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(200502)

02 老体のカントって、、、/04 上村なおか『一の百』/05 『フラッシュダンス』『WILD STYLE』/07 『人間本性考』/08 ヨッシー/09 対北朝鮮辛勝/11 砂連尾理+寺田みさこ『loves me, or loves me not』/12 砂連尾理+寺田みさこ『loves me, or loves me not』再見丹野賢一+Erehwon『027-FRAME』/14 『グランドフィナーレ』『美の誤用』/17 『痕跡』展/18 レニ・バッソ『ghostly round』/19 合評会/20 旧友/22 グリーンブラットは素晴らしい/26 金森穣/28 初期衝動

 *ダンスは赤字



□0228(Mon)


昨日NHK教育の番組で、清水崇(もち『呪怨』の監督)がトークしていた。
ぼくはこの人、極めて暗い性格の人間なのではないかと勘ぐっていたのだが、さにあらず、非常にユーモアのある人で、おしゃべりが面白く、びっくりするやら、感動するやらだった。でも、考えてみれば、どんなジャンルの人でも、いい仕事面白い仕事している人は、当人も気さくでオープンで楽しい人だ、大抵。ぼくは結構そういうこと信じていて、そしてそのことは、ダンスを見る時にも反映されている。ようするにどんな高尚な作品性云々とかやっていても、ようはあるひとが観客に対して自分をプレゼンすること、そのコミュニケーションにすべてがかかっているのだから。そう思って、そういう目で見ている。それを最近のぼくは「ダンスはアートかもしれないけれどでもやっぱりソシアル」と言っているのだ。

と戯れ言みたいなこと、何言ってやがるんだ、なんて思っている人もいるでしょう。ウェブの日記好きでダンス好きの人ならば、あの話、木村は無視すんのか、なんて思っているかもしれない。ので書きます。

2/25、ご存じの通り「アートノヴァ」に参加してきました。ぼくはインディペンデント・キュレイターの東谷隆司さんをアーティストとして推薦し、パフォーマンス後、彼とトークしてきたわけです。

彼の公演のことをぼくが批評するのは、なんか手前みそみたいであまり気が進まないので、その経緯だけを、書きます。

2003年の5月、六本木スーパーデラックスにて、珍しいキノコ舞踊団が宇治野宗輝やバッファロー・ドーターのメンバーたちの演奏をバックに公演をしたあと、不意に登場したサラリーマン姿の男が、キーボードを前に演奏を開始しました。演奏?彼はほとんどキーボードを弾くことなく(なぜなら音のほとんどはプログラミングされてあるので)、ときに縫いぐるみを振り回したり、叩きつけたり、はちゃめちゃなことをし続けました(もっと正確に書くべきでしょうが、今日はともかく経緯だけ)。

そのパフォーマンスにぼくは純粋に感動してしまったのです。簡単に言えば、「好き」になってしまったのでした。この「好き」の理由は直ぐにはよく分かりませんでした。がごくごく感覚的に反応したわけです。次の日だったかスーパーデラックスに電話して彼が「東谷隆司」という人であることを知りました。彼のこと(アーティスト活動)は、後日『美術手帖』の編集者などにも教えて貰っていたのですが、アクセスする機会がなく、しばらくそれっきりになっていました。

それが、今回「アートノヴァ」という企画に呼ばれて、アーティストを選出してくれということになり、この日のことを思いだしたぼくは、東谷さんの名をダメもとで挙げたわけです。あの感覚に誘われて。

感覚を尊重した、という点で言えば、キュレイターとしての東谷さんも半ばどうでも良くて、ただぼくとしてはあれをまた見たかった聞きたかったわけです。そんなエゴが東谷さんをアートノヴァにぶつけるという暴挙を生んだのです。

東谷さんとは、一回メールでやりとりしましたが、それだけで、あとはリハーサル後30秒くらい会話しただけであのアフタートークをした、といういたって希薄な関係です。ぼくが『美術手帖』を持参したのが、ある種二人の「仲間っぽさ」を印象づけてしまったのだとしたら、ぼくの失策だと思うのですが、東谷さんとぼくとは初対面だったのでした。ぼくはただ東谷さんの存在を紹介したくて、ああいうやり方(『美術手帖』持参)をししたし、東谷さんも本当に普通にぼくの文章を面白く読んでくださってぼくをあの舞台で紹介しようと思って、ああいうことをした(『美術手帖』に載った拙稿の紹介)、そうです(まあ、もっと複雑なものを含んだパフォーマンスだったのですが、ある一面として)。

ぼくが東谷さんを招いた動機は、しかし、もうひとつありました。美術の世界を中心に活動している人を、ダンスを中心に活動している人にぶつけてみることです。彼らはダンスの現状をどう思うのか、この出会いを通して、率直に聞いてみたかった。またお互いを交流させてみたかった。ぼくが『美術手帖』でダンス批評を書いているということと同じような交差を、この企画に提供してみたかった。この点についてダンス関係者知人で反応している人が極めて少なく(というか不在で)、驚いています。

こんなこと書いている理由が分からない人もいると思うのでちょっと書くと、ある個人のHPに、かなり感情的な(とぼくは思う)文章で「最低」と評されていて(公演ではなくて、トークのことだと思ってますが)、その「最低」の理由が、どうも二人の「談合」にある、というのでした。その点の誤解について、ぼくなりの弁明をすべきと思い以上のこと書いた次第です。あの、ぼくたちはかなり真っ直ぐな気持ちで、これやったんです、と当人に言いたい(メール出すべきか、いや読んでますよね)。文脈で理解しようとし過ぎです、よ。面識はあるのだから、明るく社交的に「東谷さんとは知り合いなんですか」とぼくに聞いてくだされば、直ぐに正確な答えを返したのに、ちょっと残念。社交の不在がアートの称揚と連動していると言ったら言い過ぎでしょうが、そういう風に、ぼくの考察に繋げてみたくもなります。
あ、もちろん、公演についての賛否をぼくは問題にしているのではありません、いい、わるいはいろいろとあるでしょう、当然。


ああ、こういうこと書くぼくも明るさを失ってしまっているな、切ない、悲しい。多分、直ぐ消します。




□0226(Sat)


25日に、「アートノヴァ」に参加した。見に来てくれた方々に感謝します!
その後、東谷さんや今回東谷さんのサポートで来てくださった浅野さん、あと山川さんまた美術評論家のSさんとギャラリストで奥様のYさんとで飲んだ。浅草では飲み足りず、帰りの電車もなくなったので、六本木トラウマリスへ。ああ酔った。久しぶりの朝帰り。
しかし今日は金森穣のチケット買ってしまっていた。ので、胃が痛くてクラクラの状態で天王洲へ。
『no・mad・ic project』(ごめんなさい、ちょっとうろ覚え)。こういう公演に出くわすと、突然気分が「社会科見学」になる。なんで観客はこれを見て喜んでいるのだろう。試しに休憩の時間がはじまるや否ややや大きな声で「ああ、つまらなかった」と呟いてみる。やっぱりだ。周囲のひとはその声に「ええっなにあの声、頭おかしいんじゃない?」といった雰囲気のバイヴを漂わす。どうも、金森さんと観客のなかでだけわかる「隠語」があってそれが彼らには共有出来ていてぼくはそうじゃない、ということらしい。でも、本当に分からなかった。こういう公演をみると、「アート」という言葉が浮かぶ。難しくて楽しくないけれど、分かると偉いもの、そういうイメージの「アート」。そういうのを味しないのにおいしいって喜んでくれるひとたちに、ぼくは何か関係者のような気分になってごめんなさい、と謝りたくなる。



□0222(Tue)


グリーンブラット『驚異と占有』(みすず書房)を読んだ。
『ルネサンスの自己成型』という著作ではじめてこの人のことを知ったのだけれど、本書は、「新世界」を驚異をもって体験しつつ、しかもその領土を占有しようとする無茶にイメージの能力がどう関与していたのかを、彼らしいごくごく丁寧な調査を通して明らかにしていく。「植民地化」の議論のかなり早い段階の本(原書は1988年発刊)と言えるだろう。
何より、彼がバリ島で経験したことを語る序の部分が最高なのだ。外から流入してくる様々な力を受けいれつつ自分なりにどんどん作り替えていくエネルギー、それを興奮をもって見つめるグリーンブラット、この白熱振りに自分の体験を思い返しながら熱狂してしまうぼく、と。「同化作用」というものを、権力に支配されてしまうことと簡単に決めつけるのではなく、巻き込まれつつそこで自分なりに遊んじゃうこと、と解釈することからうまれる面白さ。権力の否定=ある種の現代ドイツ哲学の単純さからは決して生まれてこない複雑な切り込み方。これ、優美論にも通じる、と言う意味でも考えるべき点が多数、なのだ。嗚呼今日も、この本知らないで生きてきた自分に「無知の涙」。

他にも、ハル・フォスターの『Compulsive Beauty』(1993)を流し読み。ふむふむ、シュルレアリストにはアンピヴァレンスが起きている、とな。シュルレアリストはオートマティスムによって主観の脱中心化を欲望する一方、この脱中心化を恐れており、それは脱中心化が主観の自由を可能にすると言うよりは、文字通り主観の解体を迫る強迫的(compulsive)な機械主義を露呈することになるから、と。ということで、シュルレアリストの引き出してくる人間はイコール機械という望むこととは別の結果を引き出して、どうしたものか、、、というのがざっと読みで見えてくる概要。この本を参照した(本人はこの本を再構成したものだという)アニメ論(?)を上野俊哉が『美術手帖』今月号に寄せている。ので、気になって読んだと言うこともでもある。上野氏の解釈はともあれ、英米系の現代美術批評を今後しばらく通覧してみたいなあ、と思っています。



□0220(Sun)


昨日に引き続き(元)研究者に夕方会う、というより、18歳のときからの友人たち、三人で会うのは実に13年振り。なのに、まったく変わってないなー、と話はあの頃のように盛り上がり、衝突するところも相変わらずで、短い再会を可能な限り強い爆発にしようとぼくも声をちょい荒げちゃったりして、わいわいわい、と。こんなに意見が違うのに、同じ場所で学部四年間一緒に暮らし、いまは別々の生き方をしていて、それにも関わらず、会えば仲良くけんかをする、なんかぼくにとって家族のような二人だな、と思ってしまった。ひとりは大学の教員に決まり、もうひとりは高校の先生、なのでかなり高額の飲み代をおごって貰った。サンキュー、でもこれはぼくが金がないと言うことだけではなく、彼らといるとぼくは無邪気な弟的存在になれるのだ、っていうことが、「おごられ」のもうひとつの理由でもある気がする。



□0219(Sat)


いま非常勤の仕事をしている大学の研究室では年に一回紀要を発行していて、今日は今年の紀要に載せる原稿を専任・非常勤の講師たちが集まって互いに批評し合うという日であった。ベルクソンがあれば情報化社会におけるプライヴァシーの倫理あり、アリストテレス弁論術あり、講師たちの多様な専門に応じて実に多様な論文が集まった。ぼくも寄稿したわけだけれど、相互に必ずしも専門ではない原稿を読み、言いたいことを言い合うというのは、大変だけれども、何とも楽しいものだ。こういう知的な議論の時間が好きだから、こういう道を選んだんだよなって、実感する。大学近くの、魚屋の奥が居酒屋という店で打ち上げ。エスプリをどんどん加速させて話す会話は本当に楽しかったッス。



□0218(Fri)


レニ・バッソ『ghostly round』を見た(@パークタワーホール)。
コンテンポラリー・ダンスのことを考える際に、ついつい彼らを外して考えてしまうところがある。「考える」ということは、その対象が考えるべき過渡期のものである必要があり、「過渡期」とみなすにはあまりに安定した独自のスタンスを持っている北村明子については、考える必要をときに感じなくなってしまうから、なのだろうか。ああ、そんな思いなしは完全に間違っていたと言わずにはいられない、素晴らしく面白く、ネクストアイデアに満ちた作品だった。拍手。

開演前から明るい舞台上(全体のトーンは黒)に漂う煙。この煙が、巨大水母のように悠々と漂っている。不意に、フランク・ステラを思い出す。吐いたタバコの煙の形状をそのまま彫刻/絵画にしようとしたステラ。ブラックペインティングで現代芸術という制度に新たなかたちを与えた彼は、そういう煙の彫刻などと言うアイディアでも美術を更新しようとしたのだが、別にそんな「美術」「更新」いいじゃん。実際に空間に煙を浮かばせればそれでいい!って至極真っ当な解答をここに見たって感じで、冒頭から盛り上がる。
始まりは、何やら「日本」の「美」というか「儀礼」「儀式」のようなイメージ。白い粉で円を描いた周りに人びとがすり足であつまる。すると、突然、静止していた北村が一歩も足は動かさずに激しく小刻みな動きをし出した。天井からプロジェクトされた丸い映像のフラッシュみたいな効果のせいか、異常なくらい速くみえる。暴走した機械。すごい。機械か。ならば、「機械の中の幽霊?」なんて言葉が浮かんでくる。確かに、近代の合理主義が身体を機械論的に思考したそんな合理性はレニ・バッソ的だ。鍛え抜かれた者たちだけが立つ闘技場のような舞台、では冷徹なルールのなかで正確にダンサーたちが動き回る。けれども、そんな合理性は、突き詰めて非合理に突き当たるために用意された手段のようにも思われる。そこが、一見するとリリーステクニックなどの「コンテンポラリー・ダンス・テクニック」なる狭量なアイディアを踏襲しているようでいて、そこから柔軟にはみ出している痛快さを感じさせる所以だろう。ルールを突き詰めるのは、単に快楽のゆえ、だから痛快。「幽霊」それは、そんな彼らの快楽主義の呼び名なのではないか。そして探究の対象。
快楽主義的な側面は、彼らの要素にストリートダンスがある、というところと何か連関するのではないか。バネのようにビヨヨヨヨーンと、振幅する動きがときどき出てくる。速さの表象にも一役買っているこれは、ロボットダンスとかの遊びに通底している、のでは。テクニックで身体のイリュージョンを生み出して、それをわいわい楽しむ。「スッゲー」とかいって盛り上がっちゃうけど、そこに「芸術的意味」みたいなことまったく考えない感じ。実は、レニ・バッソとは、アートなんてお構いなしの(まあ必要ならば漂わしてやってもいいわよ、くらいの)快楽主義ダンスなのではないか。そこへと向かって、ぐるぐる回る(ghostly round!)。
そこんとこの余裕が、近年まれに見る日本のダンスシーンの達成、という気がして拍手喝采。忠実にダンスの快楽に猛進しながら、そこに向かうための準備は決して欠かさない。充実の一時間強。19日にも公演あるようなので、お見逃しなく。




□0217(Thu)


『痕跡 戦後美術における身体と思考』(@国立近代美術館)を見る。
いろいろと多忙を極めているのだけれど、見逃せないと思いはせ参じる。見て良かった。相当色んなこと考えさせられる。
例えば。「痕跡traces」そのものを作品にしていくという発想は、美術的ではあっても、ダンス的ではないな、と思う。この違いはかなり大きい。痕跡−美術派の人たちは、ここにデリダやベンヤミンを擁護者に迎えることの出来る、美術のエクリチュール性を求めるかも知れない、とすれば、それがないダンスの表現は、音声中心主義になぞらえられる?多分、この意味において、ダンスの保守性というか、ひとつの限界が語られるべきだとは思う(よく言ういい方で言い直せば、ダンス批評って作品に戻って再批判を読者が出来ない仕組みになっているよね、ってことになろう)。まあそんなこととか考えながら。



□0214(Mon)


いまテレビでは大阪の小学校に17歳の少年が侵入し、刃物で教員を殺害した、というニュースで盛り上がっている。もう学校の先生をするのも命がけである。いや、大げさではなく。なにせ、ぼくの兄は教師なのだけれど、一ヶ月ほど前、自分の高校に乱入した男を取り押さえている(それもニュースになった、でもそのことに今日まったく触れていない)。まったく。

「近代」はまとも/まともでないをしっかり制度化して、後者を排除するシステムを構築するべく努めてきた。それが排除の暴力を生み出していることは、事実である。けれども、暴力なしには防げないものをぼくたちは抱えている。それは、批判(文句を言う、不満を言う)はされても否定(鼻つまんで棄てる)されてはならない。この難しいところ、ここが「いま」に違いあるまい。

こういう話にも関わるだろう作品、『グランドフィナーレ』で阿部和重は芥川賞をとった(祝!)。昨日、『文藝春秋』を買った、今読み終わった。村上龍は、モノローグで構築されているところを批判していたが、村上が努力したのとは別の仕方ではあっても、やはり阿部もある独特の認識をぼくたちに伝えてくれているのではないか。脳内独り言の文学、そこにはどういう仕方で他者がいる、のか、など、ぼくには『シンセミア』ほどの感動はないとはいえ、納得の受賞と思えた。少なくとも、ここ数回の受賞作に比べて明らかに安心して読める。「安心して読める」と言うことは、実は相当重要だ、しそんなに楽なハードルではない。


あと、
最近ぼくが読んでいる本で、
Arthur C. Danto,"The Abuse of Beauty"(2003)は、かなり面白い本(みたいだ、というのはまだ一割も読んでいないから)。
タイトルを直訳すれば「美の誤用」ってそれ、桜井圭介的ダンス批評のラインじゃない?と思わずにはおれない。そういう意味でも気になる。




□0212(Sat)


再び砂連尾+寺田へ。
昨日の疑問は、ぼくなりに解決した。昨日は、真ん中の真ん中辺りで見ていたのだけれど、ある人の促しで今日は最前列で見た。確かに、光景が全然違って見える。砂のモチーフが持つ「ある種の切実さ」がリアルになった。小さな小屋で見たらもっといいかも、なんて贅沢なことも思った。

あるいはチラシを見ている時にはあまり理解出来なかったチェルフィッチュなどとの関連も(ポストトークで岡田利規さんが今日は呼ばれていた、下記の事情で聞けなかったけど)、今にしてみればかなり分かる。ぼくは『労苦の終わり』で最近のチェルフィッチュの魅力にやられた一人(そんで先月号の『BT』に書いたのだけれど、またちなみに、次回公演『ポスト*労苦の終わり』のチラシには、内野さん桜井さんに混じってぼくのこのときの原稿の一部が採録されています)、彼らのもっている新しさは、もう次の波を生み出していた。ここら辺の波紋は、相当重要だろう。

さて、四時に終わったあと、東府中へ急行。世田谷線と京王線を乗り継ぎ、何とか間に合う。
丹野賢一+Erehwon『027-FRAME』を見た(@府中市美術館 エントランスロビー)。
最近の丹野は、どんどんシャープになっていて、目指す一点にストレートに向かっていく感じがある。要するに「旬」。相当すごいことになっていた。個人的には、劇場ではない、美術館の玄関口のただ広いだけの空間に人が囲みながら見る、というのは、バリ的な何かを思い出させて、すこぶる楽しい気分になる、ということもあったのだろうとは思う。
砂連尾+寺田と丹野+Erehwonは、ひょっとしたらどこかに書けるかも知れないので(提案中)、詳しいことはここでは触れない。

それにしても寒かった。東府中、はじめて降りた。こういうちょっと中心から外れた場所にある時代錯誤(無視)の食べ物店やゲーセンやホテルは、いい味出し過ぎ、でちょっと恐い。明大前で降りて、広島風お好み焼きやに行って異常に酔ってしまった(ここは、ぼくの学部三、四年生時に暮らしていた場所、あの頃のぼくを覚えていたへんな生き霊がぼくを酔わせたのか、、、)。



□0211(Fri)


砂連尾理+寺田みさこ『loves me, or loves me not』(@シアタートラム)を見た。
緻密な舞台。その点は二人の真骨頂だろう。けれど、タイトルに隠れている三人称単数の主語は、この舞台にどう関係する?という疑問が解決しない。明日又行かなきゃ。

公演を見る前に、時間があったので、「夕飯!」とフラフラしていると、吉野家で行列が出来ていたお祭り気分でぼくも並ぶとぼくの後ろの中年夫婦でラストだった。一年ぶりに食べるレア牛丼はうまかった。

昨日古本屋で買った『ダンサー』山田一平著を読む。「山田一平」とは、ビショップ山田のこと。「残酷な」と言いたくなるほど相当クレイジーだった暗黒舞踏的生活のドキュメント。とくに、石井満隆との遊びのような真剣なような暮らしは、笑えるし泣ける。今これやったら、速攻に逮捕、社会から抹殺されるぜ、ってことのオンパレード。「猫石」。舞踏の議論は、二年前のシンポジウムでのキャバレーショーの内実を検証したあれもそうだけれど、こういう側面を隠して無視してやると、やっぱやばいなと思う。ひらいちゃうと、もっとやばいのではあるけれど!



□0210(Thu)


さっき見つけた、
「ゼロになるからだ」の話はちょっといい。
この言葉には、当時ぼくもわけ分からず涙が出てしまっていたものな。



□0209(Wed)


さっきまで、ビール飲みながらサッカーをぼけっと見ていた(ホームの対北朝鮮戦、2対1で辛勝、日本の点は小笠原、大黒による)。
サッカーを見ているとぼくは人が悪くなる。「っんだよ、福西〜、どこけってんだあ」とかぶつぶつ言う。簡単に言えば「熱狂」の状態になっているのだろうけれど、そういえば、いわゆるサポーターのあたりがテレビで映るとみんな人相が悪くなっているどころか、すごい片足を前の座席に乗せちゃったりして、ヤンキー状態。女の子だろうがそんな感じで、しかも試合が膠着すると同じくだれてる感じ。楽しむって感じが正直ないな、オレ含め。こう、ハッピーな雰囲気がちょっとうすいのだ(気のせいかな)。
で、つらつら試合の行方以外のことも考えてみている。なんで、90分見てて二三点しかはいんないゲームにこんなに集中してしまうのか、とか。試合後のダイジェストでは見た気がまったくしないのはなぜか、とか。それは多分、試合の行方以外にぼくたちは試合のリズムを見ているのだ、ということではないか。リズムがいい、とか悪いとか、そういう言い方実際するが、確かにぼくたちはリズムを見ているのだ。そのリズムのことは、かなり数学的にというか、緻密に分析出来るように思う。以前ここに書いたこともあるけれど、脚が二本あることで生じる間とかリズムとか、脚の長さとボールの来るタイミングとか(確か小笠原だったか、タイミングが外れてシュートが決まらなかったりしてた、というかすべての入らない展開というのは見事に間がどこか悪い)。ゴールまでの長いリズムの展開をぼくたちは見ている。のだから、ダイジェストじゃ困るのだ。2秒のサビだけ聴かされても、って音楽ならばそういう感じ。
こういうリズムを見るって時に、国民性なのか、のれてない感じがどうしてもしてしまう、オレ含めサポーター含め、日本人。



□0208(Tue)


火曜日は、出身大学の研究室で電話番みたいなことをしている。その帰り、構内の本屋に寄ると、人文系の書籍が相当面白そうなことになっていた。こまった、「とにかくかねがぜんぜんないんだ〜」(by CKB)。と、仕方なく、雑誌コーナーで『ユリイカ』(ギャグマンガ特集)と『Relax』を購入。
『Relax』今月号は、オモチャ特集っつうかマリオ特集。マリオっ、ってお前、近頃、オレを苦しめるにくいヤツ。つうか、マリオよりヨッシー。ヨッシー、、、。
ヒップホップだけではなく、勤勉なぼくは最近ニンテンドーDSのことも研究(?)しておりまして、ソフトは(当然)スーパーマリオなのだ。
ぼくは、ファミコンが出た直前にオモチャがギターに代わり、「大人宣言」してしまったために、子供じみたものなんて買えネーよーと突っ張ったせいで、自分からゲームを購入したのは25才を過ぎてから(!)という始末、で、ゲームについてはほぼ「童貞」なのでして。そんな人間にこれ持たしちゃマズイよ!ってなかんじで日曜日は親指から血が出てきそうなくらい、7時間くらいやり続けてしまった。
こんな面白いもの子供にもたしちゃ、子供がリアルワールドに関心なくしちゃうっての。こんなに感覚を刺激してきて達成感があるものはリアルワールドにはそうそうない。どっちがリアルってゲームでしょ、となるのは当然だよ。
そして、やっぱこの楽しさの多くは、キャラの動きが握っている気がして、それがすごく興味深い。声や音楽も含めて。一時期は、ゲームバブルで大がかりのゲームばかりになって、その分おろそかになったのは、この分野(ではないか)。そうなってようやく、大事な問題はリアルよりもファンキーだった、と気づいた?DSのマリオは少なくともそう感じさせる(といっても、極端にゲーム経験がしょぼいぼくの印象に過ぎませんが)。「要は、単純で面白いのが好きなんです」(byかせきさいだあ in『Relax』)、その通りなんです。一月はアニメにおけるダンス的問題にかかりっきりだったけれど、今度は出来ればゲームにおける動きの問題も調べてみたい。ここでも、先立つものは金か。



□0207(Mon)


和光大にて、A・O・ラヴジョイ『人間本性考』を借りる。
理性や徳がお題目としてしか機能していない現実で、一体何が我々をしかるべき方向に導きうるのか、その答えを「高慢さ」「名誉」「自惚れ」というものに見出した近代の哲学者たちの思考を研究した名著。諸器官と美学研究には、これはずせない。



□0205(Sat)


近頃、ヒップホップに関心があるっつって。二枚のDVDを購入、見た。
『フラッシュダンス』(1983)
小六の時、背伸びして一人で千葉まで電車乗って見に行ったダンス映画。何にそんなにひかれたのか今の自分にはまったく分からないが、「見なきゃ」と熱病のようになって行ったのを覚えている。今見るとね、なんか嘘っこっぽいことがたくさんあるのだけれど(大体、ジェニファー・ビールス扮する主人公の子は、バレエ団に入るのに、エアロビみたいなダンスを必死に練習しているのだから)、でも、踊りたいのよねっていう率直な感情は、踊るっていうことのあり方とすごくフィットしていて、だからなんか問題なしに見てしまう。まあ、話はともかく、途中に出てくる路上でのヒップホップ・ダンス(ブレイキング)が見たかった。この映画のこのシーンをみんな見て、うわおんもしれー、どうやんの?てな具合で、LAでのブレイキングが誕生した、ということを知ったからだ。一瞬の映像がシーンを創っちゃうものなのか。ということを、確認する、ために。
『WILD STYLE』(1982)
で、こちらが本命。「(怪傑)ゾロ」を自称するライター(グラフィティ・ライター)の主人公が、自分の周りの人びととやんややんややりながら、いつかささやかな社会的地位を築く、こんな、ごくごく簡単なストーリーはあるのだけれど、それはともかく、合間に出てくるラップだのダンスだのが、極めてグレイト。1982年のニューヨークでは、まだ黒人は到底市民権を得ていないといった様子。アート系の白人女性記者がブロンクスに入ってくると、そこはまるで、異国、文化人類学的対象地域といった感じ。バリダンスに感動するみたいに、この記者はクラブではしゃぐのであります。そういうところも、いい。ユルーい物語は、小さなひとつひとつの出来事を(場面)むしろ前景に押し出す後景として上手く機能していて、映画としてもいいと、ちょっと思ってしまった。初期のキアロスタミみたいだ、といったらちとほめすぎだろうが。



□0204(Fri)


上村なおか『一の百』を見た(@ベニサンピット)。
上村は基本的に即興の人。即興は、観客としてのぼくの眼差しからは、予め規定してある振付によってではなく、内から湧きだしてくるものに従って身体を動かすもの、というように見える。振付という制約からは自由だが、その自由はすぐに、何をするべきか何を内から感じるべきか、という問題に突き当たり、それに従属する不自由の問題を生み出したりもする。ぼくにとって上村の公演(というか踊る時間)は、この不自由さをどう克服するか、という問題を考える場だった。

なと、思い出しながら見る。冒頭、赤い布が敷かれたところに仰向けに寝そべる上村、脚が上がり、二つの脚が柔らかく絡みつつ緩やかで繊細な線を描く。脚が踊る、という舞台は色々な人によってかなり見てきた気がする、この数年の間で。その中でも、上村的な何かを感じさせる。それは単に「線」を描いたり、「何か」になって動く、というものとは異なり、いやそれはそうだとしても、そこからはみ出る部分に丁寧さを感じさせるところがあって、それが個性になっているようだ。はみ出る部分にあるのは、「上村の身体」だ。独特のマニエリスティックに首や腕の長い、ひょろっとしながら柔らかさも感じさせる身体。

この身体がただし、これまでだったら、内から発するものの表現の媒体としてだけ使われていて、見ていて窮屈だった。要するに、内→外の連携が近すぎて遊びが挟まれないところがあって、そこがらしい「まじめさ」ではあっても、惹きつける魅力を生むには障害になる時もあったような気がする。それが今回は、見ている方も余裕でいられた(ところどころで、「ゆっくり、ゆっくり!」と心の中呟く場面もあったのだけれど)。大きな理由は、内→外の間に「遊び」を挟んだからではないだろうか。冒頭の人形的(文楽人形的)な動きの要素、であったり、腕や脚に描かれた装飾的模様のような、装飾的な線の動き、であったり、これらが一種の迂回路を造っていて、上村にも見る側にも「プレイゾーン」の役割をになっていた。

それは、「距離をつくること」であり、誤解を恐れずに言えば「嘘を付くこと」である。

ダンスと「嘘を付くこと」との密接な関係、例えば黒沢美香、例えば室伏鴻、例えば笠井叡、彼らを思いだしてみたい。彼らは、ひとつの意識の中に不意にべつの意識を持ち込んできて、以前の動きの裏をかくような、裏切りをするような別の動きを差し込んでくる。「〜なんて、ね」「〜じゃなくて」「、、、べー」みたいな。意識をどんどん錯乱させる、どんどん散らす。こういう意味での、嘘つき。それは、ぼくの憶測では、ダンスの傍流ではなく、むしろ本流を説くアイディアに違いなく、なぜならば、その嘘の発明を駆動させてはじめて「オン」に対する「オフ」のビートが生じる、そう思うからだ。そしてはじめてリズムが生まれる。単に概念ではない、感性にきちんと訴えてくるダンスがそこには起きる。同行してくれたAが「退屈だったけれどずっと見てしまった」といった、その「ずっと見てしまった」を可能にしたポイントは、ここにあるように思う、ぼくとしては。

さて、それでは、上村の「嘘の付き方」にはどういう個性があるか。

すごく感覚的な表現になってしまうのだけれど、細かく折り返し続けていくような、そんな嘘、というのが、ぼくの頭に浮かんだ言葉。細い色紙を斜めに斜めに折り返して手織り返してさらに細い紙にするような、そういう運動。だから、派手に自分のそれまでを否定したりするような単純なのじゃなく、微妙な、けれどしっかりと自覚的な折り返し。

その細い繊細な「折り返し」が、上村の身体の個性ときちんとあっていて、TPOのきちんと分かっているところも好感が持てた。
あれ、相当な分量になってきた。あとは備忘録的に。

赤い布のうえでのゆっくりとした動き→複数のロック曲が複数のスピーカーから流れるなか、時に痙攣したりする。作品のアクセント。派手な音響はそれだけぼくのいう「嘘」にとって都合がよい。赤い布をかぶったり振り回したり、は笠井の振る舞いを思い出させる。→階段を上がって、狭い場所で動く、何か小動物の好奇心のような不明確な感じは、「上村的嘘」といった雰囲気。階段降りながらゆっくりと腕を動かす所はシンプルに美しい。→ここまでで、ぼくなりに満足感があったので、後半は実はあまり覚えていない、いろいろなニュアンスは出てくるとはいえ、やや単調だった気がする。→最後は何度か旋回して終わる。解釈を過剰にここに当て嵌めるならば、旋回というのは、見えて隠れる、「いないいない、ばあ Fort und Da」であり、ぼくの言う「嘘」のアイディア適う、な、と思いながら、やや終わりのための場面とも思えたり。

昨年末の皆川明とのコラボで見せたような、線的形象をもってきてそこで即興的に遊ぶというアイディアが、イイ感じで発展したぞ、というのが、今回の印象。



□0202(Wed)


午前、あるいて二十分ほどのところにある和光大学へ散歩がてら。
わざと脇道歩いて高台に昇ると、西の方に白く色づいた山々が見えてきた。夏には決して見えなかったのに、空気の透明度とか、よくわからないところで色々と夏とは違う冬なのだ。ポカポカとした光、の陰にあるバケツの水は凍っている。誰もいない、風が通る空き地のような場所。さて、図書館へ。

「 散歩は家から程遠からぬ王苑内の短い散策にとどめた。足取りを確かにするために、当時は独自の歩み方をとった。彼は足を垂直にたたきつけるようにして地面につけた。これは一方、足の裏を全部地にくっつけて、足場を広げるためであり、一方又、砂地の所を一層しっかり踏むためであった。それでも彼は或る時街路にころんだ。二人の婦人が馳せつけて、抱き起こしてくれた、自分で起きあがれなかったからである。彼は自分の見知らぬこの人たちが進んで助けてくれたことを大層感謝し、事故の礼法上の主義もあって、丁度手にしていた薔薇の花を一人の方に差し上げた、その婦人はそれを大喜びで受け、記念のために保存している」


『カントの日常生活』(加藤将之訳、昭和14年)より。死に至る二年前、呆けて自分の名前が書けなくなる直前の哲学者のある一瞬。切ないけれど、感動的な描写。理性の人、散歩の人カントのこの歩みを見てみたいと想像してみる、、、。
あと、ヤウヒ『性差についてカントの見解』専修大学出版局、今橋理子『江戸の動物画』東京大学出版会、を借りる。後者は、若沖の、貝を散らばらせた絵のように子犬をちらばせた図版に感動。動物画の極意は、どうも今橋さん曰く、「かわいい、りりしい、たのもしい」なのだそうです。

追記
0130の日記で、モダンダンスのことをいろいろと書きましたが、それはあそこに書いたように、「アイロニーゼロ」でモダンダンスのことを理解したいという気持ちからです。ご理解を。気持ちを害した方もいるかも知れませんがそんなあなた!これを期に、是非ぼくにモダンダンスの現代的意義(いや、「意義」って難しいことではなく、「面白く見られるポイント」とでも言った方がいい)を教えてください。メールかBBSにて、お待ちしてます。