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(200411)

07 狂騒曲/15 the longest day was end!/18 京都はウブド/20 アート・リンゼイにKATHY乱入/22 LIVE AIDという夢/23 Ko & Edge Co. 『始原児』/24 『始原児』二日目/27 踊りに行くぜ!!長久手編/28 白井剛『質量, slide, &.』

 *ダンスは赤字


□1128(Sun)


白井剛『質量, slide, &.』を昨晩見た(@シアタートラム)。
冒頭、ヘルスメーターを抱えて登場。それだけで、今日のテーマがはっきりする。「重さ」だ。すると、白井は「ばたっ」と背中から倒れた。「物」としての体の重さ、それは体が自分を支えることで、普段ぼくたちはごまかし得ているもの、だが、それを今回白井は奔放に揺さぶってみる。つまり、「支え」を取ってみる。ふらふらと重心を変えると途端に倒れ、またその勢いで立ち上がったりするようなからだ。むーん、なるほど。テーマを十全に転がしていく。照明も、音も、細々したアイテムも決まっている。テーマを小さくスイングさせている。また、とくに最初に垂らした縄の前で、激しく踊るところなど、白井の踊る体の圧倒的な魅力も瞬間瞬間炸裂する。簡単に言えば文句なし。これならば、どこの何のコンペに出しても、無視されることはないだろう。でも、そう思えば思うほど、微妙な不満が起きる。「不満」というよりも、「欲求」という方が、正しいかも知れない。テーマを相当なレヴェルで作品化した、と思う。でも、その完成度は、テーマの中にある、「支え」を取った時の「揺れ」の振幅を、ダイナミックなものにすることを妨げるというか、回避させる。そう考えると、前作(昨年トヨタの作品)の方が、度はずれていてぼくは好きだ。あわてたり、とまどったり、何度も同じ動作を余儀なくさせたり。のなかにあったダンスがぼくは好きだった。それがもしあるひとつのパートでも起きていれば、本当に完璧になってしまう(!)だろう。




□1127(Sat)


踊りに行くぜ!!長久手編に昨日→今日行って来た!
それは単刀直入に言えば、室伏鴻が出演するから。久しぶりのソロ。しかもタイトルが「inter-mezzo」、チラシの作品紹介覧には、『ミル・プラトー』「リトルネロ」についての引用。以前CUTINにこのあたりのリズム論を援用して室伏のことをまとめた文を書いたことのあるぼくとしては、ほっとけません、見ないわけにはいかない。ええ、行きました。初名古屋。

新幹線を降りると、名古屋駅から名鉄東山線で「栄」という駅に途中下車。名前の通り「栄え」ている場所だそうで(ぼくの知り合いのカント研究者にして名古屋嬢の方に色々と教えてもらいました)、そこの「いば昇」に直行。ここは鰻屋、そう、名古屋と言えば「ひつまぶし」ということで。なかなか老舗感のある雰囲気ある店で、4時くらいに入ったせいか、客はほとんどいない。中庭のミニ滝をボーと眺めながら、しばし。ひつまぶし、ほんと鰻丼の混ぜご飯化したもの、分かりましたなるほどです、でも、今度ここに来たら普通の鰻丼頼むかも。街をちょっと歩く。デパートがぎっしり集まっている。そこに出入りする女性たちは、言われている通り、過剰なほどゴージャス、特に髪型。5人に1人は、後ろ髪をもっこりさせている。頭デカイと思われて嫌じゃないかなんて杞憂、ほんとにみんなやってる。ところ変わればですね。あと、ジーンズにスニーカーという女性が本当にいない。ここでは女性用スニーカーなんて売っていないのでは、と思うほど。キラキラした物好きな人たち。ちょっと「韓流」チック。街のど真ん中にデカイ変なオブジェ発見。白い鉄筋で頭上に丸い形が浮かんでいる。「何?」昇ってみると、「水の銀河」という一種の公園があった。50メートル直径の鏡のような池のようなものの周りを歩く。キラキラ、ギラギラしたものがとことん好きなんだナー。名古屋到着二時間で、名古屋スピリットを感得した気になる、なーるほど。



「いば昇」にて。うまい!、のかな。

さて、そろそろ行かなきゃ、会場までは、「栄」からまた東山線に乗って「藤が丘」へ、20分ほどの電車旅。駅についてもバスの乗り場が分からない。嗚呼どこだ。時間は押してくる。乗れた。降りた。でも、どっちだ。歩いて800メートルって聞いたけれど、間違ったら一発アウトかな。焦る。ああ、これだ、きっとようやくついた、みえたみえた、「長久手町文化の家」(公演後、名古屋23:55発夜行列車ムーンライトながらで帰路へ、室伏鴻とあと三組の公演について、また帰路のエピソードなどは明日あらためて)。



□1124(Wed)


『始原児』の二日目、三回目の公演を見た(前半は昨日の方が良かった)。



□1123(Tue)


Ko&Edge Co. 「エクスペリメンタル・ボディ」Vol. II 『 [始原児] 』を見た(@麻布die pratze)。
大枠で三部構成、目黒、鈴木、林の三人のパート、室伏のソロパート、再び三人のパート(最後の最後に室伏が加わる)といった構成。三人と室伏を分けたことで、三人の自由度が増した。ということなのか、ともかく三人が強く観客にアピールする舞台になっていた。それは、このグループにとって大きな展開だと思う。
冒頭、吊された縄に逆さにしがみつく。「横並び」が醸す雰囲気は『美貌の青空』や『Heels』と似ている。「らしい」感じ。ただし、執拗に力つきるまでしがみく、というほどの感じもなく、縄に束縛された状態からどこまで自由に出来るのかと回転したり、振り子状に揺れてみたり。「円、、、か」と思うと、むしろそこのことよりは、縄が一段落し、四つんばいに倒れ込んだあと、ちょっと体を浮かせたかと思うと力なく倒れて「うっっ」と呻く、この静かだが確かな三人の出す音のリズムが一種の「ジャム・セッション」に聞こえてくる。と思うと照明が消え真っ暗闇に。この音だけが響く。ダンスで目が使えないこんな長い時間があるのは珍しい。けれど、それは「音としてのダンス」を堪能する仕掛けだったと言っていいだろう。三人それぞれの音、生命の始まりのような立ち上がろうとして出来ない、そんな音(「うっ」と洩らすと「バタン」とくる)が重なり、さらに複雑なリズムが起きる。
それはぼくにとって今回の公演のひとつの大きなトピックだった、確かに次にはそれはひとつのテーマになって変奏された。三人は今度は明るみで、「ぱっ、、、ぱっ」と口をパクつかせる、魚のようだ。この「ぱっ」の音がこれまた脱力系で、笑いを誘う。それがさらに、激しい動きになり、「おっおっおっ」と声を出し、目をくりくりさせながら、あちこちする。魚→原始人?三人は、時に体をぶつけ合いながら、「おっおっおっ」だけの声で、何かを交わし合う。まだ「感情」とか「認識」とかがはじまる前の人間。ひとつの塊としての三人。ここが無茶苦茶笑えたのは、先に言ったように、三人のアピールする力がこの一年の間に蓄えられきちんと舞台上で発揮された証拠。「ヤワな若人」というモチーフが観客に充分訴えるものになっていた(ちなみに、見に来ていたぼくの大学の学生もこういうところ凄く受けたと言っていた、なるほどそれはよかった)。
一通りその遊びが終わると息を弾ませた三人は白いベンチに坐る。その後、目黒を先頭にソロのダンスをはじめていく。三人のソロは、本当に三者三様で、しかし、もしこれが魚→原始人→?という流れにあるとすれば、これは「近代人」だ、とぼくは思った。個人が誕生し同時に孤立していった近代人。それは原始人のような魅力的な塊ではなくなっている。そうかなーと思いながら、とくに林の曖昧にこっちにほほえみを向けたりする、ヒット感のない中途な感じのする動きに惹きつけられた。
さて、
室伏のソロは、一畳大の板に黒いマネキンのような女のオブジェを縄で括り付けた、そういう物体と踊る。「〜と踊る」と言うよりは、そういう関係に向けた余裕の持てない、漏れた感情に翻弄されるような人間の動き。ずっとマネのふくらはぎ下あたりを吸っている、吸うチュバの音ばかりが響く。すると男は女から少しずつ離れ足首同士を絡ませた状態で、泣いているような笑っているような怒っているような、後悔にさいなまれているような、赤子のような、引きこもりとか孤独死とかを連想するような情けない嗚咽をもらす。これまで聞いたことないような声だ(このあたりで今日は声が重大な公演だな、と感じる)。生というか性の始原。男の最も根源にあるどうしようもなく惨めな部分。なんでこんなものに悩まされるんだ!と叫びたいような部分。一種の身体に起因する情念のような。そういうものは、大抵女性性について言われるものだろう、普通は、「情念」なんて。それがしかし男性のものとしてもしっかりあるのだ、と言うことを再確認させられるような嗚咽。男性的なものによって男性もまた抑圧されているのだ。男性的なもののコーティングを引きはがせば、でてくる男の「女々しさ」。最も根源にある男性性が女々しさであると言うことの面白さというか、問題が、「にゅっ」と情けない表情で顔を見せた。「これ、黒子って言う」「ブラックバードなんです、ほら飛べ、飛んで見ろ」とかなり重そうな物体を持ち上げようとするが、歯がゆさだけを残し、この男は、引きずりながら舞台奥の闇にこのマネとともに消えていった。
で、
再び、三人の舞台が始動。今度は、白いベンチを縦に立てその上に乗って手を伸ばす。あがき。とどかない。T字になるように仰向けにベンチの上で横になる。WTC?飛行機突っ込んだ瞬間?このあたりでぼくは今回の作品が極めて現実主義的なものであると感じる。政治的というよりは、現実的。白いベンチは棺桶のようになり、三人は次にこの棺桶にどうすれば上手く自分の体が収まるかの思案をし始める。ここがおかしい。情けなくてしかしリアルな時間。きっとイラクの日常は、悲劇に心委ねるような余裕なんてなくて、「オレはどうすればきちんと棺桶に入れるのか(上手く死ねるのか)」を考える日々なのだろう。棺桶から再び三人がはい出ると、しかし足はフラフラまっすぐに立ち歩くことなど出来ずに、さまよう(『アクロス・ザ・ユニバース』が流れる、二回)。これは、ぼくのクロニクル的解釈からすれば、人間の現在であり未来の状態だ。そして、三人は、一個の棺桶に再び三人で上り、ゆっくり小さな足場で回ってみたり、片足上げてなにやら形を作ってみたりする。これで決まりか、と思いきや、暗転後三人は、棺桶に足だけ出して仲良く埋まっている。足の指がちょっと動いて小さなダンスをしている。そこに「獣」の室伏が現れ、目黒の足の裏に頭を這わせ猫みたいなコトすると、後ろの棺桶に収まって、そこでラスト。

備忘録としてかなりラフにだらだら書いてしまいました、が。全体に漂うのは、男のダメさ。暗さのなかに若い三人の勢いが凄い見応えのあるコントラストを作っていた。



□1122(Mon)


夕方に、新百合ヶ丘に行き、『笑いの大学』を見た。最初は、もうどうなることか、チケット代かえせ!いや返してもらえなくても出ていきます!という気分にもなったが、後半の一番いいところは結構楽しめた。笑いと検閲というテーマは、かなり難しいところがあり、でも、三谷幸喜結構がんばっているなと思わせた。欲を言えば、当時の浅草の喜劇の「舞台」を再現するようなシーンがあっても良かった。せっかく小松政夫を劇団の看板役者として起用しているのだから、彼をもっと見たかった。「親分さん」だったころを知っているので。
その後、HMVにて、『LIVE AID』(DVD)を購入。確か土曜日の夕方から日曜の昼までフジで生中継していた。それを中学二年で陸上部だったぼくは、一睡もしないで部活にちょっと顔出すと、音楽好きな部長に「今日は早く終わりにしましょうよ、だって!」と説得し、一時間も練習しないで急いで帰ってきた覚えがある。帰ると、ボノとキースとミック(あるいはポール?)だったか、三人がフォークギターだけで、片寄せ合うようにして演奏していたのに無性に感動した覚えがある。あっいま見ていたらブライアン・ウイルソンがノースリーヴで歌っている!そんなの全然覚えてなかった。




□1120(Sat)


「アート・リンゼイのライブにKATHY乱入(@代官山UNIT)」という情報が入り、早速足を運ぶ。
と、その前にせっかく外に出るならば、色々としたいことしようということになり、新宿初台のオペラシティでやっている「ヴォルフガング・ティルマンス Freischwimmer」を見に行くことにした。ティルマンスについては、先月号の『BT/美術手帖』が、ラリー・クラークと抱き合わせで素晴らしい特集を組んでいて、また今月号では先日来日した際の講演会の内容が収録されていて、してもオススメなんですけれど、そんなティルマンスはとても素晴らしかったです。彼みたいな「スナップショットの人」なら、別に写真集でことたれり、と思われがちだろうし、大体ぼくがそう思っていたひとりなんだけれど、それは間違いです。展覧会タイトルの作品がところどころに配置されていて、水母の細い細い線が印象的な単色を帯びて浮遊しているといった作品なのだけれど、これが大きくした状態で見ると何とも美しい。美しくまた個性的な屈折を保っている。他にも、実際にプリントしたものを見た方が、この人のポイントが分かりやすくなる、と思った。「コンコルド」のシリーズなどが端的にあらわすような、「見つけた!」的な感性。清水穣氏は、そういう点を、世界全体を性感帯にしてしまうかのようだ、と言ってますが、まさにそんな感じ。世界の小さなツボをみつけるどんどんと、けれど、それは必ずしも切り取ってきたという感じ、あるいはShootingの感じはあまりない。むしろ感じたということ、その瞬間を印画紙に焼きつけておきたいという、ささやかだけれど、強い欲望。ぼくは、今後いろいろなものごとが、ティルマンスの感性と思考を媒介にするとよりよく、またより分かりやすくなるという予感がしている。
と、
「アート・リンゼイのライブにKATHY乱入」に戻りましょう。
その後、初台→代官山というのは、山手通で一本道で行けるのだけれど、電車を使ってというと遠回りを余儀なくさせるルート。で、どうしよかということになり、明大前経由で京王線を使おう、ということになる。神泉で降りればよかった。それが思いつきで駒場東大前で降りて歩こうとしたのが間違いだった。いくら歩いても代官山的瀟洒な風景が見えてこない、むしろどんどん新宿っぽさが増してきた。あとでそれが「旧」山手通りだったことに気づく。あわてて、目黒川を横切り、ひと山登って代官山の通りがようやくあらわれたころには、開演5分前。
と、
まだ「乱入」までいたらず。今度こそ。
まず、いわゆるオープニングアクトで二曲分、ハワイアンの曲とヨーデルの曲で。あとはアート・リンゼイの後半の後半くらいに一曲乱入して、ピナ・バウシュ的(嘘)なリフトで空中遊泳を見せた。多分ぼくとほんの少数の人たちしか、Kが出ることもそもそもKの存在も知らなかっただろう会場で、突如あれをやるのは、かなりゲリラ的(勇気もの)だったろう。でも、こういう「隙間」の場所こそ、Kが出没するところのように思えて、なんとも痛快で感動した。ダンスの装飾性をKはこういうコラボの形で展開している。毒のような薬のようなコンサートの装飾、としてはイイ線行っている気がした。
そして、アート・リンゼイ。ぼくはほとんどはじめてまともに聴いたのだけれど、ボサノヴァやレゲエの静かな世界に、ノイズのためだけに吊り下げられたギターをギャンギャンかき鳴らす、というまことにガキの悪ふざけ的な演奏にこれまた好感を持ったのだった。ギターってほんと男根的だよな。でもなんだか使い方間違えちゃっている感じで、そんなリンゼイOK!。
そして、また渋谷まで歩こうぜ!ってことになり、再びウォーキン、で、明治通=ラーメン通りでラーメン食べて、帰。



□1118(Thu)


京都のマップをみていて、ウブドみたいだなと思って、そう思うとどんどん人びとが魅力的に見えてくる。そういえば、タクシーをついつい多用していたのも、ウブド的ライフを無意識のうちに反復しようとしていたせいかもしれない。
と、もう少し、京都出張旅行随想。
京都大学から歩いて30分くらいのところに永観堂というお寺があり、学会のあと、てくてくと歩いていく。ぼくはあまり知らなかったのだけれど、最近京都は秋の紅葉の時期にライトアップなるものをやっているそうで、それを見に行ったのだ。週末ということもあるのか凄い人混み。ライトに光る紅葉に人びとは目を向けるのではなく携帯を向ける。ああ、人間はイイものを見つけたものだ。庭園散歩って歩きながら風景を楽しむことだけれど、何をすればいいのかポイントが掴めないものだ。見るともなく見る。ブラブラ見るのが醍醐味だけれど、それは実は結構ハードルが高い。これを見たというものを人は欲しいのだ。それで普段なら見たくもない仏像とかをわざわざ見に行く。けれど、携帯で紅葉を撮るというのは、こんな煩わしさなしでいい。なにせ帰ってから何を見た?と聞かれて、あの曖昧な時間を曖昧に説明しなくても、「これ見た」といえばいいのだ。ようは、時代はSeeingではなくShootingなのです。紅葉なんて人は見てません。液晶画面の赤く滲む色だけを一生懸命凝視するのです。

経験というものは、そう考えるとかなり大変で、もうそんな大変なことを人はあまりしたくなくなっているのだ。紅葉を愛でる(Seeing)などということは、文字通り紅葉狩り(Shooting)に取って代わってしまうのだ。



□1115(Mon)


ああ、長い一日が終わった。昨日は、夏休み前から準備をしてきた研究発表の日だった。今年の一大イベントでした。ふう。
大学院に進学して大学に居残り続ける人間の当然の仕事として、研究発表をする、ということがある。自分の研究を更新していくこと、そして、それを学会で表現すること、これは基本の「き」である。とはいえ、今回のリングはなにせ「日本カント協会」である(ぼくはようやく今年入会した新参者、ちなみに)。要するにカント研究者の集う総本山。いやあ、こゆい集まりでした。後ろにW大先生やI先生、またたくさんの単著や論文集で知っている様々な先生の前で、「おれにとってぇかんととわあ」とやるのである。いやあ、緊張しました。
はじまってしまうと(研究発表がね)、口頭で原稿を読んで、そして質問を受ける、まあそういうルールのボクシングみたいなもので、その時間はライブであり、即興なのですね。でも、そのための準備にかける労力がかなり大変なわけで(今回は体が強張っちゃって、三回マッサージに行きましたね、風邪もひくし)、それもこれもしかし実はこのライブの瞬間にカント的(カントについて考えるための)運動神経を研ぎ澄ませていく、というトレーニングだったりするわけです。そして、そこでは「ぼくのカント」をアピールする場なわけで、こういう感じは、ダンサーが公演をするのとあんまりかわんないんだろうな、とちょっとおもったり、したのでした。
会場は京都大学。行く前に、駅前のスタバで、ぐずくずしていたのだけれど、その時の緊張は、会場に行って、渋谷先生とちょっとお話しすることでかなりほぐれた。渋谷先生とは、去年の12月にこの日記で紹介したカント『人間学』を翻訳された埼玉大学の先生です。日記のあの部分を学生から紹介され、読んでくださったとのこと。実はそれで春頃メールをいただいていたのに、お返事を失念してしまい、大変な失礼をしてしまっていたのでした。そのことをお詫びしつつ、しかし、「一番面白いところを取りあげてくれた」とのお言葉をいただき、俄然励まされたのでした。若いころ、上智時代にちょこっとお話しさせていただいたことがあったのですが(多分先生は覚えてはいらっしゃらないでしょう)、その時に感じたのと同様、とても人柄の良い素晴らしい先生でした。
それにしても、凄い濃い場所だった。何せ百人くらい集まった全員がかなり踏み込んだ形でカントに携わっている人たち(しかも年長の方たち)ばかり。こういう場所来るといつも思うのは、ここにテロが起きたら日本のカント研究は崩壊するな、、、という想像(バカだね)。そんなテロリストはいないだろうけれど、カント協会というよりはカント教会みたいなところがあって、学会というのは、多かれ少なかれ信仰的なニュアンスが滲んでくるものなのだろうな、と思った、り。実際二日目のシンポジウムとかは、アイロニーというか、自己反省というものがあまり利いていない雰囲気があって、ちょっと恐かった。
基本は、ぼくが自分のことを優れた人間なんてまったく思っていなくて、ダメな人間だと思っていて、そんなダメ人間にとって優れた人間の代表みたいな人たちが優れていると自認している思想をストレートに発話している感じが、凄く恐かった、ということなのですが。

合間合間に京都を味わう。一日目「魚末」(四条の東洞院通り近く)と二日目「やました」(三条の鴨川近く)、またラーメン屋で「新福菜館」。あと、一日一回は入った喫茶店がどこも雰囲気のいいことに感動した。人間の魅力というものがあった、京都の人びとには。東京というのは、まあ、あれに比べれば田舎者の集まりなのだろうな、とみなしたくなってしまう。あと、京都大学のかつて暗黒舞踏の公演が行われていただろう講堂を覗いてきた。

さあ、今年はダブルヘッダー。つまりもう一度研究発表。今度は12月の沖縄(舞踊学会で、ホガースという18世紀イギリスの画家による優美の思考を、ダンス論に接続させる研究、まったく一ミリもカントに関係ありませんがなにか)!



□1107(Sun)


この一週間で見てきたもの放出。「忙しいと言って木村あそんでんじゃん」などと思わないでください、是非(誰に言っているのだろう)。一種の仕事ですから。

『ランデヴー』山賀ざくろ+岡田智代(@神楽坂 die pratze)
「いんびぃ」
山賀、冒頭、体操服にストレッチパンツ、それが半分降りてて白いパンツが丸出し。ちょっとカラフルなマフラーを巻いて、すみっこでシャドーボクシング(?)。ここ、あんまり後ろ向いているものだから、振り向いた瞬間を期待させすぎで、結果ちょっと肩すかしだったが、それも「ざくろ」か。でも、今回は、うたもギミックも押しのけ、ただひたすら、踊る山賀の踊りが、すっかり山賀的ダンスとしてできあがりつつあることが、素晴らしかった。何度も書いていることだけれど、この人のダメは、非常に問題的で、ダメなダンスは、ダメであることでダンスを裏切り、ダンスになってしまうことでダメじゃなくなるって言う、矛盾をはらんでいるものなのだ。それなのに、この矛盾がなぜか昇華されて「山賀ダンス」ができあがりそうになっていた、今回。やはり今旬な人だった。

「ルビィ」
7月のトヨタのショーケースで、この作品は一度見ていた。その時の方が、良かったというのは、事実。でも、イスの足一本を軸に、ゆったりと回るシーン、バックのハワイアンと相まって、すごく美しく官能的な時間になっていた。とくに何をするでもなくただ回る足の動きとか、からだの佇まいとかに魅了されてしまうのは、この人の体が何かのステップとか振りとかしなくてもダンスしているから、だろうきっと。あと、前回にはなかった、ただ座り込んで何をすることもなく時間の過ぎるシーン、照明が次第に青を増し、夕刻のグラデーションを刻んでいるようで、そんな夕方の無意だとおもうとますます何もしないででもちょっと動いた腕の形とか、首の傾げとかが妙にうっとりするような何かになっている。暗黒舞踏とは別のルートによって、この無意の、豊かな静止が現出していて、それはそれは感動ものだった。


庭劇団ペニノ『黒いOL』(@西新宿の空き地)
以前も書いたように、会場は新宿の空き地で、そこに30メートルの奥行きをもった地下道(下水道?)を造り、そこを舞台にした。彼らの美術への偏執はかなり来てる、がぼくはこういうコトされると単純に燃えてしまう。タイトル通り、7−8人の黒いスーツを着たOLたちが、地下道で何やら生活を、仕事をしている。照明が暗く、OLたちの顔もあまりよく認識出来ない。音はマイクで拾われ、設定場所に相応しいエコー感と共に、妙な「近さ」があらわれていて、面白かった。前方には、左右に男たちがいて、ひとりはピアノを弾き、もう一人は地下と繋がったなにやら青い光を放つ道具を修理している。ストーリーと言うほどのものはなにもない。ときに、OLたちはドブに田植えをし、彼方から突然送られてきたストッキングをドブで洗濯し、ときに奥の給湯室(?)みたいな場所でさぼる。さぼっている間、奥にある透明ビニールを貼ったの狭い空間にぎちぎちにOLは入って何やらぎゃーぎゃーやっているが、何をやっているのは皆目伝えられない。ただでさえ、客はこの空間から置いてけぼりをくっているのに、この時間はそのことが強烈に強調されていた。これは、確かにOL的日常。でも、演出家谷野九郎氏の妄想的鏡に映って歪んでいる。この歪みが、どう言ったいきさつでそういう形をなしてしまったのかについて、一切の説明がない。歪みがひとつの症例として、解釈可能な事例として呈示されるわけではないのだ。それだけほっとかれてしまう客。ただし、その「無視」が、かなり痛快だったり、清々しかったり(!)するのだった。
ただ、幾つか気になることも。
前作「小さなリンボのレストラン」では、マンションの一室という極小空間に閉じ込められてしまったために、観客は、疎外されつつも、その空間のなまなましい質感に翻弄される楽しみが提供されていた。また、セリフ廻しの奇怪さも、そのような一種のサーヴィスとして成立していた。今回、この二つがなかった分、結局客自身も引いたまま見てしまう結果になってしまったのではないか。「趣味」という言葉がつい浮かんでしまう。スゲー奇妙な空間だ、という感慨と共に、案外巻き込まれなかった残念感が残った。始まりの、地下道の空間に100本ほどのロウソクがともされた光景は最高に美しかった。でも、最後の裸の女が脇から現れ、奥へと消えていくラストは、美しいとも思いながら、美しさに不満だった。むしろどろどろになったスカートとか、異常に胸の膨らんだ感じとか、そっち方向で突き抜けていったらなあと、思ってしまった。正直。


上村なおか『Wonder girl』(@スパイラルホール)
一時間ちょっとの公演、一言でいえば、「高木正勝劇場」だった。映像と音響の圧倒的な美しさ、と新鮮さ。以前、スケッチショーのインストライヴを見た時に、高木君のパフォーマンスというか、演奏+映像というのを見て、本当に感動したのだけれど、やはり素晴らしかった。エッセンスだけを濃縮還元した印象派のような映像とか、結晶がフラクタル的増殖をビャッと展開して0.5秒後に凍結する、と言ったイメージが真鍮板の上で結晶しているかのような、美しく強い映像とか。さて、ここまでやっちゃってる、ここまで目と耳が支配されちゃっている空間で、ダンサーは何をすればいい?
というなかで、なかなか好演していた上村だった。基本的に即興の人、で、ただし即興というのは、最初に注ぎ込むデータ(ソースというかイメージというか、動作の動機になるものまた動作の形)が案外重要。その点で、今回は、ぼくが見たことのある数回の中には決して出てこなかったような、独特の動きがあらわれ、その一貫した動きが見応えある時間を作っていた。それは、端的に言えば、「装飾的ornamental」な動きの形。皆川明とのコラボがそこに確実に影を落としている気がした、そんな小刻みに屈曲する線が次々に繰り出される。それは、競演したアリーサと比べると遙かに豊かなものを湛えていることが分かる。衣装の一部になっていた白い髪型や白い化粧など、極端な設定を作った方が、この人は潜在能力を発揮するのかも知れない。
もう一人の共演者、大野慶人が、やはり白い服でごくごくゆっくりと、思い詰めたのでも呆けたのでもない、なんだかよく分からない切実さを持って円形の舞台の縁をあるくと、その後ろの「結晶」の映像の中に巻き込まれていった、のが、なかなか素晴らしかった。映像に飲み込まれる人は、映像のなかででは表現しにくく、映像をこうやって直に人に被せてみた時に迫真の時間になる。そういう活用が、ダンスにはあるのかも知れない(と思った)。


チェルフィッチュ『労苦の終わり』(@STスポット)
渾身の二時間。BWの『スマイル!』がかかる中、舞台にひとりの男が登場。彼は、この舞台のひとりの役を演じる役者であり、この劇の進行を務めるナレーターであり、といった曖昧な複数的立場にたっている。で、彼の身体はと言えば、これも彼の役を支える身体の役を務めながら、ときに勝手に動き始めたりもしてしまう、自立した動く体であったりもする。セリフは混乱し、「というわけで何々の役をこれからやりまーす」と言ったような、これを言っているのも何かの役なのかあるいは役者本人なのか、いや確かにセリフのハズだ、、、といったわけの分からない、演劇の虚数のようなところにある言葉がまでが、どんどん組み入れられ進んでいく。
しかも基本的には、モノローグ。ひとりが延々早口でしゃべる、しかしぐるぐる言い訳というか「註」のような言葉が延々付け加えられるため、まったく話は進まない。その間勝手に体は「癖」のような動きを増幅させたり、突然やめたりする。
話は、今泉君が、二股していた田中さんと別れて川口さんと結婚しようとしていて、そのエピソードや新居を探すといったこと。それが、こういった方法の中で、ぐいぐい進んでいく。
ギミックは他にもマイクとか、照明とかあり、演劇のほぼすべてのアイテムがいじくられている。
そう、いわばこの演劇は、演劇の神経細胞を延々いじくり回していくのだ。そういう演劇なのだ。
スターンや初期ドイツロマン主義を思わせる、徹底して形式主義的な、「超越論的文学」ならぬ「超越論的演劇」なんて言葉があればそう名指ししたいような、演劇。演劇が批評され続けていく。演劇が演劇を眺め返してしまうような、パレクバーシスな演劇。けれども、相当ひねくれた劇でも、ぼくたちは話しを楽しんでみてしまったりするのだ。「夫婦げんかは寝て溶かす」とか、電車の中で心の狭い人が悲しいとか、大人しい自分はアルバイト先の上司に気に入られている、とか、AVの話とか、、、こういう話が実は方法の中に散りばめられていて、方法は方法でもこれはこれ楽しい演劇の力なのだった。そのあたりのことも含めて、猛烈に披露した一方かなり充実感のある舞台だった。


以上暇なしのスピード筆記ゆえ、乱筆箇所がある可能性大、悪しからず。ところで、以前『民衆と演芸』という本が素晴らしいといった福田定良のこと、糸井重里が話題にしていて、彼も法政大学出身だったのに知らなかったとのこと、最近福田に出会ったという意味ではここでシンクロニシティが起きてます。福田ブームが来るか、、、こい!糸井重里のコラム