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(200410)

01 クロム舎/09 STラボセレクション2004/17 H・アール・カオス『白夜』/19 日曜の続き/23 川口隆夫/24 中村公美『景』/28 「スマイル!」

 *ダンスは赤字


□1031(Sun)


いよいよ明日明後日になった「ランデヴー」。楽しみです。あまり気負わずにいつもの気分でやってくれたら、、、きっとイイ時間になります。お見逃しなく。

最近、山賀さんや岡田さん、あるいは中村公美さんや彼らすべてに関わっている手塚夏子さんやらを頭に思い描く時、不意に浮かんでくる言葉があります。「ダンス原理主義dance fundamentalism」。「原理主義」の語調からなにやら過激なニュアンスを深読みするひともいるかもしれませんが、どうかそうしないでください。単なる語義に従って、ダンスの根本的なところをなるべく生っぽいままに開陳しようとしちゃう人たち、といった意味です。どんな先入観、イメージとして持っているダンス的なものなんかはぽいぽいすてちゃって、体が動く瞬間の謎に垂直に降りていこうとする人たち。動きはミニマムだけれど、課題は根本的。ストイックでありながら、実はどんなこけおどしよりも見応えがある。学問の分野と似ていて、こういう人たちは派手ではないけれど、静かに世界を動かしている張本人だったりする。




□1028(Thu)


兄から数日前、メールが届く。件名は「スマイル!」。いつも兄の件名には「!」がつく。ポップな人なのだ。まず自分がポッピンするところからはじめる人なのだ。
さて、この「スマイル!」、なんのことでしょうか、当然ブライアン・ウィルソン・プレゼンツの『スマイル』のことです、はい。「ぼくたちの夢は叶ったOur dream has come true」、こう、インタビューでブライアンは口走ったそうです。この一句を『レコードコレクターズ』の紙面で見た時、兄でなくても、泣けてきた。37年前、あまりにも大きすぎるものを思い描いてしまったために挫折した彼が、いいオジサンになり声も随分しわがれてしまったけれども、「こんな美しいもの作っちゃって自分でもびっくりだよー」と言うほど、あらためて本当に実現させてしまった、夢。これが本当に当時見ていた夢なのかと、真贋論争ぶっぱなしている萩原健太のような人もいますが、この際、聞こえない振りをしておきましょう。「生きている価値あったね、ブライアン!」と別に友達でもないのに肩たたきながら言いたくなってしまう。そうそうないよなーでも、こんなこと。羨ましい人生だ。そんでほんとに雑誌に載っている彼の顔がニッコニコなんだよね。木の陰から顔を出す、天地真理(?)みたいな、前時代的なポーズを臆面もなくするほどの幸福。
でもね、ほんとうに美しいアルバムです。前回の『Imagination』もいや実に素晴らしい作品で、ドライヴする時なんかはよく聞いているのですが(「君の想像力よ、ワイルドに突っ走れ!your imagination running wild」ってのがサビなのだ、、、ってだけで感動します、ぼく)、明らかにそれ以上です。最近のぼくはジョアン・ジルベルトの東京公演CDばかり聞いている。おっさんあるいはおじいさんばかり。

あっ、山賀ざくろ+岡田智代「ランデヴー」が公演間近です。11/1−2です。神楽坂die pratzeです。地味だけれど、きっとやってくれる二人をみないと、あとで後悔します。おじさんおばさん(ごめんお二人!)をばかにしてはいけません。凄く凄くフレッシュな人たちです(しかも旬)。



□1024(Sun)


中村公美『景』を見た(@高円寺、DISCO GIRL)。
ギャラリーと言うよりも、白い階段と階段の踊り場が三階まで続いている、そこが舞台。写真家の展覧会で踊るという企画のため、壁には写真が、額縁など使わない気取らない感じで飾られている。黒地に赤い模様の薄いワンピースを身につけ、写真の束と小さなラジカセを手にあらわれた中村は、写真の束を階段にパサーと落とすと、写真は流れ、なだらかな時の始まりを告げる。腕をベターと口を拭うように押しつける。執拗に、それが前半のまた時折あらわれる中心的なモチーフ。繊細で大胆な振る舞いのひとつ。拭う動きで歪む口周りが、なにやら得体の知れない動揺を誘う。ときに写真を手にし、これをどちらに飾ろうかと体を動かして試しているとその下の写真を足は踏みつけている。注意と散漫が、小さな空間に不敵な乱暴さを漂わせる。そうかそんなところが、このひとの性的というか欲望的衝動を孕んだ感覚の原因なんだ、ぜんぜんあからさまじゃないんだけど。写真を破きちぎり、小さくなった紙片をねじってねじって、堅い塊をもさらにねじる。そういう無意の出来事を、ただぼーっと少し眠くなりながらもほっとけなくなっていつまでも見てしまうのは、そういう衝動の感覚を刺激してくるからなのだろう。夕日が差し込む。どんどん場所が騒がしく豊饒になっていった。

夕方中村を見たあとで、西新宿、こんなところに!という空き地で、庭劇団ペニノの次回公演の準備が進んでいた、それを夜に見学に行く。凄いです。空き地に地下道が出来ています(実際にはまだ建築中だったけれど)。わけ分かんないとは思いますが、出来ちゃうのです。ここは唐組などがテント公演をすることで有名な場所らしいのだけれど、テントならばいざ知らず、地下道作っちゃうというまったくでたらめな公演が実現しようとしている。11/3−9です。是非是非、ご覧になって下さい。
演出家谷野さんの演出方法が面白かった。「よーい、はい!」なんて、手を打つことなどしないで、斜め前で自分で仕草をやってみて、役者はそれをまねる、と言うことをずっとやっていた。なんか催眠術みたいだった。



□1023(Sat)


MAISON MOET PARTYで川口隆夫をみた(@スパイラルホール)。
ぼくは、この人まだ見ていなかった。理由は幾つかあったのだけれど、今回、見ていろいろと考えるところがあった。収穫と言うべきだろう。
川口隆夫は、ご承知のように、「ダムタイプ」の人。スタッフもダムタイプの人が脇を固めていたりする。要するに、エッセンスは特殊川口的なもの、というよりも、ダムタイプ・テイストといって間違いない。あるいは、ダムタイプのいま一番よい部分を切り取ったものという気がした。
音響と映像(照明)が感覚の限界点まで迫る。音は耳と言うよりも体全体に響き渡り、強い光が目をコントロールする。感覚の限界に迫るとは、バークあるいはカントなどの一八世紀崇高論のテーマを想起させよう。感覚の許容範囲を振り切り、ただ無感覚になるほどのところにまでいたる。崇高は、カントによれば、生の自然を対象に感じられるものだけれど、ここでは絵画の崇高を参考にしてみたい。崇高な絵画とは、例えば、人気のない広大な自然を描いた絵画。その絵自体がさほど大きいものでなくても、山や海原の表現によって、身の丈を超えた大きさが見るものを圧倒する。ダムタイプの舞台空間もまるでそう。違うのはイメージさえもなくただ感覚の限界だけが与えられるところか。ただしそこにいるのは苦痛ではなく、むしろその空間はとても美しいと感じてしまうようなものなのだけれど。
さて、崇高な絵画のような空間に、ではダンサーはどう存在すればいいのか。川口の課題はだから、どう踊るのかなんていう、自分の踊りだけを自律的に考えているだけでは解決出来ないところにある。それはいわば、風景画のなかに描かれた小さな小さな人のようなあり方だ。見るものをその風景の直中に誘い、その大きさに圧倒されている様を追体験させる、小さな存在。その小ささは、いわば翻弄されていくプロセスを、どれだけクールに踊れるかにかかっている。翻弄されてただ静止してしまっても、つまらない。結局は一個の小さな身体の存在だけが残されていくのかも知れないけれど、そのためのプロセスは、無為では面白くない。そこについて、川口は見るべきものを持っている、と思った。
川口の動きは、いわば、簡潔なセンテンスだ。ある一定量を保ちながら、流れはあるところで一旦止まる。これが繰り返される。しかも、一センテンスの中には、幾つかの句点が必ず置かれ、センテンスの中も小さなブレイクが幾度も起きている。ブレイクは決してリズムに奉仕しない。ただブレイクは、いわば人間の身体の実相を示すためだけに、つまり身体とはこのように動くと一旦終点にいたる、のだという認識を見るものに与えるために置かれている。すなわち、それは人間という尺度を測るような動き、人間という尺度を示すような動きなのではないだろうか。そうして、この崇高の絵画のなかに佇み、人間の限界を示す役を徹することとなる。
後半、踊りながら舞台に隠されたカメラに川口は撮影され、それが背後の巨大スクリーンにプロジェクトされる。踊る=ムーヴは、撮影されプロジェクトされた瞬間、踊る=スティルに変換されてしまう。その前でも彼は踊り、分身のまえで踊るわけだが、それもまた別のスティルへと変換されていくことになる。分身は、彼の身の丈より時に大きくプロジェクトされ、しかしノイジーな画像は、彼をよりよくモニターしているとは思えない。ただ切り刻まれる身体の、その意味での小ささ、翻弄されていること、がここに呈示されていると言うべきだろう。分割し続ける身体の不安、は強烈に見るべきものとしてそこにあった。

でも、ね、こういうパーティ形式のモエシャンドンのシャンパンかぶりながらなんていうバーブリーな公演も、もっとコンテンポラリー・ダンスの世界で増えるといい、のではないか。バーブリーな、シャンペンな何かがイイと言いたいのではなく、ここには、ダンスが確実に異ジャンルに必要とされている関係性がある、からだ。最近、「金魚×10」の鈴木ユキオ君が日記で、バイトは客を幸せにしてしかもお金がもらえるけれど、ダンスは自分の夢ではあるが、客が喜んでいるか分からずしかもお金は出ていくばかり、と書いていて、こういう気持ちは、こういう場所で踊ると少しは解消されるんじゃないかと思ったのだ。もちろん、したたかさのようなものがここには必要なのだろうけれど。踊る若手に純粋さを求めるよりも、不純さが混じっていようが、こういう晴れ舞台を(あるいは真に商品化される場を)もう少し用意出来ると、コンポラ界は、活気づくのではないか。もうアワードでお茶濁すのはよそうよ。

ところで、
昨日から、『スクラッチ』という、ヒップホップというか、ターンテーブルのドキュメンタリーを見ているのだけれど、ここここここ、これが最高なのだ。純粋に音楽というか、リズムだけを純愛している男たちが、しかもそれが好きだという一点で観客と結び合い、シーンが出来、経済的にも回っている。まあ、そういうこともそうなのだけれど、純粋にターンテーブル前の彼らDJのパフォーマンスが、もうもうダンスで、ああぼくはこういうのすきだ、こういうのフォローしていたい、そう思わされてしまうのだった。いぜんから、ホガースの線の美学をヒップホップの落書きにまで敷衍したらどういうことが言える?って思っていたので、その大きなヒントが与えられた感じでした。「スクラッチ」って前後させる反復の線だ、しかも物質化した時間を前後させる、のな。



□1019(Tue)


と続き。日曜日、H・アール・カオスを見たあとで、渋谷まで歩こうということになり、てくてくと歩き出した。246の「三宿」といわれるあたり、骨董や兼カフェの店に曲がってそこに行く手前の古本屋。ここがねえ、さりげないと言うよりも、正直古ぼけた(ごめんなさい店番のおばちゃん、でもそうなんだから)感じのあまり期待しないけど、行ってみるかあの古本屋、なのだけれど、ヒット!あとでおばちゃんと話をしていて分かったんだけれど、かなり店のおばちゃんのセレクションがきいている本屋で、ロシア芸術に関してのものとか、とくに戦中戦後のあたりのレアな演劇関係の本が、ちょこちょこあったりする。戦利品を紹介。

福田定良『民衆と演芸』(岩波新書)
邦正美『舞踊の文化史』(岩波新書)
小寺融吉『舞踊の歩み』(三國書房)
長谷川如是閑『体の美』(河原書房)
『復讐者の悲劇 エリザベス朝戯曲選集 5』(悠久出版)

レアだけど、かなりどれもマストな読み物です。とくに、『民衆と演芸』(1953)は、今後のぼくの考え方(生き方)にかなり励ましをくれそうなヤツです。ぼくこの人知らなかった(無知の涙!)のだけれど、法政大学の哲学の先生を、自分のしたいことと合わないと言う理由でやめちゃって、その後、自分の研究会と、執筆活動などで生きた人。カッコイイ!しかも合わない理由が、簡単に言うと「リラックス出来ない」から。この人のいいのは、すべて世界は社交なのであって、社交という交わし合いが上手く運ぶのには、気楽さというか、気安さがなければならない、そんな人間関係の空間からすべては生じるのだ、と言う考え方。この考えが、この本では、演芸空間の考察に向けられていて、演芸というのは、芸術のように単に技の披露ではなく、観客の側と表現する側との両者がコミュニケーションすることなのだ、とされる。「機知と滑稽について」という章では、安来節の演芸空間をレポートしながら、そこにあらわれたる演者と観客とのスリリングなかけあいのなかに、「社交的関係」を構築する「倫理的精神」というものを浮き彫りにする。社交的人間関係を論じる中で「倫理的精神」なんて言葉を使うところに、この人のルーツが垣間見られるのだが、そういうことよりも、場を成立させることが演芸であり、非芸術あるいは反芸術である演芸の魅力であり、存在意義なのだと主張するところは、芸術としてのダンスが頭打ちになってる感のある昨今のダンスシーンに対して、芸術のオルタナティヴを考えるためのヒントにきっとなるにちがいない。
でも、ぼく以外で、こんなに現場を見ながら機知という美的概念をきちんと咀嚼してそこに当て嵌めようとしたりする人をはじめて見た。素晴らしい。

その後、ずんずん歩いて、渋谷の手前まで来ると、道が三階建てになっているところの二階の道に自分がいることに気づく。凄いでたらめな空間。にちょっと感動。



□1017(Sun)


H・アール・カオス『白夜』を見てきた(@世田谷パブリックシアター)。
ともかく一言で言えば、「バロック的精神」と「ダンス(身体)」の釣り合い関係ということを考えながら見ていた。最近、大学の講義でバロック美術を説明していて、バロックの対抗宗教改革に基づく民衆迎合というか、民衆誘導のスペクタクル性について日頃考えていると言うことも手伝ってのことだろう。例えば、ベルニーニは、『聖女テレサの法悦』という彫刻を、彫刻だけ作るのでは飽きたらず、その舞台まで教会のなかに作り、その舞台背景には、「法悦」を煽るように、仏教で言えば「光背」にあたる光線の筋を作ったりする。ルネサンス期の彫刻だったら、彫刻そのもの、つまり身体そのもので自足するはずのところが、ベルニーニにおいては、身体だけでは不十分でその周りをドラマティックに彩る建築が求められる。ごく簡単に言うと、バロック的精神というのは、このような身の丈を跳び越えても、表現したい感動というか、激情をどう表現するかに集中し、表現において拡散する精神である。ぼくの目からすると、この作品(このグループ)には、この精神が強烈にあらわれている。
その傾向は感動の内実をほとんど無視するほどである。法悦するテレサの表情は、もはや「神」との出会いという文脈抜きで、「エクスタシー」の形象としてただただ迫ってくる。バロック的精神とは、ベンヤミンによれば、象徴ではなく、アレゴリーの精神である。意味するものとされるものとの関係が文脈依存型でありながら、同時に、文脈から切り離されやすく、切り離された形象がただ廃墟として集積されるようなアレゴリーという場所。この人たちの舞台は、何かこのアレゴリー的な世界を生きている気がした。
あるいは、そう読み解かなければ、例えばどう考えてもあの映画のパクリだとしか思えない映像や、べたべたな携帯電話のカメラを用いた監視社会のイメージとか、ストレートに受けとれば、陳腐な表現としか思えないものだし、また単純に「社会派」と呼ぶとすれば、その見方もあまりに陳腐だ。いや、むしろこういったものの陳腐さがどんどん放散され、それ自体の意味作用がどうでもよくなり、ただそのイメージが固有にもつスペクタクル性(こけおどし性)のみが取りあげられようとしているのであれば、そう、それは立派にバロック的な作品だと言うことになるだろう。
ただし、そのときには今度は、ダンスする「身体」という尺度は、どう扱われればよいのか、と言う疑問が噴出することになる。ワイアを台車を使った、身の丈以上に動く身体は、例えば、このバロック的精神による身体の再解釈と言うことになるのだろう。さて、それはどう考えればいいのか。そこには、こちらの身体が共振する余地はあまり残されていない。むしろバロック化に脅かされ変転することになる身体のその変化にこちらの身体が追いつかない、というプロセスとして、観客の身体は、舞台の身体と向き合う。どんどん薄っぺらくなる身体。強い、白河の動きとは対照的に、身体はどんどん舞台美術の一部、建築の一部になる。最後の最後に、このあたりのことが説得力を持って迫ってきた。それは、音楽と舞台美術とワイヤを使った身体の動きとが、ドンビシャの合一を一瞬見せたからかも知れない。
こう考えると、問題として興味深いものが出てきた、「カオス」公演観劇記でした。(続く)



□1009(Sat)


大雨→台風上陸、決壊寸前→台風一過というまったくドラマティックな午後のドキュメント。
まず、開演30分前に着くはずが、横浜線が徐行運転(最高時速35キロって、、)で、ギリギリ到着。凄い雨になってきた、「これは中止か?」と不安よぎるなか、到着。やるのか。

STspot LABO、Dance Series vol. 61 Selection 2004を見てきた(AプロBプロ)。

Bプロ(15:30)
塩澤典子
「ロックと猫とウォッカ一杯・・・じゃなくて 生ビールキンキンに冷やして!!(第二章)」
六月に馬車道ホールで行った(ぼくは見逃した!)作品のSTヴァージョン。本人曰く「かなり違うものになった」。ひとり用のソファに浅く腰をかけた塩澤。はじめはことの事情がはっきりしない。瞼が微妙に震えたりはしても、「いつはじまるのかなあ」と思わせるような静寂。ただ、もうここですでに起きているのだ。よく見ると耳にはイヤフォンが。聞いているのだ、何かを。それが次第に体を揺らす。塩澤は、ぼくなりの分類でいえば「音楽派」のひとり。康本雅子も音楽派のひとりなのだけれど、康本の場合は「歌もの」、塩澤の場合は、あえていえば「反復ビート」もの。
ところで、音楽とダンスとの関係は、表現主義ダンスなど否定的に扱う者たちもいたが、基本的には非常に密着した、不可分と言ってもよいような関係にある。ただし、ダンスは音楽が鳴るとどうしても、後追い的になることが多い。両者がつばぜり合いすると音楽に軍配が上がりがちなのだ(それはとくに、即興的に舞台で競演、なんてときに、十中八九そう)。ダンスとして見せたいのは、体に響く音ではなく、音が響く体、だとすれば、イヤフォンで関係を結びながら音楽の方をシャットするのは、なかなか上手い方法かも知れない。揺れる首、もじもじと丸くなる足の指たち、などが、それぞれの形と動きを主張し出すところなどは、二年(三年?)ほど前にはじめて見た手塚夏子の「私的解剖実験地図」を思い起こさせる。ダンス原理主義、そういう言葉がフトよぎる。生き生きとした、しかしその実飼い馴らされた身体でしかないダンスする身体を否定して、もはやこの世になんの寄与もしないいわば死体を志向した舞踏の身体観とも、どこか重なる。アイデアは凄くいいと思う。また別の場所でやったら是非みたい。ただ、この方法がもう塩澤典子の体を持ってしてでなきゃ出てこないでたらめな動きを醸成し出したとしたら、そりゃあもう、本物、と言うことになってくるのだろう。

金魚×10
「、、、やグカやグカ呼嗚、、、」
「「オスいらず」のマウス(やグカ)誕生!
哺乳類の発生にオスは不可欠なのか?
朝、靴のひもがうまく結べなかった。
夜、月に向かってファッHした。」
本人に許可なしですが、パンフのコンセプトのところ、タイとのあとに転載させていただきました(問題あったら鈴木さん言ってください)。この何言ってんだかわけ分かんないところは、彼らが本当の意味で「ノイズ系」だから、じゃないか。観念性を極力ゼロにもっていって、いまでてくる「間(ま)」をこの場に打ちこむ。アイデアのバラエティはあるけれど、その玉石混淆を「石」とか「玉」とか分ける基準なんかどこにも置かずに、ただそれぞれの表情を頼みに、並べて重ねてプレイしてゆく。とつぜん、体を倒して相手にもたれかかる動きを交互に、リハみたいにだらだらと続けているかと思えば、バケツをボール代わりに二人がキャッチボールともつかない、絡みをする。「キャッチボール」と言えるような何らのルールもなくて、ただ方向の取れない怒声だとか、「ハイハイ!」とパス?を要求するような身振り。こういう外見をなぞってもあんま楽しくなくて、なぜなら、それらを通して起きていることは、ただ「間(ま)」の成立したりしなかったりするその時間だけなのだから。きれいな間をみせるような「整い」よりも、そういう成立のポイントを見ないでときに「ずるっ」と抜ける、それもオッケー、というような時間。情緒なし、ただあるのは時間。でもそれはとてもダンスというものの性格に合っている気がした、そういう意味ではこれもダンス原理主義?ヒットでした。

さて、Bプロ終わって5時頃になると台風は本気モード。荒れ狂う世界をSTのビルの一階分下がった入口から見上げる。「スゲー、崇高!」。実害がないと、こういう時、ほんと楽しい。なんか普段話しない他人の方々とおしゃべりしちゃったり。異常におしゃべりになってるおっさんがウロウロしてたり。ビルの中の居酒屋で時間潰していると、アルバイトの子が「歩いている人胸まで水に浸かってましたよ〜」「ええっ!!」。いや、ほんとでした。その後、ぼくもみちゃいました、STの前は窪地になっていて、そこでタクシーの運転手らしき人が、無表情で真っ直ぐ胸まで浸かって歩いてました。これでもやるのかAプロ。

Aプロ(19:00)
伊藤真喜子
「台風
  キョウジュウニ
  ドウニカシテクレナイカ!」
あまりにキャッチーなタイトル。それはいいとして、基本的には、モダンのボキャブラリーで踊られる身体。ハラハラがない。台風の破天荒が、ここにはやってこなかった感じ。イメージは丁寧に広がっていた。以前見た時にもあったような、紙風船が最後に出てきて、伊藤が狭い空間をグルグルと回り出すと、紙風船が不思議な軌道で揺れていく。そこは面白かった。

ほうほう堂
「るる ざざ」
二人と言うよりも、今たまたま分裂いているひとつのからだ、であるかのような二人。身長が一緒とか言うことよりも、考えていることとかに、二つ分の個性が見えない。だから、「ざざ」(「ざわめくさま」のことだそう、ちなみに、「るる」は「たえまなく続いていくさま」で)がこうイイ感じで出てこない。これは純粋にぼくの趣味かも知れないのだけれど、もっとぶっ壊しぶっ壊しして、緊張感のある希有な時間を引き出してきてくれたらと思う。あまり、いまあるイメージを固定するべきではないと思う。

で、終わる(20:00頃)と、空は一段落の表情。おわったんかい!ちょっと突っ込みたくなるような気分。鶴見川のものか、ヘドロが道に黒くへばりついていた。台風一過の風は気持ちがよくて、てくてくてくてくと桜木町まで散歩し、二件目の居酒屋に行き、そして帰路。帰りの横浜線は速かった!



□1001(Fri)


クロム舎『レジデンツ昭和ラバーズオンリー』を見てきた(@高円寺明石スタジオ)。
非常勤で勤めている大学の学生が出演するというので、ふらふらっと見に行った。昼の高円寺は、なんだか超のどか。抱瓶が昼ご飯やっていないかと思って行ってみたが、だめで、路地裏の奥の奥に乾物屋に取り囲まれた不思議なタイ料理屋があって、そこで。お腹ごろごろいいそうなほど辛くて美味いグリーン・カレーと切ないくらいタイの土地の土の匂いを思い出させるヌードルを。
この劇団、こういう事情で誘われて行っただけなので、ぼくは詳しいこと存じ上げませんが、まことクラブにも出ている江戸川卍丸が客演していたり、そんなに超マイナーなグループではないようだ。いや、なんというか、脚本がよく出来ていて、凄く楽しんでみてしまった(「直木賞的」な文体なんだけれどね、あるいは世話物というか)。話は、軽音楽部の大学生の中に死者が出る。その死んだ友人の部屋で友達たちがたわいもないことを話しながら、死の周りにいるものの何とも不安定な気分を丁寧に炙り出す。最後は、宗教にはまったゆえの死という事件性がぼわっとあらわれてきて、「得体の知れないものに巻き込まれて生きているぼくたち」がきわめてシャープに描かれた。ぼくからすると、「まじすごくない?」なんてフレーズをフツーにセリフに書いちゃう(なんら奇をてらっているのでなく)世代の、人間観が気になっていたので、なんもいいことない、いろんなことがおわっちゃって、成功の物語はただの絵空事で、っていう気分がミニコントみたいに体使ってドタバタしたりしながら描写されたりするところになるほどと新鮮さを感じた。こういうきちんと台本が書けている若手劇団ってどのくらいあるんだろう(ぼくの20才くらいのころの友人の劇団がやって他のに比べれば凄くレベルが高いのかな、彼らを見る限り)。そしてそのなかの彼らのレベルってどのくらいなのだろう。よく分からないけれど、きちんとお金取ってみせられるものがある20才くらいの人たちの作品を見るのは、とても元気にさせられるものだった、のだった(なんだか年の差オジサンオチになってしまった!)。