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(200409)

02 移ろいにたえる/06 夜中の散歩/07 中上健次がなぜかいまぼくのなかで熱い/12 大駱駝艦『壷王』/17 土方巽の言葉/18 マティス展 琳派展/20 東京コンペ/21 Zakuro+Okada/28 『座頭市』

 *ダンスは赤字


□0928(Tue)


一週間空けてしまった。再開。
北野武『座頭市』を見た。これは、ダンス映画だ、とちょっと驚く。「タップ」が出てくるということは、予告編などで知っていたけれど、そういうレベルではなく、全体に渡って体が踊ってる、あるいはリズムをみせるからだを撮った映画といえそう。そして、ダンスと笑いというのは境を接しているのだということを凄く分かりやすく教えてくれる映画でもある。リズミカルに−−といっても別に一定のテンポでというわけではなく、例えばたけしの首の動きみたいな−−、ただしその流れるひとつのうねりは、僅かにずれただけで、笑いの要素を帯び始める。そのブレの中で、シリアスとコミカルが行ったり来たりする。そのふざけた感じが、まさに「たけし」なのだな、と思ったり。
あと今回は、以前からちょろちょろ出ていた「夢」に関するシーンが興味深い。夢というか臆念というか、決闘の場面で、「おれがこう斬ってあいつが倒れる」とイメージした途端、そのイメージ通り、相手に斬られてしまうというようなところ。何かもう独特のたけし的認識論というか人生論というか死生観というかがこういったところに炸裂している気がして、実際の殺陣の魅力以上にそういった映画の仕掛けの方にドキドキさせられてしまうのだった。

あとなぜか『木更津キャッツアイ 日本シリーズ』をも見た。内容はともかく、母親の実家が木更津なので、夏休みになると釣りに行った中之島大橋が映るたびに何となく切ない気持ちになって、極私的感動に襲われてばかり。「MAXコーヒー」(缶コーヒー)が最後のように頻出するのだけれど、これなんかは、ぼくが二十歳のころ自分の田舎で作ろうとして頓挫した長編映画で使おうとしていたアイテムだったので、かなり動揺。ちょっと頭のおかしくなった浮浪者(狂言廻し)が愛好するものとしてこの缶コーヒーを何度も撮った。何度もその役者にメタメタに甘いコーヒーを飲ませた。その役者はいまフランスで活躍する舞踏団体のメンバーだ、そういえば。あの黄色い缶が8ミリのフィルムにまぶしく映っていた、思い出す、懐かしいなあ。



□0921(Tue)


近くなったらまた紹介しようと思いますが、山賀ざくろと岡田智代が「ランデヴー」という共同公演をこの秋(11/1−2、@神楽坂die pratze)します。そのチラシ、今後いろいろなところで見ると思いますが、ぼくはそこに桜井さんや手塚、武藤と混じって推薦文書きました。つまり、ぼくは推薦しています。いや、強力プッシュです。この秋の一番の話題企画です。と、あおっときます。
で、ぼくは2ヴァージョン書いたのです、推薦文。結局最初に書いた方が採用されたのですが、せっかくなので、ここに幻ヴァージョン転載します。

−−

二人のダンスを見ていると、気紛れなダンスの神が不意に降り立つその〈足取り〉のようなものを感じる時がある。微かだ。けれど、不思議で絶妙なバランスのなかにのみ生じる希有なこの感覚に身体が震わされる時、得られる幸福感は大きくまた深い。とはいえ、神は気まぐれだ。降りてこないこともある。そのときには、待つ身体あるいは見放された身体が、神(ダンス)をかたどろうと揺らめくだろう。二人に関しては、そこに漂う切なさも結構好きだったりする。

−−
「ダンス」という言葉にこだわってみることのできる、ほんと希有な二人。ダンス(の神)は降りてくるのか否か。どっちにしてもきっと楽しい。



□0920(Mon)


「東京コンペ」なるアワードを見てきた。
遅刻ギリギリで着いたので、チラシの束をもらいそこね、細かいことは書けません。ダンス&パフォーマンス大賞とありましたが、パフォーマンスの方はかなり辛い感じで、となるとダンスなのだけれど、かなりの程度「トヨタ」と出場者がかぶっていたりして、そこんとこはマイナーチェンジな感じが免れない。何かそういうコンペでした。
康本雅子にはもう少し高い評価が与えられてもイイのではないか。彼女はダンスにおける「ポップ」をやるという意味でほんとに希有な存在なのだ、と言うことを再確認した。「ポップ風」は世間にいくらでもある、でも真の意味で「ポップ」であるのは彼女のダンスくらいのものではないか。ポップとは、ごく簡単に言えば、「歌もの」ということ。彼女は絶対踊りながら鼻歌を歌っている。「んんーんんー」とやっているからだが踊っているのは、見ていてとても気持ちがいいものだ。でも、そうじゃなきゃじゃない?あの、ダメなダンス作品を見ていて共通に浮かぶ感想は、「観念的だな」ということ。頭で踊っている感じ。「サクラ踊ります」ってときの「サクラ」がごくごく観念的、コンセプチュアルなのだ。そして、その道具になった身体を見ているのは、かなり不憫な気分になるものだ。それに比べて鼻歌を歌うからだが踊るのは、こっちの体が踊らされてしまう気持ちよさがあるものだ。
鈴木ユキオの前半に、ぼくは随分見入っていた。両手両足という当たり前のペアを、ユニゾンさせることで、それぞれが独立しているもののデュオのように思わせて、身体が動くことの魅力が前面に来ていた。そして、そんな「身体が動く」なんて一見当たり前、ストレート、実直な試みを、作品として披露する鈴木君の度胸というか、気概に押されてみていた。後半は、その真面目さにあまりに真面目に向かい合っていることが、物足りなく感じた、という強欲な感想を持ってしまった。
でも、なんだかんだ今回、岡本真理子の何回見たか知れない作品が、一番光っていたのは事実である。あとで、これが大賞だと知りました。「十分で燃える」、という彼女に不向きに思える条件にむしろ彼女はもっとも集中していたのではないか。だから得心。ちゃぶ台で踊る、あの微かな、小さいもの拾っていく感じが、今日ははまっていた。最後のスッと舞台から消えちゃうラストがイカンと思ったけど、そこが唯一のマイナスだった、ぼくにとって。あそこは、ちゃぶ台の上で狂ったように踊るべきだった。と思う。

電車の行き帰りで、村上春樹『アフターダーク』を読んでいた。三十頁までで読むのやめた。一生読まないだろう。ちょっとそりゃないぜ、の気分。どこにも破綻がないもののなんと貧しいこと、か。でも、それぼくが今ちょっと風邪っぽいせいじゃないよね?




□0918(Sat)


今日は、美術館ハシゴの日。
マティス展(@国立西洋美術館)は、副題が「プロセス/ヴァリエーションProcessus/Variation」と言う。「過程/変化」。なるほど、あるところでは、液晶テレビが絵を描くマティスを映し、その脇にその当の絵が吊されている。あるいは、同じポーズの同じモデルをデッサンした何枚もの絵を横並びにしてあったり。趣向は分かった。でも、そんなに言うほど、「過程/変化」のニュアンスにビビビ(死語!)とは来なかったんですけど。と、思ったら、一休みのソファにおかれたカタログをめくると、冒頭の天野知香さんの論考、冒頭に、ジョディス・バトラーの文章が飾っていあって、、、

「しかし主体は、主体を産出する規則によって決定されるのではない。なぜなら、意味づけは基盤を確立する行為ではなく、反復という規則化されたプロセスであるからだ。そのときの反復とは、実体化という効果を生み出すことによって、それ自身を隠蔽し、かつその規則を推し進めるような反復なのである。……アイデンティティの攪乱が可能になるのは、このような反復的な意味づけの実践の内部でしかありえない」

『ジェンダー・トラブル』の核心の部分、まんまの引用。これですべてが解けるのだった。なるほど、マティスに、近代絵画の巨匠でありながら近代をなぞりつつ失敗し、その失敗の「プロセス」つまりアイデンティティの攪乱が複数の可能性を引き出してくるといった姿をみよう、というわけだ。そういうようなコンセプトがまずあってですね、そういうように見てよ、って言われているような展覧会なのだった。こうなると、コンセプトの幽霊が上で浮かんでいても、ぼくはぼくで見るよってちょっと頑なになってしまいたくなる。でも、それが分かったあたりのセクションでは、もうマティス自身のパワーが弱っている気が。切り絵がときに凄く雑に切られていたりして、ちょっと冷めたり。ああ、最初のあたりのまだ自分が確定していない初期の、色が変に(当時モローに指示していたことを彷彿とさせるような具合で)混ざり合っている感じが一番よかったな、それはコンセプトよりもずっと饒舌に「過程/変化」を帯びていたな、と思ったのだった。

で、
『琳派 RINPA』展(@国立近代美術館)へ。
日本画のいいやつは、きっぱりさっぱりしていて、そこがいいなあ、と思う。酒井抱一『夏秋草図屏風』なんて、「草図」く・さ・ずだもんね、花も一応描いてあるんだけれど、草の奥で、草にかぶられてやんの。あくまでも草がメイン。一本の草の「シュッ」なんて音のしそうな曲線が、「いいでしょでしょ」って凄い確信のもとに描かれている。爽快なのだ。線が鼻歌歌っているのだ。あと、ぼくは俵屋宗達が大好き。あのメタリックの世界(ときに「オプアート」のようにもみえる)は断然カッコイイ、いつみても「最新の美術」って気がしてくる。

その後、忘れ物した上野に戻り、そこから日比谷線で中目黒へ。東トーキョー・トゥ・西トーキョー。なんかどしどし買い物してしまい、女店員の口車にどんどん乗ってしまい、そんなこと久しぶりに楽しんだなとボーッと民家改造の中目的な店で、夕食。秋祭りの囃子が聞こえて、なんか演出過剰で今日らしい、と。



□0917(Fri)


論文の量産体制に入っており、いわば戦時下なのであります。
しかも、それぞれがあまりに異なる分野のもののため、それを考える自分の身体がバッラバラになりかかるのでした。考えると言うことは、PCと違って、独特の「思い」というか熱がなければならないもので、分かった→かく→書けました、なんて簡単な話ではないのであります。だからこの熱をつかまえながら、しかもそれが複数化しつつも燃えるようにするという、一種の曲芸をですね、振り絞ろうとする毎日だったり、、、まだまだ暑いしね!


さて、特にですね今かかりっきりになっているのは土方巽さんの舞踏論でして、これをダンス関係では全くない雑誌に載せようとしていて、上手い回路を埋め込むことでそこをブレイクスルーしてやろ、と思っているのであります。まあ、それはでもそれとして、

「いま幼児体験なんてまともな顔して喋ると、顔を逆に覗き返されますね。それだって二、三年前はちゃんと市民権を持ってた言葉なのに、いまはすまし合い大会で実りが希薄なっていくようなところに堕ちていく。それを環境のせいにしても男振りは上がらないし、ちょっと苦しいところだ。ここらへんで愚鈍な作業が力を持つと思う。これ以上どんなところへ逃げたって孫悟空ですよ。むしろ自分の手をある日虫メガネに写したら、こんなに大きかったのかという自分の驚きですね。自分の体というものの不具性にちゃんと対決しないと、本当の懐かしさなんていうものはしゃべれなくなるんじゃないか」

って、これは、鈴木忠志と扇田昭彦との座談会での言葉なのだ。えーっとーまあ、狂ってますね。これで人と会話しているっつーのがあり得ないっつーもんですよ。「孫悟空ですよ」って何なんだよ!ことばがあるべき道筋からどんどん脱線しつつ、単にデタラメ言いたいというのでもないはずだという期待と確信の元でそこに確固たるメッセージを掴もうとする。この努力は、、、ほとんど舞踏そのものを見ている困難いや快楽なのでした。スゲー屈折を言葉が流れていくと、体よじれるものな。

中上健次『賛歌』読了、あまりに美しい!こんな感動と同じ感動を与えてくれる舞踏があれば見たいものだなあ。サイボーグの身体でっせ。女ばかりか男ともいたす男娼でっせ。しかもそれは仮の姿、ほんとうは熊野の地元のおばあを愛するただの男だったりもするのですぜ。関係のずれ込んでいくさまが物凄いスピードで活写される。カッコイイのだ。とくに、熊野のおばあたちがあらわれて古の映画女優のあだ名で呼ばれるあたり、イーブのマンション宅でみんなが過ごす束の間にながれるなんともいえない温かい時間が、たまらなく美しい。たまらない。



□0912(Sun)


大駱駝艦『壷王(つぼのおおきみ)』(@世田谷パブリックシアター)を見た。
不意に当日券を買って見た。当日券購入のために一時間前に三軒茶屋に着いたので、時間が空き、昼食をとることにする。会場の近くに「安曇野」というソバ屋を発見。とても混んでいる。「混んでいる」ということは「おいしい」ということでは、と待つことに。外で待っていると大河ドラマの脚本家が硬い表情で店から出てきた、あらあら。うまい、という確信が深まる。事実とても美しくおいしいそばだった。感動。でも、あまりゆっくりしてられない。
ひさしぷりに見た、大駱駝艦。「ブトー・スペクタクル」とでも呼びたくなる二時間弱のステージは、思っていたよりも遙かによかった。「スペクタクル」とは、頭をマヒさせて感覚に迫り、いわばそこで錯覚を起こさせること。日本をあからさまにイメージさせる道具立て(男たちのふんどし代わりの「注連縄(しめなわ)」とか女たちが胸に背中に抱えた「鏡」とか、氏子のようなカッコの男たちとか、日本の曙あるいは夕暮れというような背景の画像とか)は、「なんてね、あそんでんの」っていう感じと「そうそこにある精神をここに示します!」っていう感じとが、交錯しながら簡単に一方に決定しない。「イッツ・ア・スモール・ワールド」みたいな曲が流れて、ディズニー魑魅魍魎バージョンみたいに見えたり、エンタメとして凄く成立していたりするのが、劇団四季のようだったり。そのしたたかさに翻弄される。あと、印象的だったのは、ブトーのエロティック路線を上手く転がしているパート。いつまでもニコーと笑った顔の三人娘が、氏子みたいな男たち三人のあぐらの上にのって、ケタケタしてたりする、そんなところの幼女性愛みたいなニュアンス。こういうところをうまく広げて展開出来るところが、ブトーの強さなのだろうと、思ったり。最後の方で、男七人が真っ青に全身塗りたくって横並びになる。「これって青空?ってことは美貌の?」と驚く。三人娘の呆けた永遠の笑顔が、「美貌の青空やなー」と思っていた矢先だったから。その青空を白ウサギみたいに麿がわたって歩く、ラスト。ドラマはないけれどドラマティックとは自然のことなり、とHPの表紙に書いたが、なんかそんな公演だった。

「この狂おしい美貌の青空とは一体誰なのか。さかんに物質の悲鳴が聞こえてくる。私の生涯は鼻水をすすることによってしか、そこに接近することができないのか。いつも坂の途中で考える舞踊の無縁坂とは、きっと、からっぽの笑いがすでに呼吸されているこのからだを、追放しようとしたとき思考されたものだ。」(『土方巽全集』より)



□0907(Tue)


先月末にすうっと風が冷たくなって、「ああ夏はこれで終わりなのだな、、、」と結論を出してしまったのだけれど、台風がいくつもきたり、しめった熱い風はまだまだ吹き止まない。でもこれは「夏」じゃない、その「残滓」でしかない。

最近、中上健次ブームが突然始まった。
勢いのあるでたらめなものがないと、元気になれない性格なので、ときどき処方箋を探すように本棚をがさごそしたりするのだけれど、今回は見事中上が手に触ってきた。
で、今回中上いいなあと思っているところは、ひとつ、彼の文体についての見解。
自分は、シュルレアリスム系の人より遙かにオートマティスムによって文を書いているんだ、24時間書き続けて、50枚の短編書いちゃうんだ、と豪語しているのは別にオレは神懸かりで書いているのだということ(だけ)じゃなくて、要するにそんな風に文を繰ってゆく際のリズムに対して中上が高い意識をもっていることのひとつのあらわれだろう。「オリュウノオバ、体から、炎、吹き上がる」なんていう、助詞が蒸発してしまったかのような文から、中上の文体を「本物」と呼ぶ、ある批評家の気持ちは、凄くよく分かるなあ、と思ったり。そういう、形式に興味をもつのは、ダンス批評的だと思う、文学系批評がこういうことさぼっているならば、こっちの側からリズムの価値とか、言っていくべきなんじゃないかと、ちょっと無闇な熱を放出してみたりする。
あるいは、こんな三島(ちょっと島崎藤村も)批判にも、大いに反応。

「彼(三島由紀夫)は、ボトムを信じているんだよね。つまり、根拠を信じている真実の人なんだ」「『破戒』も『仮面の告白』も、アブジェクションを扱うことによって衝撃力を持たせているわけだが、それが仮面−素面というリニア的な二項対立によって、告白すべき真実という根拠の問題にすり変わっている。」

このような「ボトム」批判に対して、自分は「ボーダー」、より丁寧に言うと「ゾーン」を採用するという。「ボーダー」を採用するとは境界に立つこと、また二つのものの間をつなげる一種の「詐術」を考えること、さらに「ゾーン」は、その間にあるグラデーションの陰影(の深み)を利用することを指している。面白い。そうか、そうすると、やっぱり中上の不在が世界を硬直させているんじゃないか、あるいは何か強力な後退を生じさせているんじゃないか、そんなこと思ってしまう。いまや、ひとびとの言葉はほとんど、「ボトム」系だもんね。三島みたいに「アブジェクション」に「すがる」人も多いし。でも、そんな屈折さえも通らず、たんに無自覚に「ボトム」を信仰しちゃってる人凄く多い、これが、恐い。いやいや、あなたのことですよ、あなた。ボーダーを侵犯するひとがでると、俄然勢い込んで、あんた何様と言いたくなる様な誹謗中傷をネットに書きこみ、あるいはその書き込みを読んで「せいせい」しちゃっている、あなたのことですよ。批判好きでしかし、批判の基準を示して自分を批判の俎上にのせる勇気も力もない、ないのにああだこうだと吹聴しちゃってる、あなたですよ。「誰」っていうんじゃないけれど、よくいる、非常に恐い、あなた。2ch的なスピリットを自覚なしに体現しちゃっている、そんなあなたから自由であるために、そこから自分も自由であること、自由な運動のなかにいようとして、ぼくは「ゾーン」に期待を賭けた中上に、死後十年以上たった今でもなお「賛成」と強く言いたい、のだったりする。
(参照図書: 『中上健次発言集成 5 談話/インタビュー』第三文明社)



□0906(Mon)


昨日の夜、あるひとにクロネコヤマト便で送らなきゃならない書類があって、でもぐずぐずしている間に時間がたってしまって、どうしようと思って、不意に相手の住所を見たら「町田市南大谷」。「あれ、何か結構近そうだぞ、どれどれ(Yahooで地図検索)、ああこれなら歩いていけそうだ。ならば!」と一念発起、夜な夜な遠足がはじまった。でも、想像と現実はあまりにも隔たっていて、最初の内は良かったんだけれど、どこまで行っても果てが見えない。かといって、今から戻るのも、、、一時間くらい歩いたところだろうか、どんどん暗くなる道端で次第に不安な気持ちが膨らむ。ゲームのつもりでスタートしても、ゴールがまったく見えないゲームには、ゲームの余裕を奪うところがあって、するとポチポチ雨も降ってきやがる。「あっこれ地図に出てる、じゃあ左だ!」とようやく手掛かりが見えてくると、勢いが蘇ってきた!ズンズン、「山を上り(飛びじゃなく、残念!)谷をこえー♪」な感じで、急カーヴを自力(歩行)で過ぎる(川崎−町田あたりはほんとに山谷が多いんですよね、もうボッコボコ)。バリの旅の記憶とか、子供のころの切ない記憶とかが勝手に行ったり来たりしながら、ようやく、相手の住所のごく近くまで来た。でも、近くとは言え、ここからが案外迷路だってこと、分かってなかった。そうだよ、表札出していない人かも知れないし、、、いやあ、相手のお名前の付いた赤いポストを発見した時には、感動しました。「ピンポンダッシュ」の誘惑を振り切り、ヤマトの着払いのシートがなぜか貼られた封筒をポストに入れて、なぜか柏手(かしわで)打って再び、町田市街に向けて出発したのでした。結局町田までの全行程で2時間かかりまして、、、ちょっとした「旅」でした。



□0902(Thu)


暑い。まだ暑い。でも八月が終われば何が何でも「秋」。それが季節というもの。暑い秋なんて犬も食わない。「めーぐるーめぐるーきせつのなーかでー」(千春)って、わけ分からず、どんどん衣替えする時の進行にちょっと気分が遅れがちなので、やや切ない状態だったり。八月も忙しかったけれど、輪をかけて忙しくなりそうな九月。景気つけていきたい割には、ぐずってたりするのだった。

「いわばシャイでひきこもりの日常を返上したい」(岡村靖幸『ミラクル・ジャンプ』)

と、懐かしいあいつがラジオで歌っていたのがあまりに素晴らしかったので、速攻新百合ヶ丘のHMVへ。ついでに『家庭教師LIVE’91』(DVD)まで買う始末。13年前のライブ。長袖Tシャツをスリムのケミカルウォッシュ(!)ジーンズに入れて踊りまくる岡村。「ああああ、あの頃はネーこう言うのがネー流行ってたんだよ、時代はサー変化するんだよ、ネー、いまのはやりだってきっとそうだし、、、」とひとりで見ているのに言い訳の独り言がどんどん頭に漏れてくる感じ。そう、こんなちょっと間違うと「ひきこもり」になっちゃうような男が、「日本のプリンス」みたいに言われてもてはやされたりからかわれたりするイイ時代だった、あの頃。まだこの世にはブルーハーツはいても、ブランキー・ジェット・シティーはいなかったそんな時代。宮沢りえはいても広末涼子はいなかった。いやあ、時代は完全にひとめぐりしたわけです。体重も100キロになるわけです。それなのに、あの男は『ミラクル・ジャンプ』なんて「いい年の男が」なんてまったく思うこともなく歌うわけです。でも、素晴らしいです、とにかく。「だけど連日は 非現実で いやさ遠慮したい」とのたうつ言葉は、何もヒット感のない日々に引きこもる男のブルース。いや、「いい年の男が」なんて言葉がそもそも問題です。そんなこといっている場合ではないのです。「ナンパ出来る様になりたきゃ どうすりゃいい? 戦争で死ぬんだったら 何でも出来そうじゃん」(『ア・チ・チ・チ』)との切迫感は、少年並み、いやそういうわけで、「今、少年の情念で冒険をつかみとりたいぜ」(『ミラクル・ジャンプ』)とたるんだ腹を揺らして情念の少年をたぎらそうとするのです、出来るかどうかは別として。あまりにも「移ろい」を体現した男のしかしあまりにも変わってない様に、いや変わっていない様で、あまりにもこの間のキズが痛(イタ)々しい、しかしそれがまた輝かしくもある男にちょっと酔った今日だった。

夕ご飯食べに町田に行くと、あちこちで男たちが「ナンパ」してた。そんな熱でぐつぐつの町田。