに別のフォントというか、違う幅の線が描き混まれているというか、簡単に言うとバラエティが一層豊かになったということなのだけれど、単に一色増えたということ以上の何かがあった気がした。
「ショー」ができるということは、なんとすばらしいことだろう。もう少し人びとはこの点で黒沢美香に嫉妬するべきだと思う。「ショー」は要するに面白いか面白くないかへの賭けの場であって、「アートとしての意義が、、、」「深い精神性が描かれ、、、」なんてエクスキューズ(言い訳)なんて、無用アンド無意味なわけだ。そして、そこに置かれているのが、ダンスという掛札だったりするのだから、ダンスファンはここにきてここに堂々とベットするのでなきゃイカン、とちょっと盛り上がりすぎてしまうのだった。
すばらしい瞬間はいくつもあったのだが、「ぬく」「すかす」瞬間の魅力は何より特筆すべきところだろう。端的なのは「ララ」の群舞で突然ひとりががくっと崩れ倒れる、また別の誰かが、ああ次々と、、、というあれは、延ばした線が何かの拍子に乱れるあるいは逸脱する方向に曲がっておれてしまう、そんなブレの瞬間。笑いとダンスとが交差する瞬間がここにある。べつに笑えるダンス狙ったわけじゃ全然なくて、ダンスの弁証法のスキにこんな笑いが隠れていることを知っている達人の、ちょっとした妙技披露と言ったところ、か。ああ、上手く書けない。ともかく感動しました。やっぱり、コンテンポラリーダンス、これでいいじゃんがぼくの結論でした(一年半前と同じ!)。


以下プログラム↓
第一部 1sing 2飛び出す青春 3ララ 4回転 5クワイ河マーチ 6Borelo 7「非常に幸福な距離は太陽の方向へ疾駆する」より抜粋 8mode’n dance 9sing 第二部 1jazzzzz dance 〜 ”eve and/or eve −egg−”より抜粋 



□0715(Thu)


「「さあ、おいでよ」と僕は言った。「踊ろうじゃないか」。フィーピーがまだほんの小さいとき、僕は踊りなんかを教えてやったんだ。すごくダンスの才能がある子なんだ。つまりさ、教えたといってもほんの初歩のところをいくつか教えただけで、あとはほとんど自分ひとりで身につけちまったわけさ。ほんとの踊り方ってのは教えられるものじゃないんだよね。」
「でもとにかく、フィービーと踊るのって、ちょっと普通とは違うんだ。彼女は文句なしに踊れるんだよ。君がどんなことをやっても、それにすっとついてこられる。」
(サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』村上春樹訳)

中学二年の夏休みに、ぼくはこれを(もちその時は野崎孝訳)のめり込むようにして読んで、その後しばらくの間は、カバンの中に常に所持して、しかもそらで物語が言えるくらい暗唱出来るくらい覚えていた。ときどき、この本にはダンスの場面が出てくる。そんなこと、いま読み返してみるまで忘れていたけれども、サリンジャーの書くダンスの場面によって、ぼくのダンス観というか、ダンスの魅力的な情景というか、ダンスのもつ人生の意義というようなものが(大げさ!)、育まれていったように思う。例えば、「ほんとの踊り方ってのは教えられるものじゃないんだよね」なんてくだりの、一種のピュアネスは、ぼくのダンスの位置づけを決めた言葉のような気がする(野崎訳では、どんな風に書かれてあったろう)。すべての『ライ麦畑』ファンと同じく、フィービーのことが好きだった、ぼく。魅力的で、主人公にとって、喪失しつつあるがこれこそ喪失したくないと強烈に願っている(しかし睡魔のようにそこから遠ざかってしまう)対象であるフィービーのもっとも彼女の姿が造形出来る場面のひとつだろう。
それにしても、村上訳はまったくダメだ。要するに本気でないのだ。「踊ろうじゃないか」なんて訳すところは、まったく「身」が入っていない気がする、言葉に。野崎訳のすばらしいところは、大人の包容力をもって子供の心情をなるべくこわさず包み込もうとしたところだろう。多分村上訳よりも距離があるのかも知れない、だが、その必要な距離が二つの関係を美しく結んでもいるのである。野崎の目線こそ、「キャッチャー」であって、サリンジャーというよりもむしろ野崎にぼくたちは優しくつかまえられていたのかも知れない、あのとき。

あ、なんでサリンジャーが突然この日記に現れたかというと、このようなダンスの話は、本筋ではなく、あるクラスメートがついつい発言をすると脇道に逸れてしまって他のクラスメートから「脱線!」と声を上げられてしまう、と言うこの本の箇所を探していたのだった(そしてまさにぼくが「脱線!」してしまいました)。
話が脱線すること、そのことをクラスメートとは反対に積極的に評価する主人公のことを思いだしていた(どんなことを具体的に言っていたのか、まだ当該箇所が見つからないので不明)。脱線とは、いわば直線性の哲学・美学に対するアンチテーゼであり、無視であり、すかしっぺであるということ、最近、ホガースの蛇状曲線論を再考している内に、「文学における蛇状曲線」という考え方に出会ってしまい、ぼくの「脱線」論のルーツは、、、そうそうそう、サリンジャーでした、と読み返していたわけです。

ホガースの『美の分析』(1753)で展開された線の美学は、文学にまで波及した、そのもっとも端的な例は、スターン『トリストラム・シャンディ』にある、と言うことが分かった。と、いうか、こういうこと、教えてくれるの、いつも高山宏先生だったりするのですよね、いつも、たいてい。あの、ほんと、尊敬してます、ます。例えば、『アリス狩り』の「肉体性の積分戦争」には、そこらへんの関係が、すなわち「スターン=ホガース」が、綿密にしかし読み物として凄く面白く記載されている。すばらしい。
で、スターンは、要するに機知のひと、ホガースは、すなわち優美のひと、この二人が形式主義(線の美学)のなかで重なり合う。それは、ぼくがばくぜんと考えている優美×機知、あるいはダンス×笑いをほとんど実証してくれそうな、連関だ。ぞぞぞぞっと背筋が反応する読書。ほんとに「無知の涙」なのだけれど、この本の中にはところどころ線が図版として出てきて、それがときに自由な蛇状曲線だったり、ナスカの地上絵、なに描いてんのかわかんない幾何学バージョンみたいな線だったり、する。これまでの話の筋道を線にしたらこうだった、とか言って。そこでは、曲線が「脱線」なのであって、線がぐちゃぐちゃになればなるほど脱線の連続だったことになる。脱線は、別の筋道への逸脱=連結なのであって、そのウイットが同時に曲線=優美でもあることの、妙。このあたりをついて、スターンを「肉体性の文学」と呼ぶあたりの高山先生の卓抜さ。すばらしい。

例えば、こんな線がある巻のルートとして描かれてたりする。



□0712(Mon)


久しぶりに帰省する。今年の初めに塾を廃業してしまったので、純然たる帰省であり、遊びである。今回は選挙に行くことも兼ねていた(選挙行きました?)。




まず一日目(10日)

一時頃に実家に到着すると、早速車で海へ。天気予報は50%でも、全然天気いいじゃん!こういう間違い大歓迎!と走ること五分で九十九里へ。まだ夏休み前だって言うのにすでに盛り上がるビーチ。砂の城とか砂のラグーンとか砂のプッチンプリンとかがそこかしこに出来ている。なぜか海に行くと解放された気になる。この「気になる」が大事で、人間界でのいろいろなことどもなど自然はまったく構うことなく、ドカーンと時の移ろいをダイナミックに繰り返していて、そこにはドラマはなくても、ドラマチック。どんどん、気(分)が乗ってくるのであります。そしてぐんぐん南下。勝浦の砂浜や漁港を過ぎたあたりで、ターンレフト、海へと急カーヴ。鵜原理想郷のあるあたりでブレーキ。すると、そこのビーチはこれまでの房総海岸にはあり得ない美しいエメラルドグリーンの波が広がったスペシャル・シーナリー。きれいだなーなーなー。といつの間にか自然対わたしの相互貫入がはじまる。呼吸が景色を体内に出し入れするみたいになる。飲んで吐いて。すっかり体内に海が詰まったところで、鵜原の岬にGO!これがまたヘヴンリーな世界なのだった。トンビがぐるぐる円を描く。彼らの見る海を思ってみる。たしかに予報は当たってた、ちょっと降り出したぞ。海は空との境界をひたすらぼかしていて、柔らかい青い空間が、ジェームズ・タレル的視覚攪乱だったりする、でも心地いいヴァージョンの攪乱、ね。

そこから戻って一宮のあたり、雀島周辺(超穴場秘密のスポット)に来ると世界はもう雨。ならば、兄の元へ。

今日の宿は兄貴宅。しばらくバリ話で盛り上がり、酔って眠い頃に佐野元春『VISITORS』話でさらに盛り上がって。ねる。


二日目(11日)

八時頃、こすりこすり起きるとカルビもこすりこすりしている、目。カルビは兄貴宅に二週間前から来ている僕たちの先輩小ネコ。先輩は先輩らしくこっちかんでくるファイト好きのオスネコ。しこたまかわいがり、むこうもくらくらするほど遊ぶ。

さて、兄貴宅を後にしたら、おもひでコース。東金名物まっくろなスープで名をはせたスタミナ系「ぐぅラーメン」へ。あんまりおジョ品なラーメン屋ではないので、恥ずかしいのですが(タマネギのみじん切りなんて、切れてなくて短冊状のまま入ってたりするし)、大好き、なので食らう。うまい。そして懐かしい。

さあ、今日も天気予報はずれのいい天気だ。選挙もすませたし、再海!



昨日は雨だった雀島あたりの砂浜で泳ごうかって、チベタヒ!まだ夏は海水にまで至らず。冷蔵庫で泳ぐような気分になりそうだったので、しばらく浜でボーットに賛成。ちょっと五分車を走らせると、岬に駆け上がる通路があるので、そこまで走らせ、ちょっと山を登り岬へ。ここはいつきても天狗がいるみたいなところだ。少なくとも人間の住むようなところじゃない。世界が淡くなる、あれっ、今日も天気予報後半戦で当たり始めた、スコールのような雨が風に運ばれおちてくる。どんどん淡くなる。世界が遠ざかる。空気が濃密になる。記憶が逆なでされる。明るすぎて目が暗くなる、なる、なる。



「SEASONG」という、「もう人生サーフィンがあればなんもいらない」って気分で流れたきたサーファーたちが仲良く楽しそうに経営しているカフェに行く。ラヴァーズ・ロックがずっと流れていて、なんで海とレゲエのリズムは相性がいいのかなんて、ぶつぶつと結論のでないこと考えてみたり、クーラーもないのに、オープンな場所なのに、クールないい風が吹いてきて、ボケーと気持ちよくなってみたり。あと、「ニュー白子」というホテルの露天風呂に行って、旅気分を一層あおり立ててみたり。ちなみに露天に流れるBGMは「マツケンサンバ」。



□0707(Wed)


ピナ・バウシュ ヴッパタール舞踊団『天地Tenchi』を見た
(@さいたま彩の国芸術劇場大ホール)。
会場に向かう人びとの熱気が違う。自然にそう感じる。そう感じた瞬間「ああ、ピナ・バウシュの公演にきて居るんだ」と思う。ダンスを見るとか、公演に行くとか、そういうことよりもなによりも、「ピナに会いに行く」という気分。観客の側がもう、その気分でスタンバッている。
この「会いに行く」という感じは、ぼくが最近書いている「会話の技術」のことを考えさせる。今回何よりもこの点で考えたのは、ダンサーがことあるごとにこちらに顔を向け時には笑いかけ、時にはあわてて靴を手にした状態で駆け寄ると観客に「いびきかけますか?」と話しかけ、時には「わー」叫びながらカブとかネギとかもって駆けてくる、そんなときに結ばれる観客との関係性だ。ダンサーたちが日本語を話すだけでうれしくて笑っちゃう観客の「弛み」は、このようなダンサーたちのあっけらかんとしたこっちへの様々な形での贈与に促されてのことだろう。会話の戦略がまったく見事なのだ。というかそればっかり。今回ソロのダンスが多いのだけれど、それがしばらく2、3分続いて「退屈かな」と思わせる間際に変なコントが始まる。それをみるともう自覚的にそんなことやっている気がする、そしてそれはピナが考案したコンテンポラリーダンスをうまく見せる技術、という気がしてくる。ダンス−演芸−ダンス−演芸、といった感じ。
そこで何かが生まれるわけではない。つまり、具体的な会話の内容などまったくと言っていいほどない。例えば、今回の公演は「日本」をテーマにしている。レジデンツしてその間にリサーチされた日本がところどころでてくる。でもそれは恐ろしく典型的なありふれた別に日本に来なきゃ分からないと言うようなものとはおそよ異なる「イメージの日本」。だから、「ピナが日本についてこういう風に考えているんだあ」などという彼女の批評性を受けとめる余地はほとんどと言ってない。だから会いに来たドイツのおばちゃんとなかよくするのがこの公演、というべき気がますますする。
でも、これは単なる批判ではない。もしこの振付家がそれでこの公演成立する、と考えたのだとすれば、そのしたたかなピンポイント的な戦略にうならされる。振付家というか興行屋としてピナにちょっとやられた感が起きる。なにせ今回のポスター、ちょっとピントの悪いストロボで変につやつやしたピナ・バウシュのアップだもんね。これで成り立っちゃうと言うか、「これで行こう」と考える人びとの腹には、これが「ダンス公演」と言うよりは、「ピナ講演」と考えようとしているフシがうかがえる。

ところで、ぼくは前から四列目、の右端に坐っていたのだけれど(7/7)、その前の列に坐っていたのが、坂井真紀、細野晴臣、嶽本野ばら、松本隆だった(敬称略)。この男三人が休憩前に「いびきかけますか」と促されて、「グーグースースー」とやってた。妙に感動してしまったが、後半このうちの一名は本当に寝てしまっていた(でも、寝たくなるよね、高い金払った分ぼくは起きてましたがんばって、ええ)。



□0705(Mon)


三回目のトヨタが終わった。ふーっ(ため息、、、)。
結果は、オーディエンス賞に高野さんと常樂さん。で、振付家賞は東野さんに。
なるべくはやく、今日中にでも、個人的な感想などを記そうと思ってます。が、なにせタイトなスケジュールで進んでいった日々、昨日の昼には手塚夏子の久しぶりの公演もあったし。それについてもなるべく直ぐにでも、コメント書いておきたいです。
これから、トヨタのランスルーショーイング公演見に行ってきます。

で、帰ってきました。ふーっふ(ため息、、、)。
ランスルーショーイング公演。

上村なおか『沈める珠(extra)』
即興のひとではあるが動きはごくごく丁寧に仕組まれている。ただ「即興」ということは、その仕組まれた部分を裏切りながら進む、ということでもあるだろう。その二つの方向の緊張のなかに時間は進む。でも、「はっ」とする瞬間がないのはどうしようか。タイトルというか、主題の置き方がもっと巧みであれば、いいのでは。

岡田智代『ルビィ』
赤い長めのスカートに、黒い服と帽子、ゆっくりとイスをひきずってあるく。貴婦人ふう。ふと斜め上に目をやる、とこの人の場合、不思議と観客と自分との間にとりたい距離が成立してくる。そういうところが上手いというか、いいなと思ってしまう。イスの上に立つとアバ「ダンシングクイーン」が流れ、内に音が溜まると貴婦人風情に合わないダンスがもれてくる。激しく強くのってくると、落っこちそうになるけれど、やめらんない。落ちそう落ちそう、でもそれでもおどりがとまらない。と、落ちる。でもやっぱりやめられない。きっと、踊りたいという衝動とそれが落ちそうなところまで高まっちゃうこととがもうちょっとダイナミックレンジになっていれば、もっと「きた」かも知れないけれど、まあそれは、それ。ハワイアンをバックにイスの一本足を軸にゆっくり周りをまわる。イスにすわり、腰がずり落ちてゆく、ゆっくりと、その時のため息「あー」が、ためてためてどうにかそれを肉体の中で踊ることに仕向けていたものが、最後にまだのこっていてびゅーと抜けた、そんな感じだった。ごく、ミニマムな動き、ミニマルの積み重ね、それがすべてダンスに捧げられている。そのことに、やっぱどうしても感動してしまうのだった。このようなデリケートな作品こそ、アワードで暴れて欲しいもの、と本気で思った。

木野彩子『In the room』
途中でひざに故障が起きたらしい、不十分な公演であろう、本人にとって。なので割愛。

島崎麻美『Beak』
ベース弾く男と長身の島崎との二人。きっとダンサーとしての能力がある人というのはこのようなひとを指すのだろう、と思わせる。凄くいい楽器、でありプレイヤー。その人がいいコレオグラファーであるとは限らないし、そうでなければならないと言うこともないだろう。ハッとする瞬間に恵まれなかった。

三好絵美『Sinking float』
年末の「踊りに行くぜ!!」東京編で見た作品。前回よりも技巧的なところが一層研ぎ澄まされている。ミミックというか、魚のような軟体動物のような動きを足(脚)や手、指を用いて模倣、それをごくごく繊細に作り上げる。その描写性はなかなか見せる。でも残念なのは、それ故、「上手い!」という形容詞の範囲に見る側の判断を留めてしまいがちのところだ。「点数つける」様なジャンル例えば体操のようなジャンルであれば、ここにとどまって高まろうとするだろうが、それを目指しているわけではなかろう。体操とダンスはどこが違うか。ぼくは、観客との何かしらオリジナルな関係性を作ろうとするかどうか、がその境界線として考えられるのではないかと、考える。三好は観客と何を作りたいのか。そう観客との関係性が曖昧なのが、一番気になった。例えばそのオレンジのタンクトップとショートパンツは(「寝起き姿」というような感じもあるが)、その衣装で観客とのどう言った関係を結ぶつもりなのか。最近、ダンスは会話と考えているのでその点、ダンスの技術と言うよりも、ダンスを相手に伝える技術について考察した途端にまったく新しいステージが始まる気がする。

リナ・リッチ『in the cell』
大きな事務机に、キャスター付きの丸イスがアイテム。それをつかって四人のダンサーが縦横無尽に動く、交差する。ぼくはそれをただ傍観してしまった。何か簡単に体が動いてしまっているように思えた。動く理由に関心なし、で、あるテーマというか課題に身体が答えるという、ただそのような身体があった、と言う感じだった。

波乱含みの今年のトヨタようやく終わった。三日で(手塚含め)16作品を見た、のか!

ところで。ショーイング公演のあと、しばらく出演された振付家、ダンサーの方々と話をしていた。そのなかで、不意に「ダンス=会話」の話題をあるダンサーに申し上げたところ、彼女はそのことを「ドア」のたとえで応えてくださった。「ドア」か、面白い言い方だな。開き加減、閉じ加減で、二つの側の関係がさまざまかわる。し、そもそもどんなドアなのか、フスマかもしれないし、ただの穴かもしれないし。自閉的なダンサーがいる、でも自閉することで見る側に集中を誘うダンサーもいる。その開き加減のグラデーションの中のどこで自分が見る側との関係を作ろうとしているのか。この、「ドア」という表現は、収穫だった。



□0704(Sun)


手塚夏子の妊娠記念公演を見に行く(@吉祥寺)。


『出産衝動』
奥から登場。おなかのあたりに、銀の枠を付けた紙芝居的なしかし白紙の紙を貼り付けて。まずそれはスクリーンとなりアニメーションが映写される。「ペニス」に「射精」。そして「ふくれた腹の運動」。ベタだ。さてその紙の上に手にしたクレヨンでなにやら線を引いていく。右手は線を引き、左手はロール化した紙を引き出していく。渦を巻きながらしかし流されていく線、そこには「衝動」という名の絵がなるほど描かれていく。ただし、それは衝動的ではない。あくまでも手はしっかりとクレヨンを掴んでいるし、左手はときに紙を引きちぎったりはしても抑えきれぬ衝動を抱えているようには見えない。衝動に委ねるほどまで身に腹に力が入らぬか。「出産」という出来事にうろたえ、またその動揺をそのまま見せる一人の表現者のドキュメントではあった。が、それは手塚らしいいつものトライアルの高さまで至っていなかった。


『私的解剖実験−4』
三人のダンサー(ダンサーというか動き屋、振り屋?)が椅子に座り、コンテクストのまったく見えない動きをただ反復してゆく。身振りの断片その細部が連ねられていく。ひとつひとつの動きの中に反応する、例えば「あっこういう目の動き方好きだな」とか。そうして身振りの断片は記憶の断片を揺り起こし、この身勝手な観客の記憶の想起によって、動きはただならぬ関係を観客と結んでいく。演劇に似ている、というか、演劇にはこのような振り付け的な要素が実はふんだんにあって、そのディテールにこだわって注視してそこだけ抽出するとこんなことになる、ということなのだろうか。以前チェルフィッチュを見た時の印象に似ているな、そういえばこれ。演劇の「表情」にこだわるチェルフィッチュの側面に。

意味あるいは記憶に関わろうとする「手塚の新局面」と言って期待してみたい。



トヨタの二日目

東野(ひがしの)祥子『ALARM!』
関西のダンサー、振付家がもつ共通点に、ダンスを世界の描写に使う、というやり方があるように思う。そこでは、ひとつひとつのダンスは「何々の表現」というところに帰着する。何かをそのダンスが表現しているという図式は成立するので、評価はしやすい。テーマ性がある、わけだ。でも、そこにあるダンスにぼくは何も感じなかった。ドキドキしなかった。テーマなんてなくていい、ぼくにとって、ダンスを見に行くことは新聞を読むことと違うのであって、ただドキドキしたいがための行為なのだ。何かの事件にダンスが迫る、とか何とかではなく、ダンスが事件であって欲しい。でも、「テーマ性」というほどのテーマの練り込みをまったく感じなかったのが、もっともせつない。


新鋪美佳・福留麻里『北北東に進む方法(2004)』
もう何度見たことか。そのたびに前よりいいなとおもう。けれども、この人たちの背丈にぴったりと来るこの作品は、この人たちの限界を示しているような気もしてそれがいつも不満。二人という関係は、「逃げる/追う」とかの対でころがるとそれだけでリズミカルだし、シンメトリックな図式はときにウィットを感じさせもする。でもさ、そこからずれて「逃げる/追う」以外の不可思議な対のなかにどんどん転んでいくのもいいのではないか。いや、確かに細部でいろんなことやってて、そのやんちゃで聡明な少女の身体性は十分魅力的。でもそこにあるのはひとつの限界でもあって、そろそろほうほう堂がほうほう堂自身を裏切っていくような新作に取り組む時期なのではないだろうか(なんか言い方が「オジサン評論家」(のイメージ、あくまでも)じみているなー)。


常樂泰『範ちゃんへ』
この作品三回目。今回一番よかった。なにより常樂の表情がいい。まじめととぼけの間の、ダンスと演芸の間の、無意識と意識の間の、微妙なラインにあって、それでもダンスの枠にきちんととどまっていようとしている表情。この表情にディレクト(方向付け)されて、観客はリラックス状態の泣き笑いをすることが出来る。「パチン」と肉が肉をぶつ。こんなことに何かしら未知のダンスが隠れているなんて誰が思おうか。でも、ぼくは昔、ピストルの音はダンスか?って考えたことがある。「ドン」となると体は、予期せぬ轟音に不意にぴくんと痙攣してしまう。頭ではなくて体が自ずと反応している瞬間をダンスがねらっているのだったら、「ドン」だってダンスでは、、、。「パチン」「ペチン」もなにやら切ない共感を呼んで、別に「ユーモア賞」とか、そういう次元ではなく、きちんと、ダンスとして観客に評価され「オーディエンス賞」になったのだと思います(思いたい!)。


大橋可也(かくや)『あなたがここにいてほしい』
ガスカンクの音が好きなので、そこに頭が漂う。過剰な状態が何を起こすか。いや「何」かが起こされるということよりも、起こされようとしている、ただスタンドバイ状態に向かって疾駆する。さてこれがコレオグラフィーとして何か。この何もやはりまだ未解決。でも、未解決状態になってしまうものがノミネートされていてこそ、このアワードの意義になるはずではある。



□0703(Sat)


康本雅子『脱心講座〜昆虫編〜』
大学のお仕事関係で遅刻してしまい(ただし、世田谷線に乗って五分で三軒茶屋というキャンパスの立地が幸いし)、この作品についてはビデオの途中から、しかもロビーのモニターで見ると言うことになった(遅刻組のためにこんな用意がされているなんて、感謝)。前回のヨコハマに比べるとそれほどでもなかったというのが周りの評判。それはともかく、今回、ぼくは康本の丁寧な作品作りにかなりうなった。リズムとか間とかを吸い寄せよう、なるべくいつでも呼び寄せるようにしつらえられた振り。あと、リズムの取り方が結構複雑で、複雑なんだけれど、「(リズムを)取っている」ことがこっちにも感じられるから、突発的な動きがリズミカルな「ドンピシャ」ないし「(いい感じの)はずれ」にきちんと感じられるのだ。「センスがある」「勘が鋭い」というほめ言葉で言い片づけて、それを技術として評価しようとしないのは、ちょっともったいないのでは(無冠は残念)。


矢内原美邦『ノート』

事情アリ、後日別枠にて。


高野美和子『匿名トリップ』
三回目だろうか。この作品を見るのは。プログラムのコメントに「オブセッション」とあり、今回のヴァージョンでは実際かなりその線で読み込めてしまう。このことが、逆に作品を細くしてしまっているようでぼくは懐疑的。ああ「ゴス系ね、それ好きっぽい」で判断されては、彼らが(特に高野が)すごくこだわって洗練させている、デリケートで美しく細く切れ味のある線の魅力が看過されてしまいそうだから、それちょっともったいないから。まあ要は、ぼくはこの人のことがとても好きなわけで、とくに今回後半あたり、膝にカツラを被せてしゃがんだ状態で(しかも自分もカツラ被っていて)一人ふた頭を踊ったところなんかは、グロテスクかつデリケートなので、吸い込まれ吸い寄せられながら拒んでしまいたいというような、二つの相反する欲望の交差に、すっかり耽溺させられてしまった。この景色をどこに広げていくとさらにいっそう魅力的な展開が成されることになるのか、さて今後は、カテゴライズ簡単に出来ないような微妙な怪しさを、その微細な表現の可能な身体をもって見せて欲しい、是非(ぼくは個人的には昭和二三十年代の日本映画の情緒と相性がいいのではと思ったりしています、着物とか浴衣とかで、ズーンと深く怪しいものをやる、とか?)。


可世木祐子『件』
ぼくは基本的には、この人は何か誤解や勘違いをしている、と思っています。例えば「舞踏」に関してとか。だからぼくだったら、予選の段階で、本選出場者のなかに選ばないと思う。もしぼくのような考えに反対して、「本当の舞踏」とかいう言葉が無意味なのであって、解釈するひとそれぞれに平等に委ねられているのではないかというのであれば、この場は、たんなるセンセーショナル主義に陥ってしまう方向にゆくだろう。センセーショナル的ではなく、(「ワッ」と驚かしではなく)、やはりトヨタはきちんとダンスのアイデアを競うという場であって欲しい。「件」ってタイトル人と牛だったんだー(と終わった後気づく)。




□0701(Thu)


先月の29日、JCDNが企画する「踊りに行くぜ!!」の予選会があった(@浅草、アサヒスクエアA)。
予選結果については、ぼくがあえて言及することではないだろう。JCDNのHPに発表されるかも知れないので、それをご参照下さい。ちなみにぼくはただの傍観者、審査員ではありません。

予選会というのは、完成作と言うよりはまだ「つぼみ」の状態の作が審査の俎上にのせられるものだ。「つぼみ」を見る場合は、「あとここがこうなれば、、、」のような+になる可能性の試行錯誤を頭のなかでついついしてしまう、審査員でなくても。そんな眼差しから考えた幾つかのこと。

ダンス公演って「会話」に近いなあ、と言うこと。ダンサー同士の会話と言うこともあるのだけれど、ダンサー側と見る側にも「会話」の要素がある、多分に。あたかも水槽の魚のごとく、見る側から距離をとって作品然としたものをつくろうとしても、見る方は、生身の人間がそこにいてこっちに向けて何かをやっているという事実を無視出来るものではない。コンタクト・インプロってあるけれど、このことは、本当は観客と舞台側のこととしても積極的に考えなきゃ作品として不十分なままにとどまるだろう。

この点、あるダンス批評の方が、ぽつりとある作品について「見ていて恥ずかしくなる、、、」と呟いたのは印象的だった。ぼくもちょっとそう思った。やっていることは、ぼくの趣味にミートしていて、描かれる線は保守的であれ独自性があり、「つぼみ」としては悪くない。ただ予選という条件のためにフラットなままになっていた照明の中では、ちょっとデリケートなところが消えてしまい、むしろ見せたくないところが露骨になってしまった。ということはあろう。でもしばらくたって、この人たちの観客との距離のとり具合への気配りが不十分だったのが、実は「恥ずかしい」気持ちの真の原因だったのではないかと思い始めた。

ひとつの価値観を相手に押しつける場合に、それをどのような距離においてするか、会話であれば自然に考えることだろう、ただしそれはダンスにも当てはまる、いや当てはまると言うよりも本質的に反省しておかなければならないこと、のような気がする。

古典的なフォームでのダンス(いわゆるバレエなど)は、いわばルネサンスの遠近法のように、距離感が予め設定されているのではないか、見る側はあえて距離のことを問うまでもなく、その設定された距離に自然に自分をチューニングすればもう、オッケー。

でも、そうではないダンスは、いわばモダニズム以後の美術のように、それぞれのオリジナルな距離設定をその都度見る側に伝えながら見せる必要が起きる。それはいわば「自分はあなたにはこう見えるかも知れませんが」と言っているかのように、ダンスの側にこっちとの距離設定があらかじめ指定されてある、ということだろうそもそもにして。これが曖昧だと見る側はどこに「坐れ」ばいいのか、分からない。「恥ずかしい」というよりも、「居たたまれない気持ち」といえば、この感覚をよりよく説明出来るかも知れない。「居たたまれない」のである、ダメなダンスは、何よりも。ダンスのテクニックがどうこう、という以上に、このいたたまれなさを回避する方法をもっているかどうか、それが重要なのだ。

で、
その回避の方法をぼくは二つ考えている。

ひとつは徹底的に観客の側が存在しないかのように自分の没頭することである。暗黒舞踏が試みた方法だと考える。室伏の「ぼやき」が可笑しいのは、この没頭していたはずの男がふいにそんなことまったくなかったかのようにしゃべり出すからだろう。この反転が可笑しく、また批評的なのだ。手塚の方法にもこういうところがある。

もうひとつは、徹底的に観客と舞台側の距離を活性化させてしまうことである。路上の大道芸はひたすらこの距離感を縮めることに集中する。珍しいキノコ舞踊団がやろうとしていることにも該当するだろう。実は、ぼくはこの方向がこれまで無視され続けてきたと思うのだ。そしてこの方向こそ、今後求められていくところだとも思っている。

ああ、走り書きしてしまいましたが、「ダンスは会話だ」、どう思います?