日記バリのことダンスの経験ダンスの思考/哲学と美学/BBSAbout/Link/Top
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(200408)
01 花火/02 小林嵯峨『アウラヒステリカ/エロ』/06 「ダンスがみたい!新人シリーズ」の森下真樹、笹嶋麻由、関かおり&木村美那子/07 「ダンスがみたい!新人シリーズ」の山賀ざくろ、荒木志水、ONdO/09 『木村覚格言集』より/14 アテネ開幕/15 お盆/16 お盆/17 モブ・ノリオ『介護入門』/21 ニブロール『NOTES』 レニー・ハリス・ピュアムーブメント『REPERTORY』と 『オールジャパンストリートダンスサミット』/23 ユーモアinダンス/24 Odorujou/25 『誰も知らない』/27 BATIK『Shoku』/30 Ko & Edge Co.の『美貌の青空』 Co. 山田うん『ハイカブリ』 枇杷系『愛情十八番』

 *ダンスは赤字


□0830(Mon)


芸術見本市にて、Ko & Edge Co.の『美貌の青空』など見た。
Co. 山田うん『ハイカブリ』、枇杷系『愛情十八番』をも見た。「見本市(Market)」というような場所でテンションある作品づくりをするのは大層大変なことだろう。実際、三者ともあまりヒット感がなかった。残念。破裂を作る。「すっぽ抜ける」瞬間が生まれる、それは希有なことだとはいえ必要な、仕掛けるべきことだろう。構築は目標ではない、構築した上で、「そら何やっか」が見てみたい、という欲張りな観客のひとりとして。



□0828(Sat)


上杉貢代・黒沢美香『東京ヴィナス』を見た(@神楽坂die pratze)。



□0827(Fri)


告知です(重要!)。
「ダンスがみたい!6」シリーズ内のじゅんじゅん『Solo Suites』(8/31−9/1)は本人の腰痛悪化のため、中止になりました。ぼくはアフタートーク司会をするはずだったので、責任があるとも思い、ここに報告します。悪しからず(見たかった?うんぼくも見たかった、、、)。

さて、
BATIK『SHOKU』をみた(@シアタートラム)。
見ながら「ああこれは、、、」と思い出したのは、ぼくが中学生のころはやった「催眠術遊び」。息を全部吐き出した胸をぐーっと強力に押されると、呼吸不全になって一瞬気を失う。この遊びを、よく昼休みの体育館でやっていた。あれあれ。もっているからだをオモチャにして「こいつどんなんなってるの?」と無邪気になってやったあれ。あれだ、まず、こいつは、と思う。
このばかばかしい「やんちゃ」には、かつていた「父」が居ない。あるいは好奇の目で見る「おじさん」も居ない(ぼくには『花は流れて〜』作品は作品づくりにおいて「おじさんコンシャス」が高すぎな気がしたんですよね〜)。居るのは「母」。バレエのレッスンで周りのコたちがハーハー努力している(BATIK、黒田以外の)中で、さぼって自分の妄想の中に没入している女の子(黒田)。実際、後ろで「くるっと一回りしてはそのままはたっと倒れる」を延々繰り返すダンサーたちとは対照的に、ただ自分のしたい踊りを存分に踊っている黒田というシーンがあって、これが大層残酷、痛快で最高だったのだが、後ろ行ってさらにダンサーたちにちょっかい出したかと思えば、くるっと振り返って(凄い勢いで)こっちに駆け寄ってくると突然つばを「にょー」と垂らして床のヒールにこぼす。ここがひとつのピーク。しかし、それはその後、「母的」な存在があらわれて黒田に向き合い、頭をパチッとはたくことで仇討ちされることに(これまた痛快)。こうして「母−娘」の構造はあらわれる、ものの、直ぐにギャハハ笑いかけて、「このひとばっかじゃなーい」と言わんばかりに先のヒールでその「母的」の顔をいじくる、のだった。
やるだけやった、という痛快感が炸裂。二年ほど前にはじめてみたこの作品がここまで昇華されるとは、という感動。あとはもう、「作品−黒田」の構造において、バカをやる姿が見たいものだ。多分、この願い、すぐに叶うのではないだろうか。



□0825(Wed)


是枝裕和『誰も知らない』を見た(@銀座、シネカノン)。
予告編を見ている時から、そこがきっといいのだろうと思っていたところにやはりぐっときた。彼らがベランダで植物を育てているところ。ずっと母親から外に出てはいけないといわれそれに従ってきた四人兄弟が、緊張の糸をフト緩めて街にこぼれていく。そのなかで、アスファルトの隙間から伸びている赤い花をつけた雑草に引き寄せられた四人は、土を買い物ビニールに詰め、花から種を取り、カップ麺の容器で育てることにする。そのあたりから、彼らの存在がきわだって植物的であるように見えてくる。自分から移動して食べ物や飲み物を奪取する動物的な存在じゃなく、土から離れることが出来ず、天候や周りの環境にあまりにも左右されてしまう、脆弱な植物的存在。ぼくは最近、自分の家のサボテンをなでてかわいがり育てている。そうしているとへたすればトゲに刺さってしまうので、「なで」というよりは指で掴んで揺するという格好なのだが、とにかくそうすることで、サボテンとコミュニケーションしている。家の中の植物なんて管理者の気分次第でどーにでもなってしまう。でも、それだからこそ、何かイイ関係になりたくもなる。そんなこんなだからだろうけれど、この四人の子どもたちの生きている様がぼくには植物的だと思えてしょうがない。栄養を枯らして、どんどん疲弊していくところに、激しい葛藤が生まれてこないので、泣こうにも泣けない(泣いている人たくさんいたけどね)。葛藤のなさにいらだちつつ(早く誰か助けたれよ)、そこで妹の死までも引き受けることになるところ、もはや「植物」としか言えない。
あと、もうひとつ思ったのは、ひとは「自分が主役の物語」を現実の中で描こうとして必死に生きているということ。例えば、母親が出ていってしまうのは、母親主役の母親の物語に、今まで生み育てた子どもたちの配役がなくなってしまったから。「別の人生を選んだ」なんて言いかたあるけど、物語から排除されたもの、選ばれなかったものの人生は、どう言ったストーリーを紡げばよいのだろう。子供にもファンタジー(思い描く自分の物語)があって、ピアノを買いたいとか、飛行機を見たいとか、友達が欲しいとか、学校に行きたいとか、その物語の成就のために日々生きていようとする。ただし、それがままならないとした上での物語はさて、どう紡げばよいのか。兄は、野球をみんなとやるという物語に溺れ、妹を失うことになる。そこら辺の現実。そうそう、オリンピックを見ていると本当にそうだなと思うのだけれど、スポーツは、この物語の奪い合いですよね。自分のサクセスストーリーをみんながもっていて、それを競い合う。落胆の表情は、描いていた物語と結果としての現実の落差を見事にあらわす。そうなってくると、興味は、この敗者の現実をどう生きる?という負けから続く物語に向かっていたりして、浜口京子なんてその点で金メダリストよりも株を上げたりなんてしてみたりするのだ。
でも、社会も宗教も文化もない場で生きるとはかくも苛烈なことか、と思わせる。見終わったあとすぐは、映画版『銭金』(貧乏自慢番組)じゃん!とか、笑ってみようかとも思ったけれど、そこの苛烈さにボディーブローもらわれている感じ、あとになって。



□0824(Tue)


Odorujou(Jou)『Hanabi 2004夏』を見て、司会をした。
で、そのことがあり、ユーモアinダンス二日目は見られず。ラインナップだけメモのつもりで、記す。
森下真樹『デビュタント』
スタッカートオンスタッカート『スタッカートオンスタッカートの「途中下車のタビ」』
身体表現サークル『広島回転人間』
yummydance『kNewman』



□0823(Mon)


『WE LOVE DANCE FESTIVAL』内のユーモアinダンスの企画で四組を見た。

ズンチャチャ『ラムネ』
企画タイトルに「ユーモア」とあると、笑わなきゃ笑わせなきゃとやる側見る側両者とも気負ってしまいがち、ダンスと一緒で、笑いも「笑わせてやれ」と自意識過剰になればなるほど笑えなくなる。ズンチャチャはそこにはまった気がした、残念。昨年末の「踊りに行くぜ!!」東京編で彼女たちを見て、そのときはとても良かったのに。最後の方、隣の人のスカートを掴んでひらひらさせるところは、良かった。「ひらひら」はダンスを失わずユーモアを失わず夏の退屈な感じを失わず、らしさが際立ってた、のでもっと見たかったな。

まことクラヴ『ニッポニア・ニッポン』
伝票を取り合う二人。「社交辞令」が執拗さを加速させると止まらない妙な欲望が浮き出て、ほんとは払いたいはずないことがむしろちらついたり、可笑しい。真昼の陰のような世界観は、もっともっとしっかりとしたボリュームで見たくなる。体操服姿でイカのようにジャンプしながら隣同士のズレでリズムが出てくる、そんな間で笑わせる力量を見せつけたりした。

北村成美『ラベンダー』
ぼくはこの作品好きです。明るさがその反対を際立たせている気がして、このとてつもない切なさは、実は北村作品に一貫して流れているトーンなのかも知れないっスよね。最近「植物的生命」に対して、すごく敏感になっているので、なおさら、開いて輝いてなお孤独というあり方に感じ入るものがあったりしたのでした。

チェルフィッチュ『クーラー』
後ろの席の男の人が、何をしても「ヒーッ」とかなり大きな声で笑うのが気になって、ほとんど何も考えられなくなってしまってですね、ようわからんかったです、正直。しゃべりと動きがまったく連関をもっていなくて、しかも、しゃべりも語りの「仕草」が過剰に際立つように出来てて、何重にも形式的な企みが凝らされていた。するときっと「仕草」の質がどうなっているのかと言うことにきたいが出てくるのだが、あまり、図抜けたところはなかったような、、、でも「ヒーッ」と笑っている人もいたし、、、あっ、そういうわけでよくわからんかったです、悪しからず。



□0821(Sat)


しばらくダンス行も「お盆休み」みたいに休んでましたが、さあ、今日からは、かなり立て込んできます。なにせ、今日は三本立てだったり。

まず、
ニブロール『NOTES』(@シアタートラム)を見た。
ちょうど一年前の妻有アートトリエンナーレでの『NO-TO』は凄かった。半野外の会場や雨の降る天候なども相まって「逆巻く」運動が極まっていた。そういうこと、『STUDIO VOICE』に書きました、わけなんですけど。そこでは「青春小説」と呼んでみたわけです、今作品のこと(でもそれはニブロール作品全般についてぼくが思っていることでもあります)。青春小説とは、失われていくあるいは失われてしまった自分に対する抵抗と追憶の物語という意味で、そういっています。それはネガティヴなニュアンスも込めてのことです。あれほどことを断片化し、非人間化するダンスには、濃厚に物語的なものが立ちこめている。こいつをどうするのか、ということが実はニブロールを評価するときに無視出来ない、そういう気がしてしょうがないのです。それはいわば「過剰」(ニブロールのダンスは速さや強さなど端的にそう呼ぶことが出来るでしょう)であることの理由を担うものが、ある種の物語(失った、失われた自分をめぐる物語)だとすればどうすればいいのか、といった問題です。ただし、それが今回「重く」感じられたのは、実のところ、ダンスの物語性と言うよりもダンスそのものの問題だったのかも知れない。つまり、特に前半、切れ味があまり良くない気がしたこと。また、「完璧」(アフタートークで矢内原さん自身が使った言葉なのだけれど)を目指したがために、構築のベクトルが強く、本当はそこへと向かうはずの突き抜ける感じがなかった。ここまで作り上げられるのか!という感動は激しかったが、それを見る眼差しは水槽を覗くような安心感ある傍観者であった。

で、次、
『WE LOVE DANCE FESTIVAL』で、レニー・ハリス・ピュアムーブメントの公演『REPERTORY』を見た(@パークタワーホール)。
ストリートのダンスについて、強い興味があって、でも、どこから入りこめばいいのか、よく分からないなあっと思っていた矢先、降ってきたこの企画。ほんと、すばらしい。こういうのどんどんやろうよ、って思う、コンポラの客がストリートを見る機会にもなり、また逆も然り、なんていいよね(でも、ぼくのまわりのストリートダンス系の女の子たちは、軒並み(フライヤー写真の)麿赤児みて「ギャハ」と笑いを炸裂させていたけれど!「これがユーモアダンス?」って思われてたりして!)。で、レニー・ハリス。ダンスはどこにある?、ってこういうところにあるのだ!という見本のような公演だった。特に、ヒップ・ホップのダンシーは、静止にあると思わせた。豊かな静止。ズン!と動きを止めた瞬間に僅かな微動を残す(作る)のだけれど、それは「する」より「しない」ことのほうが、ときに多く「する」ことになる好例だった。っつーか、のっちゃうんだよね、勝手にからだが。踊れる踊れない関係なく一緒に踊りたくなっちゃう。それにさりげないコミカルな身振りとか場面とかが満載で、笑うことと踊っていることとがまったく並行した、いや、ほぼ同じ出来事なのだと言うことをあらためて確認したり。簡単に言うと「スッポ抜かす」。これがどれだけ荒かったり細かかったする編み目の中で起きるか、「抜く」「抜ける」瞬間の「スコーン」が、言語レベルじゃなく体感的に受けとめられていく、っていうのがダンスの徹底的にかっこいいところであり、他のどのジャンルにも真似出来ない、いわば超越的なものと関係できる特権的な場であるのだ(で、こういうこと話そうとするとどんどん「長島語」的になってしまう、のは悪しからず!)。そうそう、今日のニブロールには、「スッポ抜ける」痛快さがなかった、なと。

そして、
同企画、『オールジャパンストリートダンスサミット』を見る(@新宿スペースゼロ)。
国内外、十組のグループの競演。でも、ほんとにこのジャンルぼく初心者でして、ひとつもグループ知りませんでした。でも、周りの子たちはキャーキャー言ってて(ほんとに「キャーキャー」言ってた誇張じゃなく)、よくダンサーたちを知っている様子。すばらしい。もうほんとダンスがいいな、という言葉はこう言うところで使うべきだと思いました。ダンスの美というのはこういうものです。マズ、そういう意味での典型知らないと!と反省混じりに思いましたね。ただ、し。間違いのないステップというのは、それが極まって精製されていけばそれだけ、正解なのだけれど、それだけに反発したくなる。モテモテの男に嫉妬混じりに、「分かってないナー」と言う気分で。これ基本、でもこの反発においてコンテンポラリーダンスはまた存在理由がある、きっと。でもそれはダンス否定したり無視したりするダンスではなく、「未知のダンス」に向かうトライアルでなきゃつまらない、のでは。



□0817(Tue)

「麻呂顔なのに、ラップもどきをやっちゃってるのが玉にキズの非常にまっとうな小説。主人公の息苦しさが良く描かれていて心に痛い。でも、朋輩にニガーなんてルビ振るのはお止めなさい。田舎臭いから。」

これは、山田詠美評。これ100%言い当ててる。今回の芥川賞受賞作、モブ・ノリオ『介護入門』。前回は若い女の子二人で、妙に盛り上がったけれど、今回のモブ誰か読みました?もう最初から拒否?最初から否定?そりゃまあ、受賞記者会見でのあの浮きまくりのダメダメ風情露呈しまくりってところで、「ありゃいかん」と一蹴されること請け合いなのだろうけれど。でも、若い女の子はオッケーで、無職の若いダメ中年はノーというのも、あまりにありふれた判断なので、がんばって読みました。それが、ね。
それが、案外真っ当、案外いい。「非常にまっとうな小説」で、もう、前回の二人の女の子と同じくらい「ピュア」(!)なメッセージが確かに「心に痛い」。で、ピュアだと言うことでこれを否定するのは乱暴だと思うのはそう。ただし凝視すると、通底することとしてあるのは「介護」という日の目の当たらない地味でダメで精神に来ること、そんな偉いことをオレはやっているのだ!という「自尊心」を、大麻やりまくっちゃう「ダメな自分」とのコントラストのなかで、語りうるものにしよう、とする作者の狙い。だから、自尊心ラインがブワーッと湧きあがってきちゃうと、ひとり語り的なナルシズムに堕ちて、だから、「はいはい、偉いですね、尊敬します」みたいな「引き」が読み手に起き始める。そこにわずかでも、クールな自嘲(自己批評)が入るとすれば、「YO」とか「朋輩ニガー」などの意味不明に突如として差し挟まれる文句。この最高にダサイ、というかわけ分かんない言葉がなければ、マジ、純正「青春メッセージ(青年の主張)」になるところを、「田舎臭い」これが、変な角度でセーブする。
ダメな人間(寝たきり老人)を介護するダメな若い中年の全然「アゲアゲ」じゃないダメな生活のなかで、生きる意味とか、先祖との繋がりとかを感じつつ、まっすぐなメッセージに純度が高まると、そこに挟まれるダメダメな「YO」。このダメさをどう評価するのか。引きこもりとか、万年フリーターとか、地方の若者とか、ダメなものにも語りうる言葉はあるのか、という問いは、いまひとつの表現上のトポスになっているとは思う。ぼくが山賀ざくろに興味をもっているのもそんなところだったりする。でも、もっとも(文学として)ダメなのは、やはり「まっとうな小説」なところ。「正しいことを語る」ということは、それ自体として意義があるけれど、それが自分の正しさを肯定することに一義的に向かってしまうのだとすれば、貧しさに繋がってしまう。ゆえにもう少し摩擦が、例えば別の介護者とコミュニケーションする場面などがあるといいと思ったり、でも、介護とはそういうことの起きないこと孤独であることだとすれば、それはよくあらわれているなと思ったり、ならばならばで、難しい袋小路の中に言葉が詰まっていくこと自体がこのような形でひとつ評価を得るってこともアリなのかも知れないと思ったりした、のだった。でも、内容も形式も貧しいことに、そんなに耐えなきゃならんのですかね、読書くらい豊かにいきたいものなのに(別に王様の放蕩が読みたいって言っているわけでは一ミリもありません、当然ですが)。

まだ、舞城『好き好き大好き超愛してる』は読んでません、が、「言葉の上っ面の風俗はほとんど瞬間的に風化してしまう」ことを心得ておくべきと諭す、『狂った果実』の都知事が、この(舞城の)タイトル「にいたっては、うんざりである」と読む前にパスしているのには、もーうんざりなのであった。



□0816(Mon)




今日は、午前中に出発して千葉の山ん中の養老渓谷へ。千葉の海バージョンは誰もが知るところかもしれないけれど、山バージョンもなかなか美しい。真夏の大多喜あたりは、道の両側の棚田の景色が、そのまんまウブド(バリ)なのでした。アジアを磨くとこのような美があらわれるってなとこなのかナー、ぐいぐい車は奥の奥へ。

で、上の写真は、「粟又の滝」。あまり鮮明ではありませんが、ごくごくなだらかな岩に清水が流れていきます(奥には沢の虫たちを探る「自由研究」四人家族が「夢中」をしています)。ウォータースライダー。入ってみると足がちべたい、「ちべたいちべたい」とはしゃぐと転びます、ってなところで、「恐る恐る」のぼくらをよそに、水着の子供があちこちで転びまくる。でも、楽しいから誰も泣いたりなんかしてなーいのでした。渓流の脇には遊歩道が出来てて、そこをゆっくり歩くと、大人の子供を連れてきた初老の大人が、地味にバーベキューしてたりして、山の気持ちよさは、子供だけのものでもカップルだけのものでもないのだという感じで、ナイスな雰囲気に包まれてたりしていたのだった。
渓谷の上には、「ビートたけし2004.7.11」のサインもあるが、基本的にはゆるーい家族経営の食事処があって入る。こういうところのラーメンはなぜかうまい。ミョウガが入っていて不思議。



山だけだとやっぱり「千葉ドライヴな気分」半減なので、あえて山くだり。勝浦海中公園に行く。ここは、浜から張り出した百メートルほどの舗道の先端から降りていくと、海中が覗ける仕組みになっている「逆水族館」(魚取ってくるんじゃなくてこっちが出向くタイプと言うこと、で)。魚元気です、なにせほとんど野生。小魚、潮の動きにただただたゆたってます。泳ぐというか流されている。「そうかそうか」と魚に人生諭されている気になってみたり。

今年もご先祖とのしばしの時を過ごし、此岸と彼岸を結ぶ謎の場所までちょうちんを乗り物にして送り、来年の再会を誓ったのだった(これを「送り盆」という)。



□0815(Sun)




お盆帰省で7月にも行った秘密の岬へ(千葉一宮付近)。夕焼けが美しくて、「すごいねー」なんて言って帰ろうかと車に乗ろうとすると、ますます世界が赤く染まりだした。赤が際立つ、珍しく凪の海に赤が映える。この自然の無意味にドラマティックなところが好きだ、とひたすら呼吸しながらこの美しきものを体内に取り込みたく思う。





□0814(Sat)


河村悟『肉体のアパリシオン−−かたちになりきれぬものの出現と消失−−』(クレリエール出版、2002)を読む。なかなかにすばらしい。
この本、『病める舞姫』を可能な限り読めるものとして読解する、という試論。若干の無理を感じさせても、それでも土方のこの奇書を読み切ってやることは、「解釈」として重要だし、純粋にそれ、読みたい。それはいわば、土方巽以外のひとが試みる「暗黒舞踏」のようなものと同じ、彼がまき散らした様々な形の蝶番を自分なりに使って物事を繋いで動かしてみること、なのである。
とはいえ、面白ければそれだけ土方巽自身の面白さが際立ってくる、実のところは。『病める舞姫』これはやっぱり文学としてかなり面白いものだ。
さて、

「舞踏とはからだに戻って嘘をつくことだ」

河村が後記のなかで引用した言葉。河村自身はそれほどこの「嘘」に粘着質的には注目していないけれど、これこそ土方!と思わせるキーワードではないか。ぼくにはこの「嘘」という言葉が、ドゥルーズのシュミラクル(偽装)に見える。反復の中の差異。見せかけること、何かになる(同一化する)のではなくその「なる」ことを引き伸ばし、なっていないこととの間に漂い続けること。しかもそれが、「からだ」という場にもどること、と連動する。あっ、でもそう考えてみれば、「かたちになろうとしてかたちになりきれず、かたちなきものに還ろうとして、かたちのかすを棄てきれずにいる」(河村)なんて言葉と触れ合ってくるな。そこでかたちのかす(身体のことだろう)が棄てられない状態について、「矢と的はかなたで出会うが、射手は脱ぎ棄てられた衣装のように、その場に<残身>を晒したままでいる」なんて比喩は、見事。河村本、やっぱりかなり面白いです。

最近、疲れて早く寝てしまうので、必然早起きになってしまっているのだけれど、そのおかげでアテネ五輪の開会式をテレビで「聞く」ことが出来た(二度寝、した)。ビョークの歌い声が明け方の川崎にこだまする、どんな服きて歌ってんの?ZZZZZZ。



□0809(Mon)


ひとつのことにかかりっきりになる(ひとつというか30−40枚の論考4−5本+500枚の長編)と、深海に沈んでいくような状態になる。現世が遠い、のである。

「日進月歩とは恐ろしい。昨日の自分を今日の自分が否定し、今日の自分は明日の自分に殺戮される運命にある、その運命に耐えること、なのだ。」(『木村覚格言集』)

などと、無邪気なほどに悲観的な気持ちになって、アスファルトに仰向けになったセミの背中のことを考えたりするの日々なのだったりする。

まあ外に行けば、ABCはもうこの世には存在せず、本を探す楽しみも薄れてしまっていたり、外も外で切ない今日この頃なのだが、、、気を取り直してさっそく浮気をして、ブックファーストで舞城王太郎『好き好き大好き超愛してる』、太田省一『社会は笑う ボケとツッコミの人間関係』、スタール夫人『ドイツ論2 文学と芸術』、山口瞳『旦那の意見』、などなどを買い込む。あと、『文藝春秋』買ったから、芥川賞批評でもして過ごすことにしよ。

と、何やら暑さにやられたような文章になってしまいましたが、
『relax』は今月も決してぼくを裏切ったりしない、で特集、Pet Soundsです。しかも、マイク・ラブのインタビュー。感動、泣けます。pet=favoriteだということで、要するに「大好きな音たち」という意味だそうです。再涙。海でも行きますかな(逃避ー)。



□0807(Sat)


「ダンスがみたい!新人シリーズ」の山賀ざくろ、荒木志水、ONdOを見た(@神楽坂die pratze)。
山賀ざくろ「続・エレガンス」
ぼくは山賀の一年ちょっと前にやった「エレガンス」についてすでに文章を書いてみたことがある。山賀作品に対するぼくの考えは、今日の公演を見た後でも基本的に変わっていない。
この人の(作品の構造として)凄い(切なくて笑っちゃう)ところは、ダンスへの愛がダンスへの抵抗であり、またその逆も真だ、というところだ。踊りというのは、どんなものであれ、基本的にポッピン(Popping)なもの、ポップなものだ。それをテキトーに無視しちゃう数多のコンテンポラリーダンス様は、アートでしゅから!と居直ることで存在価値をみずからに与えようとしているが、うるさい!そんなのガキのたわごとじゃい!としばしば思う。山賀はそんなことはまったく考えない。で、「踊りはポップ」と思っている(きっと)。そ、そうであるからこそ、そしてそうしてダンスを愛するからこそ、不相応な愛情に切なくなってしまうのである。この距離、これこそが彼のダンス(ダンスフロア)なのである。
「あなたお願いよ〜席を立たないで♪/息が出来ぬほど〜傍にいて欲しい♪」(岩崎広美の曲、何だったっけ?)と歌いながら、ゆるい、芯のない動き、あるいはバレエ崩れの動き。それは出ていってしまった、もはや傍にいない何か(誰か)へのすれ違ったままの気持ち。「思いが、転ぶ」。それが山賀のダンス。「転ぶ」ところに弾みはあるが、それはしかし「ダメじゃん」ってコケたわけで、「アゲ」じゃなく「サゲ」なのだ。「サゲ」の「ダンス」という矛盾。この矛盾の真空が山賀のダンスフロア。
すると、ね。もう物凄い重層的な弁証法的反省が起きてしまうわけで、この人にとって観客が受けることがいいのか悪いのかが、分からなくなってくるのだ。「サゲ」がサゲサゲだったら見るも無惨だし、そもそも「ダンス」なんて呼びたくありません!てことになる。じゃあでも一方で、受けることは、「サゲ」の「ダンス」が「アゲアゲ」になってしまうわけで、一面では「オッケー」ってことになるかもしれないけれど、それは他面、「サゲ」のスピリットに反するかも知れない。でも、「ダンス」が「アゲアゲ」なのは道の理なわけで、このダンスフロア=真空の真空性が気持ちをぐらぐらさせ、ぼくたちを恐れさせるのは例えばこんなときだったりする。いじめられっこは、ウケて、高校デビューで「上がり」、であるべきなのか。あるいはひたすらその「いじめられっこ性」を保ってろよ、って残酷なことを言うべきなのか。
こんなわけ分かんない悩みを突きつけてくるあたりが、もう山賀の勝利なわけで、でもほらほらだから、この人に「勝利」なんて言葉を捧げちゃうと「サゲ」が「アゲ」になっちゃう。そんで、こっちはもうもうますますわけ分かんなくなるのだけれど、そういうものこそが「コンテンポラリーダンス」なんて冠に相応しいことは事実であり、そのことだけはきっぱり(キッパリ!)と言っておきたいのである。

ONdOは観客の一人ひとりにいかにダンスというものが観念的な存在であるのかを知らしめた。「ジャズダンス」それは武富士ダンスとしてのみ見ていては理解されない、観念のダンスなのである。観念の硬直がこれほどにダンスを硬直させるのか!観念のステレオタイプがいかにダンスをデパートの包み紙のようにシンプルな装飾にするのか。その手本であった。またその点、ジャンルは違うのだろうが、荒木の作品もまたすこぶる観念のダンスだった。



□0806(Fri)


「ダンスがみたい!新人シリーズ」の森下真樹、笹嶋麻由、関かおり&木村美那子を見た(@神楽坂die pratze)。

森下の新作(「コシツ」)は一言で言えば、「感覚」に向かう作品だった。「感覚」は「生理的」などと形容するような、より肉体的な皮膚感覚的な意味、そして、実際に、皮膚に触れてくるようなそういう作品だった(「水」が素材として出てくるところとかね)。言語を拒む当たりに位置するそれを置くことからはじまる「違和感」の連鎖を、さてどう踊るか。
そうしてみると以外に恐いのは、ダンス的な言語がそれをくるみながら排除してしまうということだ。ダンスは非言語の芸術というクリシェ(古びた言い回し)は、それを自明のものとして無邪気に扱うと、そうだと確信して無闇に安易にそれに頼ると、実はダンス的な言語が語り出されていくばかりで、非言語的なものの消滅という事態がおきがちなのだ。
でもさらに言うと、そこからなのだ、という気がする。森下の狭い空間で、お茶を作ったり注いだり(それはどんどんへんてこな逸脱を繰り返すのだが)するその微妙な道具や水との関わりに起きる生理的な何かが、ダンスによってポンと持ち上げられ、同時に振り捨てられそうになっているその瞬間、ここからなのだ、という気がする。変な例えだけれど、もしダンスがパン生地だったなら、そこにあの森下が引き出そうとしているニュアンスの粒が上手く練り込められて、曰く言いがたくしかし味わい深い何かがそこにはじまるかもしれない。ブレンド。そう考えると問うべきはやはり「ダンス」の部分なのだ、と思う。要するに身体的な「間」「リズム」のなかでこの「ニュアンス」をブレンドしていくこと。一番受けた、「ビャッ」と観客が笑いを漏らした瞬間は、そこここを拭いて粘土みたいになったティッシュ一枚が床に投げつけられてペタっと潰れたあのときだったことは、そんな「間」の必要の端的な証左だろう。
関&木村(「ハルコの娘」)は考えていることは面白いのに、TPOがずれていてもったいなく思う。例えばひとつ、踊りと音楽のイメージとか、リズムとかがぴったり合いすぎて、ウラ拍を消してしまっている、と思った、とかね。だれか敏腕プロデューサーが二人を導いたりしてはくれないだろうか。
笹嶋(「ツメカミ」)の印象は、、、あまり残っていない。

『ニューヨークグッゲンハイム美術館展』(@文化村ザ・ミュージアム)に行った。
こういう展覧会の楽しみは、入門書的なお勉強的な楽しみ以外にもあって、名前のよくよく知っている画家が、ベストの一枚ではない作品同士でつばぜり合いをしているところに、無邪気にこっちの鑑識眼でジャッジを下してみるというところにもある。



□0802(Mon)


小林嵯峨『アウラヒステリカ/エロ』(@麻布die pratze)を見た。
積極的に、土方巽によって構築された身体をあらわにする最近の小林。「アウラヒステリカ」のシリーズでもその傾向ははっきり出ていた。しかもそれはさらに、同時に、ここからどう逸脱していくか、というトライアルのために引き出される、ということでもある。舞踏はどこへいくのか、と言う問いに誰よりも自覚的なのがもっとも舞踏の血の濃い人たちだと言うことは、とても興味深い。
「三人の少女」なんてチラシにもあったが、どうしたって小林と他の二人の身体性の違いは際立ってしまう。「ベルメール態」は、口から吐き出した無数の糸を障害にしてそれを足首や腕に引っかけて進む、その細い糸を引っかける繊細な仕草が、微動的な舞踏の動きを形成する。小林の動きにははっきりと感じられるこの糸が他の二人のダンサーには自覚されていたのか、それが何とも気になる。それは、舞踏から逸脱していく時の動きにも当てはまる。前半、突然よく耳にするトランス系の曲が始まると、「ポーン」とそれまでのテンションを放り投げ、曖昧なうごきをどんどん繰り出してくる。安易な類比は危険だけれど、やっぱりこれは「笠井叡」的いかさま師プレイ。だ、として、そのときにあの糸はどこにどうなっているのか、そんなことばかりが気になってしまった。「いやあ、それも投げました」と言われてしまうのか。
室伏鴻について最近書いた原稿は、まさにここの地点での彼の取り組みを「リズム」と呼んでみたのだけれど、それは「移行」であってはじめて成立するのであって、単に「逸脱」では「切断」では流れていってしまうのだ。
それにしても、ハイヒールといい、ゲタといい、うしろのスクリーンにしたレースの幕といい、顔につけたシルバーのお面も深読みすればそう見えるのだが、最近の室伏の公演にあらわれるアイテムに重なるものがあまりに多い、のは気のせいか。
最後のゲタはいてばたばたと舞台対角線上に何度も走るところは、『疱瘡譚』の土方の冒頭ソロへのオマージュにも見えた。だが、様式的に「歩く/歩けない」の境界線を極める土方とは異なり、小林の選択したのは下駄履きしたガキの遊び。でも、ね、ガキの遊びは見ていてそんなに楽しいものではない、特に長時間見るものではない、のです。最後の最後に10分くらい続いたこの時間、3分だったらこの作品しまったと思う、のだが。それにしても、舞踏は今、このカオティック化の道をひたすら進む、さて、そこから何か際立ったなにかがあらわれてくるのか、今まだわからない。



□0801(Sun)


新浦安に、金曜の夜から滞在して今帰ってきた。そこに暮らしているひとのところにしばらくぐずぐずしていた。時間の無駄遣いは夏休みの醍醐味である。新浦安は、いわば「ホーム」の街。それは「ドリーム=住まい」(というか一戸建てor高層マンション)が視覚を占領する世界と言うことだ。夢の街である。あるいは夢が「おうち」という形を取ってこの世に具現したものたちの街。それは夢が物質になり、風雨にさらされ、時の流れに留まりくすみ、不断にメンテナンスを施される必要のある場所と言うことでもある。というわけで、ここは切ない場所だ。レンガ造りの「ここはどこの国だ!?」と不可思議な気分を催させる、そんなすまい、へのファンタジーが、少しずつ朽ちていくのをじっと耐えるのがここだ。幼稚園児だったぼくは、ここによくきていた(いま突如として思い出した!)。その頃のここは干潟しかなくて、干潟と谷津遊園しかなかった。谷津遊園という遊園地で、ぼくは生まれて初めてジェットコースターというものに乗った。レールは海に突き出さんばかりのコースをつくっていた。たしかにあのころもここはファンタジーの国だったのだな。ただ、その頃は「住まい=夢の現実」のファンタジーからは自由だったわけだけれど。
昨日の晩は、年に一度この街全体が躁状態になる花火大会があった。どかんどかんと打ち上がる夏の花。みんなが目を向けている方向に横切る産業道路を走る車は、自意識過剰気味に荒っぽい音を出したり、サンルーフから頭を出したガキ達が一斉にこちらに中指を立てたりする。それもここのユーフォリア(多幸症)の一部。