日記バリのことダンスの経験ダンスの思考/哲学と美学/BBSAbout/Link/Top
Papers過去の表紙コウギ(’03)

過去の日記はこちらから
200209 200210 200211 200212 200301 200302
200303 200304 200305 200306 200307 200308
200309 200310 200311 200312 200401 200402
200403 200404 200405 200406 200407 200408
200409 200410 200411 200412 200501 200502



  
サイト内検索つけました(こりゃ超便利だわ) とりあえず知りたいことの載ったページまで行けます


(200501)

03 新たなる凝視/04 中華街の初詣/08 『カンフー・ハッスル』/11 アニメ責め/13 ぶらり/15 前田英樹『倫理の力』/16 伊藤キム『壁の花、旅に出る。』/21 『The Freshest Kids』/22 『マルセル・デュシャンと20世紀美術 展』・横浜ダンスコレクションR(山田うん、ジョン・ヨンドゥ)ラボ20#17/23 横浜ダンスコレクションR2(康本雅子、森下真樹)/27 横浜R 大橋可也/29 ソロデュオ一日目/30 ソロデュオ二日目

 *ダンスは赤字


□0130(Sun)


横浜ダンスコレクションR 横浜ソロ×デュオ<Competition>+のソロ×デュオ部門二日目を見た(@横浜赤レンガ倉庫1号館)失念してしまったので順不同。

チェ・スジン「Mind Game」
エレキ・ベースの男、リフを刻む、そこにピアノが絡んだ、と思うとダンサーがさらにその空間に割ってくる。ジャズの即興演奏にダンスも即興的に入りこんできた、という感じか。ベトナムというかチャイニーズというか、ゆったりと長いシルクっぽいシルバーな衣装がちょっと前の時代な匂いを嫌でも漂わす。「ジャズ」「即興」そういうアイディアだって同じこと、そのあたり古い感じであることはそうなのだが、それでも身体の迫力で見せる。振りもハッとする新鮮さがあるとは言えない。だが、いい楽器でいいメロディーを奏でられて嫌な人はいない、そういう「まとも」なステージ。それにしても、昨日のシン・ソルといい、「背が高い」というより「大きい」ダンサーが多いのか韓国。

昆野まり子「into」
いわゆるモダンダンスの世界の作品。もし予選の段階でモダンダンスを選出したのであれば、それなりのモダンダンスの意義を選考者たちは感じた上で、選んでいるはずであろう。ならば、この作品がダメな理由、あるいは良い理由をそれなりに聞きたいものだ(審査結果は下記になるように「無冠」となった)。ぼくからすれば、あまりにもイージーな映像の使用、万華鏡のような映像効果を三枚の等間隔の距離で置かれ重なってもいるスクリーンに映す、きれいだが中身を感じさせないこういった道具立て、「よくうごく(ある幾つかの方向に限って)」ということ以外には見る者に何かを感じさせることのない振付、これがどういった理由でこの場に選ばれているのだろう。帰りの電車でモダンダンス系の批評文を書いている方と話をしたが、どんなに言葉を重ねても、そのあたりが一向にはっきりしない。要するに、ぼくの知りたいのは、「モダンダンスはいまステージで見るのにどんな意味があるのか」ということ。このことは、美術系で例えれば「院展」の作家を見るのにどこを見たらいいのか分からない、というのににているかも知れない。上記のモダンの批評家は、歴史的文脈からしてこれまでのモダンの世界では禁じられているようなところに踏みだしている、点を評価したりしているのだが、それは、モダンダンスという狭い枠のなかでうんぬんしているだけのことではないか。例えば、2005年の世界で、真面目に「印象派」という絵画スタイルがあると思い込んで、そのなかで自分がどれだけ斬新なことをしたのかを評価して貰おうとコンペに出す人がいたら、それはかなり滑稽だろう。第一に、「印象派」しか今現在の絵画として知らないとすれば、あまりにも浦島太郎的な事態であるという他ないし、第二に、そもそも「印象派」というものがカッコとしたもの(スタイル)としてあると思い込んでいるとすれば、このことは、単にイデオロギーとして単に観念的なものを本当に実在すると信じ込んでいるマチガイを犯していることになるだろう(こう言ったとしても、セザンヌはいまやリアリティがないといった結論にはまったくならない。セザンヌはそれ自体として優れているのであり、そのそれ自体として優れているはずのものをスタイルとして考えて追従してしまうひとびとの「おてつき」をぼくはここで問題にしているのである)。
だれかぼくに「モダンダンスの現代的意義」について教えてください(真剣に言ってます、別にアイロニーはゼロ)

高瀬譜希子
で、そのモダン系批評家によれば、この19才は優れた遺伝子をもった期待の星的なダンサーだそうだ。このダンサーが選ばれた理由は、ならばどこにあるのだろう。確かに体はすごく柔軟によく動く。ディズニーアニメ的な柔軟さ、なめらかさ、わかりやすさ、イージーさ(美しいものというのは、ごりごりしていなくてつるつるとのどに直ぐ通る、そういう意味で)。ミュージカルなどで彼女を見れば、適材適所だという思いで楽しめるかも。けれど、作品としての質は低い。ここでいう「質」は「ダンス」という概念をどこまで考え抜いたか、その深度を指している。

三浦宏之「第三惑星怒れる男・たびお・愛の短編」
この作品は、踊りに行くぜ!!予選会東京編で見て、今日で二回目だった。前回と同じように、コント的な場面(ダメ男+今回は9.11的なエピソードが目立つ)とダンス(柔軟だったり、がっちりした「男子体操」みたいな、まあモダンの流れのものか)とのマッチングがまったく理解出来なかった。それ以上に、マーシーが好きな人はあんな雑なやり方でマーシーの曲を使わないだろ(だってパンキッシュな曲で優雅なジャンプしてるのだもの)、とか、9.11をそんな簡単に利用してよいものか、とか。すべては「ステージ」ってもののもつ節操のなさ、繊細さのなさのせい。だから「ステージ」は嫌いだっての。

伊藤真喜子「台風 −run away In all directions−」
これも三度目かな。ピアノのイスがある、そこにすわる。立ち上がろうとするとピアノ曲が流れる。パッと坐ると消える。この繰り返しをする。なぜ、坐ると消え立つと鳴るのか。その「不思議」がファンタジーというか白日夢のボケ味みたいなものを全体的に醸してゆく。けど、この因果性は、単にファンタジーではなく、音響との関係のもとでできあがるプレイであることも匂わす。そこですっーとひとりあそび的空間が劇場の仕掛けの事柄と二重写しになる。今回の「台風」で、一番特徴に思えたのは、こういった複雑な構成だ。からだは、ちょっとふっくらした感じなので、「デリケート」というよりも、やや奔放なニュアンスもある遊びに映る。それがしかし舞台という空間の中のひとつの存在であることもきちんと開いている、そうだから、後半の白い紙風船が散らばっている舞台でくるくると回ると、風船が揺れるのは、ファンタジックであると同時に実際に舞台に風が起こっているという出来事としても「ある」。そこがよかった。決して1日目の岡本に引けを取らない作品。審査員が最終演目だったのでお疲れだったのかな。


結果は(これも賞の正式名称が覚えきれなかったので正確ではないです)、
フランス賞(?) 岡本真理子
未来に輝く横浜賞(?) 東野祥子
ナショナル協議員賞 濱谷由美子 チェ・スジン 三浦宏之
でした。
東野さんをみなかったこと、あとで後悔。ビデオでダイジェストをみたが、SM的な雰囲気をいろいろなダンスを使ってショーにしてみました、という印象を持ったが、定かではない。岡本とチェは順当、濱谷よくぞやった!三浦ぼくは違うと思うよ、といったところ?是非、『ダンス・マガジン』誌上ででも、各審査員の講評を公けにして欲しい。



□0129(Sat)


今日はいろいろと書き留めておきたいことがあるので、スピードつけて。

午前中に『MIND GAME』を見た。
情報はこちら。監督は湯浅政明。前評判は聞いていたのだけれど、なんとなく見逃してしまっていた今作。反省です。おっもしろい。 「ツイストの効いたギャグセンス」とか「奔放な発想によるデザインセンス」とか、いろんな言い方が出来るでしょう。賛辞は作品を見ればおのずとだれもの心に生まれてくるでしょう。だから、パス、して、どこが一番「いい」と思ったか、絞っていうと、過去の映像のフラッシュが現在のなかには偏在していて、あらゆる行為はそのフラッシュの影響というか促しというか、のなかにある。こういうことを、アニメらしい一秒ほどのシーンの連なりでどんどん積み上げてゆく。極私的な内容も、社会現象もそのなかには含まれていて、様々な情報が渦まいて心の中に混沌を作っていて、その混沌が何かをする時に作用する。こういうことを、さらっとエンタメでやってしまうっちうのは、スゴイ。主人公はなぜか今田耕司だし(もうその時点で、さまざまな記憶を揺さぶられてしまう)。現在(2004−05年)を語る上で、欠かせない一作であること間違いなし。

それで午後、横浜ダンスコレクションR 横浜ソロ×デュオ<Competition>+のソロ×デュオ部門一日目を見た(@横浜赤レンガ倉庫1号館)。

岡本真理子「スプートニクギルー」
直径二メートルくらいのレールが円をつくるなか、四角いミニ冷蔵庫に腰掛ける岡本。暗いなかに光がポツリ。置くにも同様のやや円周の短いレールがあり、時折列車が走る。寒々とした、何か「シベリア」のようなイメージの世界。遠くで狼が鳴く。走る列車の音。静謐さの中にある音の存在。そういう存在にきちっとつきあいのできるひとだ。岡本のこういう微妙なものを尊重する舞台の姿勢は、そう、「絵本のようなファンタジックな世界が好き」とかいったレヴェルとは異なる強さをあたえる。それは、「つきあい」を大切にするということではないか。ところであいつは?といったように、不意に以前冷蔵庫に入れたブーツの片方を取り出してみたり。そういう、つきあう、ほっとくけどおもいだす、「あっ」と気持ちが振りかえる、こういう「気持ち」レヴェルで色々なことが起きているところが岡本の豊かさなのだ。正直静謐すぎる世界にうとうとするときもあったが、堂々と自分のこの微妙な手つきを舞台に置いてみせる岡本は、ほんと現在の日本のコンテンポラリーダンスに欠かせない人、だなと思う。

三好絵美「Sinking Float」
何度彼女のこの作品を見たろうか。7月にトヨタ関連のショーイングでみたときよりも、遙かに精度が高まっていて、彼女の持つ技巧の高さを感じさせた。スポットが手にだけ当てられて、指一本一本を細かく動かすところなんか、とくに。冒頭の脚と腕のユニゾンとかも、ね。スゲーんだけれど、「スゲー」っていわれることがゴールではないはず、だとすればどうすればいい?といつも思ってしまう。努力賞があれば確実に彼女にあげるべきだと思うのだけれど。「技巧」はひとを遠ざける作用を及ぼす場合があり、圧倒すればするほど、「芸」として称賛はされども、観客との距離感を一定で遠いままにさせる。


シン・ソル「逆へ」
最初五分くらい黙々と踊る。「背が高い」というより「大きい」というべき体格を派手に大きく使って、力動的な運動を見せる。「うぉりゃうぉりゃうぉりゃ」という声が聞こえる感じ。その動きを促す彼女が強く信じているところの「ダンス」はぼくからみるとむしろ「スポーツ」に近い。「スポーツ」として見てしまう。力強いなあ、と感心する。でも、こちらには何も揺さぶりをかけてこない。この一定の距離感がやはり「アート」としてのダンスの距離感のように思われ、その「アート」の意味合いがしかも韓国と日本ではかなり隔たりがありそうだ、ということも感じる。と、突然しゃがむとダンサーの代わりにビデオの女性が踊り出した。鮮明ではない映像。なんだ?と気づくと終わっていた。あとで、これが前半のダンスを逆回転させたビデオだったことが判明。絶句。だから、「逆へ」なのか、、、。自分の判断力の低さにひどいショックを受けるが、そもそも逆廻しすることは「ダンス」とどう関わりがあるのだ?コーディネーターの方とお話ししたら、「逆廻ししてもそれはダンスであり得るか」ということがテーマだったらしい。でも、その問い自体がダンス作品に相応しい問いなのだろうか。それは「アート」のもつ自己同一性への問いに関わるものであっても、ダンスそのものにはまったく関係ない。ああ、だからアートはダンスに悪しき効用を及ぼしているっちうの。

長谷川達也「バランス」
ブレイクダンス系のスキルを使い、テーマで作品を作るモダンダンス系の頭で作った作品。ダンスはどうしても、エッジを丸くしようとするところがある。だから、鎖とか、拘束具みたいなアイテムが出てきても、それがもつ肌触りまで行きつくことなく、意味のレヴェルで利用され、そして結果重要なことはないがしろにされる。ないがしろにしているなんて本人はまったく思っていないのだろうな。だって彼はダンス作品を作っているのであって、鎖の存在論なんて、興味ないしそもそもそれを呈示する場じゃないって思っている、だろうから。ああ、だからダンスが嫌いなんだ。『The Freshest Kids』見てください、といいたくなる。

濱谷由美子「スピン」
今日はこの作品が抜群にいいと思ってしまった。濱谷というかクルスタシアの二人、何度か見ている。強い動きが特徴だが、どうしても、「女の体」でそれをやるので(アヴェMアリアの身体だったらそうはならないだろうところ)、柔な感じが払拭出来ず、これまでの作品は不満だった。要するにやろうとすることとやる身体の相性が悪い、気がしていた。今回も相性が悪いなと思わせる。大音響のブレイクビートがシンプルに鳴る、そのなかでややはやい激しい強い動きをひたすら反復する。ちょっと細かい動き、に踊っている本人がついていけなくなってる、おい、自分で振り付けたんでしょ。追いつけなくて、はしょっちゃったりしている。もうそのことが「ダメ」を通り越して面白くなってくる。追いつけない追いつけない、でもそこへぎりぎり体を合わせていきたい、いきたい、でも、だ、だ、だ、だめだ。「スピン」というより、「空回りしてしまいそう」という感じなのだけれど、それだけに、彼女たちが追いつこうとしている架空の身体のスピンが迫ってくる。本人たちがこういうことを意図してやっているかは分からないけれど、クルスタシアの正しい使用方法が、はじめてぼくに見えてきた、気がした。

セオキョウコ「セカイニタッタヒトリノニンゲン」
答えだけがそこにある作品で、見なくても最初の1秒見ただけでラストが見えてきてしまう、といった作品はときどきあって、それは作品は問いでなければならないということを語ってくれている気がする。もっといいのは問いつつひとつの答えを用意していて、しかもその一つの答えに対してみるものの解釈が開かれている場合。


ああ、ちょっと休もう。いつもの口福へ。おばちゃんとのトークに花咲く。

そして、帰宅後
『ぱんだこぱんだ』を見る(宮崎+高畑作品)。
実は『BT/美術手帖』の来月号は、アニメーション特集(ネタの中心は『ハウルの動く城』)で、ぼくはそこでアニメと身体運動の問題の執筆担当になっておりまして、その関係でこの一ヶ月くらいそうとうアニメーション見ました(というか、宮崎駿作品)。今日の朝みた『MIND GAME』もその一環といえばそうで、なかでも印象に残っているのは、大塚康生を扱ったドキュメンタリー『大塚康生の動かす喜び』。これは自分の幼少期のアニメ観がこのひとの腕によるものなのだということを再確認出来たり、ともかく見て良かった。で、一応ということで、幻の宮崎初期アニメ。パンダのキャラ、まじ村上隆じゃん(ちょうど最近やったニンテンドーDSのマリオゲームにも村上作品みたいなキャラが出てきていたが)とか、これは日本版「ムーミン」だな、とか。あとは、主人公の女の子が喜びを表す時に意味なく逆立ちしてパンツ丸みせするのだけれど、それはいいとして、その女の子にとってぱんだは「パパ」こばんだは「子供」で、そのことは、パンダ側からすれば、女の子を父として子供として愛せるわけで、一挙両得というか、宮崎の女の子への愛好を十全にかなえちゃうものなのなわけねって、解釈してみたり。




□0127(Thu)


大橋可也「Sister Chainsaw」を見た(横浜ダンスコレクションR)。
三人の女たちがそろそろとあらわれる、並んだ様子がある「深刻さ」を感じさせる。それとは対照的に美しいがスカンクの音楽。ミウミウの目が豊かに何かをあらわす。何かの表現であるというよりも、本当の何かに近似的に存在する。自分と演じる役柄との距離が強烈に近い。この目は、本当に何かを見てしまい、怯えている、という印象を強く与える。強烈に距離が近い、といったも、ただし、距離が消滅するわけではない。消滅するならば、この舞台なんかに立っていられない、ハズ。その意味で、どうしようもなく、「嘘を付く」行為でしかないのが、ダンス。とはいえ、「嘘を付いています」と余裕の距離をとり続ける限り、そこにはダンスはない。この「境」のようなもののことがずっと気になってみていた。
すごく形式的に見れば、暗黒舞踏とリンクさせて考えてみたり、ピナ・バウシュをすりあわせてみたくなる。どちらも「過剰」から始まる踊りであり、既存のダンスからの逸脱に端を発するからだ。そういうこと考えていると、この作品のこと以上にこの作品の批評の方に興味が湧いてくる。どういうふうに諸氏は批評しあるいは審査するのだろう。そうとう興味深い解釈を呼び込む可能性のある作品であろう。ただし、個人的には、アンチダンスがダンスへリターンするところの身振りが気になる。今作は、かなりダンス作品であることを重視して作られている気がした。最後の強く大きく振りかぶる動きは、集団でやられるとダンスという枠に充分当てはまる、当てはまる分、見る者を落ち着かせてしまうものだった。これで終わったという点で、物足りなさが残ったのは事実。



□0123(Sun)


横浜ダンスコレクションR関係、康本雅子と森下真樹を見た。
康本雅子『メクランラク』
「メクランラク」という呪文の如き言葉、これは繰り返しを指示する記号が付けられて正しい表記となるのだが、その繰り返しのメリーゴーラウンドは、「メクラ」と「クラクラ」「めくるめく」などのなんか重なっていそうなイメージをちらちら喚起させる。今日は、ぼくは「目」に強いものを感じさせるな、と思ってみていた。何度か見た(二度目?)せいか、あまりハッとするところがなかった。ぐずぐずやっている感じ、が、「良くも悪くも」みたいな言い回しを呼び込む気がして、それはよくないかも知れないな、などと思ったり、「ピン」と来ないまま、時間が過ぎていった。こういうとき、自分の体調のせいかな、と思ってしまう、そうかな。

森下真樹『コシツ』
去年夏に見た時よりも、細かい変な動きからダンスへという流れがなんの違和感もなく繋がっていて、それだからこそ、このひとのレンジの極小から極大まで堪能出来たという、満足感をすごいもてた。床に赤い風呂敷を敷き、そこでの茶道。でも、その「作法の場」が設定されていればこそ、不−作法の数々がおかしい。「作法」というフォーマットをみつけてきたのは正解。だって、ダンスは西洋文脈でいえば間違いなく社交の道具、であり、それは一種の作法だったからだ。だから作法の場での不作法は、それだけで、ダンスに対するアンサーになりうる、ハズ。小さい動きに集中すればそれだけ、見ている側もそれに集中して目は勝手にズーム・アップをしていくもので、大きな空間であるにも拘わらず、まったく問題なしにその極小の身振りが迫ってくる。それが、杯をもってたって踊り、赤い風呂敷をまとって最後は赤いロール状シートを転がし、赤絨毯作ってそこをあるく、トランクに荷物を詰めてアディオス、と展開する。「ふざける」角度というか流儀に、ちょっと見ただけでも誰でも「森下印」が受け取れただろう、それだけでも、このひとの正確さ、大きさが理解出来るというものだ。大きく伸展した『コシツ』が見られて、幸せ!という感じだった。



□0122(Sat)


一、二月は何かと横浜に来ることが多くなりそう。何かと催し物(イベント)がいろいろあるのだ。
今日は、ともかくサーキット的に真っ昼間からあちこちとハシゴしまくる。
横浜駅のわきにひっそりとしかし熱く営業している立ち食いソバ屋「鈴一」で、いつもの「てんころそば(コロッケ入り天ぷらそば)」を平らげ、その勢い(くちびるに、いつものあのちょっとあまい汁の味が残りつつ)で横浜美術館まで徒歩。『マルセル・デュシャンと20世紀美術 展』へ。

感想 『泉』は全然美しくない/『階段を降りる裸体』はそこそこ見応えのある絵画だ/レディメイド作品は、かなり退屈だ/併設されているオマージュ作品は、すべてデュシャンに頼りすぎている/『大ガラス』は展示のせいか美術としての見応えを感じさせない、博物館の展示品のようだ/『遺作』は相当面白い、、、
展示出口を出て、ロビーみたいなところにモニターされている「マースによるマース」(ナム・ジュン・パイク)が今回この展示で一番面白かった。マース・カニングハムのダンスを素材に作られたビデオ作品、なぜか後半デュシャンのテレビ・インタビュー映像が差し込まれる。マース・カニングハムは、理論的に考察して消費しきれない、相当変な人だ。彼の鼻歌はきっとどんどんバレエとかモダン・ダンスの枠を勝手に崩すように身体に働きかけてしまうのだ。ずれちゃうずれちゃう、「ばっかだなあ」と思えた途端に、面白くなってくるダンサーなのだ。これを見るだけでも価値ある展覧会。

次っ、横浜ダンスコレクションR
山田うん『ワン◆ピース』
電話ボックスというか、更衣室のロッカーというか、可動式の箱が六個、舞台でダンスとともに動く。ダンスは山田のいつものような、規則的でありかつ脱規則的、で、ユーモラスなポーズへと向かう瞬間あり、といったもの。はみ出す感じはなくはないが、禁欲がまずあっての逸脱。そこらへんのストイシズムにもう少し同調しながら見られればいいのだが、ぼくは山田うんの良い観客ではないようだ。見る度いつもそう思ってしまう。抽象度を高めながら、「チラ」と見せる遊び、のその解れているはずの紐の一端がいつも掴めない。

ジョン・ヨンドゥ『相容れないひとつ』
ラヴェル「ボレロ」を踊るという、ベタと言えば極めてベタな試み。「ベタ」がダメだと言うことになってどのくらい経つのだろう、もう「ベタ」解禁とばかり去年は韓流ブームでベタでカッコいい男がベタできれいな女性と恋愛するドラマなどが流行った。この韓流ブームによって、去年より彼の作品は見やすくなった。このテイストの違いは、韓国と日本の違いなのである。こう思うとスッキリする。男らしい男が出てきて、何か感情を表に出したり、すかされたり。ぼくがまったく乗れないのは、「ベタ」に対する感覚の違いによるものだと、思えば納得する。

で、再び横浜に戻り、再び鈴一で「てんころ」を食べ、STへ。
「おばちゃん、てんころプリーズ!」

伊藤キムがキュレイターになった今回の「ラボ20」、さて。

ピンク『ぷわって突いたり くりって刺したり』
日頃黒沢美香の薫陶を受けている彼女たち(黒沢美香&ダンサーズで出演している時に、彼女たちきっと結構変なこと考えて居るんだろうな、と内心思っていて、こういう公演するの、期待していた)は、師匠のテイストというか思想というかからだを、愛し付き従って突き進んで突き抜けたいと、本作(きっと)。冒頭は、STの舞台奥にある「入口」の空間にしばらくじっとして窮屈にじりじり動く。「とぼけている」感じが、いい、でも、この「とぼけている」が「すっとぼけている」になるに必要な「ため」のようなものが効いてない。それは徹底的にひとつのポイントに絞る、といったストイックでしかしそれ故に豊かになりうる鉱脈がまだ見あたらないからだろう。でも「手探りしている」のが、いい。「探る」という慎重な手つきと言うより、拾っては振り回してみる、と言うような乱暴さなのだけれど、その乱暴さが若さと相まって気になる存在、にしばらくなりそうだ。次期待。

ホナガヨウコ『アニメカ』
タイトルの如き、「メカ」的運動によるダンスのアニメ化、といってよいか。床に数冊散らばったコミック漫画を見るならば、「アニメ」というより「漫画」だろうが。漫画の運動、それがダンスになる?って考えたアイディアは素晴らしい。そうそう、ダンスはこういう細部にころがってんじゃんねえ。子供が何かのヒーローになるって、本気で内面からヒーローやっちゃう感じが、そうなると期待として思い浮かんでしまう。それ考えちゃうと、残念、そこはちと弱かったか。そんな「バカ」「没頭」の代わりに「ダンス」なるものが先行する。ひとつのコマに徹底的にこだわってそれの擬音(「ウォォォォォォォ」とか)を踊る、なんてやれば可能性はあったかも(そして「絵」にこだわるなんツーのは、特別ではなく、土方巽もやったこと、恐る恐るする必要なんてないこと)。最後に、壁に漫画をバチバチ放り投げるところは、「メカ」の暴走?なのかも知れないけれど、漫画好きの子供は、こんな風に漫画ぞんざいに扱わないよ、ってホナガさんよりも、ぼくの妄想の子どもたちの方にシンパシー持っちゃったので、賛同出来ませんでした。要は、踊るもの(対象)に一層デリケートに迫ったなら、かなりいい作品になるのでは、と。

捩子ピジン『呪い』
顔だけ白塗り、あとはマミドリ、の男が、かなり動ける体をさらす。最後の「炎」のように揺らめき上昇の運動を繰り返しながら、白目をむいているタイトルを喚起させるようなシーンは、暗黒舞踏の「耽美性」を強く感じさせる。で、「耽美」とは多分、「エッジ」とは正反対のものなのだろう、と思う。エッジの鋭い切っ先を落として成立する丸っこい形状(運動)が耽美なのではないか。どんなにグロテスクでも、一種の優美的な曲線が成立すれば、それは優美であり、そこには、なんらエッジはない(良いとも悪いとも思わないが、あえて悪いと思うのは、それが良いとも悪いとも思わせなくさせることなく、良く出来ていると思わせるところ)。

AMM『それぞれの探し物』
山口県から来た若者たちばかり(ほとんど)の16人があの狭い空間を闊歩する。このような公演見る度毎回思うのは、ダンスとは極めて観念的なものだ、ということ。先生のダンス観で彼らは動く、楽しいのかも知れない、やりがいがあるのかも知れない、例えばそれによって自分の克服したいことが克服出来たのかも知れない、けれど、彼らのダンスは凄く堅く、見るものをよせつけない、それはひとえにそのダンス観のせいである。ダンスとはこういうものだから、ステージだったら人前ではやらないこういうこともやっていい、という断定は、間違っている。ダンスは社交なのである。踊る者と見る者との相互的な社交空間なのだ、と思う。そこでは、どんなこともやっていいが、でもそこで社交をしなければならない、社交は相手に触れることであり、触れることで何らかの表現をすること、だ。それはデリケートであって、欲しい。まずダンスとは「社交」なのだ、ということを伝えないと、切ない。多分普段の彼らのほうが魅力的だろう。ぼくは普段の彼らの振る舞いを見るほうが、きっと「彼らのダンス」と言うべきものがある、と思ってしまう。

PORT+PORTAIL『あ。』
バス奏者とキム・ミヤがまずビールを飲み交わすところからはじまる。ほとんど即興、何か彼女はいらだっている。そのいらだちにビールを流しこむ。最後に彼女が奏者にキスをする「あ。」、というわけである(おしまい)。

Benny Moss『NK』
いわゆるパフォーマンスというべきものなのか。白系のほとんど下着姿で白いマスクをかぶった女と同様の黒いカッコの女がくんずほぐれつ。奇声を上げる。あえぎを洩らす。まったく受けとめるものが見つけられない。感情をむき出しにする(あるいはそういうパフォーマンスをする)ことで何かが成立することがあるのだろうか。不快であった。ぼくがこれほど不快になったことが彼女たちの(ぼくという一観客に対する)成果なのだろう。



□0121(Fri)


最近秘かに、ヒップ・ホップについて勉学に励んでいる。まだまだ、なんですが。
そんで『The Freshest Kids』(2002)を見る。75年頃からはじまったヒップホップダンスの歴史や重要なトピックなどをきわめて簡潔に整理した、かなりマストなDVD。小六のころ、『フラッシュダンス』なるアメリカの青春映画を背伸びしてひとりで映画館に見に行ったぼくは、知らず知らずに、そのなかでほとんど挿入的にだけあらわれるストリートでのヒップホップダンスを、見ていたのだ。もちろん、ぼくはその一瞬にちゃんと反応して、中学ではダンスチームを作る、、、なんてかっこいいことはまったくしなくて、ただ当時はやっていたバンドなるものをやっていただけなんだけれど(笑っちゃうのは、パンク・ロックやるのにドラムはエレクトリック・ドラムだったして、YMO好きな呉服屋のドラ息子がドラマーだったため)、でも、きっとそのときこの映画によって潜在的に「ダンスかっこいいじゃん」は蓄えられていたに違いない。でも、そもそもなんでぼくはあの映画見に行ったのだろう。なんか、変な確信があって、フラフラと行ったのだ。ちなみに、DVDによれば、この一シーンが、単なるニューヨークで流行っているダンスだったものが全米にその存在を知らしめることになったらしい。
さて、クール・ハークという伝説の男が、集合住宅の裏庭ではじめたパーティーからヒップホップダンスは始まった。そこには、「カッコイイ」という逆らいがたい趣味判断だけが人を動かすまことに健全な世界のはじまりがある。見て、カッコイイから、まねて、出来ると気持ちよくて、やっていると人が集まってきて、ちょっと大きいところでやって、受けて、、、と純粋な波紋が広がって行く。けれど、それはいつの間にか、商業的なものに絡め取られてしまい、一旦台無しになる。
笑っちゃうのは、商業化していく過程で、彼らはカニングハムみたいなレオタードを着てテレビ出演していたりするのだ。ヒップホップ(ブレイク)に、一種の「格」を与えるためのアイディアか。単に楽しい以上に、スキルを見せるそこに勝負をかけるこのダンスは、そういう意味で「アート/技」のダンスなのだけれど、さらにそれはある時点で「アート/芸術」でもなきゃならんということになった、でも、ね、そんなコトしちゃダメなわけで、その流れによって一旦立ち切れになったものを再構築していく過程が90年代以降の彼らの活動ということらしい。



□0116(Sun)


伊藤キム+輝く未来『壁の花、旅に出る。』を見た(@Bank ART 1929 Yokohama)。
最近考えているネタがあって、多分ここで明かしてしまっても、誰もパクってくれないだろうと思うのでいうと、「ダンスはアートかソシアルか」という問い(以前日記に書いただろうか、、、)である。
「ソシアル・ダンス」と言えば誰もが「ああ、あれね。『Shall We Dance』とかでやっている、ちょっと前タレントたちがテレビで大会に出たりしてた、あれ」と思われることだろう。そりゃ、そうなんです。基本的には。でも、考えてみるとなぜ「ソシアル」なんて言葉が付いているのだろう、なんか奇妙と言うかおかしな表現だな、以前ふと思ったわけです。
この「ソシアル・ダンス」はしばしば「社交ダンス」なんて訳が付くように「社交」に関係している。「社交」とは、要するに、近世ヨーロッパのひとびとが生き、あるいは憧れていた宮廷的社会のなかでのひとつの美徳であったたもの。ひとびとは、社交的であるように促され、社交的に振る舞おうとし、ダンスというのは、その格好の場だったわけです。すなわち、ダンスとは、ひとつの社交だったのであり、社交としてひとびとのなかにあった、わけ。
このことを忘却していく過程が、ダンスが「芸術的ダンス」になっていく過程と重なるのだけれど、まあ、細かいことは、いずれ原稿にするとして、こう考えてみれば、ダンスは社交的であり(すくなくとも「だった」のであり)、けれども、「アート」でもある、というのが、先の問いのひとつの返答になるだろう。「ダンスはアートでソシアルだ」とね。

さて、前置きが長くなってしまったが、今回の伊藤キムの公演は、この問いとともに眺め考察するにはうってつけだった。まず、前半が、立食パーティであること。そしてダンサーたちが踊る後半の最後には、観客が舞台というか、ダンサーの踊っていた空間に呼ばれ、しかも、その中のひとりはカーテンコールにも参加する、という趣向なのだから。
前回ぼくが伊藤作品を見たのは、確かパブリックシアターでの『劇場遊園』(2003.12)。あの企ては、客席を舞台にし、舞台に客席を作ることで、観客−ダンサーの関係を位置的に反転させるというものだった。けれども、その空間的な反転は、必ずしも境界の破壊とか曖昧化と言うには及ばなかった。簡単に言えば、ここには、ダンスを「アート」に仕立てたプロセニアムアーチが、反転した状態とはいえ依然として強固に存在していたのである。
それに比べれば、この作品は遙かにダンスの「ソシアル」方面のパワーを引き出そうとしていたように思う。散々食事をむさぼったあと、「むさぼった」事実によって客は傍観者ではなく、ひとりの参加者となってここにいることになる。そして、客は実際にパフォーマーの隣人となって、キムなどがするちょっかいの関係者ともなる。
さて、それがどうだったか、という評価は簡単ではない。思いつくままにいえば、どうしても、観客参加型の中に入りこんだ観客は、舞台の「石」にさせられるところがある。身動き出来なくなってしまうのだ。そうなることで精一杯「参加」することになるのだが、それは必ずしも自由な参加ではない。舞台の進行の流れをとめまいとすることに徹するだけになってしまう。それでも良いのかも知れないけれど(ここら辺、大道芸などと比較するべきだろう)。
けれども、単に「作品を鑑賞した」というのではない、楽しさが帰る観客に漲っていたことも事実。それはやはり、「パーティ」としての成功を意味するのではないか。



□0115(Sat)


前田英樹『倫理の力』(講談社現代新書)を読んでいる。
2001年出版の本なのだけれど、いままでこれを読んでこなかったことに後悔。素晴らしい本である。「倫理」をはじめて真面目に考える人たちには、この本はマスト・アイテムではないか。本人が幼少のころからやっていたという剣道のような、武術の精神が全体に漲っていて、それがカントやスピノザなどの西洋哲学の思考を見事に牽引している。

「ところで、人はなぜそうした技を習得したいと思うのだろう。美味いトンカツを揚げられることが、儲けに役立つことは間違いない(たまには、役立てられない人もいるが)。けれども、ここで起こった欲求にとっては、そんなことはほんとうはどうでもいいのである。欲求は、トンカツの揚げ方に対して起こるのではなく、揚げるおやじのなかの何かに対して起こる。その何かが、一種の〈立派さ〉であることは、疑いをいれない。」

例えば、こういうところに描写される、倫理。タイトルにもあるのだけれど、前田さん読者に何度も何度もぶつけてくるのは、倫理という力の存在。倫理は法ではない。倫理は力なのだ。

「言葉のない何かしらの力に引っ張られ、鼓舞されて、人は電車で席を譲る」

言葉には出来ない、法として明文化出来るようなものではない力という存在。これは人間というものの最後の砦のような気がする。これがなくなった人間はもう自動機械でいい。

でも、もうぼくたちはほとんど自動機械として世界に生き、振る舞っているかも知れない。最近、携帯を見つめてばかりいる町の人たち、というものをよく考える(基本的にぼくは携帯が嫌いなので、持っていても、ほとんど人前で使わない、それにそもそも携帯メールをまったく使っていないのだ、だから、「携帯電話する人びと」を他人事として書きます)。電車の中で、ときには道で歩きながら携帯を見つめる人びと。問題なのは、携帯を見ていることで周りを見ておらず危険だとか、マナーに反するとか、そういうこともあるかも知れないがそれ以上のことがある。携帯を見つめる彼らはもう町の中の構成員のひとりとして生きていない、ということ。ぼくたちは人前にいる時、単に認識者なのではなく、行為者であり、かつ表現者なのだ。自分の表現が社会のひとつの部分を構成している。この断片の集積として社会はある。けれども、携帯を見つめる人はそれをおのずと拒んでいる。自分はここにいてここにいない、という振る舞いをしている。隣の人は隣にいていない、という振る舞い。以前から結構気になっていたのだけれど、これは相当問題なのではないか。つまり前田さん的に言うと、「力」の喪失を意識させられる。ここには、教育も生活も商売もない、なぜなら社会がそもそもないのだから。これは、説教おっさんに木村もなったか、、、ということでは全くなく、社会のなかを日々生きて、強烈に感じる不安である。
この前、焼鳥屋で、串焼き五本セットを頼んだら、一時間半待たされた。九時近くに店に入ったので、かなりお腹がすいていて、それはそれはいらいらされられた。問題は、でも、長く待たされたことにあると言うよりは、店の方に「客を待たせている」ということへの配慮がないことにある。眺めれば、店の者はそれぞれの仕事をしている、担当が決まっていて、やるべきことをやっている、と言っていいのかも知れない、忙しそうでもある。ただし、その「やっている」は、その仕事ならば、時給に見合っており、貰うに値すると言うことであって、それ以上ではない。客が怒っても彼らの給料には影響はないだろう。でも、それは何かを激しく欠いた事態ではないか。なぜ「今日は忙しいので、もう少し時間がかかります」とか、「今焼いてますのでしばらくお待ちいただけますか」とか、言えないのだろう。「言えない」理由は簡単である、前田さんの言う「倫理の力」がそこに存在していないのである。客は手段であって、目的ではないからである。
もうひとつ気になっているのは、人混みを歩いていて、最近、前から歩いてくる人が全然よけないということ。ズンズン歩いてきて、自分の道が予め描かれているがごとく、「そこを歩くのは当然」のごとく。「傍若無人」とはこのことである。目の前の人は障害物でさえない、透明なのである。特に女性に多い(というのは偏見だろうか)。そこに、「力」が不在なのは当然として、何よりその姿が魅力的ではないことが淋しい。粋ではない、かわいくない、素敵ではない、図々しい、のである。そういう自分が街の表現者であるということに気持ちが及んでいない、ということがやはり問題なのだと思う。こういうことを考えるなら、「社交」という概念、再考されていいのではないか。ぼくのダンス論は、深部でこういう問題に関わっている。



□0112(Wed)


翌日の授業の準備をしながら、煮詰まってきたので、昼ご飯を食べ終えると散歩に出ることにする。町田までの一時間半くらいの徒歩旅行。東京のこのあたりというのは、ぼくの田舎よりも人通りがなく車もそんなに走っていない。のどかな昼の時間を、早歩きで進む。こういう無為の時間というのが、好きだったよなあと、でも去年の夏頃からずっと忙しくて、そんなこと出来る日が一日もなかったと思い返す。一旦時間に余裕が出来ると、むしろ余計な不安とか心配事とかが表に出てきたりして、邪気がはびこる。そこで、邪気払いで無邪気に散歩が大事なのだ。
町田に着くと、古本屋による。そこで見つけた本が、ヒットの予感。

黒田亮『勘の研究』

心理学系の人らしいが、勘と判断力とか機知とか優美とかの関係って相当本質的な何かのような気がしていたので、ヒントが得られるとちょっと凄いぞと、期待大(まだ読んでいませんが)。
テレビで『A.I.』をやっていて、ほんとに切ないドラマで泣きそうになる。ロボットと人間の関係は、人間と社会との関係のように映り、ロボットの運命こそぼくたちの運命なのだ、と思ってしまうとソートー切なくなる。近年の「自分探し=アイデンティティ探し」アメリカ映画の最高傑作だと思う。でも、二回目くらいに泣けるところを見ている途中で、『風の谷のナウシカ』に変更。これも三箇所くらいどうしてもぐっと来てしまう見せ場があり、そこに来ると体が反応(うるうる)してしまうのだけれど、クライマックスを見ることなく夢の中へ。さすがに疲労がたまって、体がオーバーヒートしたようだ。



□0111(Mon)


最近、事情があって、宮崎アニメをはじめとするアニメ作品ばかり見ている。さぼっていたジャンルだけに、「みなきゃ」の作品がたまっていたので、ここぞとばかり見ている。『イノセンス』とか、『キューティーハニー』とか。『イノセンス』は前評判であまりいいことを聞かなかったのと、『甲殻機動隊』にあまりシンパシーを感じなかったので、公開時には見なかった。でも、結構良かったんです、よ。すくなくとも、『ハウル』の身体動作と比べれば、ずっと、とくに人形(ベルメール人形みたいなサイボーグ?)の動きは、カクカクとからくり人形的あるいは「暗黒舞踏的」痙攣があって、あるいは妙につるっとした流れつつ生気を欠いているような動きで、見るべきものになっていた。『キューティーハニー』はというと、戦闘場面をアニメ的にするというよりも、漫画的にした、という感じか。動きのレヴェルで言うと既視感のあるものばかりで、ハッとするところがない。東京が実写でありながら漫画的に処理されることで、「薄っぺらい世界」としてみせているのだが、その薄っぺらさが、後半「愛」のストーリーへと陳腐化してしまうのが、悲しい。その点やはり『カンフーハッスル』との違いを考えてしまう。




□0108(Sat)


『カンフー・ハッスル』を見た。
『少林サッカー』に打たれたぼく、でも第二弾はどうなんだろう、ダメだったら切ないなあ、と思っていたら、たまたま聞いていたラジオ番組で品川庄司の品川の方(?)が、本当にこの監督天才だと思った、と言っていて、ちょっと安心したので見に行った。素晴らしかった。『少林』の素晴らしいところのひとつは、「成り上がり」のエネルギーがストレートに表現されていて、そこに爽快感がばりばりだったんだけれど、今回もその点が素晴らしく発揮されていて、中国のエネルギーというものに圧倒されるのであった。日本でセカチューや『今会いに行きます』などの個人的なラヴストーリーに没頭している間に、彼らは世界進出とか、人生における成功など、さらには「悟りの境地」みたいなものに向かっているのだ。なんか、没落する日本と台頭する中国の構図が、今後どんどん明らかになっていくのだろうな、と思わされてしまう。
そして、こういうエネルギーが、体を基本として表現されているところも素晴らしい。CG時代に身体とは何か、ということは、問われるべき問題だろうけれど、身体が消えていくどころか、どんどんクローズアップされていくのであり、むしろぼくたちは身体の崇高とでもいうべき、身の丈を超えた身体を望んだり愛したりする時代になっている、のだ。


□0104(Tue)


昨日は、夕方、ひとつの目的のためだけに横浜中華街へ赴く。
「口福」という中華料理屋に食べに行くためだ。
ここのおばちゃんはとても気持ちのいい人で、それほど頻繁に行くわけではなくぼくたちのことを覚えていてくれて、「あの日はちゃんと帰れた?」なんて話しかけてくれる(ちょっとビール飲み過ぎて、心配かけるのである、大抵いつも)。
昨日もたらふく食べたあとで、中国スタイルの初詣を近くの開帝廟にて済ます。名前と生年月日と住所とを神様に申し上げたあとで願い事を唱えるのである。これを五人(五神)ほどの神に向かって繰り返す。これだけ繰り返すと、ほんとに願いが叶った気になるのが不思議だ。はい、そういうわけで、ぼくの今年の願い、すでに叶いました(気分だけは)。



□0103(Mon)


元旦早々実家から戻ると、つらつらいろんな本を開いては放り投げている間に(テレビがつまんないのでね、でもなんか見ててペース乱されて)、この言葉に出会って、今年はこれでいこうと。「新たなる凝視」。ホンマタカシ『きわめてよいふうけい』に載っていた、この写真集の主人公、中平卓馬が呟いた一言。

A New Gaze

今年も、よろしくお願いします!