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1130(Sat)

今日は、
《くるみ割り人形》演出・振付:井手茂太(いでしげひろ)(@世田谷、パブリックシアター)
《舞踏の精鋭と新人 小林嵯峨》(「写真展 土方巽と29人の舞踏家」の企画の一環として、@豊島区民センター)
を見てきた。

《くるみ割り人形》
作品がそうさせたのか土曜日ということが手伝ったのか、客層の二割くらいが子供。
その子供達が受けに受けてた、それが一番印象的だった。
単に「ギャグ」ととれるようなところのみならず、ちょっとした変な仕草や体の動きに楽しそうに笑っていた。
子供は理屈で評価するわけではないから(多分)、ほんとにひとりひとりの体がダンスに反応していたんだな、と
ぼくは素直にそう感じた、何とも素晴らしいことだと思う。

椿昇氏の舞台装置(「一面に白い毛皮の貼った透明ブリック」「赤い巨大ツリー」「気球」など)は、
日本の狭い部屋に突然現れたクリスマスツリーのように、必ずしも作品に必然的だったかは分からないが、
まさにそれはクリスマスプレゼントのように、理屈はともかくありがたく受け取っておく(楽しむ)べきものだろう。

「楽しいダンス」だと言えるダンス作品には、案外出会えないものだ。
ある種の難解さを観客に強いるのがダンスと考えて、澄ましているというような作品がほとんど。
その中では井手のフツーさは異彩を放っていると言える。
井手の「フツー」は、日常的な身体の動作、日常的な身体の関係性が舞台に上がっているところ。
例えば、驚かされて体が「ピクッ!」と痙攣する動きは、誰でも知ってる子供だって感じている身体のデキゴト。
このデキゴトがボキャブラリーだったら、誰だって自分の身体の記憶でコミュニケーションする事が出来る。
話の繋がりは分からなくても、これなら分かる、と笑う子供達(とぼく)。
「そろって動く」、という場面が井手の作品には頻出する、でもそれは一致とか調和を表現するためではなく、
むしろ調和から逸脱する「異分子」や「のけ者」の動きを拾い出すために用いられている。
それは「異分子」であれ「のけ者」であれ、一人はその他全員と同質の何かではなく個性ある一人なのだというメッセージになる。
このことは、アフタートークでも触れられていたけれど、「ダイバージョンズ」の「背の高い男」や「ちょっと太った女の子」が、
その特異性をむしろ逆手にとって動きの個性にしていたのと重なる。
(つづきは後日)


《舞踏の精鋭と新人 小林嵯峨》
写真展をしていた会場が舞台であり客席という環境で、
胸の辺りに血のようなシミをつけた薄ピンク色のシンプルなネグリジェ姿に赤いハイヒールを手にして登場。雨の音が流れる。
最初、持っていたハイヒールを左足に履くと、その足をスッと前に出し、右足がその動きをなぞるようにゆっくり前に延ばす。
左足と同じように踵をあげることで履いた足とのバランスはとれるが、
履いていない右足はその分無理を強いられ不安定な微動が止まらない。
左足に「なる」ために右足はこの不安定さのなかで揺れ続ける。「なる」ことの可能性と不可能性のあわい。
アフター・トークで本人は、赤い靴にはそれ自体の意味合いは殆どなく、むしろ片一方だけ履くことで、ある時は
履いていない足の不具性が際だち、また履いていない足が自然に映る場合には、履いた足の不具性が顕在化する、
そのような仕掛けとして用いたという。
(やはり舞踏はひたすら「動き」を追求するダンスなのだ、と再確認する)
確かに、一つの体の中で起きるこの不具性の往還は機能的に、緊張感を保った時間を構成していたと思う。

その後、床に倒れながら、起きあがる寸前で体がゆっくり右往左往し続ける。
この辺りのポーズの移動は、八月の舞踏セミナーで行ったベルメール態の一連の動作を想起させた。
そんな推測もあったからか、今日の小林は、以前PlanBで見たアウラ・シリーズでの踊りよりも、
「土方の舞踏」に沿った動きを展開していたようにぼくには思えた。
次には、ヒールを履いた足の足首をひねった状態で歩き出す、
するとこの足の方が今度はぎこちない「不具性」を露呈しはじめる。蹴っ飛ばすように足を振ってヒールがぽんと脱げた。
最後は、ブルガリアの軽快な舞踊曲とともに激しい動きで踊る。それまでの緊密な時間に比べれば、軽さが増してはいるが、
音楽に合わせているわけでも単にのせられているだけでもない、
不思議な距離感を保ちながらこの踊りがしばらく続き、何度か控え口に帰りまた戻ったりを繰り返して終わった。



1129(Fri)

数日前あるところから、ダンスのビデオを5本借りてきた。
『大野一雄 美と力』
『MOUNTAIN STAGE MIN TANAKA with DEREK BAILEY』(イギリス)
『玉野黄市 自然の子供』
『バレエ・メカニック』(フェルナン・レジェ)
『シルヴィ・ギエム エヴィダンシア』
ギエムのビデオは、ギエムが最近のダンス(ビデオダンス)を紹介するという体裁になっているらしく、
本人の踊りの場面もあるが、必ずしもギエムのビデオではなく、例えばフォーサイスの"Solo"という作品も収録されていて、
そこではフォーサイス本人のダンスが堪能できる。やっぱすごいっす。
今月3日の日記に書いたような、
「ぐりっ」とある空間が別の空間にめり込むスリリングなダンスがこれでもかと展開される。

ところでビデオで言えば、
22日にSIBUYA AXで行われたクレイジーケンバンドのライブ生中継(from viewsic)ビデオを入手。
ほんと素晴らしい!
CKBを思う時、いつも小学校3年のある土曜日の午後を思い出す。
たまたまTVのチャンネルをがちゃがちゃ回していたら、RCサクセッションの武道館ライブが流れていた。
(それは、坂本龍一と「いけないルージュマジック」をやる直前)
裏番組にどっかの新劇系の演劇中継がやっていて、チャンネル回すうちそれと区別が付かなくなったことも手伝ってか、
過剰にパフォーマティブな、演劇みたいなステージにまったく釘付けになってしまった。
それ以来、ぼくはすっかりロック好きになってしまったのだけれど、RC経由のロックファンという偏りは、
ロックは音楽以上にパフォーマンスなんだと少年に思い込ませることになるわけですね。
派手な衣裳とメーク、「愛し合ってるかい」の決めぜりふや、舞台上の卑猥なジェスチャー。
それがロックと信じた気持ちは、21世紀になってCKBによって突如復活するのでした。
子供のぼくにとってキヨシローは、目が合ってしまったはじめてのやばい大人だったわけだけれど、
そういうやばいものに惹かれる経験って、最近あまり起きないですよね。
例えば、土方巽に子供の頃あった人は、口を揃えて犯罪者みたいな風情だったと言う。
そういう平均値を超えた存在感をもつ人は、もう平成の日本にはいないのか。
いや僅かな例外として横山剣がいるのだ、例えば「スポルトマティック」(『グランツーリスモ』収録)での横山は、
「ヒモ」というより、マルチ商法の会長みたいないかがわしい雰囲気を漂わしている。素晴らしい。



1128(Thu)

古巣上智大学で研究会(その名は「現代美学研究会」)をもう五年以上続けている、現在そこでは
ジョナサン・クレーリーの『観察者の系譜』を読んでいる。その本では、
カメラ・オブスキュラという器具をモデルにすることで、近代の認識論(18世紀)が成立したこと、
またこのような可視的な器具をモデルにしたことで、
人間はこのモデルに適う主体になるべく自己を規律していくことになること、などが論じられている。
フーコー的な主題を、カメラ・オブスキュラなる装置を媒介にすることで展開するその手際はなかなか素晴らしい。

でも、この本十月社というところから1997年に出たばかりなのに、すでに絶版らしい。
いかにもアメリカの"October"という雑誌から名を取ったに違いないこの出版社の存在自体、一過性のものだったのかも知れないけれど、
90年代の基本文献と言ってよいこんな本がすぐ絶版になるのは、まったく健全ではない。
こういうのが文庫として復活してくれれば、研究現場も活気づくだろうが。

隔週木曜日にこの研究会はやっております。外部の方の参加も歓迎します、興味のある方はご一報を。



1123(Sat)

ダイバージョンズ(Diversions)
「Etch」振付:ロイ・キャンベル=ムーア
「暗黙の了解〜Unspoken Agreement」振付:井手茂太
(@新宿、パークタワーホール)を見てきた。
八月のバットシェバ以来の熱狂と感動、すごくよかったです。
後日感想。



1122(Fri)

劇団 解体社『死ぬがままに DEATH IS LIVING』(@江古田ストアハウス、
第四回フィジカルシアターフェスティバル イン ストアハウス)を見てきた。


少数精鋭で臨んだ本作、これまでに何度か見たようなモチーフがちらちらとあらわれる。
チラシには、
監禁から殲滅へ−。
「最終解決」に向けてうごめく「帝国」の統治システムの下、新
たな隷属状況におかれた「人間身体」の諸様態を提示する。

とある。
この極端に「深刻」なテーマのなかに身体が置かれなければ、あの動きは生まれないというべきなのか、
それは何とも言えない。だけれど、ダンスのフィールドでは決して出会えそうにない、その特異で濃厚な動きの質に
今回まったく魅了されてしまった。
政治的なテーマは、隷属し暴走し拘束され虐げられる身体のイメージに対して幾らかの動機づけを与えてはいるだろうが、
身体そのものが、むしろこの深刻なテーマの進路からも次第に逸脱してしまうところに、
実は強烈な面白さがほとばしり出てくる、どうも解体社の魅力はこの逆説にあるようだ。

例えば、日野昼子が寄り目にしながらゆっくりとゴジラのように進むとき、
解体した体をもう一度組み上げた末のような奇妙でぎくしゃくした、しかし圧倒的に迫力のある動きは、
身に纏っている緑色のチマチョゴリの衣裳と決して親密な意味連関をもってはいない。

この「テーマ」と「動き」の間にある空虚が、今回の公演をクールにし、
また単に政治的テーマをもとに演出されているという表面的な意味とは別の政治性を発揮することの一因となっていた。



1120(Wed)

《リングThe Ring》をつい見ちゃいました。
日本版の「ビデオ」映像がぼくはほんと怖くて好きなんだけれど、
お金を随分かけたというアメリカ版はどうか、それがひとつ気になっていた。
結果は、、、あんまりでした。
新聞の文字が浮き出て、有機体のようにぐにゃぐにゃ蠢くところとか、
どこの誰だかわからないおじさんがどっかを指差しているところとか、
意味のわかんない、物語に奉仕しているわけじゃない、ひたすら映像の不気味さにこだわったあの映像。
結局アメリカ人には理解できないのか、すべて「分かる」映像になっていた。
だからそんな怖くなかったといいたいところだけれど、
いや、やっぱ怖かったです。
異常な映像(イメージ)を見てしまうということの恐ろしさ、映像の貞子(サマラ)が現実に現れてしまうという怖さは、
ぼくたちの生きるリアリティに何か触れてくるところがあるんじゃないか、だから設定だけで十分怖いのだ。
でも今回、ほんとに一番怖かったのは、
隣の女の子が、ずうっと全体の2/3の間、真っ暗闇の中鏡見ながら化粧していたことだ。
鏡にちゃんと顔映ってんのう?ほんとは何か別のものが映っていたのかも??そして
終わって明るくなったとき見た彼女の顔が、厚化粧だったことは言うまでもありません(その顔もちょっと怖かった...)。


『オイリュトミーの世界』高橋弘子編を買った。ちょっとオイリュトミーのお勉強でもしようかな、と。



1117(Sun)

今日は午後から散歩も兼ねて上野の「秋の展覧会祭り」に繰り出す。
いやあ上野の美術館界隈はマジでお祭り的盛り上がりを示してますね、どれもそれなりに面白そう。
ぼくが行ったのは、
「ウィーン美術史美術館名品展−−ルネサンスからバロックへ」(@東京藝術大学美術館)
「ウィンスロップ・コレクション フォッグ美術館所蔵 19世紀イギリス・フランス絵画」(@国立西洋美術館)
でした。
こういう風にツアーをすると、13世紀から20世紀までの西洋絵画がざっくり通覧できるんですね。
でもさらにこれに「ピカソ 天才の誕生」(@上野の森美術館)を混ぜれば、20世紀もほぼ全体をカヴァーすることができるだろうし、
さらに国立博物館の「インド・マトゥーラ彫刻展」「パキスタン・ガンダーラ彫刻展」まで足を運んじゃうと、
+「オリエント」でかなり充実する。でも、そんな美術史オタクはいないか、な。

最近美術展に行くと、平面に空間を創造することの異様さが気になって仕様がない。
例えば、
遠近法というルールって、そこから微妙に逸脱する表象の「ゆがみ」をむしろ際立たせるツールなのかもしれない、
なんて思うほど、案外ルネッサンスあたりの美術は豊かに病んでいる。
あるいは身体の表象について言えば、19世紀の技法的に洗練されてきたものよりも、むしろバロック以前の人体表象の方が、
長すぎる、妙なひねり方の腕など、眼をいつまでもひきつけて放さない要素に満ちているように思う。
マニエリスムはその代表であって、異端じゃないのでは。

ぼくのなかで具象表現の異様さが目に付いてきたのは、ダンスを集中的に見るようになったことと関連しているように思う。
「要は動きなんだ」と思ってしまうのだ。
モローの「出現」がもつ強烈な力も、
キリストの首のようなものを指差す、足をクロスさせた女のポーズに多くを負っているのではないか、動きの瞬間を閉じ込めたような。

ところで、
上野に行くなら夕方がお勧め、西洋美術館前では、キリンジの弟のような顔したジャグラーのよろしきパフォーマンスが見られます。
光るゴムボールが闇に消えた手の中でぐるぐる回るだけで十分「イリュージョン」だった。



1116(Sat)

昨日は用事を済ませた後、レイトショーで自由が丘の武蔵野館で
《高校大パニック》を見た。
(1978年にっかつ、監督:澤田幸弘+石井聰亙、出演:山本茂/浅野温子ほか)

九州大学に進学することのみを至上命題とする進学校の屈折。
ある暑い日、クラスメートの自殺した日に、数学教師を殺そうとライフルを盗んできた学生が、
教室でぶっ放し、女生徒を巻き添えにしたうえに図書室に立てこもり、さらに騒動を重ねていく。
テーマはシリアス、多分当時社会問題化していた「受験地獄」を取り上げ社会派
映画を作ろうという魂胆もあったのだろう、だが、
内容はほとんどナンセンスなアクションの連続に満ちていて、面白くて楽しくて可笑しい。
その勝利は定型の感情表現によって善悪を描こうなどとは決して考えていないところにある。
一緒に見に行ったAちゃんが、《害虫》と比較してイイと言っていたように、
最近の映画によくみられる高湿度の「暗さ」からは無縁の、カラッと、ただひたすら人間の動き、顔の表情の面白さを
堪能することのできるスゴイ青春映画なのだ、この映画は。

圧巻は、ライフルを手にした少年が廊下や階段を走り回るところ。
隙を見て避難する生徒たちが階段を一斉に下りていくところにライフル少年が飛び込むようにして駆け上がろうとする。
最も避けなければならないものに飛び込まれた集団の混乱は、《戦艦ポチョムキン》の群集のシーンにも負けない
圧倒的な迫力と衝撃。もう人々は非人間的な「ブツ」と化して階段を転がり流れ落ちる。
昆虫のよう、あるいは嘔吐をもようした食道のよう(そりゃ内側から見たことないですが、イメージとして)。
廊下の角から発砲してくる少年に怯えて、頭を抱えてお尻をもぞもぞさせている生徒たちの動きは芋虫の如き。
もうこれは肉体の映画と形容するほかない。

人質にされた女学生(浅野温子)の母親役で出てくる宮下順子は、
狂乱し茫然自失する様子をあらわそうと、周りの人々に腕をつかまれながらひたすら
無脊椎動物のような動きでぐるんぐるんからだを揺らす。
悲惨さを感じるよりもこっけいで身を捩じらせ笑わずにいられないのは、理屈(物語)以前に動きがこっちに迫ってくるからだ。
あるいは体液の映画、全員がまさに玉のような汗を顔に湛え、シャツをジットリぬらし、時には排泄もそのまま描かれる。
これがインディーズでもなんでもなく、にっかつのロードショー映画だったというのだから、恐るべき1978年。
(ネットで調べてたら
「数学出来んのが何で悪い!」と叫んで教師にぶっ放すところはCMで使われていたという、、、凄すぎ!)


ところで、この年あたりにあの五人が拉致されたんだよな。
その後の日本がいかに管理化を徹底させていったのかはこの映画を見れば分かる。
そう考えると北朝鮮と日本とでどっちが生きていて幸福なのかは簡単には答えられないような気がするんだけど。



1115(Fri)

昨日外に出たときに、
ライナー・ローター『レーニ・リーフェンシュタール 美の誘惑者』(青土社)
鶴見済『檻のなかのダンス』(太田出版)を買った。

後者の「ダンス・ムーブメント完全解説----体の反乱」という一編が面白かった、です。
レイブ(乱痴気騒ぎ)とドラッグを愛し、ドリル(「一言で言えば「体をビシッとさせること」で躾けて、大人しくさせる技術」)を激しく
嫌悪する。故に刑務所暮らしに陥ったり、近所の小学校との争いなどが絶えない鶴見氏が、
頻繁に用いるのが「ダンス」というキーワード。
彼にとって「ダンス」とは、
「体を好きに動かすこと」であり、
「体を揺らしたり、ウロウロしたり、頭を振ったり、グルグル回ったり、手や足をブラブラさせたり、
といったでたらめな動き」をさす。
ダンスは彼にとって単なる芸術ジャンルじゃあない。
この世の「監獄社会」から逸脱し解放をめざす生き方の象徴なのだ。

「監獄社会に生きる我々は、生まれつき囚人だ。だけど「苦しみながら生きる」
ために生まれてきたわけじゃないはずだ。奪われたものは自分で取り返す。ダンス。
監獄の閉塞感を消すのは、体の解放感だった。体の管理が苦しければ、楽に解
放してやればいい。もちろんそのための手段はダンス以外にも、いくらでもある。た
だ、それらの象徴がダンスだと言いたいのだ」。

そうそうそうと思う。基本的には賛成だ。
「ダンス・ムーブメント」のなかで特にレイブ系のパーティーを通してダンスを語っているのだから、このスタンスは当然(自然)だろう。
こういうダンスをふつうはダンスと呼んでいるよね、「劇場のダンス」なんてその一部ですらない。
ぼくは基本的にはこのスタンス見落としちゃまずいよなと思っている。ダンスはもともと踊るものなのだ(見るものじゃなく)。

でももしコンテンポラリーダンスがこのダンスよりも優位をもつことがあるとすれば、
管理に対する反省が深い点に求められるのではないか。
鶴見的ダンスだって、ほんとは管理から完全に自由ではない。
彼自身も指摘しているように、
「踊っている時は全員DJの方を向く」というような「自発的ドリル」があるのも事実だからだ。
ダンスはどこまで自由でありうるのか、この問いに誠実に応えようとすることが
コンテンポラリーダンスの課題のひとつじゃないのかな。



1113(Wed)

今日(13日)は、
《音楽舞踊全交感大網》
鈴木美紀子×手塚夏子
千野秀一×ヤスキチ
を見てきました(@中野、Plan B)。

生(ライブ)の音響とダンスの絡みは、最近よく見るケース。
9月の天野や、10月の丹野賢一、11月の枇杷系など。
とはいえ例えば、VACAの試みは一貫してこの絡みの問題に関わっていると言えるし、
一過性の流行などではなく、むしろダンスの問題系のひとつと見なしてよいものだろう。
パターンとしては音響の人に負けてしまう場合が多い。そういうの見ていると、音楽の方が観客に伝わる速さが速いような
気がする。ダンス側が動きをもぞもぞと組み立てている内に音楽は「ぱぁーん」と答えを与えてくれる、そういう違いが露呈する。
基本的には音楽が「主」でダンスが「従」なんだよなあ、と思わされてしまう。まあ確かに、音楽からダンスが生まれることはあっても、
ダンスから音楽が生まれることはきわめて希だろう。じゃあ、手塚、ヤスキチはどうだったのか。

  手塚の場合  
鈴木は、ギターとドラムマシーン(細かいことは分からないが、テープにとったビートをその場で加工するという方法だった)の人。
リバーブとディストーションでエフェクトしたポップ且つノイジーなギター音とバスが
比較的しっかりしたリズムを作る(でもスピードも加工されてぐちゃぐちゃしてる)ドラム音。
そこに手塚は、赤い長袖シャツに黒いズボン、赤いスニーカーであらわれ、床に手作りの紅葉を数枚散らし、直立した。
今回はともかくこの直立の姿勢で、つまり下半身は基本的に安定し、
主に上半身が手塚的ふるえと痙攣を起こす、そこに徹したようだ。

シンプルな衣裳が、ギミックのない、素手の勝負を感じさせる。
もともと身体の内側に起こる指令の連鎖を身体のなすがままに任せて、その動きをダンスする手塚の方法は、
「交感」というプレイをこなすポテンシャルをもっているはず。それに今年の彼女を見てきて、
彼女は一貫して外との交感をやってきたという印象もある。
ただしこれまでは必ずしも成功ばかりではなかった(例えば《ダブルス》のデュオとか)。
今回は、手塚の体を介して、鈴木の音響の手触りがさらに増幅されてくるように思えた。
「フラワーロック」のような直接の応答ではなく、
手塚の身体という変換機は音を増幅し加工し別の形であらわしてくる。
ひとつの作品として捉えるならば、展開や見所に乏しいとかいうべきかも知れない。
けれども、ひとつの実験として見るなら、手塚の方法の際立つ時間が構成できたと思う。
最後にノイズの混乱とともに、腕を体いっぱい広げて震えた瞬間は、両方向からワイヤーで引っ張られ
あとちょっとで腕が千切れてしまう寸前のような、強烈なシーンだった。
アンダーグラウンドなフィールドでの体力が明かされた公演だった。
あともうひとつ思ったのは、手塚のダンスは音楽系の人が見てもカルトさせる力があるんじゃないかということ。
ここに「ロック」や「パンク」や「ノイズ」を見ることはできるだろう、それらにあって「核」になっている何かを。


  ヤスキチの場合   
この人、9月のラボのときに見て以来。あのときには不満をここに書いたけれど、「なんか気になる存在」であったことも事実。
この人のやり口は何なんだ、と。
半そで半ズボンでやんちゃな小学生が放課後の児童公園で遊んでいる、
そんなたたずまいで、時折、観客になんかポツリと話しかけてくる。
顔のみならず、服にまで振りかけたラメとか、「ここにはねずみが通りマース、気をつけてね」のような言葉とか、
なんかただふざけるだけなのかなあ、と思いきや、不思議と引き込まれる独特の感覚がある。
全身でひとつのことに集中する、のではなく、ダンス的な動きのなかにも何か変な余韻が残る。
それは例えば日常生活を題材にしたような現代詩を読むときの「行間」に漂う「何か」のような。
そんな気配は千野のバンドネオンやおもちゃのピアノのもつ枯葉のごとき質感に拠るところも大きいだろう。
独特の感情の漂う空間を共有できている、成功した「交感」といってよいだろう。案外大人の会話になっている。
ただし単独でやる公演を見ようとまで思えないのは、何かそこに強い「方法」が感じられないからだ。
そこはぼくにとって手塚との明確な違いになる。



1112(Tue)

忙しさにも一段落ついてきたところで、
最近、移動の途中で読む本をごそごそと本棚で漁ったりするようになった。
そこで今回手にとったのは柄谷行人『隠喩としての建築』(講談社学術文庫)。

柄谷に関しては、逃れようもなく自分が「チルドレン」なんだなと感じることがある。
「フォロアー」と言えるほど丁寧に読んで自分の思考に反映させようとしている訳ではない。
でも気づくと、『探究』のあの箇所じゃん!っていうことを自分で言っていたり。
否応なしに「カラタニ」が自分の中に血肉化しているようだ。

ぼくが大学生で映画サークルにいた時(’93年頃)、先輩に「読んでないのお?」と馬鹿にされて、
くやしくて読んだのが『探究』だったな。バフチン=ドストエフスキー流(?)のポリフォニックな映画が撮りたい!
などと夢見たこともあったっけ。

それはそうと今回、読んでて「ふぉっ!」と驚き興味をもったのは、「リズム・メロディ・コンセプト」と言う小考。
文章末に「掲載拒否、本書初出」とあるので、この本でしか読めない「レア」文かもしれないけど、
何度も読んでいたはずなのに、これまでこんな文章があるなどとはぼくは知らなかった。
何が「ふぉっ!」なのかと言えば、坂本龍一に触れられた後で、さらに細野晴臣の次の言葉が引用されているからだ。

「現在、音楽はくさる程つくられているが、三拍子そろったものはあまりない。その三拍子とは、(1)下半身モヤモヤ(2)みぞおちワクワク(3)頭クラクラである。(1)(2)はざらにある。(1)は端的にいえばリズムであり、(2)は和音、メロディということだが、(3)はクラクラさせるようなコンセプトである。これはアイデアの領域を越えた内からつきあげてくる衝動のようなものであり、私の最も大事とするもので、これを感じたものには、シャッポを脱いで敬礼することにしている」。

笑っちゃうのは、柄谷がこれを引っ張ってくるのは、「リズム」と「メロディ」だけの小林秀雄について、その「コンセプト」の不在に理解が及ばない大江健三郎の小林賛美を批判するという文脈においてなのだ。大江健三郎って基本的に「ださい」人なんだよね。それを彼の隅直なまでの真摯さと誤解して愛するのが、ファンというもの。まあそんなことはいいとして、もちろん「コンセプト」という概念を援用して柄谷が示そうとするのは、「アイデアの領域を越えた内からつきあげてくる衝動」の「差別(差異)」のことであり、単独性なのである。

そういえば、以前日記にも書いたタワレコ・インストアライブのときにも、
「みぞおちワクワク」という言葉が細野・高橋の口から語られていた
(彼らいわく、今回のCDは「みぞおちワクワク」なのだそう)。

柄谷が文芸批評に応用したように、これをダンス批評に応用してみたらいいのでは。
(1)(2)は、ダンスにおける「見えているもの」、と考えられるだろう。
そこには様々なバラエティが可能だろう。
けれど、それはあくまでも素材に過ぎない。
スゴイ上手い文章をすらすらと書いてしまう小林秀雄のように
しなやかな身体を存分に披露するダンサーもいるだろう。でもそれは、小林になぞらえれば、ホントのところ
「何にでもあてはまるようにみえるが、何一つ固有性(差異性)を示せない」(柄谷)ダンスに過ぎないのかもしれない。

「下半身モヤモヤ」「みぞおちワクワク」「頭クラクラ」
カント的に言えば、主要な三つの美的な快が全部そろったようなこんな作品、ダンスでもやっぱり見てみたい。
その欲望は、ダンスにおいても、「アイデアの領域を越えた内からつきあげてくる衝動」を体感したい(クラクラしたい)ということに尽きる。
そこにのみあり得る、唯一の単独の時間と空間、ものの、動きの実質、それが目の前にさらされてあること。
で、要はここで言われる「内」がどこにあるかなんだけれど、これを
本当の私はどこにいるの、って単純な「私探し」としてするのじゃなく、
彼方にある未知の「内」をでっち上げ(名を与えてみて)、それをどう切実なものとして呈示するか
と考えること、これが大事なんじゃないか、ね。


今日『Invitation』という雑誌を買った。
かなりコンテンツのいい、批評の詰まった雑誌。
ロメールの新作を「映画狂人」が書いているので、気になって買ったのだけれど、
こういう雑誌にダンスも扱ってもらえたらなあっとめくってたら、桜井圭介氏が《踊りに行くぜ》前橋編を批評してた!
裏(いやこっちが表?)テーマは、プロセニアムアーチ=モダニズム批判(=ダムタイプ批判)でした。要チェキ。


1111(Mon)

昨日はあまりに運動不足なので、夕方、買い物がてら秋葉原までてくてくと歩く。
ひとつの目的はデジカメを買いたいと言うこと。
HPのためにもあると色々と役に立つかなあと思ったのだが、
結局買わずじまい。
前から気になっていたことなんだけれど、デジカメの画像って、ソフトフォーカスがかかっているような
ピントが甘いのとは違ってかなり人工的な感じがする。
映像のフェティシズムからすれば、これまでのフィルムの画像の方が僕は好きだ。それでちょっと尻込みしてしまった。
他の人はこういう違いをどう思っているのだろうか。

昔「着メロ」というものにそういう違和感を感じたことがある。
「ダサイ」はずのものが気が付くと「フツー」になっている。
その前では「カラオケ」にもそんなこと思ったっけ。
これはパラダイムチェンジというべきなのか、それともやっぱり日本人(いや世界の人々)がださくなったのか。
なんていってて、しばらくすればなんてこともなく僕もデジカメを楽しんでいるのかも知れない。
そして、
そうなってしまったらこの違和感もどっかいっちゃうんだよね。



1110(Sun)

歩いて20分くらいのところだったので、昨日ふらっと行って来ました、
「ビデオで見るダンスクリニック−ダンスの作り方診断書−」(@千駄木、ブリック・ワン)。

榎本了壱が持ち込みのビデオを診断する。
話で面白かったのは、バニョレなどで審査用のビデオを80本とか見ると、40%くらいに共通した病があるのだという。
それは、
(1)静止した状態あるいはゆっくりとした動きから始まる、
(2)後ろ向きから、あるいは暗い照明から始まる、
というパターンだそう。

そしてその原因は、榎本氏の解釈に従えば、ダンサーが作品を作る際のスピードに由来する。
「タイトルは決めたけれど、さあどうしようかなあ、まず腕をこう、振ってみるかあ」と作品を作るプロセスで四苦八苦しているエスキスが
そのまま作品に反映されてしまった結果だろうというのだ。
なるほど。そしてそれが問題なのは、
考えながらゆっくりと語り(踊り)出す、その語り(踊り)のスピードと観客の見る欲望のスピードが同期しないことにある。
見ている方は、ともかく「それって何?」と結論を求めているのに、いつまでも曖昧な「それ」が反復されるだけ、
それでは見る側の欲望は萎えてしまう。
だからといって、ともかく早く、ある程度速い動きをした方が良いって榎本氏が断言するのは、言い過ぎ!とも思うが、
でもこの欲望のズレって言うのは、かなり当たっていると思った。
(この前TBSの面白キャラ安住アナが、会議では15秒以内で主張しないと誰も聞いてくれないと言っていたのを思い出す)

「表現」とか「芸術」とかっていうお題目にすがってか、基本的なこと忘れがちになるパターンあるよな。
会話だったらまず一番大事な話からするよね、かまかけて焦らしたり、しかるべき時をうかがう場合もあるわけだけどさ。
会話になぞらえれば、ダンスの作法というのは洗練されてくるに違いない。

あと、もうひとつ興味を持ったのは、榎本氏が「裏原宿のスニーカー」を踊るってこともありだと言った辺り。
ぼくもホントにそういう踊りみたいよ、そして何でそういうの出てこないの?と不思議に思う。
ダンサーの教育システムに何か問題があるのか、あるいはダンサーになりたいという動機にすごく保守的なモノがあるのか、
あるいはダンサーを目指す人はパーセンテージとしてダサイ人が多いとか
(いや、そんなことはないと思う、ただ母数が少ないからそう見えることもあるかも)、、、。
でも、例えばフツーに音楽だったらそういう着眼点の曲は沢山出てきている訳で、今僕が思い出せるもので言えば、
トライセラトップスは、2,3年前にその頃渋谷界隈で流行っていた「ゴシックリング」について唄っていた。
なんでダンスの場合だと途端に「森羅万象」を踊るなんてことになるの??分からない。
トライセラトップスが特別優秀なグループとは思わないけど、「ダンスのトライセラ」の様なグループがなんでフツーに出てこないんだろ。
そういう意味で、榎本氏がニブロールを称賛する気持ちは分かる。
でもニブロールのやっていることはまったくフツーの当たり前のことなんだよね。



1109(Sat)


おととい(7日)、枇杷系ダンス公演《翔ぶ娘》を見た(@天王洲スフィアメックス)。

山本容子の版画のような動物や子供の絵の描かれた白く細い幕が十枚ほど垂れ下がっている。真ん中には果物を置いたプレートがある。ファンタジックなイメージ、そう言って期待することも出来るし、すでに見慣れたありふれたイメージと醒めた目で見ることも出来る。要はダンスなのだが。

枇杷系の「特性」とも言うべき、モノをもってきてそれと踊るというパターン、
それは「モノ」と「わたし」の間を縫うように踊りが時間を織り上げてゆくという仕掛け、とも言い換えられるだろう。
この仕掛けが効果的に機能するのは、二つの対話がそれぞれの輪郭を揺るがし、再構成し続ける場合に違いない。
単に振り付けとして気軽に踊りきってしまわない、問いと応答の繰り返しの動きが、
いわば実験の内実を湛えて舞台にのるのならば、それは十分に価値のある作品ともなり得るだろう。
ただしこの仕掛けを理解しこなす力量が踊り手の側になければ、見る側は
凡庸でいつまでも転がっていかない「モノ」と「わたし」の観念を、ただひたすら退屈しながら傍観することになる。

山田せつ子という「舞踏」の遺伝子を自覚的に受け継いだ希有な指導者の、
このまっとうな舞踏観に基づいた試みそれ自体は、批判されるものではないと思う。
でも上演されたものは、残念ながらその意図を十分に活かすことの出来ないものだった。
その原因は踊り手の力量不足にあるのか、あるいは枇杷系のもつ独特の体質によるのか、
それともそれ以上に「舞踏」という方法の限界ということなのか。

この問いに答えるよりも、ちょっと気になっていたことがあるので、それについて書いてみたい。

ぼくのなかでは、黒沢美香という人は、先に書いたような舞踏性を十分に咀嚼しているひとりだ。
先月のマンション公演や仙川での公演を通して、かなりの作品数を見たことになるが、
黒沢の主な作品は基本的な約束事を一つ決めてはいるが、それ以外はイメージの
あらわれるがままに即興的に構成される。このイメージがモノ
(例えば《椅子のアリア》で言えば椅子)や衣裳(《アクタイオーンの水浴》での毛皮のコスチュームや《ROLL》での張りぼての衣裳)
に動機づけられることもあるだろうし、純粋にストックしてある持ち駒
(自分だけが理解できる「貴婦人」「ゆり」というイメージがあるらしい)が動機になる場合もある。
黒沢の踊りを見ていてぼくが思うのは、どんなイメージを彼女が見ているのかこっちには皆目分からないのだけれど、
それでも何かのイメージと黒沢が繰り返し対話し、その対話の得体の知れない奇怪さが踊りになっているということは伝わってくるし、
それが唯一無二の魅力になっているということだ。
「奇怪さ」と書いたけれど、つまりこの対話は、機知に溢れた言葉遊びのような転がりを見せてくる。
出口→はかつてのノートのなかで、ダンスの言語ということを言っていた。
黒沢の面白さはダンスという言語を通して、この不思議な対話を展開し続けるところにある。
そこで重要なのは、「わたし」も「モノ」も固定しないで、どんどんブレたりズレたりしてゆくことだろう。
そこに必要なのがユーモアだとしたら、ユーモアというのは、ただ笑いのためではなく、
関係を転がしてゆくための必需品と考えるべきかも知れない。

ここで枇杷系に戻れば、足りないのはそう、ユーモアなのだ。「モノ」と「わたし」の関係にも、枇杷系の山田せつ子とダンサー達との関係にも、ダンサーと「舞踏」との関係にも、きっと。



1106(Wed)

エリック・ロメールの《恋の秋》を見た(@ラピュタ阿佐ヶ谷)。偶然の映画。ひとりのブドウ畑を生業にする中年の女性に、同年代と若い友人がそれぞれ恋人を捜してあげようとする話。若い友人は以前自分が恋していた哲学教師を薦め、同年代の友人は新聞広告で見つけた見知らぬ男を会わせようとする。これは見事に図式化できて、前者が知性の側に後者は直観の側に立っていると言える。つまりロメールは、恋の出会いは理性的に可能なのか直観(偶然)がなければダメなのか、と謎をかける、そして後者に軍配をあげる。「恋」がテーマかよって引いてはいけません。これは偶然の映画であり、偶然はどう表象されうるのか、の映画なのです。じゃあどう表象されるのか?それは驚きととまどいと喜びの表情によって。あるいは不意にここに「私」がいて「あなた」がいるという物理的な存在の配置として(「コインシデンス」ですな)。そう偶然の映画は、意識に対して無意識を重んじた二十世紀の思想(例えばシュルレアリスム)のロメール的展開ともいえるのだ。いや逆転させて、二十世紀の思想というものがそもそも「恋」の構造をもっていると言うことも出来るかも知れない。確かに、ブルトンにとって核になるのは「愛」の概念だった(鈴木雅雄)!


1105(Tue)

東金の自宅で、土方論文の書き直しをだらだらしながら、ふと思い出したように本棚から取り出した『ダンシングオールナイト』。ここにすんごい面白い箇所があった、「あて振り」の話。ちょっと引用させていただきます。

「特に日本語は歌舞伎音曲と結びついたとき、異常なほどの「遊び」を見せる。適当に例を作ると「そいつは言わぬが馬鹿貝の」みたいな「遊び」。「言わぬが花」が「イワンの馬鹿」になり、それがさらに「馬鹿貝」にまで滑っていってしまう。この「言語の滑りやすさ」はそのままダンスなんだと僕は思う。特に言わぬが花の「花」が帰結せずに保留され、「馬鹿」の中に溶けていきながら居場所を永遠に失うあたりが。だから、「あて振り」こそがその言語運営上の伝統をよりよく体現する踊りだとは言えないだろうか。さらに、「花」と「馬鹿」をつないでしまうような体の動き、つまり音の連想でしか関係のないものを抽象的にごまかして結びつけてしまう所作こそが、ひょっとすると日本舞踊のイディオムを形成してきたと考えることは許されないだろうか。ちょっと踊ってごらんよ、「そいつは言わぬが馬鹿貝の」って。ごまかしの部分で体が妙なダンスをすることに気づくから。」

これ、いとうせいこう氏の言葉なんだけれど、ここで言われていることがまさに「ダンス」なんだよなあ、これわかんない人とはダンスの話したくありません!って感じ。フォーサイスがほの見えたりするけれど、そう特定して楽しむより、ほんとこれを踊ってみること(僕なんか全然踊れないから、踊っていることを想像してみる)が大事でッスよね。言語と身体という二つの異質なもの同士が踊りの中で奇妙な想像力を共働きで体現する。いいな。こんな踊りが見たい今日この頃。



1103(Sun)

ずいぶん時間が経ってしまいましたが、研究会での発表、お越しいただいたみなさん本当にありがとうございました。
今後、「暗黒舞踏論の木村」になるのかどうかは本人にも分かりませんが、
これまで漠然と「こういうことなのかな?」と感じていた「舞踏」観が、ある程度まとまってきてスッキリしてきました。
さあ、じゃあこれどこに発表しようかなって、そこが問題なのですが、、、


久しぶりに、というか義姉さんも含めた家族全員でははじめての旅行、車で伊豆長岡に行って来ました。
伊豆の温泉って「昭和」なんですよね、世界が。夜、静かな温泉街を散歩すると、時々歓声が聞こえてくる、射的ですね。射的、的でズラッと横並びになっている腰をくねらせた粘土のヴィーナスとか、景品の人形とか(誰がもっていくんだ、酔っぱらい親爺の日本人形!)、切ないほど「終わって」いて、けれどその廃墟で店のおばちゃんと盛り上がる、一旦灰になったものにもう一度火をつけてみる、夜。







 

 

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